孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/02/26 15:02:40|フィクション
アガペのラブレター 26
03章 青春時代 26

労組界で個性を活かした後輩
友人・MYさん


 御用組合いという言い方は嫌いだった。会社側、労働者という分け方にもなじまなかった。工場のトップの工場長や労務担当の勤労部長だって労働者、勤労者であり、与えられた仕事の対価としての賃金を得る。生産の現場にいる限り、全員が同じ立場にあった。中には、先鋭的な人たちがいないでもなかったが、それがどれほどのことだったのだろう。いがみ合うことを生きがいとしていた人は、いまどうしているのだろう。

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文化活動の仲間として知られていく

 今度、文芸部の後輩で凄いやつが入るぞと、同期のSIさんから聞いてあなたの入社を心待ちしていました。昭和三十六年、新築なった高卒男子四人部屋の独身寮があなたたちの住まいになります。私たちの寮は、大卒者と先輩高卒者が入居していました。大卒者は個室で、高卒者は二人部屋、そして、女子中学新卒者は六人部屋の寮、高卒女子は借り上げの四人部屋の寮という棲み分けです。

 あなたが入社して、会社の文化活動の文学部に入部してから、私と急速に親しくなります、あなたの同期で、私と同じ山形出身のKMさんたちと一緒に、文集の発行をはじめに、文学部主催のイペントを催したりして社員の中で注目を浴びるようになります。本業とは違う、文化的活動の中心的な存在として、若い人の多い職場の労務対策、ガス抜きに貢献していたというわけです。

 労働組合活動も活発でした。御用組合と揶揄される企業内組合であり共産主義の侵食を、勤労課と一緒になって警戒していました。女子現業職の多い職場だけに、労働組合の職場代表評議員は、若い私たちにまで回ってきます。あなたがいたスタッフ部門では評議員は入社歴の古い人たちが担っていましたが、教宣部とか、青年婦人部とかがあって、いろいろな活動参加していました。

 青年婦人部が主催するフォークダンス大会も好評で、男子が少ないからと狩り出されても、圧倒的に女子が多くなります。近くの多摩湖畔に出かけるなどして、みんなで踊って、ガンバロウなどを斉唱し、お金のかからない休日を過ごしていました。機関紙を発行する教宣部での手伝いもあったりで、私たちは組合活動にも参加していました。ストライキが健全だった時代です。

 私のいた独身寮に民青のオルグが入ってきました。田舎出の純朴な高卒の若者にとって、企業は悪だとする説得と、彼らが熱く語る理想社会に目を見張ります。部屋に上がり込んでの一本釣りに、同期は一人、二人と組みしていきます。会社は労働組合と一緒になって、私たち同期生全員を同類として疎み、労働組合活動から排除しようと動き出します。かなり神経質になっていました。

企業内組合活動の若い旗手として

 あなたの独身寮は、純朴社員のサンクチュアリーとして守られていました。私たちの一期下のあなたたちは、優等生社員として遇されることになります。当時、労働組合役員は選挙で行なわれていました。自薦他薦の立候補者がいない場合は、候補者も選挙で選んでいました。圧倒的多数の女子従業員たちの人気投票になってしまいます。職場で、人気者であった私が候補者に選ばれてしまいました。

 早速、予想通り職制上司のKKさんに、半ば強制的に立候補を辞退するようにいわれました。内心、なるのも面白いとは思っていましたが、即諾させられました。鉄壁の守りを誇るあなたの同期生が、労組の星としても浮上します。その代表があなたでした。やがて、執行部の選挙は会社と一緒にあらかじめ決めた候補者が、組合員の選挙という形で追認されるセレモニーになったのです。

 中卒者は現業の女子高卒も含めて現業職、新規採用の高卒者は執務職、大卒者は企画職としてスタート。高卒者は成績次第で、十年くらいで企画職になれ、主任、課長の道が開かれます。見事なピラミッド社会で、高卒者はたとえ在職中に夜間大学を卒業しても正規の大卒としての待遇はないようです。むしろ通学のために業務に支障をきたしたということでマイナスの評価をうけかねません。

 高卒者が企業社会で出世というか、組織を駆け昇って上がるく方法のひとつは、労働組合の幹部になること。ただ、長い期間、組合専従になると、帰る職場がなくなったり、日々革新する技術についていけなくなって戸惑う、などのリスクが覚悟になります。あなたの場合、この道を選びました。自身の努力があったにしろ、選んだというより、巡り合わせでともいえるでしょうが、これは運命といえましょう。

