第五章 成長時代
コピーライターは、どうにか社会的に認知される職業になっているようだ。もっとも、国家や業界定の認定資格などはない。そして、コピーといっても、その内容は多岐にわたる。スーパーの折り込みチラシのキャッチフレーズやTVCMのメッセージ、セールスマニュアルのインストラクションなど、広告やビジネスコミュニケーションの文章は、おしなべてコピーと呼んでいる、広告表現の中で、文章に当る部分がコピーライターの仕事の領域である。
男が携わっていたコピーには、マス広告の惹句コピーやカタログ、チラシ、セールスマニュアル、PR誌など、バラエティに富んでいた。特に得意としていた分野は、販売促進、セールスプロモーションのためのインストラクションコピーで、男は、これをSPコピーと呼び、自分をSPライターと称していた。事務所を持ってからは、企画提案のときにプランナー、金融機関向けに代表取締役などの肩書きの名刺をつくってはいたが、あまり使うことはなかった。
事務所では、コピーライターの募集で、経験者よりも未経験者を求めていた。この職業に就きたい新人は多く、男が得られたような機会として、未経験者にも門戸を開こうと思っていた。そして、コピーライターとして、軽妙な言葉遊びができることよりも、それ以前の体験や仕事へのスタンスが重要だとしていた。コミュニケーションとして、「どのように」いうかよりも「何を」いうかであり、ビジネス体験のない者は対象外であった。
新人を募集すると、すぐに何人かの応募があった。履歴書と「私の仕事」と題しての作文を提出してもらい、面接をして採否を決めていた。さすがに、書けないという人の応募はなかったが、実社会での経験が三年以上あることが必至の条件であり、惹句コピーだけを志向する人は採用しなかった。募集は新聞の案内広告や求人専門誌よりも、仕事のつながりでコピーライター養成コースに通う人の採用が多く、延べ二十人近くを採用してきた。
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05章 成長時代 051
SA社で指導した最初の後輩 同業・AKさんへ 「厚誼再進」
アドバイスしたライター
あなたは、SA社が採用した新人コピーライターの一人でした。その頃、忙しくなりだしていて、ボスのHYさんは、出身地の大阪で人材募集するなどして、メンバーが急増していました。大阪で、東京でコピーライターやデザイナーの仕事ができるというウリは魅力的で、何人かの逸材が入社してきました。コピーライターのカタカナ肩書きが、若い人たちの間で光り輝いていた時代です。
その頃、私は、中堅のライターとして忙しい日々を過ごしていました。石油会社のE社が担当で、月刊のハウスオーガンや訓練やTBA(タイヤ・バッテリ・アクセサリ)のセールスマニュアル、シーズンキャンペーンガイドなどのコピーを担当し、オーバーワークで、身体がきつくなっていました。他のメンバーもFフイルム、S化学、V社などの仕事で手がまわりません。
あなたと組むことになりました。コピーライターといっても、いわゆるマス広告のそれをイメージしていたらしく、SPのコピーの経験がなく、まずは慣れてもらおうと打合せや、SSの取材に同行してもらっていました。そんな日々のことを、私が後輩のために書いた「SPライターの実務」というハンドブックの中から、あなたとのかかわりの部分を少し引用してみます。
A5判で130ページほどのもので、第1章「SPライターとしての基本姿勢」の「まず、書けるだけの情報を持っていること」からの引用です。『知らないから書けない、当然すぎることです。(中略)知ろうとする努力を怠って何もしないで、さあ、書こうかといったって書けるものではありません。もしも、そんな仕事のしかたを続けているのなら、この商売はやめるべきでしょう。
ずっと以前、A君という新人ライターと組んで仕事をしたことがあります。いまは大手の広告代理店で、優秀なディレクターとして活躍していますが、彼のことをお話ししましょう。ハウスオーガンの仕事をしていたときのことです。編集会議で決ったあるテーマについて、彼が担当することになりました。彼は原稿用紙を開げて、さあ、書こうと思ったわけです』
