孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2008/09/29 3:49:54|エッセイ・日々是好日
仲秋の午寝
●仲秋の午寝 2008.09.29(月)

スタッフ
もてなしの心をスローガンにして

 「スタッフ」は最初に仲間と作った会社や、次に作った会社の社名に入れた、私の役割を鮮明に宣言するポジション名です。私たちの立場は、キャストではなく、あくまでも何かのお手伝い領域で仕事をしようとするもので、最初がSP、次がクリエイティブを頭につけました。ちょっと気恥ずかしいネーミングで、ピアニストのKIさんの後援会をやっていた時、私たちの有り様が気に食わないと、会員のひとりから社名にやっかみ絡みのようなイチャモンをつけられたことがあります。そのご仁とは、手紙で喧嘩をしましたが、いま思い出しても苦々しさが去来します。
 
 フランチャイズチェーンの運営マニュアルでは、スタッフのアクションマニュアルは、重要不可欠のものです。長い間、外資のガソリンスタンド(正式名はサービスステーション、略称SS)の、マーケティングのお手伝いをしてきました。まだ業界が華やかしき頃で、他社ですが「オォ、モーレツ!」のCMが話題になり、多くのCMがテレビを賑わしていました。SSでのプロモーションも盛んで、その企画や制作に追われていました。その外資企業のチェーン展開マニュアルは、業界のバイブルといわれたもので、見せてもらう度に身震いするほどの出来でした。
 
 そのチェーンのSSに向けての、スタッフマニュアルがあります。それは基本的なもので、年6回のプロモーションごとに作られるマニュアルや毎月のハウスオーガン、また、トレーニングマニュアルの制作は私の担当領域です。この企業は、外資でありながら、日本の市場に合せたマーケティングを展開することを基本理念に、多彩なキャンペーンやプロモーションを実施していました。これらの企画やマニュアルのノウハウは、その後、たくさんの企業の販売店スタッフマニュアルづくりに活かされます。私たちは、重宝がられた希有な存在だったと自負しています。

 そんな仕事を続けていると、各社のマニュアルや情報が集まってきます。もちろん、社外秘扱いの極秘書類です。そんな情報の中で、TDLのスタッフ・スローガンが、特に、私のお気に入りです。「ほら、みてごらんよ。/こんなにたくさんの/嬉しそうな顔を/見たことがあるかい。/こんなに楽しんでいるところを。/僕は、一人でも多くのひとに/笑顔でパークの門から/出ていってほしいんだ。」ここではスタッフは「キャスト」と呼ばれています。楽し気なパフォーマンスを披露してくれる掃除担当もキャストであり、もてなしの心配りは見事なものです。

 サービス業である販売業には、このような心配りが欠かせません。CS(個客満足)は商売繁盛の基本であり、このスローガンは、CSの基本の心を、やさしく、具体的に表現しています。影響されやすい私としては、いろいろなチエーン店の、スタッフ向けのスローガンに、心を同じにした、アレンジしたスローガンを送り届けました。単に、商品が良くて、安ければよいとするのではなく、個客に対して、満足してもらえる商品は、価格やブランド、機能、品質だけでなく、販売環境の快適さや接客態度など、総合的なものです。笑顔で、出ていってもらうことです。


●仲秋の午寝 2008.09.28(日)

メディア
彼岸と此岸では差がある価値基準

 私はメデイアのこちら側と向こう側を、此岸と彼岸と呼んでいます。テレビでいうなら画面を見る側と送る側のことです。広告産業のごくごく片隅に身をおいていた私にとって、知ったかぶりしかできませんが、それでも少なくない見聞を体験してきました。最近は、此岸の一般の人が、送られてくる情報や彼岸の事情に対して、一家言を持つ人が増えていることに、少しばかり気になることがあります。もちろん、受けた情報を批評し、評論することは、何のお咎めもなく、それはそれで格好の話題でしょう。しかし、思い違いや想像の域を得ない断定も少なくないようです。
 
 いわゆる業界通というのでしょうか。彼岸の事情を知っていることで、何か自分を特別な人間に見せたい、見られたいと、そんな思いを抱いてしまうのかもしれません。いつだったか、電車の中でそのころ関心を集めていた若い女性タレントのゴシップを聞こえよがしに話している若い女がいました。話す内容は、男たちの酒の席の与太話しのような、日中には聞くに耐えない話です。まわりの人たちは、聞こえないふりをしながらも耳をそばだてます。その女は、調子に乗って声が大きくなります。どう見ても、話からその芸能業界に関係する人ではないみたいです。
 
 彼岸は、そんなに特別な世界でしょうか。確かに、競争の激しい世界ですが、それはビジネスの第一線の状況と大差はありません。ただ、視聴率競争などにしのぎを削っているメディアが仕掛けている、フィクションのような面白く、脚色したお話しです。大体、誰が誰と何をしたっていい、その人たちの自由です。それが一大事のように話題にする此岸の女の子や男の子たちは、彼岸の戦略にまんまと乗せられいてることに気付かない。ただ、彼岸のタレントや業界人は、そんな此岸の人たちの注目をつくることで、大きな金額が動くビジネスを展開しているわけです。
 
 彼岸が身近に感じるのは、此岸と彼岸の垣根が低くなったように感じることもあるでしょう。ごく普通の女の子や男の子が、あれよあれよとスターダムに登ってスポットライトを浴びていく。自分は志さなくても、隣にいるような子が注目をあびるのは、隣りの子が難しい学校に合格したことに接するような感じなのかもしれません。しかし、此岸と彼岸が大きく違うのは、経済価値なのです。彼岸では、日常の消費生活では考えもおよばない金が動きます。当然ですが、大きな産業として、多くの企業とそこの社員たち、流通関係者が生きていかなければならないのです。
 
 ここでもITが作用しているように思います。彼岸が身近に感ずるのは、インターネットとパソコン、携帯電話などが、疑似彼岸をつくり出し、自分がその中で送り手になった気がするからかもしれません。自分の思いつくまま、気軽に、安価に、マスメディアなみの品質で、印刷物風のメディアが、しかもカラーでつくれる。編集出版の世界です。自分の意見を、気兼ねなく、文字や映像で、放送局のように発信できる。これが高じていくうちに、質を他と比較することなく自分中心で、意のままに、自由に発信していく。すっかり彼岸の主人公になってしまうわけです。


●仲秋の午寝 2008.09.27(土)

デザイン
ITがアートの世界を選別したのか

 私の世界でいえば、グラフィック‐デザインのことで、ファッションは、縁遠い世界で、近付かないようにしています。また、インダストリアル・デサインについては、開発した新商品の容器のデザインや、建築や自動車など、マーケティングの絡みでその端っこには、何度か関わりを持ちました。市場的に、受けるかどうか、つまり、売れるか売れないかの予測はつきかねますが、好みとして、好きかどうかの意見を出せる程度です。一緒に組んだチームのクルーも、この点については私を蚊帳の外に追い出します。売るための、重要な要素のひとつではあるのですが。
 
 このグラフィック・デザインの世界も、ITによって変わったようです。私でも、マニュアルなどページもののレイアウト程度は、パソコンのDTPによって何とかできるように、この手の仕事は、デザイナーの手をわずらわせなくてもできるようになった。デザイナーの修業を積まなくても、アプリケーションの使い方さえ覚えればできる。考えようによっては、素晴らしいことです。これまでは、例えば20ページの小冊子なら、各ページとも同じレイアウトなのに、ページあたりのデザイン料を請求していたし、払っていました。それで通用していた世界でした。
 
 デザイナーは、アートで勝負しなければならなくなりました。この視覚による情報伝達、結果として行動を促す働きかけをも担わなければならない。これができてこそのプロといえるスキルでした。生来の才能もあるでしょうが、その画才に加えて、修練も求められます。広告、ポスター、カタログなどの商業印刷で、コピーライターがつくったコピーを生かすのも殺すのも彼らの腕次第です。本来は、目的である「売る」力などがあるかどうかまで求められるのでしょうが、掲示したポスターが剥がされるなどの話題にはなってもデザインの訴求力までは問われません。
 
 このようなデザインも、市場に出て目的を果たすためには、どこの誰がOKを出すかも問題です。ここにはその決定権者の好みの問題が入ってきます。はっきりいってアートの要素の強いポスターは、違いはどんなデザイナーの手によるかだけで、同じ作者なら大差がない、というより気を入れた作品に善し悪しはありません。自分の判断に自信がない決定権者は、上役への決定理由をうまく説明できない、そのために1点だけではなく、他に2〜3点の提出を求めます。その中で選ぶわけですから、はじめから、本命の他に当て馬を作っておく。デザイン稼業も商売です。
 
 いきなりコンピュータ・グラフィックは無理としても、普通の印刷物のデザインはパソコンでも、経験の少ない人にもできるようになりました。新人のビジネスマンでも、すぐにこなせます。商業印刷という分野で、かつてはデザイン会社の存在は不可欠でしたが、いま、アート系の印刷物以外は、不要とまではいわなくても、必要性が薄れてきたようです。印刷会社にもデザイン部門はあるし、クライアントだった事業所には、パソコンがあり、カラーコピー機がある。あの時代、元気だったデザイナーたち、わが世の春と謳歌していた彼らはどこへいったのでしょうか。


●仲秋の午寝 2008.09.26(金)

パソコン
導入できなかった職人デザイナー

 事務所にワープロを入れて数年たち、すっかり馴染んだころ、業界はCADに傾こうとしてました。デザイナー養成学校では、DTPの授業を積極的に取り入れ、修業生を次々に送り込んできます。スタッフ数名の小さなデザイン事務所も、どの時期にパソコンを入れるかを考えていました。うちの事務所がいつも組んでいるデザイナーたちは、まだまだ手作業です。それで支障なかったのですが、紹介されて仕事を頼もうとしていたデザイン事務所が、パソコンを使っていると聞いて、俄然興味をもち、すぐにもリーフレットのデザインをお願いすることに決めました。
 
 ただ、そのころのパソコンの使い方は、DTPデータを印刷会社に渡すといったとこまでいきません。デザイナーが版下をつくるために、写植代わりに、パソコンで出力した版面を使うという程度でした。それでも外注していた写植や版下が要らず、制作時間が短縮でき、コストダウンにつながるというわけです。クライアントからデザイン料や写植版下費の値下げ要求がきつくなり始めていました。版下作業までを取り込めれば、デザイン事務所として、なんとか、いままで通りの経営が維持できそうだと踏んでいました。急ピッチなパソコン導入が始まります。

 私たちのパソコンとは、クリエイティブソフトが充実しているマッキントッシュ(MAC)で、いま、一般オフィスで普及しているウィンドウズ(WIN)ではありません。いまでこそ、両方のOS向けに同じソフト(アプリケーション)が発売されていますが、クリエィテイブ作業にはMACでした。そのころから少しずつ増えているWINパソコンは、あくまでも、ビジネス用OA機器と認識されています。そのころから、やがてWINが市場を凌駕するといわれ、いま、その通りになっていますがクリエイティブの世界では、いまなお、MACが健在、本流です。

