孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/02/28 10:03:07|フィクション
アガペのラブレター 50

04章 修業時代 50

妻の座を奪取し二女を遺した
故人・SAさん

 目的のためなら、手段は選ばないっという例えが、無謀で非常識な行動を表わすことに使われることがある。男は、製造現場での動作研究の仕事から、目的達成のためには、合理的な最短距離でのアプローチが基本であることを学んできた。そのために「最良の手段」を、常識にとらわれずに選んできた。この方法は、動作研究に限らず、いろいろなケースにも使えるとし、それが仕事を奨める基本と考えていた。

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共にコピーライターを目指した

 あなたに、平手で右頬を思いきり殴られたことがあります。女性に殴られるなんて、生まれてこのかた、後にも先にもない、始めてのことでした。恋人とかの関係ではなかったし、理由をいま思い出そうとしても、思い出せません。あなたに対してとんでもないほどの非礼をはたらいたわけではなかったと思います。SB社時代に会社の中でしたが、仕事の上のことでもなかったはずです。

 そんなあなたは、二人の幼い女児を遺して逝ってしまった。その子らは、もう三十歳を過ぎているだろうほどに、昔のことになってしまいました。コピーライター養成所のときからの仲間で、私は、あなたに少なくない影響を与え、生き方を変えてきたのではなかったかと思います。あれほどまでに関わったのは、かなわない恋と知ってはいても、あなたを好きだったからでしょう。

 コピーライターの養成所で、私たちは、新聞や雑誌の広告を批評しあっていました。そんなときに、あなたが週刊A誌の表紙裏に、定期的に掲載されていたAK社の、著名な女優を起用した広告がつまらない、下手くそだと言い張っていました。同意できるところもあっても、仲間内で批評しあっても何の解決にもならない。その会社の社長に、直接手紙を出して、そのことを伝えたらどうかとけしかけました。

 正直、まさか手紙を出しても、握りつぶされるのがおちだと思っていました。瓢箪から駒でした。あなたの声はAK社のワンマン社長に届いたのです。日頃、文句の言えない担当の社員たちは、広告コピーを勉強中の若い女性からだと、社長に見せてみようとなったわけです。そのころ私は、既に、SB社でコピーライターとして仕事をしていました。あなたは、その広告のコピーを書くようになります。

 業界のことを何も知らない若い娘が、思うように広告をつくれるようになったからといって、すぐにつくれるわけではありません。大阪のA広告代理店がアカウントを持っていました。そこを通して、コピーをあなたが書くという手筈でしたが、大阪に通うのは大変です。クライアントを持参金代わりに、どこかの広告会社に入ったらと、またけしかけて私のいたSB社を推薦したのです。

仕事を取ってからコピーライターに

 断られようはずはありません。SB社の制作責任者だったHYさんは、喜んで迎えいれてくれました。AK社の週刊A誌の広告は、大阪のA広告代理店通しでしたが、あなたが自由に制作できるようになります。広告づくりに入る前に、大阪の本社を訪れて、社長たちと打合せをして、ご馳走になってきます。長良川の鵜飼いに連れて行ってもらったと、はしゃいで報告してくれました。

 ものおじしない度胸には、感心していました。幼いころから、行儀作法を厳しくしつけられたとか。こうと決めたら、すぐ行動に移すやり方は、私に通じるものがありました。入社してからも、好きな競馬に通っているようでした。新聞社でのアルバイト時代からの役得で、記者席で観戦できるようでしたが、競馬についての話をしたことはありません。そこは私には、関心のない世界のことでした。

 私がボスのHYさんの新しい会社に移ると、あなたもクライアントごと、移ってきました。また、SA社でも机を並べるようになります。キャラクターは、そのまま同じ女優のSHさんです。あなたはハイヤーで迎えに行き、撮影スタジオでの撮影の後に送って行きます。コピーを書き、全体をデレクションします。たしか、月一の仕事でしたが、それだけで、あなたのギャラは十分にまかなえたはずでした。

 AK社のカレンダーの仕事をとってきました。販売店を通じてユーザーにまで配る豪華カレンダーが、制作会社や印刷会社にとっておいしい仕事で、妍を競っていた時代です。そのカレンダーの仕事を、コンペなしに取れるのはめったなことではありません。会社を挙げて取り組むことになります。あなたは、デザイナーたちとその仕事に熱中して取り組み、大阪との間を頻繁に行き来して、成し遂げました。

