孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2008/10/16 17:52:28|フィクション
愛の行方に あこやの松/その2
〈承前〉

 やがて雪と共にみちのくには早い冬が訪れた。北国の寒い風の便りに、あこや姫は出辺の進之丞が仏門に入ったことを知った。

 雪の日が続いた。それでも左衛門太郎は夜になると深く積もった雪の中をことなげに歩いてあこや姫のもとに通っていた。そしていつか二人は何者にも断ち難い契なに結ばれていた。相手を慕う思いは日増に募るばかりであった。
 
 だが、あこや姫は時折左衛門の顔の中に、姫との楽しかるぺき語らいの中でもぬぐいきれない寂しい影があるのを気づくともなく気づいていた。人に定められてしまった連命に全身で逆らおうと懸命に戦い抜き、それでも敗れざるを得ぬような左衛門太郎のその影が何を因とするのかを知らぬあこや姫はそのために一人心を痛めるのだった。

 あこや姫の父母はもうかなり前から姫のもとに過う笛の若者のことを知っていた。だが単に楽しみを同じにする者同志と深く考えようとはしなかった。また幸せそうなあこや姫をそっとしておきたいという親心があったのかも知れない。

 やがて北国の長い冬が終った。草木は急に目が覚めた様に活動し始めた。あこや姫の住む山里にも春が訪れた。軽く宙に舞う様な春の雰囲気の中で、あこや姫は名取の左衛門太郎に対する激しいまでの愛のため、日夜、悶えを感じていた。
 
 その夜、あこや姫は左衛門太郎に寄りそいながら、その思いを恥し気に口にした。
「左衡門太郎様、いつまであこや姫はこのままでいなけれはならないのでしょう。もうこのままでは死んでしまいそうでごさいます。せめて、せめて一日なりと姫はあなた様のお傍にいとうございます」
「……」
「左衛門太郎様、何故に黙っておられます。どうして姫をお傍において下さいませぬ、姫はいつでもあなた様の胸に抱かれていとうございます」
「あこや姫よ、いうな。わしとてそなたと同じ思いなのだ。だが、出来ないのだ。それがどうしてもわしらに出来ぬ運命なのじゃ」
「何故でございます。姫は何も恐れはいたしませぬ。ただ姫が望むこと、それはあなた様と一身になりたいだけなのです」

 あこや姫はむしゃぶりつく様に左衛門太郎の胸に飛び込んだ。左衛門太郎はそんなあこや姫を抱き起すと、憂いに沈んだ美しい顔を優しく見つめる。左衛門太郎の胸の中であこや姫は薄く目をとじ、頭を左右に振った。左衛門太郎は、急にそんな姫がいとおしくなり、姫を引き寄せると、その背にまわした腕に力を入れた。

 長い時間が二人の間を激しく、そして静かに流れた。左衡門太郎は、そのあこや姫の黒く澄んだ瞳の中に光るものを見い出すと、優しく声をかけた。
「どうしたのだ、あこや姫よ……」
「……」
「おかしな姫じゃ、一体どうしたのだ」
「左衛門太郎様、姫は悲しゅうございます」
「何故なのだ」
「これ程までに愛し合った後にも、なおもあこや姫はあこや姫であり、あなた様はやはりあなた様でございます。どうしてニ人は一人になれないのでしょう。それにはこれ以上の努力が必要なのでしょうか。姫にはそれがロ惜しいのでこざいます」

 黙ったまま左衛門太郎は再びあこや姫を引き寄せると、しっかりその胸に抱いた。そして大さく見開いたその目の中にも、やはりあこや姫と同じ様な悲しみの色が見られた。

 愛とはニ人の男女が精神的にも、肉体釣にも一つになろうとする現れであろう。しかしいくら、どんなに愛し合ったとしても、自分はやはり自分であり、相手もやはり相手であり、完全な一箇のものではないという必然的なもどかしさから逃れ得ないのは、どうしようもない人間の悲しい運命なのであろうか。
 二人が人間であるということは、その運命を甘受しなければならないということなのだろうか。そして、その運命の中で愛さねばならない者同志に与えられた道は、更に、もっと近くに歩み寄ることなのだろうか。

       ※  ※  ※  ※  ※  ※
 
 みちのくに季節はずれの激しい嵐がやってきたのは、その日から五日後のことだった。吹き叫ぶ風 と、地をたたきつける豪雨、無気味に天をぬう稲妻、あたりの新緑の木々は裂け、倒れ、河川は氾濫し、あまたの民家がつぶれ、多くの人命があっけなく奪われた。ようやく七日日に嵐は過ぎ去ったが、あたりは見る影もない程に荒れ果てていた。

 嵐のさ中はさすがに左衛門太郎は、あこや姫のもとに姿を見せなかったが、姫は自然の暴威に脅迫されながらも、比較的平安な気持を持ち続けられたのは、左衛門太郎に対するひたむきな愛と強い信頼のおかげであったかもしれない。
 
 あこや姫は嵐のすぎ去った後の数日間、母と共に荒れに荒らされた民家に、不安そうに暮らす村人達を慰め歩いていた。その身体は夜になると激しいまでの眠気に誘われたが、強いて琴の前に座った。そうすることにより、あこや姫は静かな落ち着きを感じるのだった。

 その夜も、琴の前に座ったあこや姫は静かに奏で始めた。普段よりも一層美しい琴の音は倒れた木々の間をぬい、泥まみれになって地に伏している草の上をはいながらも遠くに流れていくのだった。それは自然に逆らいきれない人間の哀れな嗚咽の様でもあり、またあきらめ切った人への慰めと希望を与えるものの様でもあった。
 