 ワープロがタイプ印刷を駆逐したのと同じように、パソコンが写植や版下作業を追いやってしまいました。この状況が進むと、さすがに、デザインは手仕事が本分で、アートだといっていたベテランたちも、気をもみだします。時代の流れだと、進んでMACに取り組んだ人たちがいます。取り組もうと、装置を入れて、インストラクターの指導を受けた人もいます。しかし、売れっ子の忙しいデザイナーほど、習熟するための時間が取れません。パソコンで仕事に取り組もうとしても、ついつい手作業の方が早い。いつか、やれるうちは手作業で行こうとなっていきます。
 
 私たち企画やコピーの分野では、ワープロで十分に仕事ができました。仕事は見た目のきれいさよりも中身、内容です。もちろん、読みやすさや理解しやすさのために、デザイン上の工夫は必要ですが、それはワープロでもできること。パソコンの売りは、ワープロもできるし、デザインや絵を描くこともできるなど、私たちの業務に関連するいろいろな作業ができることです。いままでは、分担作業だったデザインの仕事は、簡単なものなら、私にもできる。もちろん、安くない外注のデザイン制作費を節約することができます。私もパソコンを入れることにしました。


●仲秋の午寝 2008.09.25(木)

ワープロ
四半世紀前からの最良の筆記用具

 原宿にあった事務所に、ワープロを入れたのは昭和57年のことです。26年前になります。ディスク1台分の大きさもあるR社のその機械は、狭い事務所に、どっしりと座りました。当時はまだ珍しく、取引のあったタイプ印刷会社のタイピストが見学に来ました。ワープロが彼女らの仕事を奪ってしまうのではという危機感からてしょう。その実、後の数年間に、街のタイプ屋さんは次々に消えていきます。また、同じマンションのテナントで、全国で話題の人物、ロス疑惑のMKさんも事務所に見に来たとことを思い出します。彼も新しものがり屋だったのでしょう。
 
 OA機器として導入されたワープロは、もっぱらタイブ代わりの清書用として使われました。オフィスで専任のオペレータが、下書きした文書をタイピングするという使われ方で、操作はそれなりの技術が必要とされ、書き手が筆記具として使うのはもう少し後になります。コピーライターの世界でも、最初の頃は、クライアントへの提出原稿用に使いました。ちょうど仲間と始めた事務所から離れて、私が代表の株式会社を立ち上げたときで、総勢アシスタント2名との陣容です。ワープロはボスの私の専用機で、空いたときだけスタッフにも使わせていました。
 
 操作は、導入したときにインストラクターに2〜3日間、教わっただけで、あとは自分流に慣れていきます。あるのはワープロ機能だけですから、そう難しくはありません。入力はJIS配列と50音順のキーボード、タッチペンで入力するタブレット式の3種類あり、さすがに私としては現在と同じキーボードを選びました。はなからブラインドタッチなどを覚える気がなく、右手1〜2本指の入力で、いまだにそのままです。もっとも、自分の頭で考えながらつくる文章を、自分が書く速度くらいに入力できればよしとしていたので、原稿を見ながらの清書とは違います。
 
 2ストローク入力を取り入れたのですが、いまはすっかり忘れています。R社のの機器はH社のOEMで、2ストローク入力はH社独自のやり方らしく、それに慣れた私は、パソコンになった今でも、2ストロークの手引書を必死に探しいるのですが、もう、どこにもないようです。どなたかお持ちの方があれば、譲ってもらうか、コピーさせて欲しいと願っています。やがてパーソナル用のワープロが市場に出回りはじめます。広告代理店経由で、T社の仕事を手伝っていた私に、T社のパーソナルワープロの販売店用セールスマニュアルの仕事が入ってきました。
 
 まず、販売企画づくりです。なんとかワープロを使いこなしかけていた私は「マスのコミュニケーション精度を個人レベルに持ち込んだ筆記具」として位置付け、販売店の取材で得た情報などをもとに、店頭での効果的な販売方法を考えました。この時は、企画提案だけで終りましたが、それなりのインパクトをもって受け入れられたようです。以後、T社のワープロのセールスマニュアルは、事務所を四ッ谷に移したころには、米びつ的な仕事のひとつとなり、専任のコピーライターをつけました。そのころには、スタッフ専用のワープロがフル稼動していました。


●仲秋の午寝 2008.09.24(水)

男は器量
女は度胸男は顔と才の器量で勝負

 「男は器量、女は度胸」が、私の思い込み信条です。器量とは「顔だち」と「才能」の意。男は、なんと言っても「顔」と「才能」です。男にとって“素顔”は履歴書、一瞬のうちにその人の生きざまを伝えてくれます。私は、男は40歳を過ぎたら、顔に責任を持たなければならないと思っています。例えば、テレビ報道などで見る、食品偽装をした社長の顔。みな同じ面構えで、等しく品がない。どうしてああも似てしまうのでしょう。他の犯罪の被疑者の顔は、たいてい警察が隠して見せませんが、多分、品がない顔でしょう。器量が感じられない人たちです。
 
 政治家の顔もいろいろです。よくまあこの顔で、人前やカメラの前に立つかねぇ、という人から、数は少ないようですが、いいお顔の方までいろいろです。品のない顔を選んだ国民の哀しみを感じてしまいます。男のいい顔は、いわゆるイケメンだけではありません。イケメンでも下品な面相もあり、イケメンとはいえなくても、惚れ惚れするような上品な顔もあります。その人が、どんなシチュエーションで面をさらすかです。人前に出たり、カメラの前にさらせる顔には、向き不向きがあります。出さない方がいいよという顔もありますが、ご当人は我存ぜずです。
 
 私は、人様のことをあれこれ言えません。少年時代から、外観には劣等感を持っていて、ひとの顔をよく覚えられないのも、自分の顔に自信がなく、相手の顔を正面から見据えることができなかったためでしょう。そんな私の顔や容姿を、人前や公のカメラの前にさらけ出してはならないと言い聞かせていました。若気のいたりで、演劇の舞台に立ったこともありますが、傍役で一度だけです。仕事を含めて、できる限り表に出なくてもよい裏方の役割に徹してきました。ただ、40歳を過ぎてから、この顔でも、なんとか人前に出られるかなと思った逸話があります。
 
 新潟県加茂市は、全国に知られた桐箪笥の名産地です。そこの協同組合から需要開拓のためのマーケティング調査と企画立案の依頼がありました。始めて出向き、組合長たちと新幹線駅の改札口前で待ち合わせをすることになりました。体型や服装、持ち物などを伝えてありましたが、分かってもらえるか不安です。しかし、一発で互いを認識し合えました。あとで、想像通りの風体で、しかも、安心して信頼できそうな人柄とわかりました、という言葉をもらいました。そのころから、この顔でもなんとかやっていけると、講演の講師まで引き受けてしまいました。
 
 だからといって、まだまだ私は調子に乗れません。人間関係を快く保つためにも、人前に出る役割はできるだけ避けています。とにかく、男は器量で勝負なのです。いい仕事は、いい顔に育ててくれます。そして、女は度胸。男女共同参画が叫ばれて久しくなりますが、そんな職場や団体は世に数多くあります。身近になかったら創れば良い。古い、顔つきの良くない親父たちなど「度胸のスクラム」で蹴散らせばよい。そして、仕事の質で、内容で勝負すること。度胸を発揮することとは、感情に走らず、理性的、計画的に、理にかなった大胆な行動を取ることです。


●仲秋の午寝 2008.09.23(火)

アイデア
企画から実施まで人任せの苦労

 アイデアだけでは企画とはいえず、企画になっても採用され、実施されるとは限りません。アイデアは「思いつき」であり、ほとんどの人が発想できるものでしょう。もちろん、発想するにはそれなりの情報とその整理や構築能力が必要であり、常時、この心構えと訓練が必要です。この備えがないと「何かも良いアイデアはないか」と、突然いわれても、すぐには出て来ないもの。アイデアの多くは、いろいろな事象の組み合わせや転用が多いものであり、世界初の独創的なものなど、アイデアマンだといわれる人にだって、そうそう出てくるものではありません。
 
 発想するには、まず、課題意識が必要です。耳タコですが「必要は発明の母」と言われるように、何のために発想しようとするかを確認すること。突然、急にひらめくようなこともありますが、それは頭のどこかに、潜在的にいつも課題を持っているからのようです。解決したいこと、何のためなのかの目的をはっきりさせておくことです。それとともに、いつも好奇心を持つことが必要です。どんなことにでも、関心を持って観察する。そして、それを面白がること。いちいちメモを取ることも人によっては必要かもしれませんが、ちょっと重い感じは否めません。
 
 アイデアを実行に移すためには、企画化するプロセスが必要です。具体的な目的のために、アイデアを加工する作業です。マーケティングの世界には、ひとつのアイデアをいろいろなクライアント用に加工して提案する企画会社のプランナーがいました。クライアントと商品名を変えれ出来上がるような企画書をプレゼンします。それが前に当った企画の場合は、あえて、二番煎じであることを隠しません。柳の下の、二匹目、三匹目のどじょうでも、一匹目のような爆発的なヒットはかなわくても、そこそこにヒットするだろう。それでよしとする考えです。
 
 その方法は、それはそれで堅実というものでしょう。もちろん、当った企画をすぐに自分のものとして実施できることは容易なことではありません。それがすぐ実行できるだけの潜在能力を持っていた証といえます。実は、内部にビッグな企画があっても、それを生かしきれなかった何かがあったのかもしれません。よそで当ったのなら、その環境はできていると見て、すぐに追従する。これは意思決定者の能力の差と言うより質の違いのようです。上司やオーナーなどを気づかうあまり、リスクの伴う賭けにはでられない。しかし、そこそこのポイントを稼ぐ堅実さです。
 
 その意思決定をオーナーができる中小企業が、ビッグなヒットを放せる理由ですが、大企業でも権限移譲がきちんとしている企業にもありました。ある外資の企業のプロマネは、彼がいい企画だと判断したら、すぐ実施に移しました。提案する方も、愉快です。私たち企業の外のプランナーにとって、これはという企画がボツになるほど悔しいことはありません。提案する度に日の目を見ない仕事は、たとえ幾ばくかの企画費がもらえても精神衛生上よくない。ウマのあう意思決定者に出会うと、新しい挑戦意欲が出て、新鮮なアイデアと企画を生む素になるものです。







2008/09/24 5:57:57|エッセイ・日々是好日
〈番外編〉07年正月エッセイ大賞顛末記
〈番外編〉
07年正月エッセイ大賞顛末記


 06年初冬、地元のローカル新聞N社主催の「正月エッセイ大賞募集」のチラシを見つけました。締切り日が、近付いた日のことです。

 3つのテーマから1つを選んでの募集です。
 1.西多摩への思い
 2.正月の思い出
 3.私から○○へのメッセージ
 西多摩在住、在勤、在学、年齢不問、未発表作品、原稿用紙3枚(1200文字)以内での応募で、入賞者には賞状および商品を贈呈、作品を本紙の新年号(07年1月1日発行)に全文掲載とのことです。