 あなたが辞めたのはどんな理由だったのか覚えていません。多分、結婚するための退職ではなかったでしょうか。あなたは、私たちと知り合う前の新聞社でのアルバイト時代から、付き合っている人がいるようでした。その彼は、競馬担当の記者らしく、そのためにあなたは競馬にいれ込んでいたようです。はっきり思い出せないころに、いつか、あなたは私の前からいなくなりました。

勢いよく駆け抜けて逝った

 会社には、あなたと親しくしていた女子社員がいて、連絡は取り合っているようでした。彼女らから、あなたが結婚したことを聞きました。付き合っていた彼には、妻や子どもがいて、離婚してあなたと結婚したということでした。これは私が嫌いな人間関係のひとつです。あなたらしいとは思いましたが、妻子を捨ててまで、あなたを選んだ男とはどんなひとかと、興味をもちました。

 年賀状の交換はしていました。あなたが、矢継ぎ早に二人の女の子を出産したことを知りました。そのころには私も結婚していて、長男に恵まれ、幼い彼に夢中になっていたときです。私の年賀状を見ては、電話をかけてきます。正月だけの定期便のような連絡です。まだ、次の子が生まれていなかったときです。早く次の子をつくれと。朝になにをするとできると、お節介なアドバイスです。

 私は、結婚してから、年賀状は、家族の現況を知らせる文章と共に写真のポストカードにしていました。モノクロ写真の時代です。F社の仕事をしていて、写真のポストカードをPRしていたこともあり、仲間や親戚からは評判で毎年、待たれていました。ある年、あなたからの正月定期便で、息子の洋服が去年と同じだ、新しい服を着せなさいと。またもや、お節介なアドバイスです。

 あなたの年賀状や正月定期便で、幸せに暮らしている様子がうかがえました。あなたのことを思うことなく毎日を過ごしていたとき、誰からだったか、あなたの突然の死を知らされました。死因も、そのときの家族の様子もわかりません。わかっているのは、妻の座を奪い取って得た、二児の母親の座を、死によって奪われたという事実です。墓がどこにあるのかも知りません。

 勢いよく駆け抜けたあなたの短い人生に、あなたの夫はどう付き合ったのでしょう。あなたには、妹さんがいました。二人の子どもがいます。会ったことのない人たちですが、あなたのことを、どのくらい知っているのでしょうか。もちろん、あなたはもっともっといろいろなことを見たかったことでしょう。あなたがいたということ、あなたの仕事のこと、私は、覚えていますよ。安らかに。

〈第四章 修業時代 完〉 (49,200)








2009/02/28 9:51:28|フィクション
アガペのラブレター 49

04章 修業時代 49

得意先で仲間でもあった同志
施主・HNさん 


 課題解決のためのいろいろな方法がある。グループで開発する場合、そのメンバーの能力が問題になる。男は、どんな方法を使っても、メンバーの能力以上の解決策は得られないと思っていた。数ではなく、質である。平均6点の能力のメンバー百人よりも、平均8点のロンバー3人の方が、より効果的なアイデアが開発できるのではないか。男はまちづくり名どの市民活動のワーショップに関わって、実感したことがある。

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外資の郷に倣うマーケティング

 E社はメジャーの石油会社で、日本には独自のマーケティングがあるとして、市場に適った斬新な市場戦略を実践していました。あなたは地方で営業を担当した後に本社に移り、宣伝関連の業務を担当していました。SC社とバーターで紹介しあった新しいクライアントの担当になったSA社員の私は、ハウスオーガンの編集やSPや訓練関連の企画制作のお手伝いをするようになります。

 E社では厳選したサービスステーション(SS)の中で、ほぼ隔月ごとに実施する全国統一プロモーションに参加できる、特別SS会を組織していました。全SSの半数くらいの数で、参加費がかかりますが、本社企画の全国プロモーション、2月はバッテリー、4月はエンジンオイルといったテーマキャンペーンのラジオCMのバックアップと各種店頭POPが支給されます。

