孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/02/27 15:15:31|フィクション
アガぺのラブレター 40

04章 修業時代 40

一人前の職人に育ててくれた
師匠・HYさん


 経験の全くない新人は、よほどの幸運に恵まれない限り、希望する職種に就くのは難しい。男は、書くことにおいて、一応の水準の仕事はできると自負していた。しかし、たとえば、コピーライターを募集している会社に応募しても、経験がないことは大きなハンデになる。そのための専門の養成所であり、まず、そこを踏み台にすることだと。そして、最短距離で走りきることだと思っていた。

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コピーライターになれた

 あなたは、コピーライターとして海のものとも山のものとも分らない私を採用してくれました。コピーライター養成講座に通っていて、修了にはまだ期間が残っていました。大阪が本社の印刷会社の東京営業所の制作室です。その頃、関心が高まっていた販売店向けのセールスマニュアルの制作をはじめ、本格的にSP展開を事業化しようとしていた会社で、あなたは東京営業所の実質的な総括責任者でした。

 大阪時代に頼んでいたSP制作会社のバックアップがあり、セールスマニュアルのコピーは、そこのコピーライターに書いてもらっていました。やがて、私にもリーフレットやDMのコピーだけではなく、すこしずつですがマニュアルを書く仕事が廻ってきました。販売店取材や得意先担当者との打ち合わせなどもあり、指導を受けながらも、コピーライターとしての仕事をこなしていました。

 そんなある日、あなたから独立して新しい会社を設立したいが、来てくれるかという話を受けました。もちろん、二つ返事での承諾です。会社ではまだ知られていない話を打ち明けられて、うれしく、誇らしく、感涙にむせんだものでした。ついては設立発起人になってほしいから、印鑑や住民票を用意しておくようにと。もちろん、すぐに用意しましたとも。そして、次の要請を待ちました。

 メンバー集めが始まりました。カメラマン、デザイナーは他社から引き抜き、コピーライターは大阪のSP制作会社から出向してもらうIさん、そして、私とSAさん。営業は、当時の会社の若手二人の候補の内、誰にするかの相談を受け、あなたもそう決めていたAHさんを推薦しました。そして、あなたの義妹のHさん。事務所さがしにも同行し、六本木の新築ビルの3階に決まりました。

 会社登記をすることになっても声がかかりません。いつの間にか、会社は設立していました。悲しく、悔しく、自尊心が傷つきました。俺って、そんなもんなのか。あなたに抱いた最初の不信感でした。私は子飼いの忠実な直参のつもりでした。外様を重んじるあなたには、子飼いの力、潜在力を活用する気がなかったのでしょうか。給料や賞与の待遇でも、額ではなく、評価の面でも不満を感じていました。

結局、あなたの許を飛び出した

 金に不満の多いヤツだと思われていたようですが、欲しいのはお金ではなかった。母親との生活で家計を支えていて、給料は多いにこしたことはないにしても、困窮はしていませんでした。この世界での経験が少ないとしても、仕事ができないわけではない。仕事の能力は、表面的なスキルではないはずです。おだてに乗りやすい単純な私ですが、いまにして思えば、あなたに誉められたことがありません。

 あなたは、若い社員が育ってきたら独立させて別会社にして、グルーブとしてやっていくと話してくれたことがあります。何人かにはこの暖簾分けを実践されたようですね。会社経営には、自信をお持ちでした。しかし、AHさんが辞め、私と一緒にやっていたAKさんが辞めるなど、次々に、新人から育てた子飼いの社員が会社を去っていきました。私の退社が原因とはいいません。

 私を含めて、あれらの社員達が残っていたらどうなっていたでしょうか。その後の彼らの仕事ぶりを垣間見して思うと、かなり強力な制作会社になっていたはずです。最近までのおつき合いを通じて、あなたは経営者というより、制作者を志向しながらなりきれない批評家ではなかったかと。いつまでも、もう巣立てるまでに育った子飼いの力を、信じたくない人ではなかったかと思うのです。

 私が辞めたのは、そのころ目論んでいた新会社の設立を認めてくれなかったことが主な理由です。担当していたE社で、それまでになかったSPの解決策をひとつの組織として実践していこうとしました。E社のHNさん、A社のNTさん、H社のKKさんらと話し合い、そのプロジェクトを実行するためには、それまでは別々の会社で担当していた業務をひとつにまとめるべきだという結論でした。

