孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/02/27 15:29:32|フィクション
アガペのラブレター 45

04章 修業時代 45

晩年作の緻密な切り絵に乾杯
故人・HEさん


 業界で評価されたクリエイティブ能力が、文学や美術の世界でも評価され、小説家や画家などの作家として活躍する人もいる。業界は有力な登竜門のひとつだろうが、この道もかなり厳しい。アートである前に、企業の事業目的を達成する作業に、自らの個性や思いをどう表現していけるかだろう。プロデュースされた仕事を、きれいに、器用に仕上げだけでは難しいのかもしれない。職人芸だけでは通用しない。

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あなたの紹介で軽四輪を手にした

 京王線の中河原駅のすぐ近くに住んでいたあなたは、結婚していましたが、子どもはまだでした。京王線が高架になる前で、鎌倉街道の踏み切りは、朝夕、空く暇もないほどの混雑です。出勤時には、多摩川の関戸橋を越えたところまで渋滞が続いていました。多摩ニュータウンの開発が、緒についた頃です。母親と一緒に多摩市に移り住んだ私と、隣近所のようなつきあいになりました。

 ほしかったマイカーを買うために、あなたの住まいの隣の自動車修理工場を紹介してもらいました。その頃になって、ようやくローンが組めるほどになっていました。買ったのが、H社の軽自動車で、デザインのモデルチェンジはしないという歌い文句でした。8トラックのカーステレオが主流の時代で、カセットステレオにして、スピーカーはリアシートの両脇に埋め込んでもらいました。

 付き合っている人もなく、休みになると、あなたをはじめ、友人宅を襲います。ドライブがただ楽しく、その新しい玩具と遊び回っていました。あなたとも、いろいろなところに出かけていました。その頃、あなたはSB社で、イラストを描きながら、グリーティングカードを担当していました。その仕事を通していろいろなマンガ家やイラストレータに出会って、親交を深めていたようでした。

 明るくて、人に好かれる人柄でした。結婚しているというのに、女の子にちょっかいを出すくせが直らず、スナックなどで気に入った娘がいると、イラストを描いては点数をかせいでいたようです。晩年、青梅線の河辺駅近くのスナックに一緒に行ったことがあります。行きつけだったらしく、常連客とも親しく、歓迎はされはしたものの、どこか不自然な接し方があるのに気づいたものです。

 酒も楽しい酒でした。酔うと歌い、踊り出します。こんな性格が、周りを和ませ、好かれたところなのでしょう。私とあなたとコピーライターのSさんの3人で、新宿のデパート屋上のビアガーデンに通いました。どこかのOLたちと意気投合して、居酒屋で飲み直し、終電車に乗り遅れて帰れなくなり、駅の近くの安宿に全員で泊まり込んだことがあります。期待したことは起こりませんでした。

キャラが強いイラストに困った

 あなたも大阪からの上京組の一人です。絵を描くのがが好きだったあなたは、独学で「デダイン」を勉強して、マンガタッチのイラストが目に止まり、グリーティングカードのイラストを描いたり、印刷物のカットを描いたりしていたようです。上京後も、マニュアルのカットやイラストを描いてもらっていました。個性が出ているのですが、同じタッチだけでは使いにくいときもありました。

 何を描いてもらってもあなたなで、あなたのキャラクターです。さらに困ったのは、コピーを読込まないでイラストを描いてしまうこと。ざっと目を通すだけで、描けそうなフレーズを見つけると、それだけで絵を描いてしまう。マニュアルのイラストでも、伝えたいメッセージがあります。そんなことにお構いなしに、好きなマンガを、好きなように描いて持って来る。使えない場合が、何度かありました。

 個性を活かすことを志向したマンガ家でした。私がSB社を辞めた頃に前後して、マンガ家としての独立を目指したのですね。どこにあっても、ああ、あなたの絵だとはわかりますが、それだけで食べていくには難しかったと思います。コマーシャルベースで、あなたの絵は1カット5、6千円でしょう。たまに、数がまとまって20点になっても12万円。二人の子を抱えた生活は苦しかったはずです。

 東京のローカル紙の4コマのマンガ掲載をしたことがあります。たまに、見ての印象でしたが、はっきりいって面白くない。新聞のマンガらしいエスプリがまるで利いていない。アイデアを出そうとする努力は伝わってきますが、結果がすべてです。固定ファンはいたようですが、単行本になったわけでもなく、彼らは生活を支えてはくれません。1カット100万円というイラストマンガ家がいた時代です。

