04章 修業時代 45
晩年作の緻密な切り絵に乾杯 故人・HEさん
業界で評価されたクリエイティブ能力が、文学や美術の世界でも評価され、小説家や画家などの作家として活躍する人もいる。業界は有力な登竜門のひとつだろうが、この道もかなり厳しい。アートである前に、企業の事業目的を達成する作業に、自らの個性や思いをどう表現していけるかだろう。プロデュースされた仕事を、きれいに、器用に仕上げだけでは難しいのかもしれない。職人芸だけでは通用しない。
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あなたの紹介で軽四輪を手にした
京王線の中河原駅のすぐ近くに住んでいたあなたは、結婚していましたが、子どもはまだでした。京王線が高架になる前で、鎌倉街道の踏み切りは、朝夕、空く暇もないほどの混雑です。出勤時には、多摩川の関戸橋を越えたところまで渋滞が続いていました。多摩ニュータウンの開発が、緒についた頃です。母親と一緒に多摩市に移り住んだ私と、隣近所のようなつきあいになりました。
ほしかったマイカーを買うために、あなたの住まいの隣の自動車修理工場を紹介してもらいました。その頃になって、ようやくローンが組めるほどになっていました。買ったのが、H社の軽自動車で、デザインのモデルチェンジはしないという歌い文句でした。8トラックのカーステレオが主流の時代で、カセットステレオにして、スピーカーはリアシートの両脇に埋め込んでもらいました。
付き合っている人もなく、休みになると、あなたをはじめ、友人宅を襲います。ドライブがただ楽しく、その新しい玩具と遊び回っていました。あなたとも、いろいろなところに出かけていました。その頃、あなたはSB社で、イラストを描きながら、グリーティングカードを担当していました。その仕事を通していろいろなマンガ家やイラストレータに出会って、親交を深めていたようでした。
明るくて、人に好かれる人柄でした。結婚しているというのに、女の子にちょっかいを出すくせが直らず、スナックなどで気に入った娘がいると、イラストを描いては点数をかせいでいたようです。晩年、青梅線の河辺駅近くのスナックに一緒に行ったことがあります。行きつけだったらしく、常連客とも親しく、歓迎はされはしたものの、どこか不自然な接し方があるのに気づいたものです。
酒も楽しい酒でした。酔うと歌い、踊り出します。こんな性格が、周りを和ませ、好かれたところなのでしょう。私とあなたとコピーライターのSさんの3人で、新宿のデパート屋上のビアガーデンに通いました。どこかのOLたちと意気投合して、居酒屋で飲み直し、終電車に乗り遅れて帰れなくなり、駅の近くの安宿に全員で泊まり込んだことがあります。期待したことは起こりませんでした。
キャラが強いイラストに困った
あなたも大阪からの上京組の一人です。絵を描くのがが好きだったあなたは、独学で「デダイン」を勉強して、マンガタッチのイラストが目に止まり、グリーティングカードのイラストを描いたり、印刷物のカットを描いたりしていたようです。上京後も、マニュアルのカットやイラストを描いてもらっていました。個性が出ているのですが、同じタッチだけでは使いにくいときもありました。
何を描いてもらってもあなたなで、あなたのキャラクターです。さらに困ったのは、コピーを読込まないでイラストを描いてしまうこと。ざっと目を通すだけで、描けそうなフレーズを見つけると、それだけで絵を描いてしまう。マニュアルのイラストでも、伝えたいメッセージがあります。そんなことにお構いなしに、好きなマンガを、好きなように描いて持って来る。使えない場合が、何度かありました。
個性を活かすことを志向したマンガ家でした。私がSB社を辞めた頃に前後して、マンガ家としての独立を目指したのですね。どこにあっても、ああ、あなたの絵だとはわかりますが、それだけで食べていくには難しかったと思います。コマーシャルベースで、あなたの絵は1カット5、6千円でしょう。たまに、数がまとまって20点になっても12万円。二人の子を抱えた生活は苦しかったはずです。
東京のローカル紙の4コマのマンガ掲載をしたことがあります。たまに、見ての印象でしたが、はっきりいって面白くない。新聞のマンガらしいエスプリがまるで利いていない。アイデアを出そうとする努力は伝わってきますが、結果がすべてです。固定ファンはいたようですが、単行本になったわけでもなく、彼らは生活を支えてはくれません。1カット100万円というイラストマンガ家がいた時代です。
晩年に、ふたたびローカル紙の連載4コママンガを描くようになりました。あなたは、掲載半ばで逝ってしまったのですが、その新聞を購読していない私は、たまにしか見られません。あなたらしい語り口ですが、やっばりです。1回の稿料が数千円では飲み代にもなりません。その新聞社の記者の感想を聞くと、おおむね好意的でしたが、永年に蓄積したはずのエスプリが見受けられませんでした。
切り絵作家としての輝き
あなたの輝きは、カットやマンガではなく、切り絵作家としての仕事でしょう。あなたの切り絵が、大手旅行会社の年間カレンダーに採用されていることを教えてくれたのが、SB社時代からの仲間のATさんです。彼は、その会社の別部門での仕事を手伝っていて、あなたの仕事に出会ったらしい。全国の祭だったでしょうか。365日、毎日の玉に、切り絵が入っているのです。
当月の見出し絵に、表紙絵の大サイズものを含めたら、378点。毎日午前、午後、夜と3点ずつ描き続けても126日、四ヵ月と少しかかります。休みも必要でしょうし、全部はかなわないにしても、現地取材も欠かせませんし、資料がなければ描けません。大手旅行会社で資料は揃っていたでしょうが、絵になるものを探し出すのさえ、大変な作業です。
片手間ではこなせない大仕事で、まるまる半年がかりです。まず、そのことが驚きでした。稿料の計算もしてみました。毎日の玉絵が単価1万円として、365万円、見出し絵が、一点10万円として120万円、表紙絵が20万円として、純粋の稿料が505万円になります。これに調査費や取材費、材料費等の諸経費が300万円として、800万円ほどです。高くはないギャランティです。
この仕事が何年か続きます。全国規模の大手旅行社の仕事のおかげもあって、あなたは切り絵作家として知られるようになります。やがて、仕事に終わりが来るのは、受注産業の常です。社内の政治的構図が変わったり、代理店の駆け引きや抗争なども絡んで、突然、仕事がなくなります。著作権は残っているものの、買手限定の買い取りで、二次使用が難しい。作品も散逸したのではないでしょうか。
再会したのはその仕事が終わった後でした。あなたの切り絵を採用してもらうようにと画策したのですがかなわず、連絡がとれなくなって、あなたの息子が遺作展を開くという知らせで、死を知りました。何か手伝おうとしたのですが、息子とは温度差を感じました。離婚してからの、歳月が頑な性格をつくったのでしょう。申し訳ないのですが、思い出だけの付き合いにします。安らかに。
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