 その受け皿として、あなたに後援をお願いしました。ひとつの暖簾分けのかたちしてもらえないかと思ったわけです。E社に残るHNさんが、社内を根回しのうえ、窓口になる予定でした。しかし、答えはNO。最善の方法としたプロジェクトの推進には、新しい組織の立ち上げしかないと頑なに思い込んでいた私たちは、NTさんが所属していたA会社のW社長にお願いし、受け入れてもらいました。

大事にしたい人格とキャリア

 私が辞めた後に、金輪際、敷居を跨ぐものかと啖呵をきって飛び出したというAHさんが、何年か後にその禁を破ってしまった後でも、あなたの会社を訪れる機会がありませんでした。E社のパーティでお見受けして「元気です」という程度のあいさつ以上の会話はありませんでした。いろいろな噂は伝え聞いていましたが、私たち夫婦の仲人だったあなたとの交流はないものと思っていたのです。

 私の仕事の基本理念は、あなたに教わったことが基本であり、あなたは仕事の師匠でした。四ッ谷の私の事務所に連絡があったのは、十年も過ぎたころでしょうか。なつかしく、声をかけてもらったことをうれしく思ったものです。仕事を頼みたいということでした。私にできることなら、喜んでとあなたを迎えました。頭髪が薄くなっている私に比らべて、あまり変わらないあなたでした。

 SP企画の仕事でした。何回かお手伝いしましたが、多分、そのままでは通らなかったのでしょうか。企画書の直しの指示もなく、受ける時に約束した料金を振り込んでもらっていました。こんなおつき合いが、何回か続きましたが、あなたの会社を訪れることはありませんでした。なつかしい、かつてとあまり変わらない事務所を伺ったのは、仕事の状況がいよいよ厳しくなったころでした。

 事務所を自宅に移そうと決心したものの、資金がまるでなく、あなたに相談しました。実情をすぐ理解され、前貸しの報酬で、事務所を閉めることができました。その後も企画の仕事や、マニュアルのコピーなど、何回か仕事をもらうようになりました。こんな時、ファックスの宛名が「柏倉へ」と呼捨てなのには、お前は身内なんだよというつもりなのでしょうが、苦笑していました。

 その後、何回か仕事をさせてもらいました。直しが出るのはこの仕事の常で、さほど苦にはならないのですが、何回も、何回もと得意先ではなくあなたからの指示が多いのには参りました。とうとう放り出してしまいました。コピーではなく、構成を直すのなら最初からそう指示してくださいよと。出来た構成の、好みからの批判なら誰だってできると。大事にしたい人格とキャリアがあります。







2009/02/27 15:12:18|フィクション
アガペのラブレター 39

04章 修業時代 39
理を通した情の設計事務所長

師匠・KMさん


 男は、機械製図はできたが、意匠的に優れた図面が描けたわけではなかった。設計図面とは、まさしく何かをつくるためのもので、プロセスだと思っていた。機械設計事務所があることを知った。いろいろなオリジナル機械を設計するところだるうと飛び込んだが、実際の主な仕事は、メーカーの図面を描く下請けだった。男は、絵は上手くはな区、早い製図はできなかったが、機械設計はどうにか仕事になった。

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機械製図制作の下請け設計事務所に入社

 洗車機のサービスエンジニアの仕事を辞めてすぐ就職したのが、渋谷にあったあなたが所長をしていた機械設計事務所でした。母親との生活を支えていた私にとって、あれこれ選んで仕事を見つけるということはできない状況にありました。新聞広告を見て、応募したのが機械設計事務所でした。十数名の所員と所長と社長、そして、退職金を事務所に投資したらしい元銀行員の役員がいる小さな会社でした。

 機械設計といっても、図面制作の下請け作業が中心で、A4判一枚でいくらといった工賃稼ぎの手仕事です。製氷機などの簡単な設備の他に、オリジナル設計はほとんどなく、元のモデルに合わせたスケール変更の機械や装置の組立図を描き、部品図を描きあげる作業です。完成品の組立図をばらして、部品1個につき1枚の部品図を描いていきます。当然、図面が読めなければ、部品がばらせません。

 ネジ1本まで描くもので、単純な形状から、複雑な形状のものまであり、A3判の図面はA4判の図面の2倍の料金。二十代の若い社員が中心で、工高の新卒者や製図学校出身の新人から、1本の鉛筆で細い実線から太い実線などに描き分ける技をもつ製図職人といえるようなベテラン社員までいました。速く、きれいに描くことが求められ、何を描くかといったことにはあまり関わりのない仕事です。

