アルボス 樹

運動音痴がはじめて出会ったゴルフの楽しさ。 そして幾分なりとも落ち着いて音楽を聴く 環境が出来、良き師匠にも出会うことが出来ました。
 
2014/04/02 8:50:19|母の為の ページ
インフルエンザ B型
気のゆるみと申しましょうか、心の隙間を突かれたと申しましょうか、インフルエンザB型にかかってしまいました。
たぶん私の記憶では、インフルエンザなるものにかかったのは人生初めてのような気がいたします。一昨年の秋口に予防接種を致しました時、かなりひどい症状になりましたので昨年の秋は接種をためらいましたが、職場が介護事業ですのでご利用者様の事を考えれば接種は必修項目のようなもので、予防注射は致しておりました。

3月29日、母をベットに寝かせましてから、のんびり風呂に入りまして、風呂から出るとあちこちの関節が痛むものですから、妻に湿布薬を張ってもらいまして母のとなりで就寝。
夜間に多量の発汗がありまして、朝は布団から起き上がることも出来ませんでした。しかし、月末ですので社員の給与の〆をしなければなりません。やっとの思いで出社。勤怠や残業申請をまとめて、その足で主治医に参りますとインフルエンザB型とのこと。

母の介護事業所の方にお電話を差し上げ、母のための全面介護を依頼しました。
しかし、やはり深夜の介護は私がせざるを得ません。

すべての関節が痛み、指の関節1つ1つも痛く手を握ることも出来ません。母を抱きかかえてポータブルトイレに移乗させることなど至難の業です。

昼間は感染を予防するため2階の自室に閉じこもり、母の介護はヘルパーさんにお任せ状態です。

静かに寝ておれますと、母の部屋からヘルパーさんと母の笑い声が聞こえます。朗らかなヘルパーさんなのでしょう、良くお笑いになる声が2階まで届きます。
そして、私はふと母とこんなに笑い合うことがこの一年であっただろうかと考えました。
私は、介護の完璧性を求めるが故に心のゆとりがだんだんと閉塞し、母の心のケア−を置き去りにしてしまったのではないか。一年前までは他言をはばかるようなくだらない話で笑いあい、「お腹がよじれてしまうから馬鹿な話はもうよしなさい」と笑いあっていた事を思い出しました。

一生懸命介護をすればするほど、母の心の中に私に対する「申し訳ない」と言う気持ちが大きくなり、だんだん笑顔が消えていったのではないでしょうか。

過日 母がぼそっと言いました。「お前も眠れず辛いだろうが、私だってこんな体になってどんなに辛いか。」私の肉体的つらさよりも母の精神的つらさをくみ取ってあげなければ、本物の介護ではありません。
介護事業の長として、そして最も身近な母の介護でさえ『介護は心のケアー』であることを失念している自分が恥ずかしい限りでした。

母と暮らして10年。初めて寝込みました。介護事業部に移って6年初めて4連休を取りました。



 







2.26事件 の後

2.26事件 いや、三島由紀夫のDVD「憂国」と「MISHIMA」を見まして、その後2.26事件関係の本を何冊か読みましたが、ふと私の父親がどの時代にどこの戦地に行っていたのかを知りたくなりまして調べてみました。

幼いときに、父の膝の上で聞いたことですのであまり確証はありませんがね。
父は支那事変に召集されたと聞いている。
自動車部隊に所属しており『畑 俊六』の車の運転をしていた。
軍隊手帳の書記をしていたとのことである。

支那事変(日中戦争)に参戦していたとのことですから、漢口・重慶に行っていました。
サービス付き高齢者住宅のお住まいでしたK氏が沢山の書物を寄贈して下さいましたが、その中に『陸軍師団総覧』と言う本がありまして、その本から父は第14師団に配属になった事と考えられます。水戸の第2連隊は宇都宮の第59連隊と合流しましたので、茨城生まれの父が宇都宮から戦地に赴いた事は確認が取れました。そして、畑俊六は昭和8年8月から同10年12月まで師団長でしたのでこれもつじつまが合います。父は大正3年生まれですから、20歳で召集され22歳まで軍に配属されていたのでしょう。もちろん職業軍人では無いので上等兵かな?

畑俊六は最終階級は元帥陸軍大臣で東京裁判ではA級戦犯でしたが死刑は免れております。
父のエピソードでは、父は車を運転するときはいつも窓ガラスを開けて運転する癖があったそうで、すると畑師団長が後ろから父の背を叩かれて窓を閉めるように声をかけられたことを自慢しておりました。サンドイッチを下さり生まれて初めてそのような物を食べたとも話しておりました。時には銀貨を下さったことがあるともいっておりました。
まあ、師団長の車ですから前線には行っていなかったのでしょうがね。

そのほかに軍隊手帳の書記をしておりました。父の物は見たことがありますが、私はいわゆる自分の防備帳のように感じていましたが、これは所属連隊の証明書であり、全部隊の兵隊の履歴等を専門で記述する兵隊のことです。確かに父は達筆でカッチリとした字を書いておりましたし、漢字はよく知っておりました。

そのほかには、漢口入城記念に水牛で作った印鑑があり、父は終生実印として使っておりました。

戦後はたまたま私の家が大きかったので、戦友会が度々行われ大騒ぎだったことをうっすらと覚えております。

まあ、いずれにしろ戦争は避けなければなりませんね。


 