 晩年に、ふたたびローカル紙の連載4コママンガを描くようになりました。あなたは、掲載半ばで逝ってしまったのですが、その新聞を購読していない私は、たまにしか見られません。あなたらしい語り口ですが、やっばりです。1回の稿料が数千円では飲み代にもなりません。その新聞社の記者の感想を聞くと、おおむね好意的でしたが、永年に蓄積したはずのエスプリが見受けられませんでした。

切り絵作家としての輝き

 あなたの輝きは、カットやマンガではなく、切り絵作家としての仕事でしょう。あなたの切り絵が、大手旅行会社の年間カレンダーに採用されていることを教えてくれたのが、SB社時代からの仲間のATさんです。彼は、その会社の別部門での仕事を手伝っていて、あなたの仕事に出会ったらしい。全国の祭だったでしょうか。365日、毎日の玉に、切り絵が入っているのです。

 当月の見出し絵に、表紙絵の大サイズものを含めたら、378点。毎日午前、午後、夜と3点ずつ描き続けても126日、四ヵ月と少しかかります。休みも必要でしょうし、全部はかなわないにしても、現地取材も欠かせませんし、資料がなければ描けません。大手旅行会社で資料は揃っていたでしょうが、絵になるものを探し出すのさえ、大変な作業です。

 片手間ではこなせない大仕事で、まるまる半年がかりです。まず、そのことが驚きでした。稿料の計算もしてみました。毎日の玉絵が単価1万円として、365万円、見出し絵が、一点10万円として120万円、表紙絵が20万円として、純粋の稿料が505万円になります。これに調査費や取材費、材料費等の諸経費が300万円として、800万円ほどです。高くはないギャランティです。

 この仕事が何年か続きます。全国規模の大手旅行社の仕事のおかげもあって、あなたは切り絵作家として知られるようになります。やがて、仕事に終わりが来るのは、受注産業の常です。社内の政治的構図が変わったり、代理店の駆け引きや抗争なども絡んで、突然、仕事がなくなります。著作権は残っているものの、買手限定の買い取りで、二次使用が難しい。作品も散逸したのではないでしょうか。

 再会したのはその仕事が終わった後でした。あなたの切り絵を採用してもらうようにと画策したのですがかなわず、連絡がとれなくなって、あなたの息子が遺作展を開くという知らせで、死を知りました。何か手伝おうとしたのですが、息子とは温度差を感じました。離婚してからの、歳月が頑な性格をつくったのでしょう。申し訳ないのですが、思い出だけの付き合いにします。安らかに。








2009/02/27 15:27:12|フィクション
アガペのラブレター 44
04章 修業時代 44

妻も知らない癌で逝った才能
故人・KTさん

 この業界では、作り手のクリエイティブ能力が評価され、支払われる料金にも格差があった。仲介する企業としても、取引額が多くなる料金の方がよい。ただ、クリエイティブ能力が、何を基準にして決められるのかについては、不透明なところもあった。アートではなく、営業活動の一環であるはずだが、販売貢献度という尺度よりも、評判とか仲間内での評価が中心になり、業界をあげてそれに邁進していた。

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二十代半ばで逝ったKちゃん

 若い友人の、突然の死は、筆舌にできないほどの悲しさと悔しさに襲われます。あなたは二十代半ばで、結婚したばかりの妻Uさんを残して、病名を知らせられないままに逝ってしまいました。暑い夏の日、湘南の教会で営まれた別れのとき、全員、押し黙ったままで見送りました。SB社で一緒に仕事をした、Kちゃんです。短い付き合いでしたが、たくさんの思い出をくれました。

 癌でした。あっという間に、進行したようです。両親は知っていたのでしょうが、本人には告知されず、妻のUさんも知らなかったと。友人によって出版された追悼の小冊子に、彼の涙に掠れた最後の日記と、Uさんの手記で知りました。なぜ知らせてくれなかったの、という、悲鳴にも似た怒りと悲しみの絶叫が聞こえてきます。助からないと知っていたら、残された時間を過すすべがあったと。

