アルボス 樹

運動音痴がはじめて出会ったゴルフの楽しさ。 そして幾分なりとも落ち着いて音楽を聴く 環境が出来、良き師匠にも出会うことが出来ました。
 
2013/04/27 21:17:00|母の為の ページ
入院 三日目
夜中にトイレに行く。母の寝ていたベットに目をやるとそこに母はいない。安堵感と無情感が交差する。「俺の判断が良かった」と言う自分と、結果として医者に頼ざるを得なかった自分への不甲斐なさが己を攻める。 そして己を攻めている事自身が自己逃避であり、自己への弁明である。 詭弁が又自分を諧謔へ回廊する。自己の絶対信がない。

本日土曜日。面会時間は午前11時。妻が11時に面会に行く。私は11時50分に会社を出る。会社からは10分で病院に。母はうつらうつらしている様子。声を掛けるとうっすらと目を開けた。髪をなでほっぺにチュゥをすると母は手を差し出して私の手を求める。

昨夜からの水分。食事は全く0に近い。エンショワがでていたがそれも口にしていない。私が水を飲みますかと言うとひな鳥のように口を開けた。しかし少量の水で母は拒否をする。1時間母の足と腕をさすり、「又 夕方来るよ」と言うと母は左手で合唱の姿を取る。

17時40分再訪。 母はやはりうつらうつらしている。テレビを見ますかと声を掛けると、見るとの返事。イヤホンとボリュームを調整するとしばらく夕刻のニュースを見ていた。
『お母さんは内臓の悪いところは一つもないのですよ。ただご飯が食べられないので、ご飯が食べられるようになったら退院しますよ。一口でも、二口でも食べるようにして速く退院しましょうね。』と声を掛けると解ったと言うようにしっかりと頷いた。

明日は又休みだ。5月は2日出社してと1日休みのローテーション。
会社から病院までは10分以内。出勤日も昼休みにも顔を見に行ける。夕刻は5時40分には母にあえる。

追記 
昨日のブログは支離滅裂でした。かくも簡単にペルトを語り、クラッシック音楽を語ること自体、私の軽率さを吐露していることです。
ごめんチャイ。 寝ます。







2013/04/26 18:17:00|母の為の ページ
入院 二日目
一週間ぶりで昨夜は布団に寝たが、結局寝付かれず午前三時頃眠りについたのだろう。朝起きるとすべての節々がぎしぎし音をたてた。今日は出社日だが、明日の休みと振り返るために会社に電話。

14時面会許可の時間までには、7時間の待ち時間がある。心の焦りも少しある。

ペルトの「タブラ・ラサ」、「アルボス樹」を聴く。 この2曲を聴くと必ずあの映画「2001年宇宙の旅」のラストのシーンが甦る。
万物の霊長は人間である事も確かかもしれないが、人間は所詮宇宙の手のひらで生かされているだけである。

面会時間までクラッシック音楽で時間を過ごす。今日は改めて思わされた感がする。クラッシック音楽は、自分の絶対の中にある音楽を引き出す為の補足的な物では無いのだろうか。そうでなければ、なぜペルトの「アルボス樹」の『断続する平行』を聴いて私は涙するのだろうか。ヘンデルのような曲調ではあるが、全く余分な物をそぎ落とした、又特段激しい抑揚もないのになぜに私の心を揺さぶるのか。不思議ではないか。それは私の体内の音楽と「アルボス 樹」が共鳴したからにほかならない。

13時、母の好きな物を作る。作ると言ってもフードプロセッサーでペースト状にしただけではあるが。妻が用意してくれた着替えをもって出かける。

14時面会。この病院で驚かされることは、スタッフが皆、本当に優しい。駐車場の誘導係も、面会時の受付嬢も、看護師。介護士。ドクダーすべてが一言、一言丁寧で、心のこもった対応をしてくださる。
母の部屋に行くとすぐに看護師から昨夜・今朝・昼の状態の説明をしていただけた。優しく丁寧である。すぐに昨日初診でお世話になったドクダーが母の状態の説明においで下さった。処方の薬、点滴の内容、明日・明後日の対応に関してわかりやすくご説明を頂く。しかし母は昨夜より一切の食事、一滴の水も飲んではいないとのこと。

母に声を掛けると細く目を開け、私を見つめる。「わかるかい」と声を掛けるとあごを引くように頷いた。 私の用意したペースト状の苺とミカンは小さなスプーンで1口のみ。しかし突然「水」、「水」と言って80CC程の水を飲んでくれた。その後介護士さんの排泄介助を手伝い眠りについた母を確認して帰宅した。

妻は風呂に入って寝なさいと言うが、その気力無し。
何を書きたいのか、自分でも解らない。後日校正。

 