 これらキャンペーンセールの対象商品をどのように売っていくか、店頭サービスをどのように展開するか、そのマニュアルづくりが私の仕事です。エンジンオイルは当然のこと、タイヤやバッテリー、オートアクセサリーを自社ブランドで販売していたE社は、早くからワンストップショッピングを標榜し、TBAショップやレストラン、ビザハウスの併設にもトライしていました。

 これらのマーケティング活動において、マニュアルは必須です。私の仕事は多く、忙しい毎日でした。毎月発行するハウスオーガンを、定期刊行セールスマニュアルと位置付け、力を注いでいました。毎月、セールスに成果をあげたSSを取材し、吸い上げたハウツーを全SS共通のノウハウにして紹介します。私には、ハウスオーガンは、現場から新しいビジネスを創造する源泉でした。

 単独での取材が中心でしたが、あなたは時間を割いて同行してくれました。お目付役というより、知っているはずの現場の変化を肌で知ることが主目的のようでした。取材して書き上げた原稿をあなたにチェックをお願いします。「読まさせてもらいます」といって読み始めるわけですが、そんないい方をしてくれる思いやりに対して、面はゆい反面、うれしくも感じたものでした。

合宿で練り上げたシステム

 E社には、マネジャープランというシステムもありました。SSの経営責任者となるマネジャーを公募して、直営SSを経営してもらうシステムで、ノルマを課しながらいろいろなテストマーケティングを実施します。従業員資格精度もあり、SSセールスマンに一定の訓練をして、ゴールド、シルバー、ブロンズのメダリスト称号を授与し、サービス向上とモラルアップを図る狙いでした。

 新しいマーケティングに積極的な企業で、担当者の権限は大きく、新しいノウハウの開拓に意欲的に挑戦していました。あなたを中心とした私などの社外スタッフは、新しい課題を追いかけます。SSのプロモーション効率を高めるために、開発したのが、EEプランと名付けたシステムです。これを煮詰めるために、私たちはあなたの営業活動の任地であった金沢で合宿をしました。

 地域や企業文化などで変わってくるSS独自のSPニーズに、きめ細かく対応するために、全国一率のプロモーションだけではなく、SS事情に合わせて展開できるノウハウを提供するシステムでした。このノウハウをツール化して、有償提供します。受益者負担の理念のさらなる発展具体策でした。このプランの目玉として、いくつかのプロモーションパッケージを開発しました。

 金沢合宿に参加した社外スタッフの私とNTさん、KKさんは、やがてそれぞれの会社から独立して新しい会社の設立を目論みます。私のボスのHYさんの支援と協力を頼んだのですが断られて、一時、社長をしていたKKさんの会社の事務所に席を置かせてもらったり、NTさんの会社に身柄を預かってもらうなどしてから、あなたを含むこれらのメンバーで会社を起すことになります。

 あなたがE社で、私たちへのビジネスの窓口になる予定でしたが、叔父のS建築事務所の新しい事業を展開するためにE社を円満退職します。私たちは引き続き、NTさんを私たちの営業担当としての仕事が続きます。あなたの移籍で、私たちは建築業界の仕事への取組みが始まりました。マーケッターを自認するあなたは、木造住宅のフランチャイズシステムの構築を目標に歩き出します。

住宅供給ビジネスから不動産情報業へ

 新しい商品を抱えての、始めての業界でのチャレンジは容易ではありませんでした。私たちグループを外部スタッフに置きながら、営業ラインの充実を図っての展開でした。いろいろなSPプログラムを導入したマーケティングでしたが、結果的に破綻して、名ばかりの社長になって、地域開発などを手掛けましたが。バブルの崩壊により不動産事業も芳しいものではありませんでした。

 住宅供給事業は、狙い通りの需要確保ができず、工法やシステム全体の合理化が機能しなかったのではないかと。競合対策上、提供価格を上げられずに、システムを維持し活性化できるほどの利益を確保できなかったのではないかと。末期には、私たちの会社のメンバーのNTさんを経理課長として使い、私にまで、まち金の保証をさせられました。体育会系の仲間ごっこ的な経営でした。

 私の独立以来、いろいろお世話になったNKさんのお声掛かりで、あなたが主催する別荘分譲地開発のメンバーとして加わったことがあります。億単位のお金がさりげなく動く時代で、中心メンバーは動くお金の額が企画の価値を決めると考えているような人でした。プラン内容は、正直、陳腐の域を出ないようなものでした。メーカーのマーケティングとの大きな乖離を感じたものです。