 知らせなかったわけが、どんなことかなのかは知りません。彼女に、知らせることの惨さを味わせたくないという、親としての勝手な配慮だったのでしょう。それが、娘となった彼女への愛情のつもりだったのか。交通事故による突然の死の不幸がありますが、Kちゃんの死は、突然の事故死のようではあっても、たとえ、一日前でも、一時間前にでも、知っていた人がいたということで、大きく違います。

 Kちゃんにとって、第一の身内は、母親や父親でもなく、Uさんでした。肉親を越えた存在で、その妻が最後まで知らなかったということは、耐えられないし、許せないことでしょう。彼女の叫びの手記は、つらくて、悲しくて、やりきれません。友情によって急遽つくられた、青い表紙の小冊子は、机の引き出しの奥にしまっておきました。そこにあなたがいることは、いつも意識していました。

 たとえ、Uさんが知ったとしても、遅過ぎたでしょう。好きなところに連れ出すことも、好きなものを食べてもらうこことも、趣味三昧に過す時間をつくってあげることも、できなかったかもしれません。それはそれでしかたのないことだし、それでいい。少ない時間の中で、彼女はできる最大のことをしたはずです。手を握り続けるだけだったとしても、知らずに送ることよりもよかったはずです。

あなたとUさんの運転手だった

 その頃、私はあなたのボスでもあったHYさんの会社にいました。あの頃のことを思うとき、好むと好まざるとに関わらず、ボスのことに触れざるをえません。若い連中がHYさんと一緒に、軽く飲んでいた。あなたは遅れてやってくることになっていた。その時間になって、ボスにテーブルの下に隠れてもらう。やってきたあなたは、ボスのやつ、残業をさせやがってと、ぼろくそに言い出したと。

 いたたまれなくなったボスは、テーブルの下からはい出てきた。私の目撃していないエピソードですが、仲間内であなたを思い出すときに、必ずと言ってよいほどの話題です。あなたも、ボスの子飼いの部下でしたが、独立するときには、連れ出す候補にも上がりませんでしたし、私もそれはないと思っていました。仕事ができないからではなく、ボスには御しきれないようなバワーがありました。。

 あなたは、ビジネスマンとして、ありきたりな型にはまりきれないものを持っていました。与えられた課題は、きちんとこなしますが、やり方は、あなた流でした。勤務時間とかにはこだわらず、自分の好きな時間に仕事をしていた。時間が空けば、勤務中だろうが、時間をあけられそうな同僚をひっばって、雀荘で過していた。大学から延長したような時間を、高卒の同僚にも味あわせていました。

 私と得意先に打ち合わせに行くことがあります。横浜の郊外にあったM社は、大きなクライアントのひとつになっていて、カタログや取り扱い説明書、セールスマニュアルづくりをしていました。出かけるときに、くるまで行こうと、ボスが使っていた社用車で、私が運転して出かけることになります。洗車機のサービスマンをしていたこともあって、首都周辺の地理に詳しい私は、格好のドライバーです。

 あなたは、ちゃっかりUさんを呼んでいて、同行させます。よろしくと、二人で後部席に座って話し込んで、一時間半ほどのドライブを楽しみます。得意先の、通用門の前で、彼女を降ろします。私たちが打ち合わせをしている間、近くの喫茶店で時間をつぶし、打合せが終わった後に、またドライブ。私としては、いい面の皮でしたが、なぜか憎めないKちゃんで、物わかりのいい兄貴分の気分でした。

あなたが咲かせる花を見たかった

 あなたは、ボスが辞めた後もSB社に留まりました。ATさんやSHさんのような、後追いのような行動もとらずに、俺は俺だと、相変わらずの仕事をしているようでした。その頃、SB社は平河町に事務所を移しました。池袋の事務所が手狭で、ボスが抜けた後の社員の意気高揚をはかるためのイメージアップの意味もあったのでしょう。時代の先端を行くようなオフィスビルでの営業が始まりました。

 私はボスとSB社を辞めたことに、何の衒いもなく、かつての仲間のもとに遊びに行きます。あなたは、はみを外された駿馬よろしく、いきいきと仕事をしていました。どんな環境にあっても、あなたらしさを失わずに、あなたらしい仕事をしていたのでしょう。その頃に、Uさんと結婚したのではなかったでしょうか。自分らしい仕事を、どんな環境のもとで展開しょうと考えていたのでしょう。