 この時点では、賞品に何がいただけるのか不明です。紙面掲載が大きな栄誉だと主催側がそう認識し、読者もそうに違いないと思っているのでしょう。一般対象では、作品がメディアで発表されることは、それがローカル紙ではあっても、画期的なことだと思っているのかもしれません。しかし、いまはITの時代です。かつてのようにメディアへの接し方や価値観が大きく違っています。自分初の世界向け情報が、自らの手で手軽に発信できる時代なのです。
 
 また、どんな方が、どのように審査をして、その経過を発表するのかはわかりません。ローカル紙とはいえ、公器としては、いささか配慮が行き届かない公募方法だとは思いました。チラシの裏面は白紙でした。ま、それもいいかと、購読が条件ではなく、作品点数の制限がないようなので、3つのテーマ全部について、3作を急いで書きあげて応募しました。

 審査発表がないままに正月発行の編集印刷のタイミングからも、間に合わない時期になっても何の連絡もありません。そういう紙かと思いながらも、どうなっているのかと社に電話をしてみました。すると、先日、入賞式がありました、と。落選だったわけです。本紙では報道していたのかもしれません。

 落選はいい、しかたがありません。審査する側の価値観なのだから。それにしても、正月の紙上発表の前に、ひとことの通知があっていいのではないか。募集なれしていない、所詮、ローカルの無礼な紙ではなかろうかと、少なくない怒りを覚えました。負け犬の遠吠えです。

 私はこの紙を購読していません。正月がきて、N新聞が送られてきました。帶封の宛名面に手書きのメモが書いてあります。「エッセイ大賞へのご応募ありがとうございました。最終候補作として、お名前を掲載させていただきました」。やっと届いた連絡です。早速、紙面を見てみました。

 『第1回N新聞エッセイ大賞の大賞に、TRさん(71)の「正月の思い出〜百人一首の思い出〜」が選ばれました。優秀賞はOTさんの「私から司君へのメッセージ」、審査員特別賞はFNさんの「私からすべての協力者へのメッセージ」。同大賞には40近い作品の応募があり、編集部の1次審査と作家のNSさん、YFさん、MMさんの外部審査で受賞作を決定。最終候補作にKTさん(私です)の「西多摩への思い」と、OMさん「私からさくら組の子ども達へのメッセージ」が残りました。先月16日に西多摩新聞社内で表彰式を行い、受賞者に表彰状と賞品を贈呈しました』。

 審査の人たちが分りました。まだまだ地域情報に疎い私は、失礼ながら知りませんでした。これからは地域の文化に親しむことも必要かなと、ちょっと考えましたが、そのためだけでは、まだ、新聞購読の動機にはなりません。

 しばらくして、同社から講評が送られてきました。
 『この度は、第1回西多摩新聞エッセイ大賞にご応募いただき、ありがとうございます。最終候補作として、本紙新年号にお名前と作品名を掲載させて頂きました。遅くなりましたが、外部審査員の講評を送らせて頂きます。宜しくお願いもうしあげます。編集部 MT』
 ここでも、紙面掲載価値へ思い込みが感じられます。

 ちなみにその講評です。

NSさん『西多摩への厚い思いがよく伝わってきます。全体的に固く、「青春を謳歌」「ラッシュなみの混雑」など平凡な表現がもったいない。「大切に思う三人のひと」は後半の伏線として、HさんIさんと書いたほうが分かりやすかったですね。特にラストの部分はレポートみたいで、書く力が充分にある方だけに残念です。音読してなめらかになるまで書き直す、という方法をお薦めします。Rさんとの思い出が素敵ですのでもう一度、彼女を登場させ、終らせてほしかったなあ』。

UFさん『西多摩への熱いメッセージ、しっかり伝わってきます。そこで生まれ育ち歳月を重ねてこられた方とは異なる「愛着の表現」が、このエッセイから切々と感じとれました。既に貴方にとって、西多摩は大切な「ふるさと」なのですね。過去から現在、そして未来へと、その思いが息づいていくことが予感させられる温かいエッセイでした』。

MMさん『西多摩への熱い思いが紙にぶつけられていて、読んでいて気持ちがいい。土地を元気にするのも、荒れ果てた地にするのも、もはや大きな力を持ってしまった人間にゆだねられているんだな…』。

 3つの作品を応募したのですが、他の2作品には触れていません。他の選外応募者にはどのように対応したのか分りませんが、まあ、それだけのものなのでしょう、

 最終候補作になった作品です。没になった、他の2作品も併せて紹介します。

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西多摩への思い

 Rさん、いま私は、あなたが生まれ育ったまち、福生に住んでいます。五年たちました。独り暮らしですが、心やさしい「福生なひとたち」に囲まれて過ごしています。六〇年に上京した当時、北多摩郡だったまちで青春を謳歌し、南多摩郡だったまちで仕事に忙殺されながら、所帯をもって子育てを終えました。そしていま、この西多摩のまちで、私のできることで、何か恩返しをと老骨にむち打っています。

 この西多摩に、大切に思う三人のひとがいます。今どこにおられるのかも知らないあなたは遠い初恋のひと。ひとりはいまは亡く、ひとりは現在友好進行形のひとです。

 青春時代、西多摩は「青い山脈」でした。休日の青梅線の電車は、地方出身の若者たちでラッシュなみの混雑です。うたごえ喫茶で覚えた山の歌や、ロシア民謡を、峰々に向かって歌っていました。その頃、奥多摩の山々は元気に輝いていたのです。私たちのデイトも、ときどきは喧噪を逃れて奥多摩や五日市のハイキングコースでしたね。友人と歩いた笹尾根のやさしさを、一緒に味わいたくて山に誘ったものです。なだらかな山の斜面に輝きながら波打つすすきの海は、幼い恋の物語のホリゾントでした。懐の軽い私達でしたが、街では得られないずっしり重い感動をもらいました。奥多摩の山々は、高度成長に立ち向かう若い戦士たちに英気を送ってくれていました。

 Hさんは、池袋の小さな広告会社のイラストレータでした。私が書くマニュアルのカットを担当する呑み仲間でしたが、音沙汰が途切れて何年か後、旅行会社のカレンダーの貼り絵作家になっていました。河辺に住み、西多摩を愛して、この西多摩新聞に4コママンガを連載していた彼と、また、仕事をしようとしていた矢先、突然、逝ってしまいました。彼が残した、青梅のS会館に展示してある「理想の都」は、西多摩の人々の明るい喜びを俯瞰で描きあげた叙情の大作です。

 この西多摩は、東京の三分の一を占める森林の郷です。多摩ニュータウンに住んでいた頃に、木造建築の仕事の相棒だったIさんが、木材の暴落などから荒廃した西多摩の山を元気にする仕事をしていることを知りました。熱い思いに共感し手伝いたくて、このまちに移り住みました。若い私に勢いと夢を与えてくれた西多摩の山に、少しでも役立ちたい。観光という視線ではなく、産業の場としての森が見えてきました。

 建主と設計者と工務店と製材所と林家が、顔の見える関係の仲で、西多摩産の木を活かして、家づくりをしようと。全国的に広がっている木の「地産地消」活動の嚆矢でした。東京の森のもつ多様なはたらきに思いをはせながら、いま「地財地還」との環が、西多摩の元気をつくりだす地場産業になると、西多摩のポータルサイト、福生で生きています。

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正月の思い出

 松は明けていましたが、武蔵御嶽神社の参道は、そこそこに混んでいました。還暦を過ぎた男のゆっくりした歩みの初詣が、妨げられるほどの賑わいではありません。バスの降車場からケーブルカーの麓駅までの上り坂が、結構こたえるほどに、身体は弱っていましたが、凛とした山の大気は、清新な思いにさせてくれます。参拝という他に、「炎の可能性」を確かめたいという目的をもってのお山詣ででした。

 疎開先の東北の農村での正月は、このときばかりと贅沢に燃え上がるいろりの炎の思い出です。燃え尽きようとしている薪の間に、枯れた小枝を焼べる祖父の手許を見ながら、幼い私は、温かく和んだものでした。そこには、おじいさんが語ってくれる昔話もなく、ただただ静かで、燃える音だけの夜です。身を寄せた母の弟の叔父は。まだ戦から帰ってきません。私たちは、黙ったまま炎を見つめていてました。

 昼過ぎのせいか、立ち並ぶ宿坊へ出入りする人影もありません。その代わり、山の参道の茶店は、暖を求める人たちの笑い声で満ちています。その人だかりを観察するのが、もうひとつの目的です。集うひとたちのまん中に燃え上がる薪ストーブがあること。そこで華やかに燃える炎は、表の通りからもよく見えること。それがひとたちを呼び込み、ひとを落ち着かせ、売り上げを伸ばすという仮説を確かめることでした。

 小学生の頃、学校では新年式がありました。広い体育館で、思いきり大声で「年のはじめの〜」と歌うことで耐えた寒さを、教室のだるまストーブが和ませてくれます。お祝いに配るみかんを持った教師が来るまで、教室を一気に温めようと、おれがおれがと争って石炭を突っ突いては、さわいでいました。とっ組み合い、素手で殴り合う喧嘩はしても、いじめもない穏やかな日々。そこにも燃えさかる炎がありました。

 化石エネルギーによる石油やガス、電気での、炎が見えない暖房が一般的になり、山の施設でも、それに頼っているところも少なくないようです。スイッチひとつで点火、調整でき、手間のかかる燃料補給も不要という手軽さ。まわりは循環可能な木材という木質バイオマスエネルギー資源に恵まれている山の施設でもそうなのです。いまは薪炭としての燃料ではなく、チップやペレット化された燃料が出回っています。

 大気中の二酸化炭素を吸収して、酸素を供給してくれる樹木は、伐っても植えれば、枯渇しない低公害の循環型資源です。化石エネルギーを節約しようと、寒さを我慢して、不快で不機嫌になるより、ゆらぐ炎で和みながら、心行くまで暖をとりたい。この西多摩地域は、木材資源の宝庫です。山の施設だけではなく、身近な資源を上手に活用すれば、お手本を川下の人たちに示せて、地球温暖化防止にもつながるでしょう。

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リタイアしたあなたへのメッセージ

 長い間、ご苦労さまでした。そして、おかえりなさい。これから、慣れ親しんだ職場を離れて、地域社会での市民生活が始まりますね。そんなあなたへ、先輩風をふかせて、まちでの居場所づくりを指南しましょう。

 まず、最初にすることは「自分さがし」です。社名や職場名、役職名など、いままでに勲章にしてきた肩書き一切を捨てて、自分はどのような専門性を持っているのか、あるいは、どんなことをしたいのかを確認することです。「自分史」を綴ってみるのもひとつです。