 私は、H社を辞めて会う機会も少なくなりました。あなたは順調に、というより、もう後には退けないほどに組合生活が始まったようです。専従役員を経て委員長になり、さらには各単組の上部機関である組合総連合の執行委員にまで昇っていきます。その頃に、私は総連合が発行していた機関誌の仕事を手伝うことになります。隔月刊行され、専従の編集スタッフを置くほどに力を入れてた労働評論誌です。

一緒に活動紹介の啓蒙劇画をつくって

 全国各地にある単組の職場ルポで、巻頭4ページで写真紹介し、表紙はその職場で選んだ女子従業員をモデルに構成します。あなたからの紹介でしたが、取材には編集担当役員と編集スタッフ、私とカメラマンというメンバーであたりました。私のかつての古巣の工場も取材しました。十数年たって、すっかり変わっていて、あの頃の女子の代わりに、最新鋭のロボットが生産の主役になっていました。
 
 その機関誌には、劇画も連載しました。労働組合入門といった内容で、新入社員、特に、活動に関心の薄い女子従業員を意識しました。地方の高校を卒業して入社した女子現業員を主役に展開します。あなたが時代背景を担当し、私がシナリオをつくって、絵はあなたの組合仲間の奥さんが描くという陣容です。組合員としての参加のしかたなどを、主人公の日常生活の悩みや恋愛などを通して描いていきます。

 この劇画がきっかけとなって、あなたからの紹介で、さらに上部の総連合会の選挙対策の小冊子に劇画を掲載することになります。日本社会党の元気があったときで、総連合会が推薦する立候補者の生い立ちや実績、政策を劇画で紹介。私がインタビュー取材して、シナリオを書き、件の彼女が絵を担当しました。その候補者は、晴れて国会議員のバッジをつけることができました。

 私は、組合役員としての活動はできませんでしたが、こんなかたちで組合活動を垣間見ることができました。組合役員も幹部ともなれば、会社のトップ連と一見、対等に渡り合えます。いろいろな会合や宴会などに参加しじっこんに談笑できる。大学を出てもごく一部の人しか体験できないような企業経営や労務戦略への参与が適うことは、学歴社会の中では、高卒者の夢のようなことでしょう。

 一度やったら辞められない仕事なのかもしれません。あなたは労働組合活動双六の上がりとして労働金庫の常務になります。一度、私の事務所のような零細企業に融資してもらえるのかを尋ねたことがあります。融資対象は労働者個人とかで、融資は適いませんでした。その後、あなたと年賀状で会おうとは伝えあっても、まだ、これからの愉しみになったままですね。その日が早く来ることを願っています。








2009/02/26 14:58:33|フィクション
アガペのラブレター 25
03章 青春時代 25

職場の文芸部顧問の庶務課長
師匠・IKさん 


 男の職場は、高校であり、大学でもあり、地域社会でもあり、ひとつの文化をもった特殊なコミュニティであった。その中では、ひと通りの満足が実現していた。いろいろな才能が集い、競っていた。生産という目的で組織された団体であり、そこには人間の喜怒哀楽がも確実にあった。それだけに、この中から飛び出すことは恐れであり、中にいる限り居心地がよく、いろいろな楽しみ方があった。

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企業内文化活動の推進者として

 手元に一枚の写真があります。64年5月、あなたが私たちの工場から転勤され、所長をしておられた経営研修所を訪れたときの写真です。そこは千葉県我孫子市の手賀沼の畔の緑の中にありました。吉井勇も遊んだという緑荘という料亭を会社が買い取って、経営幹部の研修所としていたところです。広大な敷地のなかに点在するコテージのひとつをお住まいになさっていました。

 文学部の顧問をされていたあなたの元に、私を含めて部員八人で訪問しました。私、MYさん、KMさんという文学青年三人衆と、MTさんという同年輩の大卒エンジニア、女子はHMさんの他三名です。文学部の活動は、男女とも高卒者が中心で、大卒者のMTさんは特異な存在でした。部にはもっと多く在籍していたはずなのに、なぜこの八名だったのか思い出せません。

 大卒者は文学とか演劇などの企業内文化活動には近付かないという不文律があるようでした。エンジニア中心の職場で、文芸への関心が薄いということもあったのでしょうが、仕事以外に情熱を注ぐのは、出世に不利だとされていたのかもしれません。文集に投稿はしても、活動には加わらない大卒者と、読むだけの中卒者というのが大勢。そんな存在価値を担っている私たちでした。

 企業に席を置きながら、文学をよくするというのは、幹部社員にとっても居心地のよくないのかもしれません。あなたの場合はどうだったのでしょうか。当日、夫人と愛犬と一緒に園内を散策しながら、木々の間から望む手賀沼のある風景を愛で、短歌や詩を作って発表しました。「わかきあしのはむらに風のたつときも汚る手賀沼光ることなし」そのときにあなたが詠まれた短歌です。