 あなたがプロデュースした、2枚の、古いガンのポスターをもらいました。モデルガンなどを収集したり、ガンの目利きでもあったあなたは、古いガン二丁を見つけ、それを撮影して、ポスターに仕上げました。圧倒するような質感の写真と重厚な多色刷りのポスターは、美術ポスターとして市販するということでした。コマーシャルペースの、得意先からの依頼があっての、受注仕事ではありません。

 売れるか、売れないか判断がつかない。全くの趣味、道楽の仕事です。多分、カメラマンもデザイナーもあなたの心意気に惚れての、ギャラなしの仕事だったでしょう。印刷だって、普通の四色刷りの倍以上のコストをかけたものです。採算を度外視したとしか見えな仕事で、HYさんがいたら、許されなかっただろう仕事です。それをやり通したあなたは、あの先、どこへ向かおうとしていたのですか。

 あなたの周りには、いい仲間が集まっていました。HYさんの仲間は、マーケティングやSPのプロフィッショナルたちでしたが、あなたの仲間は、明らかに違っているようでした。愛妻Uさんの兄のIKさんは、デザイナーから転身したカメラマンです。あなたとUさんは、どんな花を咲かせたのでしょう。きっと、大輪の美しい花だったでしょうね。見たかった、見たかったですよ、Kちゃん。安らかに。








2009/02/27 15:24:26|フィクション
アガペのラブレター 43

04章 修業時代 43

不相応の事業拡大に敗退した
同業・SHさん


 まちの商店の折り込みチラシも、大手メーカーの新聞広告やテレビCMも、主に販売促進など営業拡大を目的にする活動ではある。これを支える業界は、実績のあるマスメディア会社を頂点に、広告代理店や制作会社、印刷会社、フリーの制作者など多彩であるが、どの企業のどんな仕事をするのかによって、暗黙のうちに格付け、ランク付けされていた。男は、大手企業の仕事ができた点は幸運だったかもしれない。

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コツコツ前進する実直な営業マンでした

 あなたは、大阪の印刷会社、SB社の東京への進出で赴任した営業メンバーの一人でした。私の一才歳上で、印刷営業のベテランです。会社は、印刷物の受注だけではなく、企画制作からの印刷を売りにして、本社の多い東京での事業を展開していました。私を、始めてコピーライターとして雇ってくれた会社で、あなたは血気盛んで、自信たっぷりの営業メンバーの中での年長者のひとりです。

 営業部では、副部長のFさんがあなたの上司でした。消火器メーカーや薬品メーカー、カメラメーカー、通信機器メーカーなどが担当で、新規開拓にも力をそそいでいましたね。セールスマニュアルの企画制作ができることなどをアプローチ材料としていました。三十数年前、アメリカから、セールスマニュアルという指導書の概念が入ってきて、SB社はその走りとして、需要先を拡大していました。

 Fさんにも可愛がられました。得意先への打合せに同行したりしましたが、会社の中では傍流で、年下のHYさんとは、ひと味違った営業を展開していました。HYさんの仕事のコピーは、主に、大阪の提携SP制作会社のコピーライターが中心で、私はサブ的存在でしたが、Fさんやあなたの仕事では、私を使ってくれました。一緒に入社した養成講座同期のSさんより使われていたようです。

 さすがに大きな仕事になると、新人の私たちの手には負えないとして、件の大阪のライターだけではなく、東京のライターをも起用していました。しかし、カタログやリーフレット、DM等のコピーはともかく、セールスマニュアルという新しいジャンルのコピーの仕事には、十分対応しきれなかったようです。外注費を使わなくてもよい、私たち社内のライターへの仕事が増えてきます。

 あなたは、生真面目なくらいに、仕事に取り組んでいました。新規開拓も着々と実を結んでいました。航空会社の海外パックツアー商品が出始めた頃で、セールスマニュアルの仕事を取ってきました。その実績でSB社の子会社M社のメインクライアントになるのですが、あなたの地道な開拓があってのものだとは知られていませんでした。地味な存在でしたがなくてはならない人材でした。

意地を貫くような独立起業

 仕事での直接の上司は、Fさんでしたが、あなたはHYさんの大阪時代からの、いわば子飼いの部下の一人です。我こそはと、忠節を誓った部下であり、信頼されていると信じていたようです。そんな中、HYさんの独立起業の噂は、大阪からの赴任組には、待っていましたのうれしいニュースのようでした。ところが、蓋があいたら、選ばれた営業がAHさん一人でした。