 雇われるのではなく、自分で自分を活かしたい。そんなあなたは、いままで何をしてきましたか。小さい職場コミュニティの中に長く棲んでいると「オンリーワン」を「ベストワン」だと思い込んでしまうことがあります。その思いを捨ててください。あなたのできること、やってみたいこと、「専門性」をあぶりだしてみます。何となくでも構いません。そのことをこれから先の、地域社会での仕事にしてみましょう。

 パソコンで「報・連・相」をしていましたね。営業で苦手な人とも話を通せた「特芸」があったり、売り場での「魅せ方」、ものづくりの現場で「改善」してきました。地域社会では、あなたが貯めてきた知恵や知識、技能を引き出して使えます。お隣りさん、こども、障がい者、罹病高齢者、独居老人など、あなたのノウハウを待っているのです。それを地域で使いこなすには、換骨奪胎して市民生活でのスキルにすることです。

 地域の仕事には、コミュニティビジネスとしてお金を稼ぐことから、NPO法人としての仕事や有償、無償のボランティア、ただ、楽しめばよい趣味の活動など、いろいろあります。要は、あなたがこれからどのように生きたいのか、どんな満足を得たいのか、です。そのためには、取っ掛かりが要りますね。ネットで探すのもひとつの手ですが、地域でならリアルな仕事さがし活動が、より近道のようです。

 行政や社会福祉協議会の広報紙やホームページには、いろいろな活動やグループが紹介されています。問い合わせをしたり、相談するのもいいでしょう。私の場合、四十年以上、広告の世界で制作や企画の仕事をしてきたことから、広報紙の編集委員に応募しました。無償のボランティアですが、活動を通して、まちのいろいろ素敵な人たちを知ることが続いています。少し思いきっての、一本の電話から開けた世界です。

 ひとつのことから始めてみます。自分がやりたいことと、相手のニーズが合わないこともあります。「企画」で食べてきたのに「書く」ことで市民活動に入った私ですが、扉を開けるのはどんなスキルでもいいと思っています。とにかく、よさそうな部屋に当たりをつけ、ノックして、開けてもらうこと。居心地が悪そうにら、別の部屋を選べばいい。あなたは、自分好みの居場所を見つけてもよいときを迎えたのです。

**********************************************************
 ローカル文芸作家への道遠し、でした。

 この企画は、N社にとって、読者拡大のプロモーションのひとつでしょう。それだけに、地域文化発展のお題目だけではなく、購読者拡大マーケティングの一環として、読者なり、地域住民をどのように巻き込むか、カルチャー教室の域をどのように脱するかが、これからの課題かもしれません。貴重な体験をさせてもらいました。正しいローカルライフの過ごし方の一端を教えていただきました。
                        〈了〉







2008/09/22 3:34:20|エッセイ・日々是好日
美酒の夜長
●美酒の夜長 2008.09.22(月)

永住の地
ここは住み続けられるまちなのか

 市民の豊かさを目指す都市づくり、まちづくりは「物」と「心」のバランスが必要だ、とは実践的マーケティングの第一人者IMさんの持論です。(詳しくは、このブログの「ロマンある都市」の項で紹介)「物」だけ豊かでも、「心」だけ豊かでも、市民は豊かになれない、そのバランスが必要だと。いまは「ロマンの時代」で、ロマンとは「物」と「心」のバランスのこと。心寄りのことばかりしている為政者は頼りないし、物寄りのことばかりでも頼りない。行政に必要なのはこのバランスで、このバランス感覚がどれだけあるか。共感できる含蓄のある指摘です。
 
 このまちにとっての、豊かにしてくれる「物」とは、何でしょうか。まちのインフラ、道路・鉄道など産業基盤の社会資本や、学校・病院・公園・社会福祉施設など生活関連の社会資本も含めて、普通の都市生活が不便なくできる程度に調っているようです。市内の交通も、今年から福祉バスが運行されるなど、時間に余裕がある場合などには、車なしでも移動に不便は感じません。もっとも、高齢者などを対象にした交通手段であっても、あれまで曲がりくねっての路線が必要なのか疑問です。自宅から最長5分程度の徒歩移動は許容できるのではないかと思っています。
 
 このまちは東京都であり、都心へのアクセスも苦にはなりません。私のような自由業では、月数回程度の都内打ち合わせも難なくこなせます。市内には鉄道の駅も複数あり、都心への通勤圏内であり、運転間隔もラッシュ時には5分間隔程度で、大きなベッドタウンを通る通勤通学電車ほどの混雑はないようです。非日常的な都市生活を過ごせるまちであり、その意味からも、経済的、文化的にも東京都区内の生活と大差ありません。大抵の観劇もできますし、グルメのレストランでも、さほどの時間的な制約なしに楽しめます。もっとも、それは私には無縁の生活ですが。
 
 このような都市環境から、純粋な地方都市とは異なるまちであり、生活を豊かにしてくれる「心」の面でも、必要条件を満たしているようです。それでいて西多摩の森林も遠くないという環境。こんなまちですが、最近、数人のひとから、ここは長く住み着けないまちだと聞かされました。家を新しく建てようにも、その土地がないというのです。この点は私にはよく分りませんが、このまちでの居住を考えている人にはそうなのでしょう。通勤駅への徒歩至便の場所に、マンションはあっても、公営アパートが少ない。根無し草のよそ者は、永住しにくいのかもしれません。
 
 住民構成も、新興のまちと違っているように感じます。広い屋敷に象徴される古くからの根付きの住民がいて、築二、三十年の住まいの住民が、それに続いて根をおろそうとしている。都心への通勤圏とはいっても、ハードな勤務の多い企画系のビジネスマンにはちょっと住みづらい距離です。まちづくりや市民活動で見かける市民には、そんな人たちが少ない。評論家的で、組織的にそつなくまとめる管理職的な市民はいるが、平均化を優先し、平穏が何より大事とする人たち。その上層に、役所の職員たちがいる。超独創的な発想のまちづくりは難しいのかもしれません。
 

●美酒の夜長 2008.09.21(日)

添削指導
創ることと評価することの温度差

 ひとりの友人が戯曲を書いたので添削してほしいといってきたのは、半年以上も前のことです。芝居好きで、歌舞伎を始め、新派などの舞台観劇をしていて、リタイアした後は、存分に楽しんでいるようでした。文芸全般に造詣がふかく、自身でもいろいろ創作活動を続けているようです。書評もこなす、市販書の良作を発掘する、いい読み手として自認していました。自作の戯曲で、どんな舞台をつくりたいのかどうかは、確かめなかったのですが、処女作らしいその戯曲を、わくわく、期待していました。そして、その作品が送られてきました。早速、封をきりました。

 創作することと、作品を批評することは、別の頭の回路が必要なようです。優れた作家が、優れた読み手であることは、よく耳目にすることですが、批評は、私の器ではありません。人様の作品の添削指導は、仕事で、部下の書いたコピーをチェックするのとはわけが違う。で、ざっと読ませてもらいました。私なら、こうは書かない、というところはあります。これは作劇の基本的なルールからズレているのではないか、というところも気付きます。多分、それを伝えるのが私の添削指導なのでしょうが、こうは書かないとする「私」は、何者なのかを考えてしまいます。
 
 前に、このまちにエッセイを学ぶグループがあることを知り、見学させてもらいました。公民館事業の一環らしく、講師がやってきて、書き方を指導します。いわゆるカルチャー教室風のやり方なのでしょう。そのときは、参加者が宿題として書いてきた作品を読み上げ、それに対して、意見を出し合い、最後に講師が講評するというやりかたです。それぞれに個性のある作品が多く、それはそれで楽しませてもらいました。その女性講師が見学のはずの私にも、作品についての感想、意見を求めてきました。作品の批評なんて畏れ多いことで、パスさせてもらいました。

 都のしごとセンターの講座で、在宅ワークの文章講座に参加したときも、同じような体験をしました。このときも参加者のほとんどが女性で、自宅でテープおこしやリライト、簡単なルポ書きなどの仕事を希望する人たちです。その場でまとめたあるテーマについての考え方を発表して、意見を言い合います。このときも、パスさせてもらいました。どうも、こんなやり方は好きになれません。互いに、変に遠慮しながらの素人のいいたい放題、これでその人の作品や考えのまとめかたが良くなるとは思えない。人当たりの良い、平均的なものにしかならないのではないかと。
 
 実利的な目的のある作品なら、批評もできます。企業などのビデオ台本を書き、チェックしますが、効果的に目的に適うかがその判断基準、ズバリ明解です。文芸作品や考え方は、その作者の思い入れが色濃くでるもの。それを端の者が、とやかくチャチャを入れるものではない。その作者が、そう書きたいし、思いたいのならそれでいい。要は、その作品なりが、自分にとってどのように感じたか。自分の思いからの感想でしょう。素人同士の作品の叩きあいなんて、人間関係をわるくするだけ。で、友人の作品はといえば、歯がゆい、私なら別な書き方をします、と。


●美酒の夜長 2008.09.20(土)

信仰治癒
信仰の神力で難病を治癒する願い

 うれしいEメールが入ってきました。九州に住む大切な友人SUさんからです。気になっていた病気が大分良くなって、通院は二カ月か一カ月に1回というところで、いまのところ特に心配はないという報せです。1年数カ月前、生死に関わるような病におかされ、余命があと何ヵ月とまでと宣告された、厄介な病気を報せてくれたのです。急な知らせで、びっくりし、あわてました。何せ、遠いところに住んでいます。すぐにでも駆け付けたい思いの中で、それができないことのいら立ちと、悔しさを味わい、いま、ここでできることは、一体なんだろうと考えました。
 
 医学知識のない私には、報せてくれた病状が、どれほどのもので、その治療に何がいるのか、全くわかりません。自分の無力さに、腹立ちながら、IMさんのことを思いだしました。彼は、私が最初に勤務したH社M工場の数年後輩で、職場文芸の仲間でした。共に、その工場を退社した後も交友が続き、彼が書きあげた小説を、当時、知り合いの印刷出版会社で、自費出版をすることになり、そのお手伝いをしました。企画会社に席をおいていた私は、小説を書く心のゆとりもなく、ただ、マーケティングの世界でのライターとして、日々を忙しく過ごしていました。
 
 その彼とは、結婚式の司会を引き受けたほどの仲でしたが、年賀状の交換くらいの付き合いになっていました。ある日、彼から長い手紙をもらいました。数年前に、彼の叔母さんが喪服の準備までして迎えたという、病の手術のときに、新興宗教とされていたSIの信仰のお陰で、まさしく九死に一生を得たという体験の知らせです。その頃、私は持病が少しずつ負担になり、それが目にきて視力が衰えていたときです。友人にもらした私の病状が彼に伝わり、心配して、彼の体験を伝えてくれました。クレバーなエンジニアの彼は、冷静にその教えを伝えてくれました。
 