 手賀沼は生活廃水などで、国内で水質汚染が進んだ湖沼として、槍玉に挙がっていました。東京オリンピックの年です。高度経済成長期に入って、企業活動が盛んになります。私たちの工場も忙しかったのでしょうが、それはそれとして、といったふうに、私たちは企業内文化活動を楽しんでいました。複利厚生や雇用対策という会社の政策に、図らずも協力していたといえるでしょう。

職制の検閲に対抗する創作を書いて

 そのときに夫人から、文集に発表した私の「あこやの松」という創作が誉められました。郷里の山形に伝わる民話に材を取り、若い私が追いかけていた愛をテーマに、あこや姫の悲恋を描いた作品です。郷里の民話といっても、それまで知らなかった物語です。その頃、全国の民話に興味を持っていて、たまたま出会った郷里の民話に、新しい人物を加えて、膨らませてつくったお話でした。

 民話に題材を取ったのは、民話なら文句のつけようがなかろうという気がありました。文集に発表する作品は、職制の検閲があります。私たちが中心になって編集していましたが、投稿作品をそのまま掲載できるわけではありません。文学的なレベルなんて気にしません。稚拙だろうが、投稿してくれたら掲載するのが原則でした。詩や短歌、俳句は、そう問題になりません。

 創作や随筆などの散文が問題です。私たち編集委員は、会社の意をはかって、思想的な匂いのあるものを排します。もっとも投稿する方は百も承知で、そんな作品は投稿しません。問題は、この私でした。その頃、私の住む独身寮に民青のオルグが入って、同期の仲間が、次々に彼らの陣営に引き込まれていきました。私にとって、彼らのいう理想郷は、鼻持ちならないものでした。

 資本家は悪で、労働者は善であるとする、単純な発想がたまらなく嫌で、そんな連中に憎悪を抱いていました。そんなことを考えたことがない田舎の高校生だった彼らの白いキャンバスに、赤い絵の具を、筆たっぷりに含ませて塗り付けるようなやり方に、憤りを感じていました。といって、右翼的な考えをもっていたわけでもなく、ただ、無辜の若者への洗脳行為に怒っていました。

 この思いに、貧困や疎開っ子だった過去のつらい経験が重なって、私の創作はついつい激しくなってしまいます。このような表現も、会社にとって困るわけです。私の書いた創作は、事前のチェックで何カ所も削ることか求められます。全体として、再構成することも少なくありませんでした。そのためもあって、民話に材をとって、怒りを隠した作品のひとつが「あこやの松」でした。

企業文化についていけなくなりました

 チェック役は、K課長です。募集して集まった掲載予定の原稿を持ち込みます。忙しい現業の合間をぬって目を通してくれます。恋愛ものや旅行記、日常雑感程度なら、なんのお咎めなしで通します。もちろん、きわどい性描写や暴力シーンのある作品は最初から集まりません。時々、私は社会性の強い、現体制を批判するような作品を書いていましたが、掲載するつもりはありません。

 私の場合、創作の主なテーマが愛でした。それを書いてる限り問題なかったのですが、ジョン・オズボーンの「怒りをこめてふりかえれ」に感銘し、触発されたことがあります。舞台を観て、戯曲を何度も読みました。影響を受けやすい私は、自分なりの「怒りをこめてふりかえれ」として、「われらの出発」という戯曲を書き上げました。かなりの削除が「期待」できる作品でした。

 案の定、K課長のチェックによる削除要求が、よくまあと思うほどありました。それに応じても、作品の狙いやテーマに影響しません。どの程度の削除要求があるのかを、楽しんでいたふしもありました。この頃になると、お遊びの文芸ゴッコから抜け出したい欲求が強くなっていました。書くことを、生きる「武器」にしたいと思い、「箸」にもしたいと思うようになっていました。

 バブル絶頂期のころ、企業はCI(コーポレートアイデンティティ)の再構築に躍起でした。その仕事の中に、企業文化を精査する作業があります。あの職場の企業文化とは、一体どんなものだったのでしょう。体制を守り抜くために、甘口の企業内文化活動を与え、左傾化の強圧的な排除が、企業文化だったとしたら、文芸を愛するあなたたち幹部社員はどう受け止めていたのでしょうか。

 私たちの職場にいたときのあなたは庶務課長として、企業内文化活動の総元締でした。文芸をこよなく愛し、同好の夫人と共に、随筆をものにし、短歌を詠んでいました。強圧的な労務対策を手掛ける勤労課とは対極の立場でした。産業構造が変わって、製造現場で働く単純労働者が、女子従業員から高卒者や大卒者になっている時代を、あなたがどう生きられるのかを想像しています。