 新人コピーライターの私やSAさんは別として、苦楽を共にしてきたと信じていた営業のメンバーそれぞれは、自分こそはHYさんの役に立てる思っていたわけです。あなたもその一人で、選ばれなかったことにショックを受けたようでした。その受け止め方はいろいろだったようでしたが、何人かは、そのために辞職することになりました。結果論ですが、それなら引き抜けばよかった。

 勤人には、定年退職を除いて円満退職なんてないと、私に諭してくれた人がいました。HYさんが子飼いを置去りにして、円満退職風に、SB社を辞めてしまった。結果として、後ろ足で砂をかけるこになったのです。SB社の社長とじっくり談判して、子飼いたちも道連れにしてもよかったのではないか。あたり籤を引き当てたはずの私の感想です。

 やがて、ATさんが辞め、あなたが辞めてしまいました。その後に続く人もいました。あなたのそのときの思いは、自分も独立してHYさんに対抗してやると考えての行動ではなかったのでしょうか。辞めるにあたって、何人かの部下を一緒に連れ出したようでした。仕事も、担当していたクライアントの仕事を持っていった。HYさんと同じことをしただけだということでしょう。

 大阪時代の同僚だったあなたの奥さんが、SA社に事務の手伝いに来てくれていました。あなたは、独立して引き続いて得意先のM社の仕事を続けることになりました。その頃のあなたの仕事については、私が手伝う仕事もなかったようですし、よく知りません。そんなあなたですが、HYさんの、つまり私が在籍していた事務所には時々、出入りしてしました。

社長不在の危機を乗り越えた

 順調に推移していたらしいあなたの会社ですが、あなたは病に冒されて入院して、戦線から離脱することになります。私は、HYさんの会社を辞めていましたが、それを知って、あなたの会社の危機を感じました。小さな会社の経営が、社長の個人的な奮闘で持ちこたえています。あなたの会社は崩壊してはしまうのではないかと、他人事ながら危惧していました。しかし、それは杞憂でした。

 部下の社員たちは、あなたの不在をものともせずに、乗り越えたということでした。あなたがつくった会社は、得意先も信頼してくれていて、個人ではなく、組織の仕事で機能していたためでしょう。かなり実力派の社員もいたようですが、組織は崩壊しなかった。あなたは入院中に、いろいろ事業展開も考えていたようでした。印刷仲介だけでは難しくなっていたのでしょう。

 あなたたち夫婦が離婚したらしいという噂が流れたことがあります。事実無根だったようですが、かつての同僚たちは、確かめることもなく、そうかと聞き流したものです。HYさんの耳にも届いていたようですが、彼の方からは、わざわざ問いただすこともないと思ってのことでしょう。風の便りで、あなたの不在を乗り切ったあなたの会社にも、秋風が吹き出しているようでした。

 あなたから電話がありました。新しいビジネスを始めようとしているということでした。興味を感じた私は、始めてあなたの事務所を訪ねました。コンピュータ内臓の電話自動応答装置の代理店の権利を取得したというのです。現物と取扱い説明書も見せてもらいました。電話コミュニケーションが、再認識され、ビジネスに改めて活用され出していた頃です。しかし、私の理解できないビジネスでした。

 会社はそのまま存続させて、自宅に本拠を移したようです。あなたはアイデアフルなパソコン用の小物やギブアウェイ用のノベルティの開発に力を注ぎ出します。いろいろなメーカーにプレゼンしたようですが、芳しい結果ではなかった。そして、パネルにとって代わる携帯型の展示用具を開発して、その売り込みに集中した活動を始めました。私も友人に奨めたのですが採用までには至りませんでした。







2009/02/27 15:21:53|フィクション
アガペのラブレター 42

04章 修業時代 42

外様役員を棒に振った元同僚
同業・AHさん 


 広告や販売促進の企画制作会社は、一般の会社と特に優れた能力があったとは思わない。広告や印刷物などの媒体をつくる仕事は、確かに、特殊な知識や技術を必要とした。ところがいま、バソコン等デジタル化の普及で、制作の仕事は、かつてのように特別とされる能力がなくても、何とか形だけは装えるようになっている。特殊な業界と去れていた頃の営業マンたちには、自信とおごりがあった。