理解して書くこと
『ところが、傍で見ていると、なかなか仕事がすすまず、書いては消し、また書いては破っているのです。とうとうたまりかねて怒ってしまいました。締切りが迫っていたこともあります。「このテーマについて、君はどの程度、知っているんだい。知らなかったら、書けるわけがないじゃないか」。はっとして彼はしばらく考えていました。彼はどうしたと思いますか。
やがて、私のところにやってきて、こういいました。「お店を取材したときに会った方々の名刺を借してください」その頃、私は月に3〜4店の販売店の取材を続けていて、そのお店の方たちの名刺がかなりたまっていて、彼はそのことを知っていました。私がその名刺の束をA君に渡すと、彼はその名刺を使って、どんどん電話取材を始めたのです。
テーマについて、どのように考えているか、具体的な活動内容を聞き出していきます。業界にはまだ不慣れでしたが、傍で聞いていて、電話取材を重ねるごとに、質問が具体的で、鋭くなっていくのがよくわかります。彼は、取材した内容を理解したうえで、次の新しい取材にとりかかっているのです。そして、その取材した情報をもとにして、徹夜で原稿を書きあげてしまいました。
もちろん、期待以上に立派な内容で、私にとっても参考になる点が多く、貴重な情報として役立たせてもらいました。A君には、そのような情報源があったから幸いだったとは考えないことです。もし、事情が違っていたら、彼は別な方法で情報集めをしていたはずです。私がもっていた名刺も、A君の手によって情報源として活用しなければ、ただの記念の束にしかすぎなかったのです。
新しいクライアントのお手伝いをするとき、その業界は始めてのことが多いものです。「業界のことは何も知りません」では仕事になりません。最初は新しいクライアントの業界のことを、詳しく知らなくて当然だといえますが、いつまでも知らないでは済まされません。少しでも早く知るようにしなければなりませんし、だからこそ、この仕事が面白いし、楽しいといえるのです』
長いおつき合い
あなたは、みるみるライターとしてすてきな仕事をするようになりました。仕事の面白さや厳しさを理解してくれたように思います。取材の仕方も、同行してもらい、私なりの方法をみてもらいました。私たちの取材は、マス報道のそれとは違って、クライアントのお客さまから、売りに繋がるお話を聞き出すことで、そのためにとった方法が、あなたを呆れさせたこともありました。
私がSA社を辞めるとき、あなたは涙でひきとめてくれましたね。うれしかったのですが、そのときはもう後戻りできない状況でした。しばらくして、あなたも辞めることになりました。どんな理由なのかしりません。そして、あなたは新進のコピーライターとして羽ばたいていきます。制作会社で、Y社のユニークなスピーカーのステレオを担当し、私も手伝わせてもらいました。
やがて広告代理店のAT社に入社したという知らせがありました。頑張っていることを知り、うれしく思っているとき、P社の担当になって、営業担当者を連れて事務所にきました。セールスマニュアルやキャンペーン企画などの仕事のお手伝いが始まります。そして、AT社との長いおつき合いが始まりました。たくさんの人と一緒のたくさんの仕事をさせてもらいました。
あなたの推薦で、AT社のクライアントのY社とのおつき合いや、T社、Tガス、M自動車など、たくさんの仕事が舞い込んできました。広告代理店がマス広告の仲介だけではなく、SPの分野まで手を広げはじめたころで、AT社は、おつき合い当時の狭苦しい事務所から、段々、社屋ともに大きくなっていきます。株式を上場し、D社との合併するなど目覚ましい躍進です。
特に、Y社とのおつき合いは長く、心に残る仕事が多くあります。新商品の販売マニュアルやいろいろなニュースの制作、キャンペーン企画など広告代理店の外注先という立場では適わないだろうほどの密着ぶりで、特に、T部長の座付きライターとでもいえる関係で、社外秘の案件にもかかわりました。あなたは、いろいろな無理を通してくれ、身にあまるサポートをしてくれました。
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