 ものを作るには、元になる図面は欠かせません。兵器や戦車の部品などもありました。発注先の社内では大っぴらにはこなしきれないような装置の図面もありました。何の図面なのかなどを考えずに、ただひたすら描けばよしとします。それまでに私が描いてきた図面は設計図であり、目的の機能を発揮するための装置などの図面でした。図面が商品として取り引きされる世界は、新たな発見がありました。

 渋谷に、まだ西武が乗り込んで来る前の時代です。通りにも小洒落た名前がつく前で、後でスペイン坂と呼ばれるらしい民家の間の細い道は、毎日、通勤につかっている細い近道でした。昼休みには、同僚たちと、ときどき近くのNHKの公開スタジオに遊びに行っていたものです。若い人が中心の事務所は、それなりの活気はありましたが、何かを創造するような雰囲気とは無縁のような職場でした。

うれしかった経済的な支援と仕事の面白さ

 募集条件の初任給○△□円以上という金額から始まった私の給料は、3ヵ月間、毎月、上がっていきました。その前の会社もそうでしたが、給料が上がることはうれしいことですが、年1回、労働組合の春闘でベア額が決まって昇給することに慣れていた私にとっては。戸惑いもありました。あなたが他のメンバーとのバランスをとって、私が辞めていかないように、気を遣ってくれたのでしょうね。

 住まいを井の頭線の東松原に移し、母親と弟と共に暮らし始めていました。その頃、コピーライター養成講座に通っていました。ふとしたきっかけで応募したコピー賞のコンペで入賞し、賞金をもらったのです。もしかしたら文章を書く仕事ができるかもしれないと、コピーの勉強に励んでいました。設計事務所は残業がほとんどなく、当然ですが、夜、どのように時間を遣うかなどに干渉されません。

 仕事にも変化が出てきました。その設計事務所には、新しい機械設計の仕事を請け負う仕事もあります。社長や所長のあなたの営業で、町の製作工場などから、オリジナル機械の設計の仕事も舞い込んできます。そんな仕事が、私に廻ってきました。かつての仕事に比べたら、さほど難しい課題ではありません。割に簡単に仕上げて、喜ばれていました。図面を描くだけの仕事からの一歩前進でした。

 大手メーカーのエンジニアだったあなたは、一本筋の通った営業マンでもありました。いまでは世界的に名前が知られているT社の仕事を請け負ったときです。依頼先の要求通りの仕事を納めたのに、理不尽にも、その料金を払ってくれない。その交渉に出向いたあなたは、担当者とやりあって、「あなた方ととは、もうこれきりだ」という台詞をもらっても、件の料金を回収したということでした。

 あなたは私を可愛がってくれました。私が運転免許を持っていることを知ると、仕事を受けていたメーカーの関連会社のバンを社用車として購入しました。私の運転で、一緒に打ち合わせに通います。なぜか、その当時十数人ものエンジニア男子社員の中で、一応運転経験のある、運転免許を持っていたのは私だけだったのです。そんなことからも私をひいきにしてくれた理由でしょう。

機械設計からコピーライターへ

 あなたは、私が母親と一緒の生活で楽でないことを知っていてくれました。給料を上げてくれたのもそうですが、それがそうそう続かなくなると、家での内職に、会社でやりかけている仕事を家に持ち帰って描いてもよいといってくれました。もちろん、レートは外注先と同じですが、料金は現金で払ってくれます。それがどんなに助かったことか。いま思い出しても、胸が熱くなるうれしい心遣いです。

 通っていたコピーライター養成講座では、成績を認められ、求められれば、すぐにも転職する気でいました。そんなころに、新しい仕事が入ってきました。釣り具メーカーからの依頼で、ロッドのコルク部の加工を、現在の二倍以上の効率で作業できる機械を作ってくれということでした。あなたは、事務所の所員の何人かに声をかけたようですが、皆、尻込みしてことわります。ベテランからがそうでした。

 ついに私に声がかかりました。後輩としての遠慮から、手を挙げずに待っていた私は、二つ返事で受けました。今度は、結果を気にしなくもてよい試作機ではなく、そのメーカーの経営に関わる重要な仕事で、失敗は許されません。思い付いたいくつかのアイデアから、これはというメカに決めて、あなたに相談しました。それでいけ、というゴーサインをもらって、設計に取りかかりました。