 次に、あなたと一緒の仕事をするのが、不動産の賃貸物件等の情報流通業でした。地域の賃貸物件を収集して、物件情報としてポスターとして不動産店に有償配付して、店頭に掲示してもらうビジネスです。不動産情報誌も発行していました。その会社の社長の友人だったあなたは社外部長として、不動産店をネットワーク化したフランチャイズシステムを展開しようと活動していました。

 そのために、不動産店ネットのハウスオーガンが企画され、その制作業務を手伝うことになります。月刊でしたが、原稿の直しが多く、月一回の発行が難しくなり、とうとう私はその仕事から外されてしまいます。わずかな制作費のために、他の仕事ができないほどで、最後はそのわずかな制作費も支払ってもらえませんでした。この仕事が、私の事務所崩壊の原因のひとつになったのです。







2009/02/27 15:49:28|フィクション
アガペのラブレター 48
04章 修業時代 48

優しい言葉遣いを習った先輩
師匠・MKさんへ 


 キャッチフレーズの惹句コピーは別として、センテンスの長い販促コピーは、書き手の個性が要らなくなっている。かつて、男のコピーには「訛り」があり「節」があるといわれ、これを好んでくれたクライアントもいた。実用文であるこれらのコピーは、本来、どういうかよりも、何をいうかを大事にすべきとしていた男であり、書き方は教え難いとしてきたが、それでも、書き文字とは別の「味」があったようだ。

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得意先の管理職が上司に

 クライアントのSK社にいたあなたが、どういういきさつか、制作部部長として私の上司になりました。SK社は、マーケティング業界に幾多の異才を輩出していました。あなたは、マーケティング現場の論客の一人として、SP業界では知られた存在でした。在職中からその能力を買われ、私がいた会社やいろいろな一般企業の市場活動のコンサルティングも行っているようでした。

 SB社時代からの得意先でした。私がこの業界に入って、ボスのHYさんが親しくしていた大阪SC社社長のIさんは、あなたの上司だったかとかで、大阪コピーライター界の重鎮でした。上京時に、コピーライティングの心得を話してくれたり、署名入りの著作本をもらったりしました。ボスのHSさんが心酔しきっている師匠のような人で、そんなことから、あなたは兄貴分筋に当るのでしょう。

 神田にあった東京支店に勤務していたあなたの部署に、SB社時代から、私もよく通いました。いろいろな容器や農漁具などを、腐らず長もちすると重宝がられたプラスチック製にした製品を市場に送り込んでいました。そんな製品のリーフレットの制作をしていた私にとって、田舎で身近に接し、なじみ深い農具がブラスチック製品として代替されるのを、味気なく複雑な気持ちで見ていたものです。

 そのころの仕事は、デザインからこなす便利な印刷屋でした。そして、HYさんが率いるデザイン制作屋に変わってからも、あなたがいたメーカーはよい得意先でした。ボスは兄弟分のよしみもあってか、下請けの制作業者としての壁を越えたような付き合いをしていました。SK社の担当から外れていた私は、得意先のあなたが、発注先の会社に訪れることも少なく、ほとんど顔を合わせません。

 そのあなたが入社すると聞いて、さほどの感慨はなかったようです。仕事に忙殺され、それなりの実績を上げていた私にとって、仕事を指導してくれる先輩というより、単なる。職制の上司にすぎません。この仕事はクライアントとの現実的な関係の中で成り立つ仕事で、情報が届いていない第三者が、たとえ、有能な上司であっても口出しできるものではありません。

覚えているアドバイス

 ただ、心に残るアドバイスを受けたことがあります。コピー表現で、伝えたいことを、ついストレートに表現してしまいました。何かのきっかけでそれを知ったあなたは、やんわりと訂正のアドバイスをしてくれました。ビジネス・コミュニケーションとしての、コピーが果たさなければならない意味と役割について、改めて考え直したものでした。他には、具体的なアドバイスを受けなかったようです。