 宗教に関心があり、その方面のいろいろな仕事の手伝いもしていた私としては、そういったこともあるだろうと、否定できる情報もないことから、彼から、いろいろな資料をもらい、事例も報せてもらいました。そんなときに、九州に住むSUさんに、この信仰治癒という道があるのではないか、私にできることはこれくらいかも知れないと、IMさんに手紙で相談しました。すぐに、その手続きの方法を報せてくれました。同時に、手続きだけではなく、治癒を願う私の祈りの方法も報せてくれたのです。本部に、祈祷料とともに、神癒をお願いするだけのことでした。
 
 やがて九州から、手術が無事に済んで、経過は良い、後は通院しながら養生することだとの知らせがありました。もちろん、信仰治癒祈願のお陰が総べてとはいいません。現代医学の力があり、彼の家族や兄弟、知人の思いも、彼の生命力を鼓舞したのでしょう。ほっとして、変化があったら報せてくれるだろうと、平安な日々を過ごしていました。そして、今度の知らせです。以来、私についてもIMさんは、目の治癒をはじめ、いろいろなことを祈願してくれました。宗教らしからぬその教えは、感謝の心で念じることですが、熱心な信者ではない私ではあります。


●美酒の夜長 2008.09.19(金)

家づくり
家は買う商品ではなく造るもの

 住宅の構造を木材で造る住宅を木造住宅と呼んでいますが、その種類はいろいろあります。私たち日本人が、いにしえから親しんできた家は、軸組真壁工法で造られる住宅です。家の構造を、柱や梁で支える軸組構造に、柱や梁で構成する空間を壁や天井、床の面で埋めていきます。従って、壁や床はなくても、家としての強度は保てる。雨戸や障子、襖を取り外せば、家中を風が吹き抜ける開放感にあふれた空間になり、大広間としていろいろな地域の寄り合いなどの行事に使ってきました。いまはこのような家をたてる人は、地方でも少なくなっているようです。
 
 地域の大工の棟梁が中心になって造ってきた家は、いまは地域の小規模な工務店や大工だけではなく、大資本のハウスメーカーやホームピルダーと呼ばれる地域の建築会社などが造るようになっています。その建築工法も様々です。日本伝統の軸組み工法は、在来工法と呼ばれ、割合としては多いのですが、他に、いろいろな工法の住宅が建てられています。家の大部分を工場で造り、建築現場で組み立てるプレハブ工法、木造ですが主要材を断面が2×4インチの木材を使って枠、パネルをつくり、箱を造るようにした2×4(ツーバイフォー)工法などいろいろです。
 
 そして、いまは家づくりを考えると、まず、各地の住宅展示場を訪ねることが一般的になってきました。たくさんの住宅が競い合っています。そこでセールスマンの熱心なアプローチに遭い、見込度合いによっては、豪華なカタログをもらい、帰ってからはセールスマンからの頻繁な訪問や電話セールスに見舞われます。家は、造るのではなく、自動車などと同じように、出来合いの製品を買うようになっています。何十年ものローンを組み、多くの人にとっては、始めての、一生に一度の大きな買物です。気に入らなかったからと、別のものに替えてとはいきません。
 
 情報を住宅雑誌やいろいろな書籍やwebで調べたり、経験者の話を聞いたりします。夫婦や家族で話し合います。結局は、価格的に折り合いがつきそうな中で、熱心に通ってくれたセールスマンの「信頼できる人柄」で決めてしまいます。できれば注文住宅にしたいのだが、設計料やなんやかんやで高いものになるだろう。それに、設計士を知らないし、見つけ方も分らない。間取りは大体決まっているし、設計士に頼む利点が分らない。あとあとの保証を考えたら。大手メーカーのブランドが安心だろう。いまや家づくりではなく、住宅製品選びになっているようです。
 
 価格も結構な幅があります。建築費は、坪単価が選択基準になります。建築総価格を、建坪で割ったもので、住宅展示場の製品なら坪40万円台からありますが、それはオプションなしの基準価格。あれもこれも欲しいと、追加変更していくと、坪60万、70万にもなってしまう。泣く泣く憧れのシステムキッチンを諦め、何とか自分を自分で説得するということになります。この家づくりは、予算との戦いです。私は40年近く、住宅産業でいろいろな住宅のマーケティングに携わってきて、歯がゆくてならないものがあります。予算をもっと上手に活用してほしいのです。


●美酒の夜長 2008.09.18(木)

完結情報
必要なことを伝えきってこそ情報

 一人で生活をするようになって気に入っているのが、ラジオやテレビを気兼ねすることなく、好きな時間に、好きな番組を視聴できることです。ニュースやドキュメンタリーが多く、NHKが中心になります。外出の機会が少なく、特に、都心に出かけることが減った私にとって、情報の取り入れ口になっています。とにかくたくさんの情報をかまわず詰め込む。それらの情報は、必要に応じて出てきて結びつき合って、新しい想像や創造につながるようです。いつの間にか、こんな情報処理の仕方を身につけていました。これなら、都心に住むだけが能ではないと思っています。
 
 特に、気に入っているのがNHKのラジオ深夜便です。仕事をしながらBGMとして流しっぱなしにしていますが、長いインタビュー番組は、お気に入りのひとつです。時には、緊急の地震情報などが挿入されますが、それもまたライブ感があってよろしい。CMがないのはよいのですが、舌足らずが気になることがあります。例えば、本の紹介などで、その価格が告げられないこと。また、番組で聴取者に行動を促しておきながら、問い合わせ先などを伝えてくれないこと。公共放送だから、特定の団体等の利益にならないよう配慮しているつもりなのでしょうか。
 
 その点、民放ですがベテラン評論家のATさんが、出版社名と定価をきちんと伝え、他のパーソナリティにもそのように指導していると聞きました。ジャーナリストとして情報の完結性に考慮していることを知り、さすが、と感じていました。この配慮のなさで、せっかくのよい番組が大幅に減点されます。放送を聞いて、次の行動を起したかったら、自分で調べなさいとでもいいたいのでしょうか。それくらいの積極性をお持ちなさい、そんな人たちを対象にしたメッセージなのですと、尊大な姿勢がまたまた、僻っぽい私には我慢がなりません。不親切な放送です。
 
 カタログで「オープン・プライス」という表示も気に入りません。価格は店頭で確認してください、というわけです。これまた、情報が完結していない。前に、Tガスさんから、広告代理店を通して、販売店の販促リーダーの会議の席で「販売店の販売促進の進め方」というテーマでの講演依頼があり、お受けしました。その打ち合わせの席で、販促の統括責任者が、セールの告知チラシには商品価格は表示しない、来場して、その破格の価格に感動してもらう狙いだと。思わず、彼の顔をまじまじと見てしまいました。それでは、見込み客は集まりませんよと告げました。
 
 売る側の「さあ、この価格で売ってやるんだ、欲しかったら、来て買ってみろ」的な思い上がりです。商品に関心をもった消費者は、それが「いくら」で買えるのかを知った上で、さらに、いくばくかの逡巡があって、行動を起すものでしょう。その商品が千円なのか、一万円なのか、はたまた十万円なのかは知らないわけで、そのくらい検討がつくだろうと、長く大企業の中で、売り渡してやる的な商売をしてきたのかもしれない彼には分らない。もし、私の講演を聞いてくれる配下の人たちも、そんな感覚なら困ったぞと、急きょ、予定の講演内容を少し変えました。
 

●美酒の夜長 2008.09.17(水)

レコード
ピアニストKIさんの記念祝賀会

 ピアニストのKIさんから、ハガキをもらいました。シューベルトの最後のソナタと即興曲を収めたCDをリリースしたとのこと。印刷した書面の署名のところに「お元気ですか?」とあの独特の文字で追記してあります。彼女の後援会をやらせてもらっていた当時のことを、急に思い出し、たまらないほどの懐かしさに襲われました。「演奏活動20周年をお祝する会」を開催したのが1985年でしたからあれから23年、もうじきに半世紀の活動を迎えようとしています。上野の大ホールを一人で満席にできるアーチストですが、最近はその一人にもなっていません。
 
 祝う会は華々しく行われました。彼女がG県出身ということから、発起人に当時現職の総理大臣のNYさんを始め、元総理のFTさん、現職の国会議員や県知事、市長などの政治家、日銀総裁、他に大学総長や一流企業の経営者、著名な芸術家やデザイナー、建築家、作家など、錚々たる人たちが並びます。しかも、ただのお義理の名儀貸しではなく、多くの方々は当日会場に出向いてくれました。年間の半分ほどをヨーロッパで演奏活動を続けていたKIさんの実力のほどと、親しみやすい人柄があってのことでしょう。私たちスタッフは、ただただ見守るだけです。
 
 建築家のSTさんから、後援会の事務局を頼まれたのは、その2年ほど前のことです。それまで、実質的な後援会長だったSTさんから、年2回実施していた後援会のサロンコンサートの案内チラシの制作を頼まれていました。日本建築の権威と目されていた彼は、私の建築の師匠であり、彼から設計の基本理念や日本建築の神髄について、多くを学びました。そのうちに、彼のメディア向けのエッセイ原稿などの下書きができるようになっていました。日本建築の素晴らしさや木の持つ魅力など、設計者としてではなく、ライターとしての修業をさせてもらいました。
 
 クラシック音楽とは、全くといってよいほどに縁がなかったのですが、KIさんの後援会を引き受けてからは、努めて、彼女のコンサートに出かけるようにしました。また、十数枚ほど発売されていたLPレコードを、後援会のサロンコンサートの会場などで買い揃えました。クラシック音楽は、分るとか分らないとか、頭で味わうものではないのでしょうが、彼女の演奏に親しんでいるうちに、他のピアニストの演奏との違いを感じるようになりました。音楽って、いいもんだなあ、と感じればそれでいいのかもしれません。ここでも、のめり込めない私です。
 
 レコードは、やがてCDやMDに変わっていきます。KIさんの演奏も、サティがCDで発売されてからは、CDに変わっていったのかもしれません。モノラルからステレオに、一時、4チャンネルステレオに変わったこともあります。その旗手メーカーだったV社の仕事をしていた私は、社の音響研究所を訪ね、!本溝のアナログレコードで、左右前後の音を完全分離できる技術力には感動したものです。一方、だからといってベートーベンが変わるわけではないだろうに、と覚めていました。いま、新しいCDでKIさんに会うのもいいものだろうな、と考えています。
 

●美酒の夜長 2008.09.16(火)

定年職人
職人はリタイア時を自分で決める

 今までに出会った素敵な劇画のひとつが「夏子の酒」(尾瀬あきら作)という作品です。新潟の造り酒屋の娘が、若くして逝った兄の遺志を継いで、日本一の美酒を造るという物語です。いろいろな農業問題や日本酒業界の現状を俎上にあげて問題を追求しながら、酒造りのプロセスをていねいに描くなどして、酒好きにはたまらない劇画です。テレビドラマ化した作品は、現地ロケの映像も美しく、長い物語をそつなくまとめた佳作に仕上がっています。ときどき思いついては、ビデオを取り出して、旨い肴として、クライマックスから後の、終りの方だけ見ています。
 