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元気のいいSPの仕事師

 あなたはSB社の東京営業所で数少ない大卒者でした。営業の他に、印刷管理やテザイン、版下、写真、総務など、二十人ほどの社員の中で、数少ない大卒者の一人です。大阪からHYさんと共にやってきたメンバーで、私が入ったときはまだ独身でした。同じような営業の同僚たちと、若さにまかせて、一人暮らしの気軽さもあってか、昼夜のない、ハードな業務をこなしていました。

 私とは、割合にウマがあっていました。私がSPのコピーを書いていたV社やS社を担当していて、一緒になることも多く、機転のきいた、的確な仕事ぶりも私の気に入っていました。そのあなたが、独立したHYさんの会社で、私の同僚になります。HYさんから、連れて行く営業担当として、あなたとATさんのどちらがいいかという相談を受けたとき、私はあなたを推薦しました。

 あなたは、妹のように可愛がっていたという親戚の娘と結婚しました。独身で、休日にすることがない私は、新婚のあなたの家に遊びに行き、仲のよい夫婦を見ながら、私も早くと焦ったものです。SA社でもパートナーとして、いろいろな仕事をしていました。V社もその一社で、アナログ4チャンネルレコードが開発され、白がきれいなカラーテレビが世界の一流品ともてはやされてしました。

 あなたと手がけていたSK社の十六ページのセールスマニュアルでした。HYさんと大阪に出張したとき、書き上げていた原稿を、行き帰りの新幹線の中でチェックしてもらおうと持って行ったのです。あなたは、その原稿を次の工程におろす準備をすっかり整えて、待っていました。東京に帰って、私の手を離れたら、一気に印刷まで走らなければ間に合わない納期の仕事でした。

 あなたには帰ってすぐに伝えました。まじまじと顔を見ます。探しには戻れない。なんとか書くようにと、あなたは求めます。原稿用紙の文字がそのままデータのときです。もう書いた内容は忘れています。時間を延ばしてという願いは、頑として受け付けません。寝ないで、似たような、新しい仕事よりもつらい原稿を書き上げて翌朝、にやりと笑うあなたにそれを渡しました。

日用雑貨の卸店組合の旗頭

 私がSA社を辞めて間もなく、あなたもHYさんと喧嘩して辞めたと聞きました。金輪際、敷居をまたぐものかと、啖呵をきって飛び出たと。私と一緒にE社を担当していたAKさんをはじめ、何人かのスタッフが相次いで辞めたようです。あなたの退社も含めて、それもよしとするHYさんの考えあってのことでしょう。皆残っていたらと、凄い組織になったのにと、ふと、思います。

 そのあなたは、日用品雑貨商社の協同組合の本部事務所に就職しました。関東一円をカバーする卸問屋数社の組合で、あなたはすぐに頭角を表わします。もちろん、私たちの仲は変わりません。その組織の仕事が、私の仕事に加わりました。上野にあった事務所に、何度も通いましたし、私の事務所には、何度も来てくれました。スタッフともどもに、うまい酒を奢ってくれましたね。

 本部では、年一回のトレードショウを開きます。テーマをきめて、テーマコーナーをつくり、メーカー各社のブースに商品を展示する。招待した販売店との商談を行ない、年間販売契約を取り交わすというイベントです。私は、テーマ決めする企画の段階から加わります。メーカーへの出品依頼から、販売店への招待まで、いっさいのツールの企画制作も行ないます。展装設計は、仲間のATさんに依頼しようと提言し、本部のトップにも了承してもらいました。

 バイロットショップもつくりました。東急ハンズなどDIY店が続々と出てきた頃です。従来の街の金物店や雑貨店とは違った、新しいタイプの日用品雑貨の専門店をつくろうという企てです。場所は千葉県我孫子市の郊外でした。企画段階から、プロジェクトチームに加わり、CIとしての、コンセプトやビジュアル面での設定やオープニングの企画やツールづくりを担当しました。

 あなたはこのプロジェクトの責任者として仕切ります。オープンも無事に済ませて、営業活動に入り各種データの収集を進めていきます。このプランは、結局、パイロットショップだけで終わってしまいましたが、チェーンショップ展開に必要なデータを取れたという評価でした。億というコストをかけてもテストができるほどの企業で、あなたは重要な役職についていました。