2009/02/26 14:53:55|フィクション
アガペのラブレター 24
03章 青春時代 24

生涯赤狩りと闘った労働戦士
友人・THさんへ 


 男の職場に、労働争議があった。当時、安保闘争が盛んな頃だったが、この政治運動と労働闘争は、異なった次元の戦いだったように思う。かつての女工哀史のような労働環境にはなかったし、労働者者は法的にも守られ、たとえ御用組合といわれても労働組合があった。男の同期生の何人かは、大資本の企業を悪とする活動に走った。労働は苦役なのだろうか、大企業は労働者から搾取する存在なのだろうか。

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三十数年の闘争は何だったのですか

 たった一度の残業拒否でH社を解雇され、三十数年もの法廷闘争を戦い、最高裁で高裁差し戻しになったものの、和解にこぎつけた。あなたは歴戦の労働運動の闘士らしいですね。私とは同期で、同じ課の隣の工程に配属されて一緒に仕事をしました。同じ独身寮に住み、奥多摩にハイキングにいったこともある仲間でした。私が辞めたころに、解雇されたというわけです。

 大分前に、あなたがまだ現役で戦っていることを、インターネットで知りました。解雇以来二〇数年も頑張っていたようです。同期の友人のMYさんにそのことを話したら、彼は「ふぅーん」と聞き流しました。もう忘れてしまいたいほどの、嫌な思い出だったようです。彼は、構内消防隊の一員として、通用門でビラまきをしていたあなたたちに、消防車の放水の筒先を向けた一人でした。

 彼も私たちと同じ課員であり、寮の部屋も近くでした。あなたは、その彼が、どんな思いで、筒先を向けたかなどに思いも及ばないでしょうね。あなたは、彼の悲しみやその傷の深さを思いやったことがありますか。一緒にビラをまいた人たちが、どのように集められた、どこの誰かは知りません。ビラをまき、訴えることで、何かを変えられるとでも思ったのですか。それとも嫌がらせだったのですか。

 一度の残業拒否で解雇することなど、社会的に名の通った企業にできるはずがないことは、常識ある人ならわかることです。親方ひとりの工場だって、そんな事態にはならないでしょう。その前に馘首されているし、撤回のための戦いもありはしない。あなたの相手が天下の大企業だったから、支援の輪も広がったのです。取りっぱぐれがなく、社会から注目される相手ですからね。

 同期生が定年を間近に迎えた2000年9月、あなたの三十二年にわたる「我が闘争」も終わったと。最高裁の棄却で解雇是認が確定した後の和解協議で、利害関係人を含む73名のH社を相手取る9つの争議を一括同時和解解決して、解決金6億3000万円を手にして、争議団側は全面勝利の声明を発表したと。あなたは、当時、妻や子も持つ59才。どこに住み、どんな家族なのかを知りません。

あなたの戦い方の内容は知りません

 人権擁護の戦いだと、いろいろな講演会で叫んできたようですね。ビデオがつくられ、応援歌やミュージカルもつくられたとか。ビデオを見た法学専攻の大学生の感想が、インターネットのサイトに掲載されていました。実社会をまだまだよく知らない若い人たちの、どんな情報によるのか、
あなたを是とし、会社を悪と断じる内容のものが紹介されています。ちょうど、私たちのあの頃の年代の人たちです。

 あなたの戦いの一部を、知ることができました。あなたの仲間だった、私の同期の人たちは、一体、どのような三十年を送ったのでしょうか。とりわけ、あなたたちをオルグした張本人のTさんは、どこでどうしているのでしょうか。あの頃、社会は五年後、十年後に大きく変わると断言していました。資本家に搾取されない、労働者にとっての理想社会が実現すると。もうその期限は切れています。

 勧善懲悪の時代ドラマのように、企業は悪で、労働者は善であると断じるような、単純な発想にはついて行けませんでした。田舎からポッと出で、何の色もついていない純朴な青年たちは、理想社会の実現に燃えたのですね。企業内労働組合を御用組合と断じて、会社と同じ側に立つ悪の一部としました。私には、無い物ねだりをする駄々っ子のような言動に酔いしれていたように思いました。

 両親に大事に育てられた若者たちは、知らなかった社会の矛盾とやらを教え込まれました。御用組合とする組織とは別の組織に組みして、自分たちの生活が庇護されている雇用先の企業を破滅させようとします。労働者の権利の獲得、人権擁護の活動を、資本家を敵とする戦いだと意気がります。企業はそんなにも「悪」だったのでしょうか。私たちは悪の巣窟の中で過酷な生活を強いられていたのでしょうか。