 そのメーカーの製造現場に行き、また、作業内容や対象の材料を精査するなどして、基本となるメカの中心部を設計して、装填や送り、排出などの周辺部のメカを固めていきます。ひさしぶりに味わう充実した仕事でした。全体設計が終わって、部品にばらそうというとき、私にコピーライターとしてのオファーがありました。願っていたチャンスです。私は、設計の完成をもって転進することを決めました。

 実際に稼動させるには、機械を製作した後の調整が欠かせません。設計者にとって、設計の完成が終わりではないのです。あなたに私の思いを伝え、転進を許してもらおうとします。人間臭いことをしたい、というわけのわからないような理由に、退社を許してくれました。その後、私の後を継いで製作と据え付け、調整にあたってくれた人の努力を聞きました。おかげさまでコピーライターになれました。








2009/02/27 15:09:03|フィクション
アガペのラブレター 38
04章 修業時代 38

シナリオ修業時の優しい仲間
友人・THさん


 H社時代に終った恋のあと、異性との交友は途絶えていた。早く書くことを仕事にしたいという焦燥の中で、そんな余裕はなかったし、異性の関心を惹き付ける外観、容姿でもなかった。男のまわりには、異性の影はなく、若い男としての不満はくすぶってはいた。そんな中で、シナリオ仲間の少女と知り合った。いわゆる友人以上、恋人未満の関係ではあったが、その存在は、男にとって安らぎであった。

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書くものを見せあって心が通った

 シナリオライター養成講座で選んだ、新劇大手劇団の演出家WMのゼミでの出会いでした。プロになるんだという気持ちはうすく、楽しいドラマのシナリオを書いてみたいという、カルチャーセンターで学ぶような軽い気持ちだったようですね。恋に憧れる思春期の少女の純朴さを保ったままに成長したようなあなたでした。私もあなたも、一目惚れで恋に陥るような年齢でも、風貌でもありません。

 講座で一緒になるゼミのメンバーは、十数名だったようですが、街で会って話し合うグループができ、あなたもそのひとりでした。映画の周辺をふらついていたわたしたちは、撮影所があった多摩川辺りを散歩したり、とにかく金のない同士で、やたら歩きまわっていました。そんな集まりに時々加わる年上の女性もいて、仲間の若い男たちの関心は彼女の方に向き、あなたはただの女の子といった感じでした。

 二十台後半に入っていた私は、すぐ欲望むきだしの話しになる若い連中の蚊帳の外で、あなたとは別の話題の中にいました。そんな私たちは少しずつ、夢や気持ちを話しあうようになりました。洗車機のサービスマンから機械設計事務所に席をおいていた頃です。なんとか現状から抜け出し。書く仕事につきたいと必死にもがいていた私に、あなたは優しく接してくれました。

 講座では席を近くに取り合って、課題のシナリオを見せあい、感想を言い合うようになりました。あなたの書くシナリオは、憧れゾーンの他愛ないようなお伽話でした。私の書くものを通して、焦りや怒りが伝わり、あなたが共感してくれ、心を寄せ合うようになります。いつの頃からか街で二人だけで会うようになっていました。頻繁に会うことはありませんでしたが、いわゆる恋人未満の関係でした。

 あなたは、恋愛は美男美女の間にしか成り立たない関係だと思い込んでいました。何でも、会社にやってくる保険外交のおばちゃんの説に、すっかり感化されているようでした。だから私には恋愛はできないのと、妙な納得のさせ方です。恋はドラマの中でと、シナリオに入り込んだ理由のひとつのようでした。恋は顔かたちでするものじゃないという私相手に、それを実践したくなったようでした。

あなたは熱心な私の読者でした

 仕事の忙しさや、なんとか現状脱出をはかりたいという思いの中で、恋とか、愛とかには無縁になっていました。それは気持ちの余裕でするものではないでしょうが、まわりにはそんな対象がいないかったのも事実です。そんな中で、あなたとの逢瀬が、ひとときの安らぎをもたらしてくれました。一途に思いを寄せてくるようになったあなたを、ときには疎ましく思うことさえありました。

