アルボス 樹

運動音痴がはじめて出会ったゴルフの楽しさ。 そして幾分なりとも落ち着いて音楽を聴く 環境が出来、良き師匠にも出会うことが出来ました。
 
2015/08/30 17:06:05|母の為の ページ
49日法要と納骨
9月7日が義兄の七七日 49日であるが、お寺様や参列者の都合で8月29日に49日法要と納骨を済ませた。義兄の骨壺は、義父・義母の隣にそっと納骨された。

本来の墓の使用者は義兄名義だあった為、使用名義人の変更手続き等せわしい日々が続いたが、虚無感は変わらなかった。義兄の亡くなった後は音楽鑑賞も無く、又ゴルフのお誘いも全てお断りをした。本来は私の父母の墓参りに行かねばならなかったが、それすらも行動が伴わず兄には不義理をしてしまった。

亡くなった義兄、N家は道元が開山した永平寺の曹洞宗である。読経の間妻は泣いていたが、私は母の納骨の日を思い出し、人のはかなさに又思いをはせた。
心の中で「敦盛」の「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」の地謡が読経と重奏して脳裏を駆けめぐった。

義父母無く、長兄である兄も亡くなった今、残された三姉妹の考えがまちまちです。何とか調整を計り本当の供養となるように努めることが私の役目であると感じています。同じ母から生まれた三姉妹ですから、腹を割って、世人を交えずに話し合えば宜しいのではと感じてはおるのですがね。
そして、前を向いた生活に早く戻り、仲良く暮らすことこそ無くなられた父母。兄の望みではないでしょうかね。



 







2015/08/01 15:21:09|母の為の ページ
お盆 帰省せず
お母さん 今年のお盆はお墓参りにいけません。
『仕事に名を借りた ご無沙汰』ではありませんが、まあ忙しいことも確かです。
お兄さんに線香をお送りしましたので、お盆は兄の家でお過ごし下さいね。

義兄の49日は9月7日ですので、新盆は来年になります。49日、100カ日と主のいなくなった家には、義姉が泊まって下さっています。私も義兄に関わる年金の停止など色々な手続きをしなければなりません。直系の子どもがおりませんのでM家は途絶えてしまいますが、残された家や土地、そして墓の問題等、今すぐではないにしろ解決しなければならないことが山積みです。

人は言葉や文字で表現をしてしまいますと、言葉や文字によって逆に思いが制約されてしまいます。しかし、凡夫である私にとって伝えうる手段は言葉や文字しかありません。

『お母さん お母さんをギューと抱きしめたくなる思いが時々ありますよ』そんなときは、お母さんの遺影に向かって『あんかべー』をするのです。そして1人でそっと笑って、胸を焦がします。

『あかんべー』幸せ










 







2015/07/31 10:17:04|その他
油断
「油断」」とは、気を許して注意を怠ることだが、その語源の由来には諸説ある。
行灯などの油の準備を怠ったため夜中に油が切れ、敵に襲われて命を落とすことから「油断」となった説もその諸説の一つである。

又、中国・明初の長編戯曲『琵琶記』の出典によれば「好事魔多し」とは、よいことにはじゃまが入りやすいものだという達観であり、絶好調の時期にはえてして落とし穴が待っているものだから、よくよく身を律しなければならないという教えである。

義兄の通夜・告別式は義姉とその子と孫、妻・私と5人の慎ましやかな別れとなった。
74歳の若さで亡くなった義兄を思えば憤怒にも似た悲しみで悔やみきれない。

母を亡くして1年。ぽっかりと空いた大きな穴が、薄氷をそっと重ねるようにいやされはじめ、趣味のゴルフを初めて3カ月。私の心に「油断」があった。私の心に「好事魔多し」と言う自己戒律の「油断」があった。

義兄が入院したとき、なぜすぐに「その病院ではなくほかの病院に移せ」と言えなかったのか。私が真剣に病院を検討すれば、当然その言葉が出たはずである。義姉と妻の判断にゆだねてしまった私。
助かる命をむざむざと死なせてしまった過ちはどれほどの罪に値するものか。