 会社としては、できた仕事をあなたにチェックしてもらうことになっていました。でもチェックできるのは、何を伝えたかではなく、どう表現したかについてでしょう。どう表現するかについては、惹句コピーと違って、書き手の個性が出てしまいます。その個性が、仕事を受け入れる得意先の担当者の波長と合ったら受け入れてもらえます。要は、どう言うかではなく、何を言うかです。

 私が主宰していた事務所でも、どう言うかについてアドバイスしたことがありません。日本語の書き方は、学校や各個人が自ら学び研鑽すべきことで、書くことを生業にする現場では、上司がとやかくチェックしても始まらないと考えていました。何を言うかは、その人なりのキャリアがものをいうはずです。私のスタッフにも、実社会でのビジネス経験が大切であり、価値観が重要だと話していました。

 私はあなたにとってよい部下ではなかったように思います。そんなあなたの存在は、SA社にとってどんなものだったのでしょうか。第一線で、得意先の担当者と打々発止のやり取りをするのも、あなたのキャリアではなかなか難しいのではないかと。マーケティング企画を、小さな制作会社に求める企業は多くはない。提案は、評論家的な診断で、処方せんも一般論になりかねません。

 私が何か話すのは、あなたにではなくボスのHYさんに直接でした。私が辞めたとき、まだ、在籍していましたが、その後に、あなたは辞めたようです。その理由はよく知りませんが、あなたを活かしきれなかったHYさんの、背伸びしても届かない限界が見えてきます。経営のしかたも伝授すると話していたHYさんですが、自身の会社であなたという大きな魚をリリースしてしまいました。

企画マンのあなたに再会

 私にとって会社の上司としては、WTさんだと思っていました。設立当時からのメンバーのカメラマンで、事務所2階のスタジオで仕事をしていました。私の結婚式の時です。ボスのHYさんに仲人をお願いしたのですが、会社関係の披露宴招待者にWTさんを選びました。HYさんの配慮からか、あなたが出席することになりました。私的なイベントだと思っていただけに、意外感と不快感を覚えました。

 私がSC社時代から付き合っているMMさんの結婚披露宴に、得意先だったSK社のあなたが招待されたと聞きました。期待の社員であったMMさんです。得意先の役職者であるあなたの出席は、会社幹部にとって、会社の存在を内外にアピールできる、絶好のイベントとして利用できたようです。私の場合は違います。楽しい祝辞をもらいましたが、どこかに釈然としない思いを持ったものでした。

 そのMMさんの仕事で、あなたと一緒になったことがあります。日本酒のプロモーションの企画で、よばれた先の酒席にあなたが微笑んでいました。年賀状のやりとりはありましたが、何年かぶりの再会です。羽振りのよいMMさんが、おいしいものをと招待してくれました。私より何才か上のあたなたは、それなりの齢を感じましたが、元気でした。酒のマーケティングは、あなたの得意のジャンルでした。

 あなたが書いた企画書を見せてもらいました。懐かしいものでした。いかにもあなたらしく、チャート化された企画は、分りやすそうなのですが、緻密過ぎて見ただけでは理解しにくいものでした。昔でしたら、感激して目を通したあなたの企画書ですが、MMさんが、日頃、プレゼンしている企画書とは異なっています。受け取るクライアントによるでしょうが、正直、しんどさを感じました。

 その仕事で、私はパンフレットのコピーを手伝いましたが、その後、あなたに会う機会がありません。いま、マーケティングという仕事が、大きく様変わりしています。メディアがITに移行しつつあり、通販などのダイレクトマーケティングが幅を利かせています。かつて賑わった商店街はシャッター通りになっています。あなたは、効くマーケティング企画をどう構築するのでしょうか。








2009/02/27 15:41:46|フィクション
アガペのラブレター 47

04章 修業時代 47

常識人だった上司カメラマン
同業・WTさん 

 パソコンを使った制作作業は、クリエイティブのエンジニアリングのようでもあるが、いま、横行しているのは、いわゆるバクリ、コピーの制作作業のようだ。特に、ウェブデザインの世界では、ある表現を手軽にとりこんでアレンジする。コピーライティングでも、そのまま社名や商品名を変えただけで済ませている。実用文なのだから、日本語として間違った使い方をしていないならそれでよいとする姿勢である。