 神田あたりの、座椅子をつくる小さな町工場に勤めているようでした。プレゼントにもらった座椅子が、母との暮らしの中で、私のお気に入りの指定席になりました。母は五十台半ばで元気いっぱいの頃です。和服の縫い仕事をしたり、近くの警察の独身寮で働いていました。私の方は、シナリオを書き上げては、いろいろなコンテストに応募していました。それをあなたにも読んでもらっていました。

 NHKバージョンがありました。公序良俗に反するようなテーマでは、絶対に受け入れてくれないという仲間からの情報で、そのラインぎりぎりのテーマを選んでいましたが、テーマを変えて書き分けるほどの器用さはなく、書きたいものを、自制しながら表現するというやり方です。応募原稿の文字は、きれいなら選考に有利だろうと、書道を習っていた母に清書してもらったりしたこともあります。

 きれいな文字の原稿だから、コンテストの選考者が選んでくれるわけではないことはわかっています。なんとか抜け出したいという焦りがありました。母はその原稿を清書してくれるだけで、面白いとも、つまらないともいってくれません。ただ、私の要求通りに清書してくれるだけです。私のたった一人の熱烈なファンのあなたに読んでもらって、感激してもらうことが、大きな励みになっていました。

 たとえ、メジャーな作品ではなくても、書き続けるには、熱心な読者の存在が励みになります。H社にいた頃には、私の作品を愛読してくれる固定ファンがいました。当時、同じ職場にいた同僚の恋人が私を文芸のライバル視していたらしく、発表した作品への批評を、彼女を通して入ってくるということがありました。好意的な批評だけでなく、悪評もまた、次を書くための刺激になるものです。

晴れ着のあなたを待てなかった

 まわりに読者がいなくなって、あなたという読者が私の熱意の支えでした。身勝手な私は、あなたを擬似恋人にしておくことで、飛翔への肥しにしていたのでしょう。あなたは、そんな私のわがままを許してくれました。あなたも、私たちの間の感情が、純粋な恋ではないことを知っていました。エロスの愛に限りなく近いような、アガペの愛だったのでしょうね。

 正月のことでした。私たちは、新宿で会うことにしました。紀伊国屋の一階入口付近が待ち合わせ場所です。私はいつもの常で、約束の時間より、ちょっと早くつきました。いつもなら私より早く来て待っているはずのあなたの姿がない。それでも三十分は待ったでしょうか。まだ、来ない。それ以上は待てませんでした。すっぽかしを食らったと、怒ってその場を離れました。携帯電話などのない時代です。

 あなたは晴れ着の着付けに手間取っていたのでしたね。私に晴れ着を着て会うということの意味を重く感じます。ようやくのことで駆け付けたら、私はいない。あなたのそのときの思いからしたら、待っててくれるはずだ、待つべきだと。二時間以上、晴れ着のままで私を待ったと、後でもらった手紙で知りました。もう一度、行って確かめてみるだけの度量がなかった私です。あなたの悲しみが襲ってきます。

 シナリオライターから、コピーライタへに進路を変更した後も、あなたとの付き合いは続きました。いま思い起こせば、私の意思環境は、目まぐるしいほどに変わっていたようです。私同様に、シナリオを書くことから足を洗い出していたあなたにも、コピーライターへの道を進めました。あなたは興味を持ってくれたようでした。あなたに、私が通っていた養成講座を案内しました。

 それなりの費用がかかります。無責任に、奨めはしたものの、結局、あなたは通うことになったようでした。やっとのことでコピーライターになった私は、周りの若い同僚から、早く「君」づけで呼ばれなくなりたいと必死でした。あなたとは次第に遠くなりました。エロスでも、アガペの愛でもない、母親のような大きな愛をもらいました。いま、どなたにその愛を注いでいるのでしょうか。








2009/02/27 15:04:20|フィクション
アガペのラブレター 37
04章 修業時代 37

舞台を熱く語った映画の恩師
師匠・WYさん


 新劇は、男の肌にあった娯楽だった。H社時代、職場では労音や労演という音楽や演劇の鑑賞団体があり、興の向くまま入会し、そのうちに労演の職場の窓口を仕切るようになっていた。毎月、いろいろな新劇の舞台に接するうちに、戯曲への関心も高まり、エチュードとしての作品もものにした。この世界には、作家としてのパッショを生かせる要にも感じていた。男には、この趣味への投資も少なくはなかった。