つまらないことで職を追われた

 あなたのいた協同組合は、参加していた卸問屋数社が合併して、新会社を設立することになりました。独立して経営していた各社が支店となり、それまでの組合本部が、そのまま本社として機能することになります。役員は、各出資会社のオーナーたちです。この中に、外様の社員代表として、あなたが取締役の役職に就いたのです。仲間として、うれしく、誇らしいことでした。

 あなたはマーチャンダイザーとしても手腕を発揮します。韓国や中国、台湾に飛んで、商品開発にあたります。これらの国々からの攻勢にさらされるはしりでした。国内メーカーからの招待旅行も多く、東南アジアには、月一回といったペースで出かけていましたね。いつだったか、天候異変で帰れなくなったことがありました。あわてず、のんびりとリゾートを楽しんだようでした。

 そんなあなたの、業者からの収賄が発覚しました。公務員ではない民間業者ですから、会社の告訴がない限り、犯罪にはならないのでしょうが、当然その責任は取らされます。どこまで私財を提出したのかは知りませんが、辞めるだけでは済まなかったはずです。つまらないことでの、大きなつまづきでした。小銭程度の、わずかなお小遣いで、外様で昇り詰めた役員の座を失ったのです。

 私は、あなたにご馳走になることはあっても、ご馳走したことはなく、見返りに金銭を提供することもありませんでした。あなたが辞めた直後に、あなたの部下で一身同体のように行動していたSさんが、私の事務所に来て、泣きながら悔しい顛末を、洗いざらい話してくれました。あなたから、関西の百円ショップの会社に拾われたと聞いたのは、大分、日が経ってからのことでした。

 百円ショップは、成長途上の新しい業態でした。あなたが海外での商品開発で手にした貴重なノウハウが活かせるのではないかと期待しました。ただ、あなたが辞めたいきさつを知っていての採用は、その会社オーナーのしたたかな計算を感じたのです。あなたが役員として在職していたときなら、百円ショップも面白い展開をしたでしょうが、新しい職場での、残念な限界が見えたのです。








2009/02/27 15:18:38|フィクション
アガペのラブレター 41

04章 修業時代 41

新入り時代から近くて遠い友
同業・ATさん


 男たちの業界は、独立しての起業が少なくなかった。男が会社を起したときは、資本金一〇〇万円で株式会社が設立できた。それが株式会社の要件は一千万円の資本金になり、そして。最近はまた変っている、開業には、事務所と電話があればいい。フリーで仕事をしていたデザイナーたちは、会社の形態へのこだわりは少なかったが、営業マンたちは、大手の企業から受注するためにも、株式会社にして仕事を始めた。

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ボスから「経営」を学ばなかった

 SB社に入社したとき、あなたは営業マンとして、勢力的に仕事をこなしていました。年齢は私より下ですが、ボスのHYさんの後輩とかで、大阪時代から東京に来てからも部下として活躍していました。新人コビーライターとして入社し、回りの若い人たちからも、クン付けで呼ばれた私は、仕事に少しでも早く慣れるようにと、あなた方若い営業マンの仕事ぶりを観察していました。

 職場は夜も昼もない多忙ぶりです。ほとんどが時間に自由な独身者で、日中、時間があると雀荘にいるような人たちでした。あなたたちは、よくまあと端で感心するほど、朝の朝礼後、ボスのHYさんに怒られていました。同じ部屋で仕事をしていた私は、近くの喫茶店に退避し、時間をやり過ごしていました。誰だったか、怒られているときに倒れてたこともありました。

 HYさん流の営業スキルを伝えたかったのでしょう。後で、あなたには営業を教えたが、経営は教えなかったと言っていましたが、教えてもらっていた方がよかったかどうかは解りません。営業方法かどうかは分りませんが、人との接し方、扱い方は引き継いだのではないかと思い当たる節があります。人のブランド志向とでもいえそうな、HYさんのやり方は、あなたにもありました。

 ただ、HYさんとは違ってあなたは自らをブランド化しようとしていたようです。ブランド人間たるべく、そう扱われる人たちに近付き、同じ土俵にいるかのように振るまい、自分を誇示する。結果、ブランド人間ではない私を、その人たちに紹介しない。どこまでブランド化できたのかは、判断が難しいところですが、大手クライアントの名を借りてのやり方は奏功したのでしょう。

