アルボス 樹

運動音痴がはじめて出会ったゴルフの楽しさ。 そして幾分なりとも落ち着いて音楽を聴く 環境が出来、良き師匠にも出会うことが出来ました。
 
2014/05/29 9:58:52|母の為の ページ
その時 4

今 亡き母の為にできることは何かを考えました。全く意味のないことかもしれません。いや 単に自己満足でしかないのかもしれません。
しかし、17年前の父の葬儀の時には、父の棺になにも入れてあげられなかったことを思い出し、母の棺には持てるものは何でも持たせて旅だたさせたいと感じました。

毎日の仕事、刺し子の材料と糸。ハサミや針は納棺できませんので写真に撮りました。眼鏡・時計・補聴器も写真に撮りました。日常生活で必要な洗面用具や常備薬等々。
毎晩うまいと言って飲んでいた、日本酒、ビール、焼酎などもグラスと共に写真に撮りました。その他母とかかわりのあったものを写真に撮りました。

白い封筒を作り
米・塩・砂糖・胡椒・七味・生姜・にんにく・わさび・からし・だしの元等々を1つかみずつ小分けにして入れました。
別の封筒には義姉から頂いた新茶、コーヒー、お菓子類を入れました。
三番目の封筒にはいつも母が出かけるたびに気にしていた住所書きや身分証明などを入れました。
最後の封筒には、祖父母・両親。兄弟等へのお土産代として現金を入れてあげました。六文銭の写真も用意しました。
母からの便りを頂きたく、はがきに自分の住所を書いたものを用意しました。
私と暮した思い出の写真をCDに納めました。

姉が用意してくださいました母の着物と、兄が用意してくださいました比叡山の香。
そして、天台宗多宝院護国寺のお寺さんが御用意くださった輪袈裟(わげさ)を頂きました。

そして、『お母さんみんな用意してあげたから道に迷わずに三途の川を渡ってね。おばあちゃんも、お母さんも、兄弟たちもきっと待っててくれるから』と言って又母にすがって泣きました。

兄姉たちがこれだけ用意したのだから大丈夫だよと言ってくださいました。
又 私は赤子のようにわんわん泣きました。

 








2014/05/28 17:24:00|母の為の ページ
その時 3

母は茨城県の出身であり、90歳までは水戸に住んでいました。当然親戚や知人も水戸の周辺にお住まいであり、母の葬儀は水戸でと言う話が出ました。母の葬儀に関しては兄姉に判断を委ねましたが、もし水戸に母を連れて帰るとなると、学校(デイサービス)の職員の皆様とお会いできる機会は今日と明日の午前(5月6日・7日)しかないと考え、どうしても母にあって欲しかった為デイに連絡を取ると、会社のスタッフがデイの送迎車に乗ってやってきて下さいました。結局狭い小さな当家に次々と40数名の方にお越し頂きました。

Aさんが来て下さいました。初めて本格的に排泄の介助をするようになったとき、わざわざ自宅にお越し頂いて、ご指導をして下さった方です。
私は、『お袋が死んじゃったんだよー』と泣き叫び、Aさんにすがりつき泣きました。

Yさんが来て下さいました。Yさんはデイの看護師さんで、いつも本当に母のことを心配して下さいました『お袋が お袋が 死んじゃったんよー』とYさんにしがみつきながら泣きました。Aさんも、Yさんも私よりたいへんお若い女性ですが、すがりついて泣きました。
管理者のSさんがデイでの母の生活の写真集を作って持参してくださいました。もうボロボロで記憶も定かではありません。 
介護事業部の皆様、母へ本当にやさしいお言葉をかけていただきましたこと、心より御礼申し上げます。
会社の会長もお越し頂きました。心より深謝申し上げます。

母の葬儀に関しては兄と姉が話し合い、母の最後の10年を介護をしながら共に生活をした私に喪主の指名をして下さいました。5月の連休明けの為、お通夜が5月10日。告別式が5月11日と決め、4日と半日私は母と最後の時間を過ごすことが出来ました。








2014/05/27 14:07:03|母の為の ページ
その時 2

ブログを書く気になれずに、母の3七日が過ぎた。
ある方から、私のブログを読んで下さっている方が、きっと私のことを心配しておられるから、又書き始めてはどうですかとのお言葉を頂いた。

5月6日 母の遺体とともにを自宅に帰る。いつもの介護ベットに横になっていただくと全く眠っているような様子である。まだ母の体は温かく、何度も何度も母の顔と頭をなでる。気が狂わんばかりに、母を抱きしめ『何で いつものように しっこ しっこ と言わないのだよ 何で いつものように起っき 起っきと言わないのだよ』と母にせがみ 童子のように泣き崩れる。
兄がそっと私を支えて、母から離してくれる。