 そしてしばらく後、それがごく当然の様にあこや姫は左衛門太郎の笛の音を耳にした。左衛門太郎の笛の音もやはり、あこや姫と同じ様な響きを有していた。この美しくとけ合って流れる二つの音に、二人は願いと夢とを託すと、いつまでも音を絶とうとはしなかった。

 やがて左衛門太郎は部屋のあがりがまちに腰を下すと、あこや姫もそこに寄りそって座った。それは二人にとって既に習慣づけられている自然な姿勢でもあった。あこや姫は左衛門太郎の息づかいを身近に感じながら、何もかも忘れた様にぼんやりしていた。
 
 そんな時、突然左衛門太郎は口を開いた。その顔は何故か暗過ざる程暗かつた。
「あこや姫よ、わしらのこの幸せはいつまで続くのだろうのう。少しでも長くと願って止まないのだ が……。だが、わし等はいつかは別れなければならないのじゃ、いくらかたく結ばれたとていつかは……」

 そんなことを突然言い出す左衛門太郎の顔をあこや姫はあっけにとられながらじっと見つめた。
「いつかは別れなければならない。それは愛し合う者のさけられない運命なのだ。それなら、今別れた と て同じこと、のうそうではないか 。あこや姫よ、実は今日、わしは理由あってそなたと別れなけれはならないのじゃ」

 驚いたあこや姫は、叫ぷ様に言った。
「いやでございます。姫はどんなことが起ろうとあなた様のお傍から決して離れませぬ。一体、いかがなされたというのでしょう」
「……」
「それはいくら愛し合うているニ人でも、別々の人間である限り、いつかは別れなければならないでしょう。でもだからといって今別れても同じことだとは言えますまい。その様なことは、人はいつかは死ぬのだと言って自刃する事と同じではありますまいか。生きてさえいたらどんなことでも出来ましょう。生きているという現在の事実に意味があるのであり、それを否定することか正しい生き方ではない様に、人を慕い合うとて同じこと、今愛しみ、慕い合うていろことに意義があるのであり、いつかは別れなければならないからといって、今別れるなどあまりにも愚かな、あまりにも悲しむぺき事と申せましよう」
「あこや姫よ、その通りかも知れぬ。だが別れが遅くなればなる程、それがつらくなる事であろう」
「それは確かにつらさを増すことでしょう。しかし、別れるその一瞬前までに一層楽しさも幸せも増すはずでございます。人の心はこれから先がどうなろうとも分らぬもの。ですが先は先のこと、そうではございませぬか。とにかく姫は今幸せでございます」
「……」

「左衛門太郎様、今宵はいかがなされたのですか、普段には聞かれぬお言葉、姫もついはしたなく激してしまいましたが……。本当にどうなされたのです。姫は悲しゅうごさいます」
「あこや姫よ、許せ。分ったのだ。わしには今夜分ったのだ」
「えっ、何を、何をでございますか」
「姫よ、耳を澄ませるがよい、ほらあの人の声だ、祈りを上げる声が聞えぬか」
「どこに……。一向に聞こえませぬが……」
「そうだった。あこや姫には聞こえはせぬのだ。姫はわしと違って真の人間だった……」
「えっ、何と、今何と申されましたか」
「あこや姫よ、今こそ、わしの由緒を明かそう。隠せるものならいつまでも隠し通そうと思っていたわしの本当の姿……、あこや姫よ、今まで名乗っていた名取の左衛門太郎とは仮の名、わしはこの世のもの、という より真の人ではないのだ。
 わしは出羽の国の最上の浦の平清水の山に生えている松の精なのだ。わしは今まで五百年もの間、生き延びてきた。わしは、そなたを待っていたのだ。だがそなたと知り合うてほんの束の間、わしは自分の運命を知ったのだ。仮ににも人間であったわしにとって自分の運命を予知できるとは悲しいことだ。運命などは予知すべきものではないことなのにのう……。
 あこや姫よ、はっきり言おう、わしの命は今夜限り、明日、わしは名取川の橋のかけ換えのため伐りとられてしまうのだ」

 あこや姫はその左衛門太郎の言葉の意を解しかねる様に、左衛門太郎の顔を見入った。左衛門太郎の顔は青白く月に輝き、懺悔の後の罪人の様なある安堵と不安の交錯したような色を呈していた。

「左衛門太郎様、何と、何とおっしゃいました。姫には……姫には……」
「あこや姫よ、わしはそなたと同じ人間ではないのだ。松の精なのだ……」
「それが、それがどうしたのです。姫にはそんなことは、たいしたことではごさいませぬ。姫にとって恐しいことは、あなた様との別れでございます」
「姫よ、わしとてつらいのだ。だがこれも抗いきれない運命、あきらめるより他はなかろう」
「いやでございます。姫はいつまでもあなた様の傍にいとうございます。どうか、姫もつれていって下され、左衛門太郎様、お願いします。姫をいとしゅう思うて下さるなら、姫を決して離さないで下され……」
「あこや姫よ、出来ることならわしとてそうしたい。だが、どうしても出来ないことなのだ。わかってくれ!」
「いやでございます。姫は、姫は……」

 あこや姫は左衛門太郎の胸の中で、激しく泣き続けた。あたかも泣くという行為のみが左衛門太郎を引き止める唯一のてだてでもあるかのように……。

 左衛門太郎はそんなあこや姫を優しく抱くとじっと目を閉じていた。その内にあこや姫が、その瞳からあふれでた涙で頬をぬらしながら左衛門太郎の胸の中で動かなくなった。彼はそんなあこや姫の顔をいつまでも見ていたが、やがて決心した様に身を起すと、そっとあこや姫を離した。そして姫の 傍 に立ち、静かに笛を吹き始めた。しみ入る様な哀しいまでの笛の音はあこや姫と共に過した思い出の庭をゆっくりはいまわり、月の空にとけ込んでいった。