2013/04/25 20:38:03|母の為の ページ
母 入院
4月23日 20時 介護の専門家が2人私の家に介護教育という名目で見舞いに来てくださいました。1人は理論派、国家資格等12種もお持ちのAさん。そしてもうお一人は実戦派のSさん。介護業界では、三多摩地区で知らない人はいないという強者です。母の介護をして頂き私にも理屈と手法をお教え頂きました。

4月24日 10時 母のケアマネージャー、デイの方等とのサービス提供会議を行い、今後の基本方針の確認。 午後13時30分、主治医の訪問医療。 同16時、口腔ケア、入れ歯の再調整のため訪問歯科の先生と口腔ケア専門医が来てくださいました。

しかし、母は全く食事を取りません。水も飲みません。食事も、粗刻み、極刻みと試みましたが受け付けず、フードプロセッサーにてペースト状にしましたがこれも食べてはくれませんでした。わずかに、柑橘類と苺のみ。

24日の夜間は、ひたすら私を呼び続け、私も母のベットにもたれかかりながら母の手足をさすり続けました。

25日 朝6時排泄介護、23日に教えて頂きました介護が本当に役に立ちましたが、それでも食事介助までで1時間30分。
一端会社に出社いたしましたが、母の食事がとれないことで主治医と相談。結果、紹介状を作成して頂き総合病院の検診を受けることと致しました。会社の車いす対応の自動車がたまたま今日は一日空いておりましたので、母をベットから車いすに移乗させ、そのまま病院に。

検査の結果、点滴をして頂くこととなりましたが、医師との話し合いの中で、『今日点滴をしてお帰りになっても 又同じ事の繰り返しになりますよ。ここは一端入院をされて、体力が付き、食事がとれるようになってから自宅にお帰りになられた方が』との言葉で入院と判断。主治医・ケアマネ・歯科医院に入院の報告。

義母の時も末っ子の妻が準備をしたように、母の入院準備もかいがいしくしてくれました。

私は、母が点滴から目覚めたときにとまどうことの無いように、ベットの左右に、食事がとれないから入院したこと。家のそばの病院であること。面会時間が許す限り顔を見に来ること。食事がとれるようになったらすぐにでも退院することの張り紙をべたべた貼り付けて、面会時間終了のため帰宅しました。

【母の入院】  母の一日でも早い回復を祈ります。

一週間ぶりに布団で寝ます。 お母さん安心して寝てください。お休みなさい。








2013/04/24 12:40:04|母の為の ページ
お母さん
お母さんと住むようになって、お母さんはいつもいつも、『長男も長女もいるのに、末っ子のおまえに世話になってすまないね・・何もしてあげられない、何もできないのに 厄介ををかけて申し訳ないね・・』と言っていましたね。私は『末の子供は、お母さんと一緒に生きる時間が一番少ないのだから、一緒に住むことが一番私の幸せなんだよ・・』と話しましたね。

お母さんは『いつも何か仕事がしたい、着物のほぐしでも、着物の端切れの整理でも何か仕事がしたい。』と言っていましたので、会社で新年のご挨拶等に頂いた手ぬぐいがたまると家に持ち帰り、雑巾や足ふきを作ってくださいましたね。お母さんは『ああ仕事がみっかった、良かった良かった』と針仕事にいそしみ、そして、私は手ぬぐいが無くなると手軽で楽しみのある刺し子を見つけてお母さんの仕事にして頂きました。もう2000枚以上の布巾やテーブルクロス、のれん等々ができあがりましたね。

お母さんは刺し子が終わってしまうと、『もう仕事が無くなった』と寂しそうにされますので、お母さんの喜ぶ顔が見たくて、まとめて、50枚、100枚と和柄や洋柄、キティーチャン柄の材料を買い求めていましたね。そのたびにお母さんは『ああ良かった、又仕事が来た』と言って喜んでくださいましたね。

ある日、『おまえこんなに次から次に材料を買いそろえて、私のためだったら、申し訳しわけないよ・・・』と言ったとき、『いや、何かの時におつけぎ返しに、一番いいんだよ、それに長生きをしているお母さんがひと針、ひと針縫ったものは、皆さんが縁起を担いで喜んでくださるんですよ。』と言いますと、お母さんは大変満足されておいででしたね。その顔を見ることは私の一番の幸せでした。

私の自慢のお母さん、99歳になっても針仕事をしている。『お袋は、針に糸を通すとき、糸を動かすとなかなか針穴に通らないので、糸をじっと持って、針の方を動かして通すんですよ。』 私の口癖になっていました。

