03章 青春時代 31
企業内専門学校出の後輩仲間 友人・ORさん
その企業は、全社的に各事業所から選りすぐった高卒者に対して、上級教育を施していた。入社して試用期間が終り、二年間の事業所内教育のあと、入学選抜試験がおこなわれた。もちろん給料をもらっての、全寮制の研修所である。男は入ることができなかったが、この企業の底力を感じた。人材こそが競争に打ち勝つ経営資源であり、それが大きな発展を促した、中小企業に太刀打ちできない企業力なのだろう。
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同好の趣味の後輩として
二年下の工高の後輩です。笑顔の挨拶を交わしていましたが、急速に親しくなったのは、あなたが職場演劇の仲間になってからです。ちょうど、これを書くために、あの頃の資料を探していたら、なくなったと諦めていた緑色のタイプ印刷でつくったパンフレットが、資料の屑の中から、呼び出されでもしたように出てきました。あなたが演出した「修善寺物語」の上演パンフレットです。
部員全員に原稿を書いてもらい、私が補作、追加してつくったものでした。ちょうどその頃、当時の演劇部の主なメンバーの同窓会をしようと計画されていました。世話役のTTさんに、私がドクターストップや体調不良ということもあって、欠席させてもらう旨をメールで連絡しました。そんな私の代参として、再編集した上演パンフレットをTTさんに送っておきました。
読み返してみたら、素人の若僧のくせに、凄いことをやっていたんだと感じます。いまの私にもかなわないような集中力です。ひとり一人の顔を思い出しながら、ただただ懐かしく、できることなら、あの場所に還りたい、と。ちょっとつっばってはいましたが、あのころ職場の中で私たちが置かれていた状況、「好きだなあ」という周囲の視線を、かなり意識していたんだなと感じます。
再編集したパンフを必要数製本して、TTさんあてに送りました。同封したレターは皆さんにも読んでもらっても一向に構わない内容ですが、それなら、ひとり一人へのレターを書いてもよかったと。定年を迎えた人、すぐにも迎える人、この数年がたつと、みんなリタイアして同じステージに立つようになります。そんなときに、来れなかった人や、連れ合い同伴というのも楽しいかもしれませんね。
ビジネスの世界をリタイアすると、夫婦一緒の新しい出発が始まります。子どもや孫は別としても、夫婦同士の付き合いがあってもいい。考えてみれば、私はあなたのかみさんを知らないし、みんなも私のかみさんを知らない。自慢できるほどの妻ではないにしても、かけがえのないバートナーです。お互いに親しくなってもらいたい。そんな世界が、これから生まれてもよいと思うのです。
「修善寺物語」を演出した
あなたのパンフの文章をみてましょう。「台本選び」の項です。『演劇を上演して成功するか否かは、どんな台本を選ぶかで五十パーセント決定するといっても過言ではない。台本は演劇を行う時の予算、人数、方針等の制約条件を全て加味した上で選ばれる。しかも、演劇は絶えず新しい創造を要求されるので、最低、二ヵ月間の練習が必要なのである。今度の場合、三ヵ月前より脚本選びに入った』
『ある一つの方針を立てて、現在手持ちの脚本全部に目を通す。結局、これはといったものがなく、次にK氏のオリジナルを取り上げた。しかし、我々の夢が入っていないということで否決され、後は何とはなしに決ったのが「修禅寺物語」。だが、失敗だとは思っていない。従来取り上げた作品とは異なった脚本ではある。しかし、冒険をやれるという事から見れば、面白いものだし、ヤル気にもなる』
「演出をして」の項より。『良く出来た作品で、演出などは不必要な脚本といえる。一応、形として歌舞伎の人物の配置に、新劇的な動きをつけてみたつもり。このような時代物は、江戸時代のものと違って、時代考証なども難しく、サマにならないものが多いといえる。キャストは多く、狭い舞台の上に、時には六人を平面的に並べるだけでも、大変なこと。とにかく、一応形のあるものにした』
私は修善寺の僧の役で始めて舞台に立ちました。私の「舞台稽古」の項です。『殺気立ってるのは役者だけじゃない。演出だって、裏方もしかり。舞台の使用時間が制限されているからだ。稽古場の動きが取れない。演出はがなる。役者は、いつまでも同じ動きを強要される。そんなこと言うなら、テメエがやってみろ。ボクは始めて舞台に上る。ひやかすのは止めよう。足がガクガクふるえるだろうし』
そして、まとめました。『照明が幕にさえぎられた。役者たちは、しばらくほう然としている。普段の自分に戻ろうとしている時間だ。こんな時、あなたの、拍手が欲しい。しばらく、あと数分の拍手が欲しい。幕は再びあくだろう。そして、舞台に立っているのは、ほら君の知ってるあいつらだ。君の職場のあの人だ。彼らは報われるだろう』カーテンコールを強要していました。
企業内専門学校のエリートとして
あなたは企業内工業専門学校の卒業者でした。この専門学校は、会社の全事業所の高卒社員の、全寮制の再教育機関です。各事業所には、毎年、数十名の高卒者が入社し、全事業所では数百名にもなるでしょうか、この中からも選りすぐられれた人材が集まります。入社二年から二年間、入学資格が与えられます。超難関のこの学校に入学するために、仕事が終えた後、寮の部屋の電灯が消えません。
会社では、就業時間内の教育も行われていました。これは正規入社の高卒者全員が対象で、私たちの場合も英語や数学、物理などが教えられたように覚えています。当時は、家庭の経済的な事情で大学教育を受けられなかった人たちが多く、そんな人材を企業発展のために戦力化する戦略のひとつでした。中小企業は、こんなシステムをもつ大企業を相手に競争しなければならなかったわけです。
企業内専門学校を卒業した後、戻った職場では、当然、エリートとしての待遇を受けるわけですが、制度上、大卒者と対等になれるものではなかったようです。後は個人の能力と運次第でしょうが、昇りつめる地位には限界があります。私が辞めた後に、あなたがどんな職場で、どんな職種に就いたのかは知りませんが、演劇部の同窓会で、技術とは別の総務部門にいることを知って驚いたものでした。
このような優れた卒業生を輩出したことは、母校にとって、その後の就職活動に有利になります。私の場合、辞め方がどのように評価されたのはわかりませんが、それなりのお礼奉公もしたつもりです。そう自分で思い込んでいるだけで、実際のところはわかりません。私の前に、建築課の先輩がいて、あなたまでは続きました。その後は、どう続いたのでしょうか。
そんなあなたも、定年退職の時を迎えました。リタイア後は、好きな歌舞伎の鑑賞三昧の生活が待っているのかもしれません。あるいはキャリアを活かした、次の仕事が待っているのかもしれません。あなたをはじめ、あれらの充実した時間を過した仲間たちは、どのように生きていくか、大いに関心のあるところです。定年まで勤め上げたことは、立派だったと。心から賞賛したいと思います。
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