05章 成長時代 56
無言実行に過ぎたパートナー 同業・NTさんへ 「有言実行」
営業マンや制作者の間で、自前の制作プロダクションをつくるのが流行っていた。得意先は、在籍し担当していた会社のクライアントをそのまま引き続けるという異様な業界の中で、百万円の資金を用意できれば、株式会社ができる。特に、制作者の間では、原宿界隈に事務所をつくるのが、ひとつのステイタスとしてもてはやされていた。男たちは、まず会社をつくって登記した。一国一城の主人になることは、男たちにとって魔力だった。
******************************************************************* 骨を拾いあうはず
残ったものが骨を拾いあおうという約束は、まだ続いているはずです。いま、あなたの居場所がわかりません。多分、元気にはしているのでしょうが、風の頼りさえもありません。もっとも、私の方が、風も届かないような棲み家で、息を潜めた隠遁生活を余儀なくされているからでしょう。子どももいなかったあなたですが、あの気丈な奥さんと相変わらず、やっているのでしょうか。
私たちが仲間と一緒に会社を作ったのが約三十年前。そして、二十三年前に、代表をあなたが受継ぎ、その会社を倒産させてから、はや十年たっています。どの倒産社長も同じでしょうが、あれは悲惨で、悲しくなるような出来事でした。街金業者に手形帳を取り上げられ、決済不能の手形の取りたてから逃れるために、会計士のKKさんの事務所に、かくまってもらいました
招くべくして招いてしまった結末だと思います。市況の悪化によるものではないことだけは確かです。クライアントのE社は外資のグローバル企業で、取引きは続いていましたし、社員四、五名の会社がやっていくには十分な受注量でした。請求したらすぐに指定口座への振り込みで決済してくれる。そんな取引きなのに、支払いを約束手形にしたのがつまづきだったのでしょう。
私が代表を譲るような形で身を引いたのは、両雄並び立たずの故事通りでした。雄と言うのはおこがましいのですが、登記上や金融機関には私が代表者のはずなのに、E社内ではあなたが社長として取り引きしていました。子どもの、ガキ大将争いとおなじ次元の話ですが、男はたとえ鶏口といえども、ボスはボスとしていたいし、そう遇してほしいのです。あなたもそうだったはずです。
会社を引き継いだ後、会計をKKさんの事務所にお願いしたはずですが、担当されたのが子息の会計士と聞きました。聞くところによれば、その彼に対して、経理を担当するようになった、あなたの奥さんがクライアント風を吹かせて、不愉快な思いをさせてしまったとか。私たちの会社が受けた恩を知らなかったでは済ませられない。基本的な礼儀さえ欠いていると思ったものでした。
共に新会社を設立
あなたは、あまり喋らないお人でした。のめりこむように、黙々と業務をこなしていく。真摯な仕事への姿勢は、有能なアドミニストレーターとして評価されていました。A社のあなたは、E社のビッグウエルカム作戦と名付けられたプロジェクトに取り組んでいました。全国の新車登録者に、その人に最短距離のSSをDMで紹介して来店利用を呼びかけるというプログラムです。
ビッグウェルカム作戦が、所期の目的を達成しました。そして、次に作り上げたのがEEプラン(EXTRA SALES EXTRA PROFIT)と命名した作戦です。具体的なプロジェクトにするために、私たちは金沢市で合宿ミーティングに入ります。そこはHNさんの営業時代の在任地で、彼にあなたや私、H社のKKさんが参加して、プランを練り上げました。
全国の販売店が、エリア特性を活かして展開するセールスプロモーション支援プログラムです。その頃、E社では特定の販売店を対象に全国統一プロモーションを展開していました。これを地域特性を活かしたアレンジでの展開を推奨指導しているうちに、独自のプロモーションが展開できるプログラムを提供しようと。あらかじめ用意したメニューから、選択ができるようにしました。
この展開のために、EEブランセンターの構想が出てきました。あなたが在籍していたA社、私がいたSA社、KKさんのH社の共同で事業所を立ち上げようと。HNさんは、E社の担当窓口として機能する手筈でした。この構想を、まず、私が自社のボス、HYさんに提案したのですが、受け入れてもらえない。そのために、あなたがいたAA社の社長に協力を快諾してもらったわけです。
EEプランセンターを起業することにしました。ただ、EEプランは、E社のプロジェクトから生まれた名称であり、社名にするのは問題だという声が上がり、私たちの会社は名称を変更することになります。その頃にはHNさんは、E社を退社して叔父のS建築事務所の経営をまかされるようになっていました。私たちの会社は、HNさんの会社の仕事も手伝うようになります。
四ッ谷で本格事業を展開
KKさんが大久保に借りていたアパートの一室を事務所にします。フリーの立場だった私を代表に、あなたはAA社の社員のままで、あなたもその事務所に通います。若い私たちは、熱く燃えていました。AA社にいたコピーライターのTMさんもスタッフの一員となり、大久保での仕事は忙しくなります。私は代表の名刺をつくり、あなたは専務の名刺を持ちました。
ほどなく、私たちの事務所を、あなたが通っているE社にほど近い、赤坂に移すことにしました。しばらくした頃、仲間のHNさんが出資していた四ッ谷三丁目に事務所があったE社が、倒産するという情報が入ってきました。何とか債権を確保しようと、急遽、そこに所に私たちの事務所を移して、一画を占拠することにしました。やがて債権者が怒号を上げて大勢やってきます。
私たちは、善意の第三者です。結局、前の会社の権利金を引き継ぐという形で、広かったスペースの半分を区切って私たちの事務所にしました。ここで、私たちの会社が会社らしくスタートしたわけです。あなたはようやくAA社を辞めて私たちの会社の仕事に専念することになります。その頃から、あなたは事務所の営業、代表としての顔で、E社と取り引きするようになります。
デザイナーのTEさん、KYさんに、新しくSYさんがコピーの一員となり、営業にSMさんも加わりました。経理を手伝うかみさんを含めて、七人のメンバーです。私は、E社の仕事はほとんどしなくなり、新人のSYさんが担当することになりました。私は、S建築の仕事を中心に、M社のブランドマーケティングなどの他にも、いろいろなクライアントからの仕事で忙殺されます。
あなたは、そのうちにS社の代表になっていたHNさんの要請で、S社の経理を手伝うことになりました。赤坂のE社に毎日のように顔を出しながら、世田谷にあった事務所に通い、資金繰りにもかりだされていたようです。そこまでやるかという、思いがつのります、そして、私たちメンハーは、また離散するようになります。その後、私は、原宿で新しい会社をつくりました。
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