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フォトエンジニアだったあなた

 SA社創立からのメンバーです。HYさんが、前の会社時代から撮影を頼んでいたカメラマンで、六本木の事務所の二階につくったスタジオを拠点に、主に、商品写真を中心に撮っていました。前の会社から、引き抜いた形で、創立に参加してもらったようでした。多分、発起人の一人で、役員にも名を列ねたのでしょう。そんな形で、設立に参加してもらった人たちが多かったのかもしれません。

 発起人要請があったものの、いつの間にか、うやむやにされた私ですが、あの人もこの人もと、HYさんの新しい会社に掛けた思いの深さを感じますが、いまなお私に、わだかまりと不信の念があります。創立当時、HYさんは前の会社からの暖簾わけを装って、自らの役職を専務にしていました。そこまでする必要が、HYさんにはあったのでしょうが、ちょっと姑息じみていると思っていました。

 あなたがどんなタイトルの役員だったのか、役員でなかったのかは、どうでもよいことですが、私の上司になったわけでした。三階の席の私は、仕事の息抜きに、よくスタジオに足を運びました。スタジオの隣がデザイン室で、そこには私と同年齢のデザイナーのHKさんがいました。私とは別格の待遇のようでした。結構、力の入った会社でしたが、いま、スターティングメンバーは皆無です。

 あなたはコマーシャルフォト業界では名の通った、協会の主要メンバーの一人とかでした。商品にじっくりと相対して撮り上げる技術は、素人の私にも感じられる質の高さです。電子計器の写真などは、ディスプレィを点灯して撮り、消してライティングを変えながら、何ショットものシャッターを切るといった多重露光の写真は、まさしくあなたの独擅場でした。

 被写体のモデルとのコミュニケーションで、瞬間の世界を抉り撮るために、何十、何百ものショットを繰り出すカメラマンとは違っていました。4×5判の大形カメラで計算をつくして写真の質をつくりあげるフォトエンジニアと呼べるようなあなたでした。AV製品や電子計器を扱うことが多かった制作会社の大きな売りのひとつで、撮影料も、質に応じた金額が請求できたはずです。

計算した撮影設計で撮る

 硬派のカメラマンで、モデルの女優やタレントとふ浮き名を流すこともありません。実直堅実な性格は、事務所の良心のひとつでした。大阪から一族郎党を引き連れて入社したコピーライターのDさんがいました。一緒に入社したスタッフの一人が、彼の愛人であることを知ったあなたは激昂して、彼女を解雇させてしまいました。ボスはもちろん、周りの若いスタッフも承知していたことです。

 女房子どもと離れたところで、愛人といちゃつくとは何たることか、若い者への教育上からも許せないということでしょう。その教育される若い人たちからの人望も厚く、親しまれていたDさんです。その住処は若い人たちの溜まり場になっていたほどです。若い人たちの価値観について行けないというのも、広告業界で禄を食む制作会社の幹部としていかがなものかと。

 あなたとはさほど歳が離れていない私です。何かといえば、直截的に性の悦楽を追い求める若い人たちとも一線を画していましたが、あなたの側につくつもりもありませんでした。旧来の道徳律では御しきれない若い人が中心の会社で、段々、浮いてしまったのではなかったでしょうか。あなたの下にいた、大学後輩のHさんも、事務所の若い人たちとは距離をおいた行動をとっていました。

 Hさんも、あなたの手ほどきのためか、考えぬいて計算して、被写体に向かおうとするエンジニアタイプのカメラマンでした。婦人科カメラマンほどとはいかないまでも、コミュニケーションをつくった上で、最良のショットに迫っていました。ただ、対象の動きの中で、それを見つけようとするのではなく、動きを演出して、意図的に切り取ろうというディレクタータイプのカメラマンでした。

 私は、カメラのHさんと組んで、V社の新人女性歌手を、電気店向けのハウスオーガンで紹介していました。彼は資料を手にしたときから、ロケ地に悩み、撮影のレシピをつくっていました。そして、実際の撮影では、モデルの表情を柔らげようと懸命になります。堅さがほぐれないままに、予定の時間が終わってしまうことがありましたが、おおむね、計算した通りの写真に仕上がっていました。