 やがて曲が終り、左衡門太郎はその笛をあこや姫の半ば開いた手ににぎらせると、しょう然とその場を去っていった。しばらく行って振り返った左衛門太郎の瞳から頬に伝わった月に光る二筋の道を、あこや姫ぱ知るよしもなかった。

 その頃、みちのくを襲った嵐は、名取川に大増水をもたらし、名取川の橋が流されてしまった。その橋は村人達にとって命にも代えがたい重要なものだった。彼等はその橋を渡って山に入り木々を集め、その橋を越えて田や畑へ出て働いていた。この様な生活的な深い意味あいと信仰的なまでの敬虔さを名取川とその橋に抱いていた村人達は壊された自分の家をそのままに、無残なまでに流され、跡かたなくなったその橋の跡に集まってきた。

 しばらくはなす術もなく茫然と立ちすくんでいたが、村長のなだめと指揮によって、橋のかけ換え工事が進められることになった。

 だが、近くの山中をさがしても適当な用木がなく、それでもやっと見つけた用木で橋をかけようとすると、何故か、なおも増水のままの名取川の流れに流されてしまったり、それが折れてしまったりして使えないものになってしまうのだった。

 そんな努力が数日間続いた。村人達は次第に何ものかの強い力を怒じ恐れおののき始めた。名取川には何か橋を寄せつけぬものがあるのだ、ロ々に言い合いながら村長の顔を見つめた。村長はそんな声の中できっと口を結んで何かを考え込む様であったが 、その内に、その顔に希望の色が浮んだのを村人達は読み取った。
「これをいかにすぺさか占者に占おせよう」

 村人達の間に同意のざわめきが起った。村長は自ら三人の供をつれると村はずれの、嵐に壊されずに済んだ数少ない住居の一つである古ぼけた占者の家を訪れた。

 しばらくの後、村長達は飛び出す様にその家から出てきた。彼等の胸の中に、今しがた聞いたばかりのしわがれた占者の言葉が大きな期待を待って残っていた。

「名取川の橋は、たとえ金や銀を持っても保たぬだろう。橋を末長く保たせるには、出羽の国、最上の浦の平清水の山に生えている老松を伐って用いることだ……」

 早速、大勢のきこりが集 められると、山を越えた最上の里に向かって出発した。夜通し歩き続けた一行が出羽の国、最上の浦の目的地に到着したのは陽が大分上った頃だった。遠くからも一目で分る大きな老松の傍に、ほっとして集まったきこり達は、休みもそこそこに持参した食事を始めた。

 やがて最初の斧が松の根本に打ち込まれた。「コーン……」大勢のきこり達は、哀れを含んだ様な澄んだ美しいその音を、今だかつて聞いたことがなかった。

 仕事は一向にはかどらなかったが、それでも陽が遠くの山派を赤くふち取りながら沈みかかる頃、辺りの山林に老松の終焉を告げるかの様な大音響を発して地に伏した。

 倒された老松のまわりに集まったきこり達はそれになわをかけ、動かそうとした。しかしきこり達の大勢が力を集めてもその老松はびくともしなかった。一寸さえも動こうとしない老松相手の運搬作業は、いろいろ手をかえ、用具をかえて夜通し続けられたが、それでもその老いた松の木は相変ず、元の位置に横たわったままだった。

 陽が登った。疲れ果てたきこり達は老松の傍にてんでに横になると、たわいもなく眠り始めた。そんな彼等は同じ夢を見たのだった。それは笛を持って寂し気に立ずむ一人の若者の姿であった。

 やがて、村長にゆり起されたきこり達は、その不思議な夢のことを語り合いながら、横たおったままの老松に見入った。朝露に濡れたその幹の水滴を、あるきこりは彼等に全身で抵抗するあまりに生じた汗だと思い、あるきこりは嘆き悲しんだための涙だと思った。

 そしてそんな表現が適切すぎる様に、老松は、幹の露を木々からもれ込む朝の陽の光を冷たく、また湯気を立てるまでに熱く反射させていた。それは静かな姿であった。

 村長は再び占いをたててもらおうと、平清水の占者の家を訪れた。占者の家に入り早速、占いをたててもらった。熱心に祈りを上げる占者の後で、村長は頭をたれながら意外に若い神の声を聞いた。それは松の精が占者にのり移った声らしかった。
「そなた等が大勢で助かそうと試みても、びくともしない理由は、わしが他の人間の手にかかってこの地を去りたくないからだ。わしが喜んでここから動く時、それは信夫の館に住むあこや姫の手にかかる時だけだ…」

 村長はそれを聞くと早々にその占者の家を出て 、きこり達に知らせた。そして、早速信夫の館まで使いを立てた。

 あこや矩は左衛門太郎が去ってから、彼が残していった笛を胸に抱いて昼も夜も泣き統けた。姫は泣くという行為の中でのみ左衛門太郎を感じられたのだ。しかし、あこや姫には信じられなかった。左衛門太郎が松の精だという事も、そして別れだと言った事も。夜になると、ひよっこり左衛門太郎かあの優しい微笑みを浮ぺながら現われるだろうことを期待し統けた。

 しかし、その期待は空しく破られた。そんな悲しみの中ですごす姫のもとに平清水よりの使者がとどいた。とっさに左衛門太郎の言葉を思い出すと矢も楯もたまらぬ様にその舘を後にした。