夜明け前だがフォーレのレクイエム コルボ指揮 CDをかける。母との約束である。

そして、私は母の啓示を聞く。
『私の愛し子よ ありがとう でも おまえは私1人の子どもではなく 子どもはおまえだけでもないのだよ これからは父のことも良く供養して 兄弟仲良く生きなさいよ』

母の亡くなった日は 父の誕生日の日であった。母と住むようになって10年、父の墓参りは一度も行っていない。母の命日が父の誕生日であれば、自ずと両親の供養をする事になる。

薬効 いまだ不老の域にあらず 100年と7カ月26日 の母の生涯である。
 








2014/05/25 16:38:00|母の為の ページ
その時
5月5日 16時40分 母の入院先の病院から会社に電話がかかる。
パソコンの電源の切れる時間ももどかしく、病院に行く。約10分。この間妻にも電話をして病院で落ち合う。

母の状況を心電図モニターで確認すると、心拍数毎分150から180。明らかに心房細動である。血圧160/98。酸素(サーチュレイター)99%。呼吸数23回/分。
いずれも高い数字であるが、酸素摂取量が99%あるので、幾分安堵する。

医師との面談。呼吸数に乱れがあるので、ここ2・3日が山場ですと伝えられる。
妻が私の兄姉に連絡を促す。しかし、ここ10年兄姉とは音信不通である。このような時が来ることは以前から想定していたが、果たして連絡を取るべきか躊躇すると、妻が『来られても、来られなくても 落ち度の無いようにしましょう』と言ってくれた。早速兄と姉に連絡。

病状は小康状態に見えたが、排尿の量は明らかに減少している。

深夜兄夫婦・甥と姉夫婦と甥が来る。2時間ほど静かに様子をうかがっていたが心電図モニターに特段変化が無く、24時に兄姉たちは近くのホテルに。妻も一旦自宅に帰す。

5月6日 午前0時30分 母のそばに1人付き添う。心拍数が190回/分まで
                                         上がる。1秒間に3回以上の鼓動の数値である。
       0時40分 酸素濃度98%に下がるが、すぐ99%に戻る。
       0時43分 酸素濃度が98% 97%と下がる。 うっと思う。
             酸素濃度が徐々に落ち始め。 これはまずいととっさ
                  に判断し個室のドアを開けて後ろ足で下がりながらナ
             ースステーシヨンを見るが誰もいない。
             モニターの警報音が変わる。
       0時44分 看護師が来るが、酸素吸引マスクを確かめた後、足早
             に病室を出て行った。
       0時45分 酸素摂取量が85%まで下がる。兄に急変の電話。兄
             より姉に連絡を取ってもらう事とし、妻にも電話。
       0時46分 酸素摂取量が80%を切る。
             その時 全てのモニターの数字がいっせいに下がり
             始めた。

             だめだ。 だめだ。 だめだ。
             すくっても、すくっても、指の間から流れ落ちる水の
             ように、母のモニターの数値は落ちていく。
       0時47分 
心拍数毎分40から25。血圧85/45。
             酸素(サーチュレイター)60%。呼吸数8回/分。
             もう心音の波形も小さく弱い。
             酸素摂取が50%を切ると、心拍数は7回/分を示    
             し、小さな心音が2回あり・・・・・・
             モニターから全ての波形は消えた。

お母さん お母さん お母さん 私は心の中であらん限りの声を出して、介護の時に母を抱き起こすように、母の両脇に手を入れて抱き起こした。モニターの心電図が一回ピーとなった。
母をしっかりと胸に抱き寄せると、母の背中はびっしょりと濡れていた。
母は全てのエネルギーを心臓に送り込み、燃やせる物は、血や肉や骨髄までも心臓に送り込んで生きる事への執念を・望みを捨てなかった。戦いきった。

兄が来た。 『最後の 最後まで おまえ1人にして 済まなかった』と言った
誰かが『お母さんはTさん(私のこと)と二人きりになる時間を待っていたのね』と言った時、私は万感の思いと嗚咽を抑えることができず 母のベットを離れた。

5月6日 1時10分 医師が来る。1時12分 母の死亡時間と告げられた。
 







2014/05/07 18:31:35|母の為の ページ
母との別れ
母が死んだ

気も狂わんばかりに 悲しい

私の母は 私の母であり 恋人であり 子供であった

このまま 狂ってすべてを忘れたいほど 悲しい