義父は群馬県富岡の出である。絹糸の検査・等級付けをする仕事をしていたが、その後満州に渡った。義母は教員をしていた。そして終戦間近3歳の義兄と当歳の義姉、親戚の子2人をつれて義母は九州にひき帰った。義父は1年後に帰ってきたと聞いている。
しかし、義兄が20歳の時、義父は交通事故で命を落とし、義兄は父親代わりとなり、長女、次女、三女(私の妻当時13歳)を育て、嫁がせ、老いていく義母の面倒を見て来た。
本当に、物静かで争い事を嫌い、欲が無くすべて自己を犠牲にしながら仕事一筋で生きてきた人であった。酒を飲むと朗らかになった。

『夏渓院和静繁徳居士』義兄の戒名である。

義兄さん 許して下さい。 義兄さん 安らかにお休み下さい。

 







2015/07/22 7:52:45|その他
義兄 急逝
私の妻の兄 義兄が急逝。

義兄の体調が優れないとのことで、入院を致しました。1週間ほど経ちましたが改善の方向に向かわないとのことで、初めて私も加わって医師、看護婦長等々とアセスメント会議を開きましたが・・・・

義兄は義母との二人暮らしでしたが、義母が亡くなり一人でこざっぱりとした生活を送っておりました。几帳面できれい好き。台所に参りましても、主婦よりもきれいに片付けられておりました。
しかし、色々な事があり気持ちの優しい義兄は悩んでいたようです。食も細くなり、少々お酒も過ぎた感がありました。しかし、問題は甥や私が解決してさし上げ一段落したように思っておりました。

体調が優れない。食事が取れない等で入院。

入院先のアセスメント会議で私は転移を希望し、青梅市立総合病院に搬送。
そこで急性胆嚢炎との診断が下りました。緊急手術は当直の医師がいなとのことで、再度公立福生病院に転送。義兄の体力を心配しましたが、20分の行程ですのでご辛抱いただきました。

公立福生病院。奇しくも私の母が亡くなりました病院です。そして同じ西棟でした。医師の判断は、義兄の体力から今すぐに手術を行うことは難しいとの判断で、炎症を起こした胆嚢の胆汁を抜き取る処置をして下さいまして、体力の回復に努めるとの説明がありました。
7月20日13時 医師より今後の治療方針の説明を聞きましたが、余談を許さない状態であるとのこと。そして翌21日深夜1時、様態急変の知らせがあり駆けつけますと著しい血圧の低下が見られ、何とか血圧を維持する処置がなされておりました。
そして、その日の11時47分見守り続けるなか義兄は他界いたしました。


義母は生前 独り身の義兄を案じ『Tチャン(私のこと)頼むよ、S(義兄)の事を頼むよ』と幾度も申しておりました。
しかし、その信頼に答えてあげることは出来ませんでした。

義姉や妻の入院の対処初動に私は疑問を持っておりました。しかし、私も独身時代に軽い栄養失調になったことがあり、又そのような医師の判断を信じて、義兄も同じであろうと安易に感じてしまったことが最大の過ちです。
入院後、2、3日で照れくさそうに退院してくる義兄を想像しておりました。

義母の信頼に答えてあげられなかったことは断腸の思いです。昨日義母の位牌の前で許しを請いましたが、全幅の信頼を得ながら何もしてさし上げられなかった私をお許しにはなさらないでしょう。

「お母さん、家族葬で義兄をお見送りします。どうぞ三途の川の向こう岸には義母が待っておりますので、お母さん どうぞ義兄が道に迷わないように案内をしてあげて下さいね』

許して下さい。義兄さん 許して下さい義母さん。



 







久しぶりの落札
クラッシック音楽の古楽レーベルと申しますと、やはり『Gimell』。
久しぶりで、そのGimellレーベルのCDを2点落札いたしました。


デ・ローレ  ミサ 自然の摂理に逆らって 他


ブリュメル ミサ 見よ大地が大きく揺れ動き

いずれもミサ曲で タリス・スコラーズが歌っております。
ずいぶんGimellレーベルのCDも集めましたが、まだまだ聴かねばならぬものがございます。

唯一、古楽レーベルとして外れ無し。品物が届くのが楽しみです。