写真の質を認める買手がいなくなった

 あなたの写真は、主にタングステン照明で撮られていました。その後、ストロボ照明が中心になってきたようですが、灯数を増やし、明かりの当て方を工夫しても、フラットな写真になりがちです。あなたの写真には、めりはりがはっきりしていたように覚えています。黒は、あくまでも真黒です。そして、白は微妙な表情をもった白味をつくり出していました。

 本物の製品にもないような存在感をつくる写真は、わかる人にはわかります。写真の読み手にも、プロがいました。あなたは、そんな確かな目に応える職人カメラマンでした。F社は私たちのクライアントで、プロ用カラー感材を扱っていましたが、当時、プロはK社の感材を使うのが常でした。それだけのデータが揃っていたということでしょう。

 カメラマンの中には、周辺の切り口を切り取って、K社の感材とわからないようにする人もいました。あなたは、F社の感材でも、計算通りの色を再現できるように、データを集めていました。プロとして当然といえば当然ですが、いまは、そこまでのめり込む職人はいなくなったように思います。そこまでの写真の質は、要求されなくなってきたようです。

 形がわかればいい。それらしい色でいい。印刷物には実際の色とは異なる場合がありますと、注釈を入れればいい。要は、コストです。所詮、写真や印刷物には、表現できる限界があります。それぞれのメディアの限界いっぱいに表現できれば、それでいいのではないか。要は、何を見せるのか、何を伝えるのかではないかと。ディテールに拘泥しなくてもよいと思っています。

 あなたがSA社を辞めた理由を知りません。SA社にいた人たちで、退職の理由を知っている人を誰も知りません。多分、職人として、仕事環境が厳しくなったからではないでしょうか。一点、数十万円で売れていた写真が、その十分の一以下の料金になったら、プロの職人は、経営を慮って身を引くしかありません。経営者の企業努力だけでは済まない環境が、当り前になっているようです。








2009/02/27 15:33:41|フィクション
アガペのラブレター 46
04章 修業時代 46

長い相棒のフリーデザイナー
同業・SMさん


 かつて、グラフィックデザイナーやコピーライターは、同年代のビジネスマンに比較して、報酬の多い職種だった。余人にはない、特殊な才能や知識が必要なためもあった。もちろん、報酬はピンキリであり、将来の保証もない仕事だが、書く、描くという作業が、聖域のように思われていたせいもある。これが制作の世界のデジタル化が進んで、一変してしまった。いまはパソコンが使えることが才能になっている。

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おいしい時代だったデザインの仕事

 初めてコピーライターになった時、SB社の外部スタッフとしてのグラフィックデザイナーのあなたを知りました。以来三〇数年のおつき合いです。当時、社内には二名のデザイナーがいましたが、チーフのHさんは、弟子のような外部のアシスタントと一緒に、社内でアルバイト仕事をせっせとこなしているようなお人で、もう一人のGHさんは学校出たての新人でした。

 販売店向けのセールスマニュアルというツールが認知されはじめた頃で、大手メーカーはこぞってつくっていました。その先駆けになっていたSB社は、引っ張りだこのような状況でした。ボスターやカタログのような色物はデザイナーにとって面白い仕事ですが、マニュアルのような文字が多く、単色や二色刷りのような印刷物は、グラフィックデザイナーから歓迎されません。
 
 勢いマニュアルのような編集ものは、外部スタッフの手に委ねられるようになります。イラストもこなすあなたは、マュアル本命の私たちにとって貴重な存在で、何かと口煩い社内のデザイナーよりも頼む仕事が増えていきます。あなたは多忙をきわめ、自宅の作業場の隣の部屋でマージャンに興じている営業マンたちを横目に、毎日。徹夜に近い状態で仕事をこなしていました。

 制作費は、今より三十数年前の方がよかったものてす。デザイン料はページ当り、二〜三万円はしたでしょうか。中には五万円といった、今では信じられないような料金を請求できました。通常、マニュアルは十二ページから三十二ページの構成になります。平均十六ページとして、月に三本は仕上げます。デザイン料だけで月一二〇万円、これにニ、三十万円のイラスト費が加算されます。

 二十代半ばの青年にとって、その半分としてもおいしい仕事です。ちなみに私の給料は十二、三万円でした。母親と一緒の生活で、貯えもないことから、昼に皆より時間をずらして街に出て、立ち食いそばを食べるような状態でした。あなたをさほどうらやましくなかったのは、やがて自分もと思っていたからでしょう。その前に、一日でも早く一人前になることに気を遣っていました。

