03章 青春時代 26
労組界で個性を活かした後輩 友人・MYさん
御用組合いという言い方は嫌いだった。会社側、労働者という分け方にもなじまなかった。工場のトップの工場長や労務担当の勤労部長だって労働者、勤労者であり、与えられた仕事の対価としての賃金を得る。生産の現場にいる限り、全員が同じ立場にあった。中には、先鋭的な人たちがいないでもなかったが、それがどれほどのことだったのだろう。いがみ合うことを生きがいとしていた人は、いまどうしているのだろう。
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文化活動の仲間として知られていく
今度、文芸部の後輩で凄いやつが入るぞと、同期のSIさんから聞いてあなたの入社を心待ちしていました。昭和三十六年、新築なった高卒男子四人部屋の独身寮があなたたちの住まいになります。私たちの寮は、大卒者と先輩高卒者が入居していました。大卒者は個室で、高卒者は二人部屋、そして、女子中学新卒者は六人部屋の寮、高卒女子は借り上げの四人部屋の寮という棲み分けです。
あなたが入社して、会社の文化活動の文学部に入部してから、私と急速に親しくなります、あなたの同期で、私と同じ山形出身のKMさんたちと一緒に、文集の発行をはじめに、文学部主催のイペントを催したりして社員の中で注目を浴びるようになります。本業とは違う、文化的活動の中心的な存在として、若い人の多い職場の労務対策、ガス抜きに貢献していたというわけです。
労働組合活動も活発でした。御用組合と揶揄される企業内組合であり共産主義の侵食を、勤労課と一緒になって警戒していました。女子現業職の多い職場だけに、労働組合の職場代表評議員は、若い私たちにまで回ってきます。あなたがいたスタッフ部門では評議員は入社歴の古い人たちが担っていましたが、教宣部とか、青年婦人部とかがあって、いろいろな活動参加していました。
青年婦人部が主催するフォークダンス大会も好評で、男子が少ないからと狩り出されても、圧倒的に女子が多くなります。近くの多摩湖畔に出かけるなどして、みんなで踊って、ガンバロウなどを斉唱し、お金のかからない休日を過ごしていました。機関紙を発行する教宣部での手伝いもあったりで、私たちは組合活動にも参加していました。ストライキが健全だった時代です。
私のいた独身寮に民青のオルグが入ってきました。田舎出の純朴な高卒の若者にとって、企業は悪だとする説得と、彼らが熱く語る理想社会に目を見張ります。部屋に上がり込んでの一本釣りに、同期は一人、二人と組みしていきます。会社は労働組合と一緒になって、私たち同期生全員を同類として疎み、労働組合活動から排除しようと動き出します。かなり神経質になっていました。
企業内組合活動の若い旗手として
あなたの独身寮は、純朴社員のサンクチュアリーとして守られていました。私たちの一期下のあなたたちは、優等生社員として遇されることになります。当時、労働組合役員は選挙で行なわれていました。自薦他薦の立候補者がいない場合は、候補者も選挙で選んでいました。圧倒的多数の女子従業員たちの人気投票になってしまいます。職場で、人気者であった私が候補者に選ばれてしまいました。
早速、予想通り職制上司のKKさんに、半ば強制的に立候補を辞退するようにいわれました。内心、なるのも面白いとは思っていましたが、即諾させられました。鉄壁の守りを誇るあなたの同期生が、労組の星としても浮上します。その代表があなたでした。やがて、執行部の選挙は会社と一緒にあらかじめ決めた候補者が、組合員の選挙という形で追認されるセレモニーになったのです。
中卒者は現業の女子高卒も含めて現業職、新規採用の高卒者は執務職、大卒者は企画職としてスタート。高卒者は成績次第で、十年くらいで企画職になれ、主任、課長の道が開かれます。見事なピラミッド社会で、高卒者はたとえ在職中に夜間大学を卒業しても正規の大卒としての待遇はないようです。むしろ通学のために業務に支障をきたしたということでマイナスの評価をうけかねません。
高卒者が企業社会で出世というか、組織を駆け昇って上がるく方法のひとつは、労働組合の幹部になること。ただ、長い期間、組合専従になると、帰る職場がなくなったり、日々革新する技術についていけなくなって戸惑う、などのリスクが覚悟になります。あなたの場合、この道を選びました。自身の努力があったにしろ、選んだというより、巡り合わせでともいえるでしょうが、これは運命といえましょう。
私は、H社を辞めて会う機会も少なくなりました。あなたは順調に、というより、もう後には退けないほどに組合生活が始まったようです。専従役員を経て委員長になり、さらには各単組の上部機関である組合総連合の執行委員にまで昇っていきます。その頃に、私は総連合が発行していた機関誌の仕事を手伝うことになります。隔月刊行され、専従の編集スタッフを置くほどに力を入れてた労働評論誌です。
一緒に活動紹介の啓蒙劇画をつくって
全国各地にある単組の職場ルポで、巻頭4ページで写真紹介し、表紙はその職場で選んだ女子従業員をモデルに構成します。あなたからの紹介でしたが、取材には編集担当役員と編集スタッフ、私とカメラマンというメンバーであたりました。私のかつての古巣の工場も取材しました。十数年たって、すっかり変わっていて、あの頃の女子の代わりに、最新鋭のロボットが生産の主役になっていました。 その機関誌には、劇画も連載しました。労働組合入門といった内容で、新入社員、特に、活動に関心の薄い女子従業員を意識しました。地方の高校を卒業して入社した女子現業員を主役に展開します。あなたが時代背景を担当し、私がシナリオをつくって、絵はあなたの組合仲間の奥さんが描くという陣容です。組合員としての参加のしかたなどを、主人公の日常生活の悩みや恋愛などを通して描いていきます。
この劇画がきっかけとなって、あなたからの紹介で、さらに上部の総連合会の選挙対策の小冊子に劇画を掲載することになります。日本社会党の元気があったときで、総連合会が推薦する立候補者の生い立ちや実績、政策を劇画で紹介。私がインタビュー取材して、シナリオを書き、件の彼女が絵を担当しました。その候補者は、晴れて国会議員のバッジをつけることができました。
私は、組合役員としての活動はできませんでしたが、こんなかたちで組合活動を垣間見ることができました。組合役員も幹部ともなれば、会社のトップ連と一見、対等に渡り合えます。いろいろな会合や宴会などに参加しじっこんに談笑できる。大学を出てもごく一部の人しか体験できないような企業経営や労務戦略への参与が適うことは、学歴社会の中では、高卒者の夢のようなことでしょう。
一度やったら辞められない仕事なのかもしれません。あなたは労働組合活動双六の上がりとして労働金庫の常務になります。一度、私の事務所のような零細企業に融資してもらえるのかを尋ねたことがあります。融資対象は労働者個人とかで、融資は適いませんでした。その後、あなたと年賀状で会おうとは伝えあっても、まだ、これからの愉しみになったままですね。その日が早く来ることを願っています。
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