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好きな劇団の演出家のあなたを選びました

 シナリオライター養成講座で2つ選んだゼミのひとつがあなたでした。大手新劇団の映画部に籍を置くあなたは、劇団が制作する映画づくりに携わっているということでした。その劇団は、私が好きな劇団のひとつで、ひところ友の会の会員になっていて、年間を通しての全公演を観ていました。会費は結構高かったように覚えていますが、そのたびにチケットを買うよりも安かったようでした。

 年頭に送られてくるチケット帳は、私を感動の世界に誘ってくれる招待状で、早くから、観劇日を第一優先のスケジュールに組み込んでいました、その友の会では、団員との交流イベントとして、運動会などが行われていました。映画やテレビで知られる有名な俳優たちに、直に接することができるのは素晴らしいことで、その日には、一緒に暮らしていた母を連れて参加していました。

 あなたが演出したその劇団の映画は有名でした。原爆の子を扱った作品で、残念ですが、とうとう観ることができませんでした。あなたは、あの黒沢明監督の助監督の経験もあり、師と仰いでいて、その現場を熱く語っていました。あなたの弟子を自認する私は、従って、黒沢監督の孫弟子に当るとうれしく思っていました。映画がテレビにとって代わりだしていた時代です。

 その当時でも映画づくりを目指す若者は少なくありません。二十才台を中心に、彼らは感激した作品を語り、好きな監督やシナリオ作家に陶酔していました。年一回の講座で百名近くの受講生がいたようです。いろいろ著名なシナリオ作家や監督たちが、映画を、テレビを話してくれます。いま思い出しても、わくわくするような講議が語られ、教室では時々、16ミリの名画観賞が行われていました。

 「市民ケーン」や「戦艦ポチョムキン」は、その講座で知った映画でした。映画ならではの表現手法を語る講師たちは、そのディテールの凄さを伝えてくれます。そんなものかと感心しながら、いつか私も、いっぱしの映画青年になっていたようです。そんな講師陣の中で、演劇の世界にも関わるあなたの講座は、舞台と映画の表現方法の違いを話し、映画づくりの手法を舞台にどう生かすかを語ります。

初運出の舞台に感じたもどかしさ

 同期の中で、あなたのゼミを選んだのは十名ほどでした。年齢はバラバラでしたが、いい年のおじさんや雑文投稿で小遣い稼ぎをしている卵、作り手をあこがれの目で敬う女の子、カラヤン音楽の凄さをきっちりと解説する編集者、映画演出の道を模索する大学生など、多彩な仲間は同じ趣味の仲間として講座以外にも、街で会っていました。お茶の水から新宿まで、全員で裸足で歩いたこともあります。

 あなたが舞台の演出をすることになります。映画畑のあなたには、大手劇団の公演舞台の演出をするのは始めてということでした。ソ連の現代劇作品で、二人の男と一人の女の若者たちの、戦後の廃虚の中で、新しい国づくりを夢見るロマンスです。劇団が積極的に上演していたソ連の現代劇のひとつで、映画ならクローズアップで見せられる壁の弾痕をどう見せるかなどを、私たちに話してくれます。

 舞台稽古を見せてもらうことになりました。新宿のAホールでの舞台稽古は、公演前日の押し迫ったなかで、私たちは邪魔しないように、仕上げの稽古に勤しむ俳優たちやあなたを見守ります。私が体験していた職場演劇にはない緊迫感に溢れています。細かな部分までだめ押しが続きます。プロの厳しさを目のあたりにしながら、それを商売にできる人たちをたまらなくうらやましく思いました。

 定められた間口、奥行きの舞台は、演出のしかたによって無限の広がりをもつ空間にできるとあなたは話していました。映画では簡単に見せられる時間移動や空間移動を、表現を変えてできるとも。映画からアプローチしたあなたの演出作品は、女の子をやり取りする現代ソ連のお話として、それなりに面白く思ったものの、新しい時代の創造を目指す若者に同感はするものの、どこか遠い世界の話でした。

 本公演を、友の会のチケットで観て、労演でも観たように覚えています。台本も買って、何回か読み返しました。できあがった作品であり、完成した舞台でしたが、だから何なのだ、というものたりなさを拭い切れません。ソ連の国づくりに燃えた若者たちの恋物語は、それだけの話でした。ソ連という国や、共産主義や社会主義に偏見を持っていた私の思いが、素直にその宇宙に入れきれなかったのです。

