アルボス 樹

運動音痴がはじめて出会ったゴルフの楽しさ。 そして幾分なりとも落ち着いて音楽を聴く 環境が出来、良き師匠にも出会うことが出来ました。
 
2012/12/24 21:19:02|母の為の ページ
母 新聞にのる
母が新聞に掲載されました。
体調を崩したときの取材でしたが、はっきりと答えることができて私も安心いたしました。 一度は掲載をお断りしようと新聞社と打ち合わせを致したのですがね。
母は一度でいい、死んだ人の役でも良いから映画かテレビに出たいと言っております。

本日クリスマスイブ 当家ではマグロの漬け、いくら、ヤマトイモの三色丼。ミートボールの甘酢あんかけ、鮭のカルパッチオ。けんちん汁。フルーツポンチ。 すべて完食。 よ・・ ご立派。

だだ今 9時に 新聞を読み始めました。まあ10時までは新聞漬け。漬け丼にかけたわけではありません。これ 日課。

名字と私の名前は いつものようにペイントで消させて頂ました。
 








2012/12/22 16:29:10|母の為の ページ
ノロウィルス

弱り目に祟り目 と言うのでしょうか。
母の介護で時間が欲しいのに、私が勤めます介護事業部でノロウイルスにかかられた方が発生いたしました。短期入所生活介護 いわゆるショートステイでお過ごしの方のご家族がお久しぶりに来られて、御利用者様と外出をされました。お戻りになられた翌日から体調不良。
介護職員の報告をうけ、危険を感じましたので即病院、その後御退所の手続きをとらさせて頂きました。このようなときの判断力は最も重要性を要します。間一髪、施設内での感染の拡大は防ぐことができました。最もその時介護に当たった2名の職員は48時間の潜伏期間中強制出社におよばず。

この10日間で忘年会が5回。これも時間をとられます。しかし母は参加するのも仕事だからと逆にねぎらってくれます。

母の体調は徐々にですが回復の兆し。足の浮腫もとれ、顔のむくみもなくなりました。後は毎日起きて仕事をする時間を延長して参ります。ただし 心房細動は突発性のものではなく今後も注意観察を要します。
過日ボーナスが出まして、母に見せますと(当社はボーナスだけは現金なのです) 母は人差し指と親指でピストルの形を作り、『これでもしてきたのかい』とジョークがでるほど。
そうです、ポータブルトイレを部屋に置いてあげますと、『おやまあ 徳川様か天皇様のようだね』とこれまたユーモアで返され、拒否することなく使用してくれました。

昨日は母の記事が新聞に載りまして、他人のような顔で何度も読み返しておりました。(後日 スキャナーで取り込んでUPいたします)

そのような訳でクラッシック鑑賞はほぼ全滅。
それでもなぜか年末になりますと、端からCDを買いあさる、愚かな自分がおります。

1 ヴァント ベルリン・フィルブルックナー 交響曲選集(6CD)

2 ハンブルクのバロック・クリスマス

3 ポール・ヒリアー(指揮) オケヘム レクイエム

4 バーンスタイン 歌劇『タヒチの騒動』全曲

ヴァント ベルリン・フィルブルックナー 交響曲選集(6CD)は最大のお楽しみ。 まあ ぼちぼち参ります。







2012/12/15 14:16:38|母の為の ページ
母との思いで

母が水戸中央洋裁学院を始める頃の記憶はない。しかし小学校に入る頃だろうか、水戸にプロレスの興業があった。もちろんあの伝説の力道山がやってきた。 
プロレスといえば、水戸の百貨店の店頭に20インチ程度のテレビが設置され、プロレス番組が放送されるときは、4,5百人の人々が街頭にあふれ食い入るように見たものだ。力道山が右のロープにとばされれば、大衆の首は右に傾き左に跳ね返れば大衆の首は左に傾いた。空手チョップが出れば、もう全員が力道山になったように拍手がなった。
よく兄に手を引かれて見に行った事を思い出す。放送の後落とし物を拾い兄と交番に届けたらジュラルミンの弁当箱だったことも懐かしい思い出である。

さて、力道山が水戸で興業を行った日は、市内で一番大きいグランドキャバレー『パンドラ』に来ることになった。もちろん生バンドが入った本格的キャバレーである。さてさて、女の子たち(今的に言えばホステスさん)は何を着ようかで大騒ぎ。本格的ドレスなど何処を探してもない時代。一気に母のもとに注文が来た。元々ドレスは母の手によって作られていたが、その時は20着を超していたと記憶する。ドレスといっても当時はイブニングドレスがほとんどで、金や銀のスパンコールをたくさんつけた物がはやりのようだと記憶しています。 写真 3 はクラッシックイブニングドレスのイメージです。(縫製のご注文をされましても中の女性は付いてきません) (-_-;)