 酒造りも伝統と職人技の世界なのでしょう。日本のものづくりには、職人の技が重要なウェイトを占めていたようです。工業化されたものづくりの世界でも、職人技といえるような部分もあり、手仕事でなければできないような仕事もありました。そんな職人たちの中には、団塊の世代も含まれていて、企業の常として定年退職制度の中で、職場を離れていくというあり様が、いろいろメディアで紹介されています。私自身、実際の工場でのものづくりの現場をよくは知らないのですが、そんな技の世界を離れて、地域に帰ってきた人たちに強い関心をもっています。
 
 酒造りの世界でいえば、杜氏や蔵人たちも職人であるわけで、近代工業化されたものづくりの職人たちと違って、制度的に定められた定年というものがない。気力や体力の限界にきたときが退き時で、高齢でも働けたらそのまま仕事ができたようです。辞めどきについては、本人やまわりが、その仕事をどのようにとらえているかにかかっているような気がします。時間をかけて身につけた技を発揮する仕事が、本人にとってどんな意味をもつのか。その仕事を離れて、ほっと開放感を感じるのか。あるいは仕事を天職として、つくることへの喜びや満足にこだわるのか。
 
 職人の技は、その世界だけのもので、いわゆるつぶしはきかないものでしょう。当たり前ですが、酒造りの職人の熟練仕事は、家づくりの現場では通用しません。メーカーの製造現場での熟練仕事も、その現場ならではのものでしょう。そんな人たちを野に放つ企業経営者の、尊大ぶった蛮勇には憐れみさえ覚えますが、少しずつ見直されてはきているようです。報酬の問題や下の世代との調整などいろいろあるのでしょうが、要は、熟練技能者、職人たちのキャリアとプライドを認めて、支え、守ってあげることなのかもしれません。人は“気持”でも生きられます。
 
 特殊技能は、特殊な分野でのみ発揮できるので、普遍性は持たないのではないか。この高齢職人たちのスキルを、まちや自治体で、十分に受け止められないとしたら、そのスキルをアウトソーシングの対象としてシステム化できないものか。若者対象の人材派遣事業は、いろいろな問題を抱えながらも、社会に根付いています。高度な技能のニーズは、どこかにあるはずです。商工会などでは、エキスパートバンクとして指導者の派遣はしていますが、指導者でなくスキルフルな実働者としての派遣はできないでしょうか。もう、とっくにできているかもしれませんが…。









2008/09/18 9:10:32|プレゼンテーション
建主の住宅設計
建主の住宅設計


企画を立てる

 誰もが“いい家”をつくりたいと考えています。この“いい家”とは一体どんな家でしょう。ある人にとって“いい家”でも、他の人にとってはそういえない場合もあり、普遍的ないい家とはないといえましょう。“いい家”とは、それをつくる建主が判断するものであり、建てる土地や居住者の生活、好みや予算など、いろいろな条件に合致している家であるといえます。

 “いい家”をつくりたいという願いは、建主だけのものではありません。設計者はもちろん、施工者も全く同じ思いをもって家づくりに取り組んでいます。しかし、いざ完成して、また、実際に住んでみて、どこかしら気に入らない、不満足だという例も少なくありません。設計者に頼んで設計した家なのに、なぜ、気に入らない部分がでてくるのでしょうか。

 設計者といってもいろいろで、能力や経験の違いもあり、ひとりの人間である限り個性をもっています。建主の希望や条件を満たそうと努めながらも、十分に生かしきれなかったという点もあるでしょう。また、建主が考える家を、設計者の個性が受け入れないものであったりすることもあります。

 その設計者を選んだという点で、建主にもその責任の一端はありますが、それよりもまず、これからつくろうとする家のイメージを十分に伝えきれなかったという点も見逃せません。いい家づくりの条件は、すぐれた設計者を選ぶことと同時に、設計者に自分がどんな家をつくりたいのかを的確に伝えることだといえます。

 どんな家をつくるかは、設計者が決めることではありません。この段階で、専門家である設計者に相談して、その意見をとり入れることも必要ですが、あくまでも建主が決めることです。

 これは家づくりの企画です。企画という作業は、何も家づくりに限って必要なことではありません。どんなものをつくるときでも、意識するとしないとにかかわらず、実際の作業に入る前に企画を立てているものです。たとえば、料理をつくるときでもそうです。どんな料理を、どんな材料や器具顆を使って、どこで、どんな方法で、いつつくるのかを考えます。もちろん、どの位の予算をかけるのかも念頭におくものでしょう。

 設計者が設計にかかる前に、この企画を非常に重視しています。というよりも企画なしでは設計にかかれません。設計者は建主の家のイメージや希望を開き、実際に調査したりして、次のような項目に整理します。

 1. どこへつくるのか。(場所)
 2. どんなものをつくるのか。(内容)
 3. どんな方法でつくるのか。(材料、工法)
 4. いつつくるのか。(期間)
 5. いくらでつくるのか。(予算)

 このうち、1.と2.は〈目的〉であり、3.と4.と5.は〈制限〉です。目的は制限によって変えなければならなかったり、また、目的を実現するために、制限をゆるめなければならないなど、互いに相反するものです。

 たとえば、建坪40坪の家をと考えていても、かけられる予算によっては不可能な場合もでてくるでしょう。純和風の木造住宅をつくりたくても、防火上の法規制などからあきらめなければならない場合もあります。建築の場合、制限が大きくものをいうものであり、それをどう処理し、越えていくかが設計者の腕の見せどころであるともいえます。

 この企画を立てたら、次のステップである基本設計にかかります。基本設計とは、イメージでしかなかった家の概念を、具体的なアイデアに変えて、だんだんと実際の家のかたちをつくりあげていく作業です。

 この段階になって、目的とする家が、制限によってつくれないことがわかることもあります。この場合は、もう一度、企画の段階に戻ってやり直しをしなければなりません。企画から基本設計、そして、また企画へと何度か往復しなければならないこともありますが、決してないがしろにはできません。完成してから不満を感じる家は、この企画や基本設計を十分に検討しないでつくった場合に多いものです。“いい家”づくりのためには、何よりもまずこの段階に力を入れることであり、かけすぎて悪いということはありません。


企画の際に整理すること

 家づくりの企画で、建主として自分が描く家のイメージを、生活問題、経済問題、環境問題とに分けて整理してみることです。これをメモをするなどして、設計者に伝えます。もちろん、言葉で伝えるものでも構いません。

 生活問題とは、生活の面から家を考えてみること。家族構成はどうなっているのか、どんな生活様式なのか、食事は、来客はどうするのか、などなどあらゆる面から、つくろうとする家で、家族がどんな生活を営もうとするのかを整理してみます。趣味や余暇利用の仕方なども忘れてはなりません。また、冷暖房をどうするのかなどもあげてみます。

 建主によっては、具体的な間取りから入ってくる人もいます。決して悪いことではないにしても、間取りは基本設計の段階での作業であり、企画段階では、さほど気にする必要もありません。間取りを先に考えてしまうと、それだけから逃れきれなくなって、部屋の数や広さ、配置などをあれこれ考えることに関心が向いてしまいます。むしろ親子の断絶を防ぐ家とか、来客を家族ぐるみでもてなす家とかイメージする方が好ましいものです。設計者にとっても、その方が設計に意欲を燃やしてくれるものです。

 経済問題は、最も切実なものといえましょう。どんな建主にとっても、これが大きな制限要素になるものです。建築予算はどの位におさえるのか、資金はどのようにつくるのかなどを整理してみます。どこからどの位の借入金をして、どのように返済していくのかなどあげてみます。また、完成した家で使う家具などについても考慮しなければなりません。いま使っている家具をそのまま使うのか、あるいは新しいものを購入するのかなど決めていきます。

 この経済問題を整理する際、忘れがちになるのが住まいのランニングコスト、維持経費です。これを考慮しておかないと、完成後に大きな負担となって家計を圧迫しかねません。住宅というものは、ランニングコストを考えなければ、建築費そのものは安くあげることができるものです。

 自然の太陽や通風を利用せずに、冷暖房設備によって快適な室内空間をつくれますが、経費もそれだけ覚悟しなければなりません。建築費が安かったからといって、ランニングコストが高ければ、決して経済性にすぐれた家とはいえません。

 家の耐久性も経済性という点から重要な要素です。同じ建築費をかけて、一方が20年しかもたないのに、もう一方が40年もつ家なら、後者の方が2倍もの経済性があるといえます。これも先のランニングコストと同じで、耐久性を考えなくてもよいといえば建築費は安くできます。

 ただし、木造住宅の場合、耐久性を2倍にするためには、建築費は2倍かける必要はありません。耐久性を高めるために、わずか10数%位よけいにかけるだけで、耐久性を倍にすることができるものです。これは木造住宅の大きな特徴であり、知っておいて損のない知識です。

 増改築のしやすさも忘れてはなりません。家族のライフサイクルによって、10年か20年後に、増改築が必要になる場合もあります。増改築しやすいということも住宅の経済性にかかわる点です。あらかじめ、それを予定しておき、しやすい設計を依頼しておくことです。在来工法の木造住宅は増改築がしやすいのも大きな特徴です。

 次に、環境問題を整理してみます。これは設計者が企画の段階で十分な調査を行ってくれますが、建主としても事前に整理しておきたい項目です。これから家をつくろうとする土地や環境についてみていきます。

 まわりの家はどうか、町並みはどうか、学校や買物、駅までの交通は、騒音やその他の公害はないかなどいろいろです。このことを設計者に伝えておけば、それだけイメージがふくらみ、アイデアが出やすくなるものです。
 
 もちろん、土地の広さや形状、高低差や日照、方位、風雨、温度や湿度、道路、眺望、ガス、電気、水道、排水、法規制なども、調べられるだけ調べておくことです。これらの条件は、つくろうとする家にとって極めて重要なことです。


基本設計を検討する

 このように、これからつくろうとする家について生活問題、経済問題、環境問題から整理してみると、漠然とではあっても、イメージができてくるものです。これを設計者に伝え、さらに専門分野からの質問や調査などによって、より明確なイメージになっていきます。

 設計をしてもらうためには、どんなささいなことでも伝えることが肝心です。こんなことを話したら恥ずかしいという心配は全くありません。何といっても自分にとって、最もいい家をつくることが目的なのです。気軽に条件なり、希望なりを、断片的にでも伝えるようにします。設計者は、それを先に見た項目に整理して、さらに、設計者からの提案をも含めて基本設計をつくってくれます。

 基本設計ができると、おおよその建築費がわかるものです。この費用などの制限の中で、目的をどの程度実現しているかが、基本設計でのチェックポイントです。経済性からのチェックで、建築費だけではなく、ランニングコストや耐久性という面まで含めることは先にあげた通りです。