でも、そこに私の大きな過ちがありました。お母さんは、何もできない、何もしてあげられない、でも息子が本当に喜んでくれている。そして私の縫った刺し子が、息子の役に立っている。だから仕事は最後までしっかりやり遂げなければならない。もしおかしな刺し子を、息子が誰かに差し上げた時、息子が恥をかいたら大変だ。母の刺し子に対する思いは、徐々に重圧になっていたことを私は知り得ませんでした。私の中では母の趣味程度にしか考えていなかったのです。

母は、一言も趣味や暇つぶしで刺し子をしたいとは言っていなかったのです。まさに母にとっては正真正銘の仕事だったのです。

やがて100歳。母には縫い目のそろった、縫い残しの無い刺し子を作ることが、重圧であり、苦痛となっていたのです。しかし、母はやめたいとは言えなかったのです。なぜなら唯一自分の存在意義のある仕事だったからです。そして疲れを感じて刺し子をしないで過ごした日を「怠けてしまった」として自責の念に駆られていたのです。

その思いの糸が、その重圧の糸が4月18日に切れてしまったのです。左手で、右手をつねったり、右手を噛む自傷行為は「仕事がやれない、仕事をしなければ」と言う思いと、私に対する裏切りと怨みにも似た行為の表れだったのです。

4月21日深夜 母の痛がる右手をさすりながら、『お母さん、100歳になったのだから、もう仕事は退職しましょうね 本当に長い間ご苦労様でした』と耳元で話すと、母は大粒の涙を流して静かに2度程うなずいた。

何という愚かな息子でしょょう。自尊心の高いお母さんのおむつを替えながら、このようにしてしまった私を許してくださいと謝るだけです。









2013/04/22 21:11:10|母の為の ページ
救急車要請
『こちら 東京消防庁 火事ですか 救急ですか』。住所、氏名を答えて救急搬送の依頼をする。

昨晩からまんじりともせずに母のそばにいたが、夜が明けて朝食の介護をする。かに雑炊が有ったので食べていただく。バナナ半分、牛乳も100cc程飲んでくれた、又朝食後の薬のために、水も70cc程飲んでくれたので、一応水分補給は出来た。
母は食事を終えると、泥のように眠りについた。昨晩8時間も大声で騒いでいたのだからかなり疲れたのだろう。

その間に、私は介護用品の買い出しに行く。1店舗ではそろわず、結局3店舗を廻る。

13時。遅い昼食を取ってもらう。母は右腕が痛いと言い、ひたすら母の右腕をさすっていると、母は又眠りについた。

16時、母をおこす。幾分落ち着いているが、幻視と自傷行為が時折見られる。 16時30分 耐熱温度38.5。血圧135/75。心拍数57。専門家の意見を聞くために3カ所に電話。結果 救急車要請の判断をする。
もう二度とこの家には戻れないのだろうかと思うと、胸が張り裂けそうになる。

17時救急車到着。それから受け入れ病院が決まるまで実に25分。
4カ所めでやっと受け入れ可能とのこと。気温・気圧の変動が激しいこの時期は、体調に異変をおこす方が大勢おられる。

病院到着後、救急車の中で待たされること、実に1時間30分。母の意識ははっきりしている。いや、家とは全然違う。自分の腕時計と救急車の時計の3分の違いが気になるようだ。 そしてお腹がすいたから早く帰ろうと、帰ることを希望する。
やっと18時50分救急処置室に入る。このときは体温36度に戻っている。CT、X線、血液検査をする。
CTの結果MRIは取る必用が無いでしょうとの判断で無し。
ベットに寝かされた母は、ドクターが触診をすると、何でも出来た。
「手を挙げて。」右腕も上がる。グ、パーも問題なし。右足の蹴る力や上に上げての維持も問題なし。 全身の触診による検査も特に問題なし。一過性の脳梗塞の可能性は0%ではないが、現状では特別問題視する事は無いとの事。
血液検査の結果は、若い医者が驚くほどの結果。(かかりつけ医も驚いていたが)。20歳から30歳は若いですねと言われ。
即、入院の必要性は無いとのことで帰宅。

介護タクシーを呼ぶが、40分から、1時間待ち。母の疲労が気になり、私の車での帰宅と決定。
ベットから救急搬送なので靴など持ってこなかった。パジャマの母は寒いだろうと、私が着るものを脱いで母に着せる。足はあいにくの雨だが裸足のままだ。やっとの思いで私の車に乗せ自宅に着いてからは、雨の歩道で車いすに移乗させ、そのままベツトまで移動した。無事帰宅。

帰宅後、早速夜の食事介助。その後横になるが昨晩と変わらず一晩中騒ぎ続ける。

そのうわごととも、幻覚とも思える母の言葉に、私は愕然とした。
自分の母に対する愛情の思い違いに気づいた。
そして、母の惜しみない私への慈愛に何と許しを請えば良いのだろう。
愚かな、何と愚かな息子であろうか。