生地選び、採寸、仮縫いと母は夜通し仕事をした。当時は住み込みの生徒兼行儀見習いの女の人も何人かいたが、本縫いは母がすべてやったようだ。仮縫いの時には、ホステスさんが当家までやってきて次々に胸もあらわに裸になって寸法あわせをしていたことを思い出す。
そして、できあがると母はそれを丁寧に風呂敷に包んで、私にキャバレーまで届けるように指示した。

キャバレーの開店前は女の子たちであふれ、キャー キャー言い合いながら母の縫ったドレスに腕を通した。
母と昔話をするとマダムの顔は今でも思い出すことができる。

そして常に母は多忙を極め、私は小学校入学式には5歳上の小学校6年生の兄に手を引かれて入学式に行ったことも昨日のように思い出される。

今日、母は針に糸を通し10センチほど縫い物をしたが限界のようだ。1枚の刺し子ができあがるまで後わずかだ。









2012/12/13 21:44:00|母の為の ページ
母の記憶
母はよく若いときの話をしてくれるが、特に女学校を出た後の行儀見習に行ったお屋敷のことを話すのが好きです。母のすぐ上の姉が行き、その後母が行ったという。
昨夜母はその当時の夢を見たという。そしてそのお屋敷の名前を思い出した。今までは銀行の頭取の家ということ以外は何もわからなかったが、家名を聞いて驚いた。日本8代財閥の一つ川崎財閥の家である。現在の常陽銀行、足利銀行、三菱UFJ信託銀行、東京朝日建物株式会社等々そうそうたる財を築いた家である。

辻褄は合う。川崎家は茨城 と言うより水戸藩の郷士。母の家系は水戸藩高萩城の家老。母の母は地元の造り酒屋の奥様とは姉妹以上の関係でその奥様の紹介で行儀見習に行ったとのこと。造り酒屋の奥様と川崎家とは何らかのつながりがあったのであろう。

母は二代目当主 川崎八右衛門の時に行儀見習として務めたのであろう。母は大正2年生まれである。女学校を出てからの努めであるので昭和一桁であったろう。そして辻褄が合うことがもう一つある。明治35年川崎家は日本酒造火災を買収している。地元なり何らかの造り酒屋に関係していたことは十分想像ができる。母の母は多産で9人の子供を生んでいるが母の年齢と二代目当主との年齢的にも合致する。

2台目当主の妻、幸子(こうこ)は、川崎家の参謀長であった男爵郷誠之助(父純造は大蔵次官)の妹。その幸子様のもとで行儀見習いをしたのであろうか。母が言うには後妻さんであったとの事。年齢的には三代目川崎守之助では合わないし、お子様は女のお子さんとの事でした。さらに息子さんは既に結婚をされて別にお住まいだったと記憶していました。

奥様は誰よりも早く起きて化粧をし、和服をめされて当主の朝食の支度をされたという。母はお子様の学校に行く準備をしたという。学校は大塚の近くとのことなので学習院のことだろう。三代目守之助も学習院を卒業している。

その後午前中は奥様と和裁をしていたという。将来母が和裁と洋裁の水戸中央洋裁学院を築くまでになった基盤が見える。

奥様との会話の話で、今日の母を想像できる。母は仕事がなくなると仕事がしたいと奥様に言い。 奥様は、『この子は仕事が無いと泣くので困ります。』と言ったという。

今、母は心房細動で日々予断を許されず、酸素吸引をしながらベットの上で過ごしている。しかしそれでも、母は針を持ちたいという。一針でも、ふた針でも仕事をしたいという。








2012/12/07 21:41:00|その他

カザルスの最後の言葉は祖国愛は自然なものである。しかし、なぜ国境を越えてはならないのか。世界は一家族である。われわれ一人ひとりは兄弟のために尽くす義務がある。われわれは一本の木につながる葉である。人類という木に。


そして 今 1枚の葉が落ちようとしている。母の重篤の状態は昨夜まで続いた。2人の医師と酸素吸入は続いた。まんじりともせずに母のそばに付き添い、一夜は明けた。どの時点で親族に連絡すべきか、一瞬の戸惑いもあった。


 人には2人の親があり、2人の親には4人の親がいる。人類の起源はなに原人であったのかは問題ではない。その原人にも生みの親はいる。さらに遡れば、爬虫類や両生類もいる。人類の起源は象などの起源と同じネズミの種だという学説もある。


 しかし、地球が生まれ、アミノ酸から珪藻類や藻類が誕生したときから、生命は受け継がれている。いったん絶滅してしまえばいかなる手だてを持っても 又 生命を作り出すことはできない。


 母の心拍数は自動車のエンジン フルスルットのように打ち続け、呼吸は口笛のように音をたてた。しかし、何とか食事をとり終えると、自らを諫めるように、『良し、ご飯が食べられた これで明日までは生きられる』と言いそのまま崩れ落ちた。


その形相は、夜叉のように 又 菩薩のように映った。


今日 母は生きている。その事実が確かに私を支えている。


今夜も張り詰めた一夜を過ごすが、私は不眠不休の全力で母を支える。 かつて 私が母に生かされたときのように。