 平清水に着いたあこや姫は、林の中に横たわる老松を見たと思つた瞬問、姫の目には老松は消え、その代り一人の芳者か静かに横たおっていた。それはあこや姫が深く愛し、今なお忘れ得ない左衛門太郎その人だった。
「左門衛太郎さま!」

 駆け寄ったあこや姫は、その若者の胸に顔をうずめたが、その胸からはかつての鼓動を聞くことが出来なかった。

 姫はふと顔を上げいぷかし気に左衛門太郎の顔に見入った。青白いまでのその顔に、その時陽の光があたった。彼は心なしか微笑んだようだった。
 再び左衛門太郎の胸に顔をうずめたあこや姫は、ようやく左衛門太郎の死を信じることができた。

 そして、そんな彼が、時間の経過と共に、あこや姫の身体と心に侵透して来るのを感じた。姫はふと、左衛門太郎の死があたかも姫があれ程までに望んだ愛する者が一つになりたいという望みの具現化の様に思えてくるのであった。姫は心の中に棲み始めた左衛門太郎に静かに、そして、満足気に語りかけた。
「とうとう、姫達は一人になれましたね」
「そうだ、姫よ、ようやくわし等は、ばらばらなニ人ではなくなったのだ」

 しかし、ニ人が望んだものが、この様な一方の現実からの消滅でしか達成できないとは、生きているものにとってあまりにも皮肉なことではなかろうか。
「左衛門太郎様、姫は前にも増して幸せでございます」
「わしとて……。しかし、わしは……」

 やがてあこや姫の目の前の左衛門太郎の姿は消えた。そしてもう単に老いた松の木でしかない ものが横たわっていた。あこや姫は立ち 上ると清々しい声ででいった。
「さあ、行きましよう!名取川の橋となって、末永く人の為になるよう……」
 姫が松の木に手をかけると、それはまるで水に浮いた木の様に軽々と動き出した。

 やがてその老松は立派な名取川の橋となり、幾多の嵐にも耐え、幾世の人達にその恩恵を与えた。

 あこや姫は、その後、実は松の精だった左衛門太郎が住んでいた平清水を訪れた。そして、もう去ることのない人と静かに幸せに満ちた会話を続けるために、かつてその老松の生えていた地にささやかな庵を建てて移り住んだ。更に、伐りとられた老松の後に、若松を植え育てた。

 若松は次第に成長して、いつしか山をおおう様になっていた。その松の緑は、千歳の秋にも、寒い北国の冬にも変ろうとはしなかった。人々はその山を千歳山と名づけ、あこや姫が建てた庵を万松寺と号した。
 月の明るい夜、その万松寺のあたりから、美しい琴の音と笛の音が今でも聞えてくるということである。
    ー 完 ー







2008/10/16 17:30:54|フィクション
愛の行方に あこやの松/その1
昭和38年(1963) 22歳作品

民話伝説
あこやの松

 あこや姫はその日も夜になると姫の離れ座敷にたてこもり、丸窓を開いて琴を奏で始めた。姫の美しい細い指が激しく琴の弦の上を走ると、透る様な美しい琴の音は窓から静かに流れていった。十三夜の明るい月の光がすすきの穂波を輝かせ、折からのそよ風がそれをやさしく波立せていた。

 その時、部屋の外で声がした。
「あこや姫よ、今脊は一段と琴の音も冴えるのう。外はいい月夜じゃて……」
 あこや姫の父親で ある豊充郷であった。彼はゆっくりと部 星 に入ると窓際にゆったりと座り、外を眺めながらしばらくあこや姫の奏でる琴の音に聴き惚れていた。やがて琴の音が一段落すると待っていた様に話し始めた。
「姫よ、今宵はちと嬉しい報せを持ってきたのじゃ」
「どの様なことでございましょう」
「実は先程、出羽の国の人が訪ねて来てのう、そなたを山辺の進之丞という男の嫁に欲しいというのじゃ、山辺の進之丞の家といえは、出羽の国でも指おりの名家じゃて、それに進之丞といえばこの辺りまでも武勇をとどろかせている立派なもののふじゃ。どうだな、あこや姫よ…」
「姫はまだまだ嫁になぞ行きとうごさいませぬ……」
「何をいうか、そなたの母などは、そなたの年には嫁いでおるのだそ」
「でも母上と姫とは違います」
「どう違うというのだ。常のそなたらしくもない…、そなたも早く嫁いでわし達を安心させてくれい、のうあこや姫よ。それでその進之丞じゃ、なんでも早速、近日中にでも訪れさせるとのこと、そなたも会うてみればすぐにでも嫁がせてくれということじゃろうて、わっはっはっはっ……」

 あこや姫はそんな父の声を聞き流すと、うつむきながら指を琴の上で弄んでいた。あこや姫の父はそんな姫の美しい横顔を見つめながら、満足気に頷くと、再び姫に琴を奏でさせた。

 琴の音は青白く光る窓の外に流れ出しはしたが、その調べは先刻のそれより冴えなかった。父はそれをあこや姫の乙女らしい羞恥と解釈し姫を一層いとおしく思うのだった。

 あこや姫はみちのくの信夫郡の牧主豊充郷を父として生を受けて十八年余、その気立の優しさと顔かたちの美しさは近在はおろか、山を越えた出羽の国まで知れわたっていた。更に琴の弾き手としてのあこや姫も村の長老に人の世が始まって以来も、後も、姫の右に並ぶ弾き手はないと言わせる程のものであった。