 HYさんの学校は、その業界で、それなりに実績をあげたハウツウを伝授するところではあっても、大学で得られるような広範な知識や教養、人間関係のあり様を、学べなかったのではないかと思うのです。HYさんが独立して会社を興すときに、問われるままに、私はあなたではなく、AHさんを推薦したひとつの理由は、あなたの中にHRさんの影を見ていたからかもしれません。

時代に乗れなかった会社経営

 私が、HYさんの会社に移って、SB社は大き変わっていきます。HYさんからの声がかからなかったという思いは、自分こそは愛弟子と自負していた人たちの対抗意識にもなって、ひとときは燃えたようです。しかし、ひとり辞め、ふたり辞めしていきます。あなたもその中のひとりで、友人と一緒に新しい会社をつくります。業界は群小プロダクションの乱立期でもありました。

 あなたの新しい会社の手伝いをしたこともあり、私たちの付き合いは続きます。いろいろなことがあっても、あなたはHYさんから離れられません。あなたはSB社を辞めたこともあって、私も在籍していたHYさんの会社を訪れていました。HYさんは、あなた方夫婦の仲人であり、私たち夫婦の仲人でもありました。そんなあなたは私たちの結婚披露宴の司会もしてくれました。

 やがてあなたも会社を興すことになります。場所は、四ッ谷で私の事務所の近くでした。大手メーカーのM社との顧問契約も成り、年末には、招待者が一〇〇名にもおよぶような大忘年会を開いたり、得意の絶頂期にありました。住まいも、私の住んでいた多摩市に移り、中学校の校区が一緒で、あなたにはうちの息子の一学年上の息子がいて、娘たちは同学年で、仲良くしていました。

 四ッ谷近辺で、あなたは事務所を三回ほど替えましたね。詳しい経営状況はよく分りませんでしたが、バブルが崩壊して、私たちの業界に、厳しい冬の時代がやってきました。制作作業のデジタル化が進み、企業にもバソコンが普及して、使いこなす若い社員も多くなります。印刷物を作る作業が、高度とされるほどのものではないとされ、簡単な印刷物は社内での制作が増えていきます。

 全体に広告予算が激減といってよいほどの時代になります。放送局、新聞社、広告代理店、企業と、社会全体のマーケティング活動の需給構造が強固になっているマス広告と違って、企業個々の事情の裁量で大きく変動するSPのビジネスでは、コネや特色のないプロダクションは淘汰されていきます。このような中で、もがいていたのが私やあなたのような零細プロダクションでした。

職人業から資本で作る仕事に

 あなたの方が、私の事務所より、ちょっと先に撤退することになりました。私の場合、もう大分前から、カミさんにあんたには会社経営なんかできないから、やめろとしつこいほどにいわれていました。もう他の商売はできないし、雇ってくれる会社もない。銀行からの借り入れもあり、リースもある。これがクリアできたら、雇ってくれるところがなくてもやめたいという心境でした。

 あなたには何度か、支払いができないからと借金を頼まれました。私への給料はなく、いつもスタッフへの給料分しか手元になかったときでした。返りが私の方の支払いに間に合いそうもなくて、苛立ったこともありました。あなたは社員への給料を支払うために借金していると自嘲していました。私も同じ思いでしたが、あなたほどでなかった分だけずるずると傷を大きくしてしまいました。

 あっという間の撤退でしたね。あなたがかつて一緒に会社をつくった仲間のKさんの会社に入社しました。デジタル制作が本格化しつつあった時代の中で、パソコンでの制作はもとより、ホームページづくりに特化した展開していました。大手企業や広告代理店からも重宝される存在として成長していきます。プロダクションが腕一本では済まない、資金力の経営になっていました。

 部長待遇とはいっても、あなたの思うままにはならない会社の中でも、水を得た魚のような活躍が始まります。入社したころは、時間的な余裕もあってか、私の事務所に、会社とは別口の、いろいろなプロジェクトを持ってきてくれました。企画書にまとめて、仕掛けるものの、具体的なビジネスには結びつきません。それも会社の本業が忙しくなると、次第に少なくなっていきます。

 私には、あなたにとってのKさんのような人はいませんでしたし、あなたは、私のKさんではありませんでした。撤退を余儀なくされ、事務所を自宅に移し、さらにこの地に来てからは、全く、会うことがなくなりましたね。それもいいでしょう。私たちには、三十年余の付き合いの歴史があります。いつか、仕事を抜きにした付き合いができるかもしれません。来るのかなあ。