 少なくても私は、あの頃、仕事でも充実していました。あなたと同じような仕事もしましたが、それは面白くてたまらないほどでした。多くはなかった給料ですが、好きな趣味に使え、母にも仕送りでき、恋を楽しみました。どんな仕事でも、楽しさは見つけられます。課題を見つけての挑戦は、生きがいを感じます。あなたたちが個人の人権というなら、法人にだって、人権があるものでしょう。

「不当解雇中」だったというあなたの職業

 企業だって壊されたくない。それを守る権利があり、雇用者に対しても、彼らの生活を守るためにも体制を存続させる義務があります。それを壊そうとする者には、全力で立ち向かうのは当然でしょう。私たちが入社したとき、会社は少なくても「善」だったはずです。あなたにとっても、憧れの会社だったと。いつの間にか「悪」に変わってしまったのですね。それで、戦いを挑む。相手は応戦する。

 企業を「悪」だとする仲間を増やそうとする。仕事への興味や関心は薄く、仲間の増殖活動に力を注ぐ。辞め方はどうあれ、辞めた後も、敵対行動の手を緩めない。それがあなたの正義だとしても、企業だって戦う正義があります。企業の「イヌ」だとする同輩に対して、無礼この上ないことです。あなたは、たった一度の残業拒否で解雇されたのではないことを十分に知っていたはずです。

 何が「悪」だったのですか。あなたは資本家に搾取されていたのですか。少なくても、正規入社の執務職で労働環境や生活環境は恵まれていました。あなたの母校の同級生が就職した中でも、トップクラスの企業だったはずです。私には、壊そうとしてまでも不満とするものはありませんでした。私の目は節穴だったのでしょう。あなたとは違った不満はありましたが、内容が違います。

 十五才で将来を決めなければならなかった不満であり、学歴社会の不満だったり、才能不足の不満だったりで、会社との戦いでは解決しないものです。同じ職場で働く臨時工員の待遇改善だって、彼らが選んだことでしょうが。運不運までを戦いのテーマにするなら、この世界で安穏には暮らせないことになってしまいます。あなたは結婚して、子を生したのでしょう。今日のいままで生きてこられたわけです。

 「不当解雇中」としたらしいあなたの職業は、確かに、あなたの三十数年間の職業でした。いまの私は「不当失職中」としたいところですが、あなたを支えてきたようなファンはいません。解決和解金をもらったとしても、カンパのお礼返しをすることなく、全部わたくしできます。これから先も、あなたは労働運動の闘士として生きていくのでしょうが、どのような生きざまを見せてくれるのでしょう。







2009/02/26 14:46:35|フィクション
アガペのラブレター 23
03章 青春時代 23

繊細機能美を創造した設計者
友人・MHさん


 男は、自動機、いまでいう製造ロボットの設計の手ほどきをうけたことがなかった。まわりは製造現場で、工程管理や品質管理のプロはいたが、同じ職場には機械設計のプロはいなく、独学でトライするか、迷ったら、別の課の先輩に教えてもらうしかなかった。手がけた仕事は、さほど複雑なものはなかったのが幸いした。電気回路の設計もおぼつかずに、カムの組み合わせで動作を制御するメカづくりに苦労していた。

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製造設備の設計技術者としての輝き

 同期入社のあなたは、生産技術課に配属され、製造設備の設計等の仕事を担当していました。製造現場のラインの製造設備は、全体の生産計画に直接関わるものだけに、決しておろそかにはできない、社員にはやりがいのある仕事です。私がいた課にも出入りして、設備を設置し調整していました。物静かに、黙々と仕事にとり組む様子は、ああ、来ていたんだというほどの控えめな存在でした。

 私は、現場のスタッフとして、治工具の設計や作業効率向上のための補助機の設計も担当していました。そのために多分の予算も与えられていましたが、できないからといって、責任を追求されるものではなく、あくまでも試作として許される範囲の仕事でした。アイデアを頼りに設計しては、微細な動きを制御するものだけに、きつい精度を要求しては、機械製作の現場に迷惑をかけていました。

 あなたが作る生産設備は、できませんではすまされません。たとえば、製品1個あたりの製作時間を1秒でも短縮できる設備ができれば、日産数万個もの生産をしている工程では大きなコスト削減に繋がります。私のように、品質管理や工程管理、作業管理と並行してやっていた省力機械づくりとはわけが違います。そんなあなたの仕事でしたが、いつも、みごとなできばえでいつも舌を巻いていました。