 その真偽はともかく、確かにあこや姫の琴の音は、姫の屋敷に入った盗賊を改心させた程に、また子供を大鷲にさらわれて発狂した百姓女の心を静めた程に、美しく爽やかで、人の醜い心を洗い潔める、清水のような効果を持っていた。また、牧主の一人娘であるあこや姫は父母の愛を一身に受けて育まれてきたが、その様な娘にありがちな勝手気ままさなど微塵も見られなかった。

 数日たったある日の陽が西に傾き始めた頃、手習いをしていたあこや姫の部屋に姫の母が入ってきた。
「あこや姫よ、見えられましたぞ、山辺の進之丞様が。さあ、行って御挨拶なされ……」
「姫は会いとうございませぬ」
「何を子供じみたことを、そのようなことはいわず、さあ早う、早う……」
 気が進まぬままあこや姫は、手を取らんばかりに先を促す母の後に従って何か愉快そうに談笑している父と進之丞のいる座敷に入っていった。

 その時、あこや姫はそこに漂う空気が、進之丞と呼ばれる男の全身とその持ち物から発している血なまぐさいにおいに満ちているのを感じ、息をつめた。
 進之丞は入ってきたあこや姫を野や山で獲物を見つけた猟師の様な血走ったするどい目でにらみつけていたが、やがて溜息混りの声でいった。
「美しいのう、この世の人とは思えぬ……」
 そしてさも満足気に笑った。あこや姫は全身を針金できつく縛られた様に動けなかった。そして、もし動けたとしても、そうすればすぐ男の太刀が頭上にひらめく様に感じた。姫の父は自慢気だった。

 そしてまた男同志 の 話が始まった。部星を出るに出ら れないあこや姫の身体に、進之丞の無遠慮な視線があたる度に、姫は身の縮む思いであった。

 それから小半時もして姫の父はふと思い出した様に、傍にじっと座っていたあこや姫に向かって言った。
「のう、あこや姫よ、そなたの琴を進之丞殿に泰でて聴かせたらよかろう。どうじゃな進之丞殿……」
「おお、願ってもないこと、ぜひ所望したい」
 もちろんあこや姫の琴の巧みさは聞き知っていたが、琴などは婦女子の戯事としか思つていなかった進之丞は、別段あこや姫の琴を聴きたいとは思わなかったが、世渡りにたけた彼は、その様なことはおくびにも出さなかつた。

 気の進まないまま父や進之丞と共に離れ座敷にもどったあこや姫は琴の前にすわり、しばらく沈黙を続けた。進之丞にとっては女だてらの高慢としか見えぬその仕種であったが、父の豊充郷には充分に理解出来ることであった。

 やがて静かに始まった琴の音がしだいに部屋の中に充満してきた。あこや姫は琴を弾き続ける内に、段々、不愉快なあたりのものごとに対して感じなくなってきた。始めは内心琴などと頭から馬鹿にしていた進之丞であったが、姫の琴が興に乗ってくると、その形容し難い美しい音色に聴くともなく聴き入っていた。

 やがて山辺の進之丞にとって先程のただ清く美しいだけのあこや姫がしだいに侵し難い、彼とは異った世界の人として目に写って来ることに卑屈感に似た感情が起ってきた。それは戦場での合戦の中で白刃をかざした相手にすら抱かなかったおののきであり、彼の自信の喪失であった。そのおののきがしだいに大きくなってくると進之丞はうろたえ、その場にいたたまれぬ程の庄迫感のためにやにわに立上ると、窓際に寄り、窓を開いた。さっと月の光が部屋の中に流れ込んだ。
 
 じっと立たずみ外を見つめて、せめて気持だけでもこの場から逃れようとあせる進之丞の耳になおも容赦なく琴の音が飛び込んで来る。豊充卿はそんな進之丞をちらりと見たが、また障子越の月の光に怪しいまでの美Lさを放ちながら動くあこや姫の手元にじっと見入った。
 
 そんな緊迫した時、外に何を見たのか進之丞はやにわに太刀を取ると障子をさっとあけたかと思うと、すざまじい勢いで庭に飛び出した。豊充郷は月の光の中でキラリと太刀が光ったのを見た次の瞬間、仁王立ちに立った進之丞の足もとに胴体を真二つに断切られた血だらけの野兎を見た。
 
 進之丞は荒く肩で息をしながら、だらりと下げた手に生々しい血のしたたる太刀を持つて月を見上げていた。豊充郷は黙って目をとじた。あこや姫はそんな出来事に気がつかぬかの如く、琴の音を絶とうとはしなかった。

 しばらくすると、進之丞は庭から太刀を下げたまま姿を消した。気づかわしげに姫の横顔を見た豊充郷は神々しいまでに琴を弾き続けるあこや姫を少し不満気に見たが、やがて大きく頷くとそっと部屋を出た。

 それから川辺の進之丞は一向に姿を見せなくなった。そのことはあこや姫にとってうれしくもあったが、姫の自尊心かちょっと首をもたげたのは否定出来なかった。だがあこや姫が進之丞に嫁いだとしても、姫には進之丞の妻として仕えていく自信が全くなかった。あの夜、進之丞が感じた様に、やはりあこや姫も進之丞とは異った世界にしか生息出来ない自分を感じていた。

 一体嫁ぐとはどの様なことなのだろう。女の所有者が親から夫という別の男に変るというだけの事なのだろうか。そんなことでは断じてない、とあこや姫は思う。美徳というより厳しいまでの定であるとされている女なるが故の従順さ、親に従い、卑屈なまでに夫に仕えなけれはならない女の生き方、それが果してやはり人間である女として妥当なものなのだろうか。夫婦とは少なくとも男と女という人間同志による人間らしい交流であるべきだろう。
 