プロダクションの混迷期を乗り越えて

 私は、ボスのHYさんと共にSB社を辞めて、六本木の事務所に移ります。その時、あなたを六本木に事務所を移さないかと誘いました。頼りがいのあるバートナーになっていたあなたは了承して、歩いて十分もしない場所に仕事部屋を構えることになりました。新しいSA社の仕事も、同じようなマニュアルやハウスオーガンが中心で、従来通りあなたと組むことになります。

 あなたはSB社からの仕事も引き続いて受けていましたし、他からの依頼も多く、手いっぱいの状態でしたね。私とSA社で机を並べていた後輩コピーライターのAさんが辞めることを聞き付けて、口説き落として、あなたの事務所のスタッフにしました。コピーの仕事はそれでも間にあわなかったようで、私もアルバイトで手伝うようになります。その仕事も結構ありましたね。

 SA社の給料は、個人交渉でゴネたこともあって、多くはないものの、そこそこの額ををもらっていましたが、あなたからのアルバイト収入は懐を温かくしてくれました。そのお陰で、東松原から多摩市への引っ越しができ、結婚のための費用も、わずかですが貯えることができました。母親はその頃も働いていましたが、経済的な心配をかけなくても済むようになりました。

 私がSA社を辞めてからは、あなたと組んでの仕事は少なくなりました。やがてあなたは、事務所を赤坂に移します。四ッ谷で仕事をしていた私は、あなたとは時おり行き来して、たまに仕事をもらったりはしていました。私の方からも仕事をお願いすることがあり、一緒に飲むことも少なくなかったですね。でも、赤坂に移った頃、あなたに転機があったのではなかったでしょうか。

 夜、地下鉄新宿駅のホームで見かけたことがあります。思いつめたような暗い表情に、かける声を失い、そのままやり過ごしました。その頃、地下鉄ホームや構内での喫煙規制がなく、消しきれていないタバコの煙がもうもうとしていました。その煙の中をゆっくり、三丁目の方に向かって歩いて行きました。あなたが西武新宿沿線に越していて、西武新宿駅に向かっていたのでしょう。

制作環境への投資が生き残りを決める

 あなたは不動産分野で大きく羽ばたくようになりました。最初の頃は、大手代理店やプロダクションが手をつけたがらなかった頃から、分譲マンションの仕事に取り組みましたね。多くの大手メーカーのマーケティング第一線の仕事で身につけた企画力やノウハウは、競合を圧倒し、寄せつけないのは当然です。カタログが勝負の世界であり、投資対効果が厳しく問われる仕事です。

 一区画の分譲価格にも満たない制作費ですが、完成前の完売を目指し、カタログだけに全力を注ぎます。その物件のセールスポイントを洗い出します。それは生活の利便性だったり、緑豊かな環境だったり、住宅地としてのブランドであったりいろいろです。数をこなし、成果との突き合せ検証で、それを確たるノウハウにして積み重ねて行くやり方は見ていて惚れ惚れするものでした。

 分譲マンションの仕事はおいしい、というより他のジャンルの仕事が少なくなってくると、大手広告代理店を始めプロダクションもこぞっての参入が始まります。毎度の現象でしょうが、見てくれのプレゼンテーションに力を注ぐようになります。手書きのデザインカンプと、原稿用紙のコピー原稿では、一見しての勝負では不利になります。これでは仕事にありつけません。

 パソコンのDTPソフトを使った制作は当然のことになります。プレゼンテーションは、実際のでき上がりとほぼ同じように仕上げます。パソコンのカラープリンターでは処理しきれない精度です。プレゼンのコストはかさみます。クライアントの担当者は、経験を重ねていきますが、内容の質を判定しきれなく、見た目でジャッジします。負けたら、かけた費用は回収できません。

 うちの事務所がパソコンを導入した時、あなたに見てもらいました。そして、やがてあなたのところでも、バソコンを入れ多機能両面カラーコピー機を入れます。こうしないと仕事ができなくなっていました。制作の現場も、多額の投資が求められています。手描きの職人仕事は、遠い昔話です。この路線を突っ走るしかないと。経済弱者が淘汰される時代になっています。