 建築費の予算から、希望した建坪が得られなかったらどうすればよいでしょう。たとえば、35坪位の家を希望していたのに、予算面やその他の希望から30坪位の家しかできないという場合です。この場合は、まず、他の部分の費用を削っても、希望の広さを確保するのが賢明といえます。

 作り付けの家具をやめたり、設備仕様を変えたりすれば、そこで削減できる費用を広さを確保する方に向けられるものです。生活は年月と共に変わっていくものであり、また、必要なものは徐々に付け加えていってもよいものです。

 その幅は約10%程度です。もし、それ以上の差が出たら、企画にまで戻って考え直してみることが必要です。ただ、いい家をつくるためには、絶対限度額があるものです。完成後や将来を考えた経済的な家づくりのためには、最低限必要な建築費がかかるものであり、単に、建築費だけの額の多少だけでは判断しないことでしょう。

 基本設計が了承されると、作業は、実施設計へと移ります。ここでは施工のために、具体的で詳細な設計図がつくられます。もちろん、この段階での直しも可能ですが、大きな手直しはいろいろな面に影響を与えかねません。

 どんなものをつくるのも同じですが、修正はできる限り早い段階にしておくことが肝要です。施工段階で修正したために、全体の調和がくずれ、建築費も大幅に増えて大きな不満の原因になったという例もあります。そうしないためにも、企画や基本設計のところで十分に検討しておくことです。


設計者との出会い

 いい家をつくるためにはいい設計者に出会うことが大きな要素になります。しかし、はじめて家をつくろうとする人にとって、どんな設計者がいるのかさえわからないのがほとんどでしょう。設計者はどのようにして選んだらよいのでしょう。

 まず知っておきたいのは、設計者には得手不得手があるということです。鉄筋コンクリートのビルやマンションの設計を中心にしている設計者もいます。また、木造住宅を設計する人でも、建築費のことなど気にかけなくてもよいといった家の設計ばかりをしている人もいます。やってできないことはないにしても、不得手の分野での設計を依頼するのは後の不満の原因になりかねません。

 その設計者がどんな仕事をしてきたのかを知ることが必要です。過去の仕事を見せてもらうなどして、それが自分がつくろうとする家に合っているかを見極めることです。十分な話し合いをすることも欠かせません。

 住宅雑誌で、気に入った家を見つけて、その設計者に頼んでみたいと思っても、相談してもらえるのか、条件が合わないときに断れないのではないか等、気がかりが多いものです。
 
 この点、たとえば仲介者を通すというのはよい方法です。例えば、東京の木で家を造る会では、同じ理念のもとに、いい家づくりを目指す、実績のある設計者が会員として、家づくりのお手伝いをしています。事務局では、希望の条件等を十分にお聞きした後に、最適な設計者を推薦しています。会った後でも、事務局を通して気兼ねなく相談ができ、万一、途中で合わないような場合でも、変えてくれるように要望もできるものです。

 これから先、何十年も住む家であり、大きな買い物です。あせらずに、まずは、東京の木で家を造る会に入会して、いろいろなイベントや勉強会で、家づくりを支えてくれる林家や製材所、工務店、設計事務所の人たちと知り合い、また。同じ会員と情報を交換するのも、いい家づくりに役立ちます。とにかく、めんどうがらずに、会の事務局にご相談することをおすすめします。

※東京の木で家を造る会については、本プログの著者に問い合せください。
                   (了)







2008/09/15 17:37:22|プレゼンテーション
ロマンある都市 その2
ロマンある都市 PART2


観光産業では地域住民の3〜5%しか生活できない

MM 最近、私が各都市を見てますと、観光開発という言葉が洪水のように氾濫しているわけです。リゾート開発とか、言葉はいろいろありますよね。あるいは余暇対策とか、言葉はいっぱいあります。
 
 ともかく、彼らは観光開発ということを盛んにやって、海のある所はマリンの開発だという。山がある所はスキー場、岡のある所はゴルフ場だという。そういうことが各都市の目玉になってるわけです。

 これだけ余暇が増大して、みんなのライフスタイルというものが余暇に金をかける。あるいは生活をエンジョイする。そういう部分が、ライフスタイルの中で大きな分野を占めてきているわけですから、当然行政と商業ベース、企業ベースが合体して、そういうものへ走っていくという現状はわからんではないんですが、もう少し日本は全体的な視野で国土資源の開発とか活用とかをですね。乱開発といいますか、猫も杓子も観光開発ではなくて、国土利用のアイデンティティーみたいなものが、もっと必要なんじゃないかという感じを、最近非常にしてるんですけどねえ。

IM 私がいまイタリア政府の顧問で、ウンブリアという一つの州を指導に、年に2回ぐらい行ってるんですが、そのウンブリアという所は、近鉄奈良線みたいな所で、1メートル掘ると国宝が出てくるので、それを処理するのに3年かかる。また1メートル掘ると国宝が出てくる。そういう所なんです。

 そこで産業を興す会議をするんですが「観光ですか」と言ったら、そんな所でさえも「観光で都市が食っていけますか」と言うんです。私はそれが大変気に入りましてね。

 私は観光産業というのは利子みたいな産業だというんです。一つは、都市はネーチャーとカルチャーと自然と文化を持ってますよね。

 さっきおっしゃった〈いい自然〉だといっても、そこに住む20万人の市民がみんな食べていけるかというと、難かしい。せいぜい5%位の人しか食べられないですね。これは預貯金の利子みたいなものです。ちょっと多い利子でも、7%から8%ですよね。

 〈いい自然〉を持っていても、そこの人口の3%から5%の人しか食っていけない。残りの97から95%の、ほとんど大部分の人たちは別のことをしないといけない。奈良という文化がありまして、40万人の奈良の市民が全部食べていけるかというと、やっぱり5%ぐらいの人しか食べていけない現状です。

 ベネチアあたりがGNPの中の観光収入が一番高いんですが、それでも10何%ですね。ローマは10%前後、京都なんかは3%か4%です。観光都市といっても3%が限度だろうと思うんです。

 それを藤ノ木古墳が見つかったというので、町長さんが、この村は明るくなったと言う。ネーチャーなんかでもツチノコ・サミットなんかやってる。ツチノコってヘビかモグラみたいなものでしょう。あれを見つけたら、この村は活性化するだろうというので、町長さんが賞金を出してやる。これでは一時の話題にはなっても、これで村中の人が食べていけないわけです。

 観光というのは利子なんです。偶然、いい景色があったから、それの利子として3%か5%がある。昔々われわれの先祖が、世界的な価値のあるお城をこしらえていたので、その利子として5%なんです。

 まして観光立県なんて、200万人県民が観光だけで全員が何かをやる都市なのかと思いますよね。観光に対する間違った考えがあると思うんです。

 生活の仕方の空間をこしらえるということと、観光とは別ですよね。工場をこしらえるのと同じようにリゾートをこしらえていく。私は政府のリゾート法案をこしらえるメンバーで、その場でいろいろと議論したんですが、学者の中でも「レジャー」と「リゾート」とを、勘違いしている人がいるんですね。

 レジャーというのは、働いて働いて余った時間と、働いて働いて余った金、つまり、余暇と預金を使うことですね。だから、3日ぐらいで息切れするわけです。今年のゴールデン・ウイーク、9日もありましたね。でも、一年間、一生懸命に働いても日本人は9日間、レジャーで使うお金をもらってませんわね。3日遊んで、あとの6日は退屈する。

 ですから、長期余暇時代ができても、25日とか30日遊ぼうと思いましたら、大体、20年間も働かないとできませんね。20年に1回だけ30日遊ぶ。これを学者でも政府の委員でもみんな勘違いしているんです。 長期滞在型レジャーというのがリゾートだと思ってるんです。リゾートというのは、「リ・ソート」であって、「もう一人の私」というスローガンを私は作ってるわけです。

 私の友人のパリ大学の先生で、もしかしたら、次のノーベル賞だろうといわれている詩人がいるんです。夏休みにニースに行って、ニースの海岸通りのホテルのテラスがありますね。あれのテーブルの20ぐらいの権利を買うんです。それでウェーターをやってるんですよ。

 運ぶコーヒーだとかビールだとかの分はお店の売上げですけど、そこでもらうチップの分だけは彼のものになる。ノーベル賞をもらいそうな大変な学者なのに、7月10日から8月の30日の50日間、そこで喜々として働いているんです。70歳ぐらいです。

 銀行員なのに農業をやってる人がいたり、学校の先生なのに大工さんみたいなことをやったりしてるんです。ですから、「もう一つの生活」ですので、入るものと出るものとが、そこで両方ないとだめなわけです。

 ですから、たとえば、N市の周辺に、いい丘か原っぱがありましたら、そこをリゾート牧場にして週末の金曜日から行って草を刈って牛にやって乳を絞って、土曜日にはそれをチーズにして日曜日の午後は木版か何かでラベルをこしらえ箱もこしらえて、そこから友達20人にお中元として「手作りのチーズです」と贈る。それをやってる人は大学の先生かもしれませんし、料理屋の板前さんかもしれません。そこで〈もう一人の私〉をする。

 私は、次のライフスタイルの一番の特徴はというと、「もう一人の私という時代」になってくると思っているんですね。リゾートという所は「リ・ソート」で本当は大工さんだけども牧場で働く、本当は銀行屋さんだけれども、そこで漁師さんになる。

 リゾートというのは、そういう所だろうと思うんです。N県のU市の周辺にスキーの何かをこしらえて、そこで一部の人はリゾートをやってるわけですね。本当はどこかの航空会社のパーサーをやっているんだけれども、そこへ行って先生とか、スナックを開いて料理人のようなことをやる。

 そういう働き方をアルバイトという形でしているんじゃなしにリゾートという形でやっている。貧しいから、そこで料理を作ってるんじゃないわけですね。出るものと入るものですね。

 だから、住んでいる都市で、出るばかりの道路とか何かということじゃなしに、入る産業をこしらえるようというのと同じように、リゾートする所ももう一人の私のための場でなくてはいけないだろうと思います。

 地方自治体の首長さんの中には、私の主張をどこかから聞いてらっしゃって、あそこをリゾート地区にしよう。レジャー地区ではもう食っていけないと、おっしゃる方もいます。

 一年間、働いて働いてやっと貯めたお金を使いに行くような観光地をこしらえて、それを村おこし、町おこしのテーマにしてるというのでは、本当の村おこしや町おこしなんかできっこないですよね。そのために乱開発をして、結果的にほかの産業がだめになってしまうということがある。

MM これはN市や政府の施策を批判するわけじゃないんですが、N市の荒涼地に、今度300億円をかけて建設省が所管する国営公園を造るわけです。

 ところがそこから10分車で行ったら本当の山があります。10分西に行ったら、日本海のきれいな夕日の沈む海があるわけです。300億円かけて、自然のまん中に自然公園を造るといってもいいんですよ。