あなたが演出した舞台作品の映画

 シナリオの世界から離れてから、あなたが舞台の作品を映画化することを知りました。劇団のその舞台公演を二回ほど観ていました。戦争で傷付いた純朴な青年と馬の、夢のある反戦物語です。日本中の森を渡り歩いて生活する優しい音楽家たちとの交流が、温かく描かれます。原作を読んでいませんが、子どもにも感動を与え、演劇の楽しさを伝える作品として好評で再演された作品でした。

 その舞台は、限られた空間を、大きな広がりを感じさせてくれました。実際は歩いていないのにどこまでも歩き、飛べない空を飛んでいく。ともすれば難しいテーマに陥りがちな新劇の世界を、家族向けに楽しく観せ、それでいてテーマをずっしりと感じさせてくれる作品です。これをあなたはどのように映画の映像に定着させてくれるのだろうと、完成前からわくわくして公開を待ち望んてせいました。

 オーストラリアかどこかの海外でロケをしたとかでした。日本でのお話です。別に、それはそれで作品としての完成度が高いのならいいだろうと、勝手に思い込んでいました。作品は、ていねいに心をこめた演出で描かれています。でも、あの舞台で味わった感動が生まれてこないのです。舞台では表現できない手法が駆使できはずの映画で、物足りなさを感じていました。

 自然や森林は、俳優と同等の重要なこの物語の構成要素です。海外ロケを選んだのは、その方が手軽で、安くついたせいかもしれません。でも、あなたが夢として描いてみせた森林や湖のあるシーンは、安っぽい書き割りのシーンにしてしまいました。私にはあの舞台にはくらべられないほどの空々しさを感じたのです。夢物語なんだから、ファンタジックなお話だからでは済まないように感じたのです。

 あなたは日本の森を知らないと。日本の自然がかもし出す心を、都会の知識人の観念としてしか分かっていないのではないかと。日本の森には、映像にしても消えない匂いがあります。舞台で表現した森林や湖は、確かに日本の匂いを感じました。舞台でできることと映画でできることは、違っているのでしょう。でも、あんなに素敵な物語を、あなたの映画で感動できなかった無念さを感じました。








2009/02/27 15:01:30|フィクション
アガペのラブレター 36

04章 修業時代 36

シナリオ基礎技術を教えてくれた
師匠・AHさん


 H社在職時から始めたシナリオ修業だった。新しい、新鮮な世界だった。男は、ここで作家としてのパッショで書く芸術的な作品としてのシナリオと、娯楽産業の、受けるために計算された商品、商財の設計図としてのシナリオがあることを知った。受け手の感動は、計算して作れるという、共同作業としても成り立つ設計システムは、男のお気に入りのエンジニアリングとしてのライティング・テクニックだった。

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シナリオライターにはなれなかった

 書くことを商売にしたいと、長くはH社には居れないと思い始めたころ、小説家とは別の、現実的な選択肢としてシナリオライターを目指すことにしました。お金になりそうなことが大きな理由で、母親と一緒に住んでいて、少しでも実入りのよい仕事につきたかった。シナリオ作家協会のシナリオ研究所に入りました。テレビの「若者たち」や「七人の刑事」が人気の時代です。

 現役のシナリオライターや評論家など多彩な講師陣で、何人かの講師を中心としたゼミが設けられます。私は二つのゼミを選び、授業が面白かったあなたと、劇団MのWMさんのゼミを選び、参加させてもらうことになりました。あなたの授業は、宿題として与えられたテーマで、ペラ二十枚の短いドラマを書いて提出します。それを添削して次回のゼミで戻され、優秀作が発表されます。

 研究所が終わっても引き続き指導していただけることになりました。赤坂のシナリオ会館の会議室を借りてのゼミでした。授業料はなかったか、あるいは無料に近かったようで、添削の時間などを考えれば、相当な負担をおかけしていました。授業は、一貫してペラ二十枚の宿題によるシナリオ書きです。あなたに、私の課題作が「秀逸」の講評をいただいて感激したことがあります。

 シナリオは技術だというのが、あなたの教えでした。テクニックて面白くできるというもので、職人の世界だと知りました。序破急、起承転結のドラマツルギーだと。そこは小説とは別の世界で、ライターの力量だけではなく、大勢の協働で映像化されて成立するものだと。割に器用だった私には、肌に合う表現方法でした。心で書くのではなく、頭で書けるドラマでもあると覚えました。