 しかし、あこや姫は進之丞がこんな事を解する様な男でない事を感じ取っていた。彼にとって妻を迎えるという事は、野や山で獲物を生け捕りする事と大して変らないのかもしれない。そしてその生け捕った獲物は彼の勢力の象徴である物体に過ぎぬのであろう。
 
 あこや姫は進之丞の思い出の唯一つの端緒となる、あこや姫があの夜、知らぬ間に起っていた出来事に驚き、歎き悲しみながら心をこめて作った野兎の墓の前に頭を下げながら考え続けた。
 
 進之丞が黙ってたち去ったことを、あこや姫の母はせっかくの良縁が断わられたのだと思い込み残念がっていた。豊充郷はそんな妻をなだめたりはしたが、そんな彼の顔にも一抹の寂しさともつかぬ影があった。

 山辺の進之丞より正式に縁談の断りはなかったが、彼が訪れた日より一月が流れる様に過ぎた。あこや姫は進之丞を忘れることなく忘れていた。しかし進之丞という男を忘れたということで、あたかも進之丞か姿を変えたような粗野で血なまぐさいものへの恐怖と嫌悪は忘られなかった。
 
 あの時、陶酔からさめた後の爽やかな気分が打ちのめたれた野兎の血のしたたる二つになった死骸、ふいに深淵に突き落された様な悲しみと激しいいきどおり、それがあこや姫を度々おそい、生れて始めてあこや姫の内に憎悪という観念を形成させたのだった。そしてその反動としてか、姫は今まで以上に平和で心暖かい人の出現を待ち望むのだった。

 月が満ち切った完全な姿を誇らし気に夜の世界に君臨している夜、あこや姫はいつもの様に自分の奏でる琴の音の世界に酔いしれていた。そんな時、一陣の風がもう枯れたと同様なすすきをざわめかせた。ふとあこや姫は手を止めた。風の中にかすかに笛の音らしい音を聞いた気がしたのだ。しばらく耳をすませたが、その後何の音も聞えなかった。

 気のせいだ、そう思うと姫は再び琴の弦をはじき出した。しかし、束のロ、今度ははっきり笛の音を聞いた。それもすぐ近くの林の中に。
 
 あこや姫はその笛の音に再び琴の手を止めると暗い夜道で周囲に家の灯を見い出そうとする様にじっと聞き入った。だんだん近づいてくる笛の音は、それがこの世のものとは思えぬ程澄み、美しかった。やがてその笛はすぐ近くまで来て動かなくなった。
 
 笹の音が透る月の光の中を通って、あこや姫のもとにとどくと、姫は乎和な安らぎをおぽえ、再び琴に向かった。琴の音と笛の音が月の光の中で和し、暗い空にとけ込んでいった。先程までざわめいていたすすきも、じっとなりを秘めると、あまりにも美しく和Lた笛と琴の音に聞惚れてでもいる様であった。

 何という平和な、安らいだ歓びだろう。夢の中のまた夢の中に誘い込まれるような甘美な陶酔を心ゆくまで味わいながら、あこや姫はひたすらに琴を弾き続けていた。

 やがて一曲が終った。と近くの黒い木立の間から月を背にした若者が姿を現わした。
「あなた様は……」
「そなたは……」
「あこや姫でございます」
「そなたがあこや姫か……、わしは名取の左衛門太郎、そなたの素晴しい琴の音に思わず足を止めてしもうた.どうかおしの無礼を許して下され…、今宵はそなたのおかげで楽しく過すことが出来た.それでは、姫よまた会おう。さらばじゃ」

 左衛門太郎と名乗った若者は、そう言うとあこや姫にくるりと背を向け、再び笛を奏でながら暗い林の中に歩き出した。それにはっとしたあこや姫は取乱した様に、あわてて足袋のまま庭にかけ降りると、
「左衛門太郎様……」

 その激しいまでの声に左 衛門太郎は振り返り、姫に向かってやさしく微笑んだ。やがて彼は闇の中に消えたが、あこや姫は傍の木に寄りそいながらしはらく闇に向かって耳をすませていた。左衛門太郎の奏でる美しい笛の音はしだいに遠くなり、やがて消えたが、あこや姫の耳の深にはいつまでも鳴り統いていた。

 その夜、あこや姫は容易に眠れなかった。どこかでまだ笛の音がする様な気になりながら、姫は常ならぬ心の動きを感じた。

 翌日、あこや姫は昨夜の思い出の中に彷徨していた。そして左衛門太郎が去ろうとした時にとった自分の態度をたまらなく恥しく思うのだった。あの時の自分は一体本当の自分だったのだろうか。夢の様な気がする。そうだ夢なのだ。夢であるぺきなのだ。あこや姫はそう思い込もうと懸命だった。かくすることにより姫は自身の羞恥から逃れはしたが、そうすることに何かしらもの足りない矛盾した気待をどうしようもなかった。

 その夜も、あこや姫は離れ座敷で琴を奏でていた。しかし、普段の様に容易に興に乗らす、時折手を止めてぽんやり何かを待ち望む様な常の自分でない自分を感じながら、あこや姫は軽い腹だたしさを味わっていた。じっと耳をすませる、だが何の音もなかった。

 やがてあたりは昨夜と同様に月が昇り、青白く輝き始めた。昨夜と同し背景の前でやはり同じ物語が展開されなければならない。

 あこや姫はあせりさえ感じなから、琴を奏でている。

 そんな時、あこや姫は自分の頬が熱くなったのを感じた。聞えてくるのだ。かすかに昨夜と同じ笛の音が聞えてくるのだ。夢でなかったことに不安を感じながらも、胸の奥に坊佛する喜びの念をおさえようもなかった。