 大体公園なんてものはニューヨークのセントラルパークにしたって、ロンドンのハイドパークにしたって、都市の中にああいう空間があるから公園としての価値が高まるんであってね。

 それなら、N市の都心部には緑も少ないし、パークもないわけですから、そういう所に小さなパークを配置して住民が昼休みに憩えるとかね。ちょっと下駄ばきで子どもを連れて行けるとか。そういうことなら金をかけて公園を造る価値はかなりあると思うんですがねえ。

 ともかくN市から車で30分も走らなければ行けないような荒涼地帯に300億もかけて大公園を造っている。そこからちょっと行けば日本海の海、ちょっとこっちへ行けばキノコや山菜のある山があるわけですよ。しかもN市は半年雪に埋もれてる所ですから、冬の間、雪の中を公園に遊びに行く人はほとんどいないわけです。

 そこに300億の資金を投入する。市も国も大事業を誘致したといって盛んに宣伝をする。国もこういう所に金を使っていい公園を造るんだといってる。

 むしろその300億を使って公園のない都会のまん中に造るなら意味があるけれども、まわりには本当の自然があるのに、何もニセの自然を作ることはないじゃないかという感じを、私は非常に強く持ってるんです。

 地域開発の仕方が何か竹べら的なね。最近のはどうも基本的な概念に立脚してないような気がするんですよね。

IM 哲学の不足、ロマンの不足ですね。

MM こういうものを是正していかないとね。消費税で金を取るのもしょうがないかもわからんけれども、やっぱりそういう無駄が多いと思いますね。

 先生の本にも書いてあったように、人間のものの考え方は時代とともに、変わらない部分もありますけれども、相当大きく変わってきている部分もあるわけですよね。 戦後の復興期においては、ともかく物資がほしい。腹いっぱい食べたいということが国民的な要求だったわけですね。行政や政治はそれに応えることに全力を挙げたわけです。

 そうして満腹になって着るものがみんな着られるようになると、今度は文化だとかね。例えば、演劇を観ようとか、自分の教養を高めるとかいう方向へ住民の欲求は移っていったわけですよ。

 例えば、いままでは、物がほしい、ということから、今度はいい学校へ入りたいとか、教育を受けて自分の教養を高めたいというふうになっていったわけでしょう。そういうものがある程度満たされ、生活が充実してくると、今度は人のやってないことをやりたいとかね。自分だけの世界に没頭したいとか、言ってみれば自分の生きがいとか、そういうものを追求するという生活へ変わってきてるわけですよ。

 今度はそれがIM先生が言われるように、もう一人の自分だと。それはまた新しい考え方だと思うんですね。

 そういうふうに時代とともに物がほしい、今度は教養を高めたい。教養を高めるというようなことが終わったら、今度は自分の生きがいを満たしていきたい。生きがいを満たしていきたいということの延長線上にあるかもわからんけど、IM先生の言う通り、全く別なことでもう一人の自分を発見したい。そういうふうに人間の考え方は時代とともに相当変わってきてると思うんですね。
  
 具体的にそういうものにどう応えるかということも、われわれ考えなければならないのだけれども、政治をやる者は、全体のそういう流れを的確につかんでいくことでしょうね。これから起こってくる生活とか、これから起こってくる考え方、それから、これから発生してくる生活態様、ライフスタイルといったらいいんですかね、そういうものに対する人々の理念とか考え方を、政治を志す者はできるだけ早く自分の中に消化していくということが、非常に大事じゃないかと思うんです。

 まず、第一は、これから国民の中に起こってくる新しい生活のプランナーというか、これからあるべき姿というものに対して、一つのプランを考えていくという立場を、これからの政治家には相当要求されてくるんじゃないですかねえ。

 具体的にどのように対応していくか。例えば、「もう一人の自分」にどのように対応していくかというのは、私自身、きょう初めてもう一人の自分という言葉を聞いて、そう言われてみればそうだなということでね。具体的にそれに対してどうだということを披歴するだけの用意は何にもないですけどね。

 ともかくいまIM先生の話を聞いてて感じることは、やっぱり政治家というのは、これから起こってくる生活に対する国民の考え方を先取りして、それに対する入念なプランをプログラム化をしていけるという資質が非常に大事であるというとですね。具体的にどうこうということよりはね。

IM それを感じられる能力の基本はロマンということで、そういう意味でも、MMさんは最高の人ですから、今度はそのロマンから感じていく感受性もありますが、そのロマンを具体的に物に置き換えていく技術、いま、プログラムとおっしゃいましたけど、それが政治の技術だろうと思いますね。

地方都市はひとつの分野を分担することで活性化する

MM いま地方都市が抱いている嫉妬心は東京一極集中ということですね。多極分化といいながら、現実は一点集中がますます強まっている。情報とか金融とか教育とかの中枢機能、それから国際的な機能が、東京だけに集中して来ている。

 それは裏を返すと、地方の没落あるいは地方の衰退という側面を持ってるということに、地方は非常に関心を持ってるし、嫉妬心みたいなものが充満しているという傾向は否めないと思うんですよ。最近、遷都論とか拡都論とかに国民は興味を持ってるわけですよ。あるいは首都機能分散論とかね。

 そういう東京一極集中、地方の没落が実際起こっていると先生は考えておられるかどうか。だとすれば地方都市はこういう傾向の中でますます置き去りにされている。被害者意識かしらんけども、そういうふうになっていくのか。あるいは遷都とか拡都とか、あるいは機能の多極分散とかの政治的、行政的処方で、地方がよみがえることは相当可能なのかどうか。そのへんの見解を承っておきたいのですが。

IM やっぱり力は集中だと思うんですよ。力が強ければどこかに集中する。いま首都が一番力が強いので、ほっておいたらますます集中する。これは力の論理だろうと思うんですよ。力が強ければ集中することが生産性、機能性ですから、ほっとけば全部集中すると思うんです。

 通産省は千葉県で、労働省は埼玉県でというのは分散論ですね。分散論というのは力の論理からは逆行の論理であって、不可能だと思うんです。だから、何かに関して分担するものを都市だとか都道府県は見つける。そうするとそのものに関しては集中してくると思うんですよ。 
  
 例えば、ある県の例ですが、そこの知事は分散論を唱えておられた。力に対して分散論を唱えてもナンセンスなんです。私は「分散」ではなくて「分担」とおっしゃったらいいと申しあげた。

 そこで「デザイン文化」というのろしを上げてるんです。デザイン教育だとかデザイン開発だとかデザイン文化は、その県が分担しようということなんです。そうしましたら、それに関するものは集中してきますよね。

 分担しただけですべていいですかというと、例えば、通産省なら、通産行政のすべてのかかわるものを集中させたがりますよね。富士の裾野に通産省を持って行きましたら、集中させたがりますよ。

 よそにはくれといいますけれども、自分が取ったらあげたくないということになると思うんです。

 分散論は敗北思想であって、分担論でいくべきだろうと思うんです。この都道府県あるいは市町村は、何を分担するかということですね。

 例えば、農業に関する教育を、ある県で分担することになったら、もしかしたら農水省は、その県に主機能を持った分室を移さなくちゃいけないかもしれませんよね。東京には農水省の出張所だけになるかもしれない。それを地方都市はもうやり始めています。

MM 例えば、アメリカなんかみるとワシントンは政治だけの首都でしょう。経済や情報はみんなニューヨークに集中してるわけですよ。シカゴはどうかというと、イギリスから渡った所ですから重工業ですね。自動車なんかはデトロイトでしょう。

IM MITだとか建築のシカゴ大学だとか、そういう科学教育だとか技術開発だとかですね。だから、宇宙ロケットを上げるのも、シカゴで80%まで研究されているとシカゴの人たちは思ってるわけですね。分担を明快に持ってるわけですよ。

MM だから、ヒューストンでもいいし、自動車はデトロイトだとか、ゴムはアクロンだとかガラスはトレドだとか、アメリカなんか見てるといろいろありますわね。

 ところが日本には、こういったその地域だけの、特殊な産業が、ほとんどない。昔はあったじゃないですか。足袋は行田だとか、秩父は銘仙だとか、みんなあったでしょう。そういう固有の産業が各都市にあったとしても、中枢機能や情報機能や金融機能を、そういう都市に日本の場合は分担しないんですよね。アメリカの場合は全部分散していくわけですよ。

IM それは産業をギブ・アップしたからですよ。行田の足袋の工場をたたんで音響製品メーカーのスピーカー工場にしますから。東京に本社がある何かの地方工場になるわけですよ。だけど、行田に織物と足袋と何かがありましたら、織物に関する銀行の取引の何かだけは、そこであったわけですよね。

MM 私は日本の官僚機構が東京に集中して、官僚の許認可権が強いでしょう。だから、日本の官僚機構というものが、都市が力を付けて台頭してくるのを、逆に疎外し抑え付けているような印象を持ってるんです。

IM 抑え付けられるというのが大変便利なことは、北海道から沖縄まで風土がそんなに変わらないんですね。だから、画一化できるんです。ところがアメリカの場合ですと、北と南と基本的に文化も民族も違うわけですから、画一化できない。ですから、あるところまでしか国家として統一できないんだろうと思いますね。

MM 国情が違うから一概に言えませんが、私はどうも地方が力を付けてのし上がっていく。要するに、地方が活性化してくると日本の官僚の仕組みそのものが、そういうものを抑圧し疎外しているんじゃないかという印象は強く持ってます。

IM だから、いつの時代でも天下平定ができたわけですね。ちょうどそれぐらいの広さですから、銀行ができたら一本の銀行で通せる。

MM 結論を申し上げますと、私は国政へ参加をしようとして、これから立ち上がっていこうとしているわけですが、やっぱり私の政治テーマは「甦れ我がふるさと」なんですよ。

 やっぱり私は自分の政治的な使命というものを、私の生まれてきた、あるいは私の住んでいるふるさと、広義のふるさとに良い産業を興し、良い環境をつくって、そこに住んでいる人が豊かさを少しでも享受できる。そういうものをつくり上げていく。大きく言えば、甦れ我がふるさと、甦れ地方都市ということが、私の政治テーマだなと、こういうふうに思ってます。

IM テーマはそれで、技法としましては、もう一段突っ込んでいただたらいいと思います。というのは選挙区全体とかN県全体が平均的に良くなる技法は無理だと思うんです。だから、都市単位に良くしていく。こっちの都市とこっちの都市とはネーチャーが違うんですからね。きめの細かいところではやる施策が違ってくるわけです。

MM もちろんそうです。

IM だから、一つひとつの市町村単位を良くしていくことによって、全部良くなっていく。漠然とN県全部が良くなるというふうなことではなくて……。

MM 一つひとつの市町村をきめ細かく、その市町村が持っている風土や歴史や文化や、極端にいえば人間性、そういう全体です。

IM その全体を、先ほどおっしゃった産業、文化、環境という形でしていくということです。

司会 政治の技法としてはそうだということですね。どうもありがとうございました。
                      〈了〉