 機能美というか、無駄のない美しさがありました。私の場合、機能を優先するあまり、外観は二の次という設計になりがちでした。必要以上に、板厚の鋼板を使ったり、必要な能力以上のモーターを使ったりでしたが、あなたの設計にはそれがないのです。これなら作業現場からも喜んで受け入れられ、精神的にも、快適で気持よく働いてもらえそうです。そんな設計にあこがれていました。

 機械づくりには、メカのアイデアだけではなく、デザインの才能も必要なことを、改めて教えてくれるあなたの仕事でした。すぐには真似のできないもので、うらやましく思ったものです。同期入社で、同じ独身寮のあなたは、民青にオルグされなかった一人です。私とは割に気が合う親しい仲間の一人でした。絵が好きで、職場の美術部に所属し、玄人はだしの絵を描いていました。

舞台装置づくりにも力を発揮して

 そんなあなたに、職場演劇の舞台づくりをお願いしていました。「夕鶴」のときから、親しい同期のよしみで、忙しいあなたを口説いたわけです。引き受けてくれたあなたは、期待通りの仕事をしてくれました。最初の打ち合わせで、台本を渡して、演出意図を伝えた後は、すっかりおまかせです。最初の、あなたのプランのスケッチを見て、私の思い描いた以上の空間構成にわくわくしたものです。

 あなたはやがて舞台が組まれる体育館の片隅で、黙々と制作にかかってくれました。私の方は、キャストにかかりっきりで、稽古場が離れていたせいもあって、途中で仕上がり具合の確認ができません。あなたならなんとかやってくれるだろうと、安心していました。手の空いている他のスタッフや、稽古のないキャストに手伝うように頼んではいましたが、私は現場の手伝いはできませんでした。

 多分あなたにとっても、舞台装置づくりは始めての経験だったのではないでしょうか。そして、同じ演目の他の劇団の舞台に接したこともなかったようです。どんな材料を使って、どのように加工して、どう組み上げるかは、まったくあなたの工夫次第のオリジナルです。もちろん、最初に使える予算は決まっています。人件費を除いて、その予算で、スケジュール通りに作り上げなければなりません。

 当日は体育館に、舞台が組み上げられます。まさしく体育館ですから、私がいた頃は、舞台は仮設であり、足場丸太と厚板ベニア、コンパネなどの建築資材を使ってつくられていました。発表の前日になって完成する舞台での舞台稽古は、限られた時間です。舞台を使うのは、私たちだけではありません。演劇はメインイベントだけに、優遇されましたが、時間は決められ、その時間内に私たちの装置を組み上げます。

 装置をどのように固定するかも課題です。実際の檜材を使ったような舞台ではないので、さほど気遣うことはありませんが、自立されることが中心になります。「夕鶴」は、一場だけの装置でしたが、物語を盛り上げるシーンの、機織り部屋の見せ方には工夫が要ります。造形と光と影を上手く使ったあなたの装置は、演出の私だけではなく、キャストをはじめ部員全員、大満悦でした。

才能の先に進める真の才能の凄さ

 あなたは、肺の病で休職しなければならなくなりました。かなりの期間だったようです。全快して復職するまでに、闘病しながら大いに気をもんだことでしょう。その頃の半導体の製造現場は、まさしく技術革新、日進月歩の毎日で、半年前の知識は使えない程に急展開していました。あなたの職種で、競い合うほどのライバルはなかったとはいえ、職場を離脱することは大きなハンデになります。

 もちろん、会社に籍はあり、寮にはそのまま戻れますが、同期や後輩からも置いていかれるような不安を感じ続けたことでしょう。もし、あなたが件の民青の仲間に組みしていれば、これ幸いと辞職を迫られたかも知れません。いい仕事をしていましたし、人材確保がしやすい大企業ではあっても、他には得難い才能だったはずです。私は、そんなあなたの苦労も知らずに業務に忙殺されていました。

 余人にない才能を持つことは強いと改めて感じます。この才能は、中・高校生時代にはわからないことでしょう。私たち高卒者は、仕事に就いてからわかってくるように思います。実際の仕事によって、自分の才能に目覚め、それを伸ばして行けます。体験するのが、机上の空論や実験室の試作ではなく、企業の浮沈をも決めてしまうほどの緊張感を伴う実務であることが、能力を鍛えていきます。

 では、私にはどんな才能があったのかと自問することがあります。才能はないと言い切るには、ちょっと自分がみじめです。職場では、与えられた仕事をそれなりにこなして評価され、要求がエスカレートしていました。一方では、文章を書いたり、芝居に関わったりして、結局は書くことを仕事にしたわけですが、これで良かったのかと思うことがあります。書くことも中途半端ではないかと。