 やがて笛の主の影が見えた。そして姫の傍まで来て止まった。あこや姫は、昨夜よりも更に自分に近寄っている若者を満足に思ったが、目をそらした。
「あこや姫よ、今宵もまいったぞ……」
「……」
「姫、そなたはいかがなされたのじゃ、先程からの琴の音も一向に冴えぬのはどうしたことなのじゃ」

 左衛門太郎はあこや姫をやさしく見つめている。あこや姫の口元から突然つぶやく様な言葉がもれた。
「左衛門太郎さま、姫の昨夜のはしたない行為をどうかお許し下さい……」
「はしたない行為?なんでその様な事を言いなさる、些細な事に気を遣われるな。何をその様に恥じる必要かあろうぞ、さあ、あこや姫よ、元気を出されい。実は昨夜、わしは嬉しかったのだ」

 些細な事、そうかも知れない、本当に些細な事であったかもしれない。自分が思わず庭に飛び降りて左衛 門太郎の名を呼んだ。たったそれだけの事を恥かしがった自分は愚かだった。無意識の内に取った行為を、はしたないものと決めかかり、そのことを「夢の中の出来事」にしてしまった自分が醜く思われてくる。どうして自分の気持に素直に従ったまでの行為を自分は暖かく迎え得れなかったのだろう。
 
 だがもう過ぎ去った事なのだ。もう気にする必要は少しもないのだ。あこや姫の顔は次第に明るくなって来た。そんなあこや姫の耳にはずんだ左衛門太郎の声が聞えた。

「さあ!あこや姫、今宵も心ゆくまで共に琴と笛を奏でようぞ」
 頷くと姫は琴に向かった。二つの異った音色は始めの一瞬、互いにとまどう様に反発し合ったか、すぐ互いを受け入れると、美しく和して晩秋の夜の空気をゆさぶるのだった。

 一方、山辺の進之丞は自分があこや姫から発散するある偉大な何物かに敗れたのをはっきり感じていた。力つき、太刀折れた様にあの場から帰路についた彼は、彼を奈落の底にたたき落した勝利者に対して、ある敬虔に似たものを感じたが、月日の経過と共にその念が醜いまでの憎悪に変っていた。単たる琴の調べのために、あの様なまでに乱れた自分がどうしても解せなかった。
 
 そして、思わず一刀のもとに切り捨てた野兎の残骸を見た時の、たまらない程の自己嫌悪、いまいましいまでの腹立ちを忘れようと努めたが、あこや姫の清く優しいまでの顔立をどうしても忘れ切れないために、それに付随するその思い出に苦しめられるのだ。

 進之丞にとって人が生きるために必要とするものは、権力を欲しいままにする財力と、人より先じる強さだけだった。その二つをそなえていると自負している自分の前に現れ自分の心を乱したもの、それはおよそ権力からも強さからも離れた様な、女の弄ぶ琴の音だったとはあまりにも馬鹿馬鹿しかった。

 実際あの時、自分はどうかしていたのだ。人は無意識の内にでも、自分の嫌う行動を取った後、その時の状態が常ではなかったと思うことにより、自らを慰める様に進之丞もそう思うことにより、わずかな救いを感じた。

 また、思いがけぬ程の素晴しいものが自分の手にとどきそうになると、人は躊躇することなくそれを取ってしまうものである。進之丞はあこや姫のことを、それに付随するい まわしい思い出に脳まされながらも容易に忘れられなかった。そればかりか、彼はあこや姫の清い美しさをもっと確実なものとして手に入れようと機会をうかがっていた。
 
 あこや姫の琴の音がいかに優れているとしても、それが何になろう。自分は他の誰よりも強い力を持っているのだ。どうしても、あこや姫を自分の所有物にしなければならない、と進之丞はある夜半、こっそりあこや姫の庭に入り込んだ。

 木々の間を人に見つからぬ様に姫の離れ座敷に向かう進之丞の緊張した耳に、あの夜彼をなぶりものにした琴の音が飛込んできた。いまいましそうに琴の音を振りはらうかの様に頭を左右に振った進之丞は、その音が琴だけのものではないことに気がついた。すぐ笛の音と解ったが、そのことは姫の傍に人がいることを意味する。しかし進之丞は、少しもあわてず、油断なく太刀に手をかけながら庭の木々の影から影へと忍んでいった。

 しばらく闇が続き、あこや姫の部星からもれる行燈のあかりが木の影でとどかない場所を見つけた進之丞はそこに腰をすえ、じっと見入った。彼の目に琴を奏でるあこや姫と、その姫の部星のあがりがまちに座し、一心に笛を吹き統ける若者の姿が入った。

 何者なのだろう。次第に高まって来る嫉妬心をようやく制しながら機会を待った。やがて曲は終った。あこや姫とその若者は睦まじげに語り始めた。

「おのれ!わっばめ!」
 進之丞は自刃を振りかぶると若者めがけて切りかかった。若者があこや姫を突きたおし、横に飛んだのと、太刀がかまちに喰い込んだのはほとんど同時だった。

「何をする!」
 するどく若者が叫ぶ。進之丞は再び太刀をかまえ、横なぎにはらった。さっと身を引いた若者の手に細い笛が光る。進之丞は姿勢をもとにもどすと再び大上段に太刀を構えた。二人の男はにらみ合ったまま動かない。だが進之丞はあわてなかった。太刀を持っている時は、いかなる事があってもあわてたりしないことを長い実戦の経験と息づまる様な日々の生活より身につけていた。

