04章 修業時代 40
一人前の職人に育ててくれた 師匠・HYさん
経験の全くない新人は、よほどの幸運に恵まれない限り、希望する職種に就くのは難しい。男は、書くことにおいて、一応の水準の仕事はできると自負していた。しかし、たとえば、コピーライターを募集している会社に応募しても、経験がないことは大きなハンデになる。そのための専門の養成所であり、まず、そこを踏み台にすることだと。そして、最短距離で走りきることだと思っていた。
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コピーライターになれた
あなたは、コピーライターとして海のものとも山のものとも分らない私を採用してくれました。コピーライター養成講座に通っていて、修了にはまだ期間が残っていました。大阪が本社の印刷会社の東京営業所の制作室です。その頃、関心が高まっていた販売店向けのセールスマニュアルの制作をはじめ、本格的にSP展開を事業化しようとしていた会社で、あなたは東京営業所の実質的な総括責任者でした。
大阪時代に頼んでいたSP制作会社のバックアップがあり、セールスマニュアルのコピーは、そこのコピーライターに書いてもらっていました。やがて、私にもリーフレットやDMのコピーだけではなく、すこしずつですがマニュアルを書く仕事が廻ってきました。販売店取材や得意先担当者との打ち合わせなどもあり、指導を受けながらも、コピーライターとしての仕事をこなしていました。
そんなある日、あなたから独立して新しい会社を設立したいが、来てくれるかという話を受けました。もちろん、二つ返事での承諾です。会社ではまだ知られていない話を打ち明けられて、うれしく、誇らしく、感涙にむせんだものでした。ついては設立発起人になってほしいから、印鑑や住民票を用意しておくようにと。もちろん、すぐに用意しましたとも。そして、次の要請を待ちました。
メンバー集めが始まりました。カメラマン、デザイナーは他社から引き抜き、コピーライターは大阪のSP制作会社から出向してもらうIさん、そして、私とSAさん。営業は、当時の会社の若手二人の候補の内、誰にするかの相談を受け、あなたもそう決めていたAHさんを推薦しました。そして、あなたの義妹のHさん。事務所さがしにも同行し、六本木の新築ビルの3階に決まりました。
会社登記をすることになっても声がかかりません。いつの間にか、会社は設立していました。悲しく、悔しく、自尊心が傷つきました。俺って、そんなもんなのか。あなたに抱いた最初の不信感でした。私は子飼いの忠実な直参のつもりでした。外様を重んじるあなたには、子飼いの力、潜在力を活用する気がなかったのでしょうか。給料や賞与の待遇でも、額ではなく、評価の面でも不満を感じていました。
結局、あなたの許を飛び出した
金に不満の多いヤツだと思われていたようですが、欲しいのはお金ではなかった。母親との生活で家計を支えていて、給料は多いにこしたことはないにしても、困窮はしていませんでした。この世界での経験が少ないとしても、仕事ができないわけではない。仕事の能力は、表面的なスキルではないはずです。おだてに乗りやすい単純な私ですが、いまにして思えば、あなたに誉められたことがありません。
あなたは、若い社員が育ってきたら独立させて別会社にして、グルーブとしてやっていくと話してくれたことがあります。何人かにはこの暖簾分けを実践されたようですね。会社経営には、自信をお持ちでした。しかし、AHさんが辞め、私と一緒にやっていたAKさんが辞めるなど、次々に、新人から育てた子飼いの社員が会社を去っていきました。私の退社が原因とはいいません。
私を含めて、あれらの社員達が残っていたらどうなっていたでしょうか。その後の彼らの仕事ぶりを垣間見して思うと、かなり強力な制作会社になっていたはずです。最近までのおつき合いを通じて、あなたは経営者というより、制作者を志向しながらなりきれない批評家ではなかったかと。いつまでも、もう巣立てるまでに育った子飼いの力を、信じたくない人ではなかったかと思うのです。
私が辞めたのは、そのころ目論んでいた新会社の設立を認めてくれなかったことが主な理由です。担当していたE社で、それまでになかったSPの解決策をひとつの組織として実践していこうとしました。E社のHNさん、A社のNTさん、H社のKKさんらと話し合い、そのプロジェクトを実行するためには、それまでは別々の会社で担当していた業務をひとつにまとめるべきだという結論でした。
その受け皿として、あなたに後援をお願いしました。ひとつの暖簾分けのかたちしてもらえないかと思ったわけです。E社に残るHNさんが、社内を根回しのうえ、窓口になる予定でした。しかし、答えはNO。最善の方法としたプロジェクトの推進には、新しい組織の立ち上げしかないと頑なに思い込んでいた私たちは、NTさんが所属していたA会社のW社長にお願いし、受け入れてもらいました。
大事にしたい人格とキャリア
私が辞めた後に、金輪際、敷居を跨ぐものかと啖呵をきって飛び出したというAHさんが、何年か後にその禁を破ってしまった後でも、あなたの会社を訪れる機会がありませんでした。E社のパーティでお見受けして「元気です」という程度のあいさつ以上の会話はありませんでした。いろいろな噂は伝え聞いていましたが、私たち夫婦の仲人だったあなたとの交流はないものと思っていたのです。
私の仕事の基本理念は、あなたに教わったことが基本であり、あなたは仕事の師匠でした。四ッ谷の私の事務所に連絡があったのは、十年も過ぎたころでしょうか。なつかしく、声をかけてもらったことをうれしく思ったものです。仕事を頼みたいということでした。私にできることなら、喜んでとあなたを迎えました。頭髪が薄くなっている私に比らべて、あまり変わらないあなたでした。
SP企画の仕事でした。何回かお手伝いしましたが、多分、そのままでは通らなかったのでしょうか。企画書の直しの指示もなく、受ける時に約束した料金を振り込んでもらっていました。こんなおつき合いが、何回か続きましたが、あなたの会社を訪れることはありませんでした。なつかしい、かつてとあまり変わらない事務所を伺ったのは、仕事の状況がいよいよ厳しくなったころでした。
事務所を自宅に移そうと決心したものの、資金がまるでなく、あなたに相談しました。実情をすぐ理解され、前貸しの報酬で、事務所を閉めることができました。その後も企画の仕事や、マニュアルのコピーなど、何回か仕事をもらうようになりました。こんな時、ファックスの宛名が「柏倉へ」と呼捨てなのには、お前は身内なんだよというつもりなのでしょうが、苦笑していました。
その後、何回か仕事をさせてもらいました。直しが出るのはこの仕事の常で、さほど苦にはならないのですが、何回も、何回もと得意先ではなくあなたからの指示が多いのには参りました。とうとう放り出してしまいました。コピーではなく、構成を直すのなら最初からそう指示してくださいよと。出来た構成の、好みからの批判なら誰だってできると。大事にしたい人格とキャリアがあります。
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