 しかし、入門者にとって、すぐに映像化できるのは皆無といってよいでしょう。サルトルのシナリオが読んで面白いように、シナリオだけでも面白くならないか、というのが私のひとつの課題でした。ト書きを、現在進行形で書いて、仲間があなたに「そんなのありですか」と尋ねたことがあります。どのようなお答えだったか忘れましたが、まず、読ませることだと思っていました。

コピーライターは入りやすかった

 結局、シナリオライターになれなかったのは、もちろん力不足が理由ですが、コンテストに入賞するまで、あるいは、オファーがあるまで、コツコツ書き進めていくような余裕や根気がありませんでした。いつの日かを夢に描く生活を送るような経済状態は、自分で許せない贅沢なことでした。しかし、何とか書くことで商売にできないかと選んだのが、コピーライターの道でした。

 志す人や実際に仕事をしている人数の問題です。安売りチラシの文案を書くのもコピーライターです。資格取得の国家試験があるわけでも、書くための特別の技術が要るわけではない。日本語が書ければコピーライターになれます。名刺の肩書きにコピーライターと刷り込めば、コピーライターとして遇してくれる。シナリオライターになるよりも、コピーライターの門は広がっていました。

 映画が衰退期に入り、代わりにテレピドラマが注目されていました。しかし、数多くいる現役のライターや次々に産み出される卵たちの需要に応えるほどの供給量はないはずです。熾烈な競争で勝ち残るのは至難です。節操のない話ですが、そのころから衆目を集めだしたカタカナ職業のコピーライターに食指が動いて、シナリオの勉強の傍ら、コピーライターの通信講座を始めました。

 一応スクーリングめいたこともありました。与えられた課題についてコピーを書いて添削してもらいます。どんな成績だったのかの記憶は定かではありません。そんなときにコピーだけのコンテストを知り、応募したら佳作に入賞して賞金をいただいてしまいました。こっちのライターの方が近道かも知れないと、賞金をコピーライター養成講座の入会費の足しにしてしまいました。

 すこしは余裕をもってのスタートです。何回かの講座を受け、課題に挑戦しているうちに、百人ほどいたクラスの中で、入賞の常連になっていました。その度、課題のスポンサーからもらえる賞品が愉しみでした。賞品が個人名入りの原稿用紙になり、それがたまっていきます。シナリオと掛け持ちの修業でしたが、より確実そうなコピーライターの方に傾き、この道を選んでいました。

教わったコミュニケーション技術

 ひとりなら住むところを選ばず、食べなくても済むのですが、母親と一緒の生活ではそうもいきません。あの頃、とにかく少しでも収入の多い仕事を求めていました。なんとかコピーライターになれたのですが、最初から、夢に見たような収入なんてありません。ただ、自分の努力で収入を決められる世界であることに魅力を感じ、シナリオライターになる道を自分で閉じました。

 コマーシャルの世界のライターになって、あなたに教わったシナリオ技術は役立ちました。マニュアルをドラマタイズしたビデオやマンガ、PRや啓蒙ビデオのシナリオも書いてきました。シナリオ以外の、いろいろなコピーにもドラマツルギーが生きていますし、活かすことが求められます。その意味において、シナリオ修業は、コピーライターになるための修業でもありました。

 言葉は思念を伝える最初のメディアでしょう。まず、言葉にしてから文字として定着させ、さらに映像や印刷物などのメディアにつないで行く。そんな意味で、シナリオもコピーも次のメディアです。要は、何を伝えるか、元の思念が需要に応えられるかどうかです。そして、メディアをどのように使いこなすかの技術が、シナリオの、あなたが教えてくれた技だったように思います。

 まだ、日の目を見るような映画やテレビドラマのシナリオを書いていません。日常見ているテレビドラマの楽しさは、その技の巧みさに負うところが多いものです。ドラマにおいて伝えたいテーマは古今東西、人間の興味の範囲においても多いものです。コマーシャルにおいてはただひとつ「買ってくれ」です。これを理由付けする巧拙が、送り手のメディア以前の思念のようです。

 この思念の創造のしかたは個々のライターの課題でしょう。ただ、どう伝えるかの技によって、コミュニケーションの効率が大きく変わってきます。技が重視されるエンターテインメントの世界で、自分の技を磨くことの大切さ、そして、メディアの特質を知って、その上で使いこなすということを、あなたのシナリオ技術から教わりました。ありがとうございました。