 もし、私に才能があるとしたら、何でも器用にこなせることかもしれません。体力を使う以外は、一応なんとかなりました。これを才能とするなら、物事を究極まで分解して再構築する、作業分析という仕事から教わった成果かもしれません。この原則はどんな仕事にも通じるものでしょうが、それ以上のものが求められると、先に進めない。私があなたに感じたのは、そんな先に進める才能の凄さでした。








2009/02/25 15:13:14|フィクション
アガペのラブレター はじめに
アガペのラブレター

お世話になった百人への書簡風自伝小説


 柏倉 利明

 昭和十六年(1941年)、大平洋戦争が始まった年に生まれ、67歳になりました。疎開先の母親の郷里山形で終戦。彼の地を郷里とし、高校を卒業して上京、住まいを転々とし、いくつかの職業で学び、鍛えられ、たくさんの人たちに支えられて生きてきました。いま、林住期※も残り少なくなり、亡くなった身内を含め、これまでに出会った人たちに、もう一度お会いして感謝したい。その人と相対することで、自分が生きてきた意味を見つめ直したい。それを返信のいらない「ラブレター」というかたちで思いを綴ることにしました。いわば《アガペ※の恋文》です。全くの極めて個人的でささやかな行為で、他の人たちにとって、関心のない絵空事でしょう。ただ、市井の片隅で生きてきた男の生きざま、個人の戦後史もひとつの日本人の記録ではないかと。なお、この著作は、体験をもとにして、記憶と想像により創造したフィクションで、実際とは異なります。

※林住期
古代インドで人生を4つの時期に分けて考えていたことに基づく五木寛之氏発の流行語。「林住期」とは50歳から75歳まで。人生でもっとも充実した時期で、本当にしたいことをする時期だという。誕生から25歳までが「学生(がくしょう)期」、25歳から50歳までが「家住期」、最後は75歳からの「遊行期」だとする。

※アガペ
神の愛、献身的な愛。エロスと対立する概念。仁愛。


〈内 容〉

  このブログでの掲載は、順不同です。
 
第一章 肉親血族〈12人〉
 ※肉親や身内に宛てたプライベートな手紙です。
01 夫の勝手気侭に我慢し続けた 妻・KKさん
02 瀬戸内の海に藻くずと消えた 父・NKさん
03 真面目なレンズ設計者を全う 兄・KSさん
04 近いため不毛な確執が続いた 弟・KAさん
05 子育てのどこが悪かったのか 息子・KTさん
06 なぜそんな憎悪をつくらせた 娘・KHさん
07 道は自ら拓けと信念の教育者 義父・TTさん
08 別れなしで突然に逝った慈母 義母・TTさん
09 静かに満州逃避行を語った時 叔母・MUさん
10 父への抑留帰還軍人の鎮魂賦 従兄・KSさん
11 和みの旅先で急死した苦労人 従兄・KTさん
12 結局幸せだったのでしょうか 母・HMさん

第二章 故郷時代〈08人〉
 ※少年から高校まで郷里でお世話になった人たちへ。
13 母の実家の幼なじみの同級生 従妹・TEさん
14 村の小中学校で競った同級生 友人・ANさん
15 活力旺盛な兄を持つ疎開仲間 友人・OJさん
16 小学校の新任の熱血本気教師 師匠・KTさん
17 わんぱく仲間の弟分JR職員 従弟・KKさん
18 中学の恋文事件の初恋のひと 友人・HSさん
19 企業で個性を活かした同級生 友人・KNさん
20 押しつけ就職先で出発したが 友人・KSさん

第三章 青春時代〈14人〉
 ※最初に就職した勤め先でお世話になった人たちへ。
21 入社の時から頼った親しい友 友人・MYさん
22 いまもなお心に残る初恋の人 友人・MHさん
23 繊細機能美を創造した設計者 友人・MHさん
24 生涯赤狩りに闘った労働戦士 友人・THさん
25 職場の文芸部顧問の庶務課長 師匠・IKさん
26 労組界で個性を活かした後輩 友人・MYさん
27 リタイヤし実務から離れた友 友人・KMさん
28 定年まで勤めあげた文学仲間 友人・HMさん
29 自費で小説を出版した技術者 友人・IMさん
30 心許した演劇のプリマドンナ 友人・YRさん
31 企業内専門学校出の後輩仲間 友人・ORさん
32 配役の快諾で任務完遂の後輩 友人・ITさん
33 好奇心と行動力ある名刹令嬢 友人・IMさん
34 熱望した歌手を断念した仲間 友人・SYさん