2014/03/19 16:35:38|母の為の ページ
「甘え」の構造
43年も前に 土居 健郎著の『「甘え」の構造』と言う本を読んだ。私の記憶ではベストセラーになったような記憶です。

以前に書かせて頂いた、「依存」と「共存」の問題に最も近い命題とも感じております。

「甘え」は日本人の心理と社会構造を理解する上でのキーワードと言われておりますが、全く親子関係での検証では、正にこの命題が白日となります。
西洋文化では、極めて親子の関係は子どもの人格を認め、極力独立独歩の精神が養われますが、我が国ではなかなか子離れ・親離れの出来ない親子関係が長く形成されがちです。子は親のものではないのですが、なぜが親子心中なる事柄は日本独自の負の文化となっております。

さて、私の母は、完全な子ども返りです。
初めは当家の愛猫(こゆき)をミーちゃんと呼んでいましたが、そのうち私をミーちゃんと呼び始め、最近では自分のこともミーちゃんと呼ぶ始末です。
話し言葉はほとんど赤ちゃん言葉かアーアー・ウーウー。

デイサービスでは介護職員や生活相談員とはきちんと話が出来ますし、寝言では若き日の教員口調で話すのですがね。

毎夜・毎夜アーアー・ウーウーが続きます。その度に私は目覚めて、どうしたの、どうして欲しいのと問答集です。結局はトイレや白湯を飲みたい事なのですが、全く会話がありませんので介護の負担増となります。夜はテレビを見ながら会話が弾む事もあるのですが、なぜか就寝後はアーアー・ウーウーです。
昨晩もアーアーと言っていましたので、排泄介助しまして又ベットへ寝かせましたが、今度はアウー・アウーです。耳元で何度も繰り返して「どうしたの」・「どうして欲しいの」と聞き返しますと、背中がかゆいとのことがやっと解りました。延々30分の攻防です。さすがに私もイライラ感がつのり益々声は大きくなりますので、ご近所では虐待ではと感じておられるかと心配です。断じて虐待ではないのですが、自分の自制心を抑えることも精神的負担となっております。

かわいい甘えであって欲しいと思うのですが、年齢や認知から眠い中で発語する事も辛いのではと考え私が努力すべき事なのでしょう。

なぜにもこんなに甘えが出てしまうのか。

 







2014/03/15 15:35:00|レクイエムに魅せられて
澤地 久枝
澤地 久枝書『雪はよごれていた』を読む。
陸軍法務官の匂坂春平が資料コピー40冊をもっていたものを澤地さんが丹念にひもといた結果の本である。
昭和維新に決起した2.26事件。若き将校に対応すべく、軍部・内閣・皇室のそれぞれの動向が詳しく述べられている。形容詞はほとんど見受けられない。修飾語には徹底して拘り尽くしているのであろう。何時、誰と・誰がと緻密に調べていることに敬服した。
特に軍部の「皇道派」・「統制派」の一連の動き、参議官、そして宮内省侍従武官たちの動きが刻々と記されている。若き将校の蹶起理由の「蹶起趣意書」の扱いから穏便に事を終息させるための「告示」までの経緯はページを戻して読み込まなければ私自身が混乱を起こすほどめまぐるしく変わっていく。
「戒厳令」施行から「奉勅命令」までの軍部と皇室の急速なる変化と「討伐」までの3日で流れが激変する。

青年将校の甘さもある。軍閥の弊害もある。天下・国家を司る内閣にも落ち度が見られる。そして宮家の変容。

何のための「昭和維新」断行だったのだろうか。もとより私に結論など出せるわけがない。

しかし、若き将校の純真無垢な心根はくみ取れる。

若き日に社会主義に惹かれたことのない人間と、青春時代に挫折感を感じたことのない人間は信ずるに値しない。 と言うのが私の持論だ。




 







2014/03/11 11:12:04|レクイエムに魅せられて
採点 
小学校3年の時には 和歌を謡っていた
靖国の宮に御霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に  詠み人知らず

中学1年の時には
偖(さて)も義臣すぐって此城(このしろ)にこもり、功名一時の叢(くさむら)となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と笠打敷(うちしき)て時のうつるまで泪(なみだ)を落し侍りぬ。
夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡    
松尾芭蕉 奥の細道より  を謡っていた。この頃から、何となく敗者の美学に惹かれていた。

中学の時、県大会で優勝した。続く関東大会での事である。私は第一声が本来の音域よりほんの少し高く歌い出してしまった。もちろん他人には解らない。しかし自分では納得いかない謡であった。最終部のテンポが少し速くなり、ブレスも乱れた。

私の後に、同じ年頃の少女が謡った。私は緞帳の裏で聴きその時点で私は負けを認めた。 

そして結果は2位だった はずであるが優勝をした。それは審査委員の皆さんが私のことをよくご存じで、本来の出来ではないが実力として私を優勝させたのだ。少女は舞台の影で泣いていた。私は自分の優勝よりも理不尽を感じた。うれしくも無かった。

ソチで冬季オリンピックが行われ未だに採点でもめている。しかし、世界のトップアスリートであれば、自分の中では採点が出来ているはずだ。

アイススケート浅田真央さんのフリーの後の涙は複雑なのでしょうが、自分の本来の演技が出来たことの満足感は確かだと思います。

人は知らずとも、努力した人は自分のことは一番自分が知っているわけですからね。

その後、私は和歌を詠うことをやめた。コロンピアでレコーディングの話もあったが何の興味も持たなかった。

私は敗者であるべきだった。