第四章 修業時代〈16人〉
 ※何とか道を見つけた頃にお世話になった人たちへ。
35 技術音痴の洗車機会社の社長 施主・KSさん
36 シナリオ技術を教えてくれた 師匠・AHさん
37 舞台も熱く語った映画の恩師 師匠・WYさん
38 シナリオ修業時の優しい仲間 友人・THさん
39 理を通した情の設計事務所長 師匠・KMさん
40 一人前職人に育ててくれた師 師匠・HYさん
41 新入り時代から近くで遠い友 同業・ATさん
42 外様役員を棒に振った元同僚 同業・AHさん
43 不相応の事業拡大に敗退した 同業・SHさん
44 妻も知らない癌で逝った才能 故人・KTさん
45 晩年作の緻密な切り絵に乾杯 故人・HEさん
46 長い相棒のフリーデザイナー 同業・SMさん
47 常識人だった上司カメラマン 同業・WTさん
48 優しい言葉遣いを習った先輩 師匠・MKさん
49 得意先で仲間でもあった同志 施主・HNさん
50 妻の座を奪取し二女を遺した 故人・SAさん

第五章 成長時代〈15人〉
 ※コピーライターの頃にお世話になった人たちへ。
51 SA社で指導した最初の後輩 同業・AKさん
52 いつも企画採用の得意先課長 施主・SYさん
53 代理店で偉くなっていた同僚 同業・GHさん
54 弱者に優しい恩義ある会計士 師匠・KKさん
55 仕事の幅を広げてくれたポス 師匠・NKさん
56 無言実行に過ぎた自滅の仲間 同業・NTさん
57 永い付合いの片腕パートナー 同業・SYさん
58 同僚や依頼人だったりの後輩 同業・KYさん
59 得意先の退社後も続く発注先 同業・MMさん
60 新規ノベルティの夢追い社長 同業・KKさん
61 好んで拉致された酒乱の社員 故人・TMさん 
62 自称文科系マーケターの仲間 同業・SMさん
63 営繕チェーンの草分け起業家 施主・KRさん 
64 木を学んだ木造権威の建築家 師匠・STさん
65 一見飄々の内実辣腕広告マン 同業・KTさん

第六章 協働時代〈13人〉
 ※いろいろな面で仕事を手伝ってくれた人たちへ。
66 精緻描写の高収入デザイナー 同業・IHさん
67 我が道邁進のデザイナー社長 同業・KTさん
68 危惧通り自滅したデザイナー 同業・TEさん
69 仕事知らずの器用カメラマン 同業・KMさん
70 パソコンに出遅れた図案職人 同業・OHさん
71 いつも無理強いした版下職人 同業・NAさん
72 誤解で袂を分けたデザイナー 同業・OMさん
73 近くのスタジオのカメラマン 同業・KSさん
74 倒産退社で協働のデザイナー 同業・TYさん
75 スライドの音づくりを頼って 同業・MMさん
76 展飾デザインから民宿を経営 同業・NIさん
77 甥・苦難期の粉骨砕身協力者 親戚・KAさん
78 甥・MACで仕事を手伝った 親戚・WIさん

第七章 円熟時代〈11人〉
 ※それなりの経験で一緒に仕事をした人たちへ。
79 渡世の仁義を弁えない元部下 同業・IMさん
80 輝きの時代の愛弟子ライター 同業・NSさん
81 元気さだけでは遠かった目標 同業・KNさん
82 最もクレバーで問題の元部下 同業・KHさん
83 元得意先の担当企画営業課長 同業・HKさん
84 気侭なかっこつけ経営で倒産 同業・AYさん
85 無愛想が難のビデオ会社社長 同業・TAさん
86 泡時代に活躍した造園設計者 同業・NYさん
87 賢い辞職でスマートな再就職 同業・THさん
88 広告代理店の有能な企画マン 同業・TNさん
89 東京の森林甦生に叡智を発露 仲間・IKさん

第八章 市井生活〈11人〉
 ※仕事以外の日々の生活でお世話になった人たちへ。
90 借家と妻との出会いをお世話 施主・EMさん
91 ピアノ教師の事務所オーナー 施主・YSさん
92 倒産から復帰した意欲起業人 同業・MKさん
93 後援会で支援したピアニスト 施主・KIさん
94 応援も虚しく衆院選挙で敗退 施主・MMさん
95 仕事を持込んだサービスマン 友人・IYさん
96 団地営繕に滅私奉公の建築家 仲間・KMさん
97 まちづくり仲間の頑固な親父 仲間・OTさん
98 汚職で逮捕のお隣住いの市長 施主・SKさん
99 転職して農業に希望を求めた 友人・NHさん
100 剛胆な先輩後援会の応援団長 友人・NHさん