 進之丞に細い一本の笛を持ったままにらみつける若者の構えは、およそ進之丞の知らぬ型だったが、一分のすきも見い出せなかった。じっと息をつめ合った長い時間の流れの後に若者は構えていた笛をゆっくり手元にもどした。それでも進之丞は打ち込めなかった。
 
 そして突然さっと一間ばかり後に飛び下った若者は笛を唇にあてた。思わず切りかかった進之丞の太刀は空を流れたのみだった。やがて若者の口元から笛の調ぺが流れ始めた。進之丞は再び切り込む。さらりと身をかわした若者はなおも笛の音を続けた。

 しばらく太刀を振り回す内に、進之丞は次第に全身から力が抜けていくのを感じた。この時になって始めて焦燥を感じた。力をこめて持ちなおそうとする太刀はそれでもある不思義な力に抗いきれず、ゆっくり弧を描いて下ってきた。そして進之丞の手がら太刀が落ち、彼はがくりと両ひざをついてしまった。
 
 若者はすぱやくその太刀を拾い上げると、それを大上段に構え進之丞に向かった。はっとした進之丞はひざをついたまま、後すざりをする。その顔には、醜いまでの恐怖感があった。若者はそんなことに躊躇することなく太刀を進之丞の首元にさっと落す。

 その時まで、なすすべも知らぬ様に、唯おろおろしてなりゆきを見ていたあこや姫は、思わず目をとじた。

 一瞬の後、カランとした音に恐る恐る目を開いたあこやは姫之丞に向かって静かに微笑みながら立っている若者、左衛門太郎の姿を見い出した。進之丞はがっくりとうなだれていた。

「わしはそなたを知つている。そなたの名は山辺の進之丞」
 はっと進之丞は顔を上げた。

「そなたの武力はかねてより聞きおよんでいた。そなたは確かに強い。だか、ただ単に強いだけだ。わしは今、そなたに勝った。解るか、このわしが何故に勝ったかが……。思い浮べるがよい、己れの首に太刀が飛び込んで来ようとする時の底しれぬ恐怖を。そなたは、今までごく当然の如く、その恐怖を幾多の人に味わせたことか。そして何の罪とがもない、平和に生を営む多くの動物達までを残忍なまでに殺傷したことか。みな、その刹那、そなたが今感じた恐れと生への執着を感じたことだろう。いかにあろうとも、人が他の人に決して死というものを与えてはならないのだ。それ程の権限がそなた達人間には断じてない」

 左衛門太郎の声は、夜空に響いていった。
「今までそなたは財力や力づくで思うがままに世を渡ってきた。が、財、力、それが一体何だというのだ。人の中には財やカで動く人間もあろう。だが、その人間とてどこまで動き得るか、止むに止まれず、心に憎悪を抱きながら動いたことを、そなたは知っていたのだろうか。人の心は、その様なもので助く程に単純なものではないのだ……」

 やがて左衛門太郎はゆっくりあこや姫に顔を向けたその顔は、神々しいまでに輝いていた。うなづ き 返す あこや姫に微笑を投げると再び笛 を 唇にあてながら去っていった。

 進之丞はなおも、じっとうずくまっていたが、やがて嗚咽に身体を激しく動かした。その声を聞きながら、あこや姫はおぼろげながら左衛門太郎に対して泡いていたものがはっきりしてくるのを感じた。
「左衛門太郎様……」
 小さくつぶやくと、あこや姫は左衛門太郎が去った闇の辺りに長いこと目をやっていた。

       ※  ※  ※  ※  ※  ※







2008/10/16 16:20:29|フィクション
愛の行方に 序章
はじめに

 若い頃の創作作品を紹介します。書いたのは、20歳代の初期、書くことを趣味にしていた頃です。機械設計のエンジニアだった私は、書くことを仕事にしたいと思っていました。小説家になりたかったのですが、その思いは、シナリオライターに変わり、結局はコピーライターの道を選びました。書くことで、何とか飯が食えるようになりました。そして、あっという間に夢中の32年が過ぎ、マーケティングの人間的な無毛さに疲れ始めていました。そんなとき、若い頃に書いた作品を読んでみました。若い情熱をぶつけています。そんな、若い私がうらやましく、愛しくも感じました。
 
 その頃の作品を、きちんとした形で残しておこうと、テキストデータ化して、手づくりのHONにしました。それが1999年、57歳の時です。そのときの「あとがき」を、「57歳のわたしから、25歳のぼくへのメッセージ」としまた。そして、それに答えるために、新しい創作に取り組もうとしていました。途中までは書いたのですが、多忙さに追いかけられ、投げ出してしまいました。
 
 そして、さらに10年が過ぎ、いま、この私がここにいます。もう、メッセージは書きません。ただ、あれらの若い私の作品たちを、ここに紹介してみましょう。自分の作品について、評論するつもりはありません。言い訳をする気も、添削する気もありません。ご笑読ください。

****************************************************

〈初版/あとがき〉

 あれから三十二年にもなるんですね。いま、私は五十七歳。二十五歳の君、つまり若い僕からのメッセージに、どう応えたらよいのか戸惑いはありますが、応えられるだけ、応えてみようと思います。

 まず、気に入らない点。君は「二人だけで愛しあおう」の中で、六十歳を老人としています。嫌悪の対象だとも言っています。原本では五十五才としていました。でも、その歳を過ぎた私としては、冗談じゃない、断じて老人ではない、と。時代も変ったのだし、君からのメッセージを忠実にそのまま再録しようと決めてはいましたが、いくらなんでもこれだけはと、五十五歳を六十歳に直して再録したのですが、それでも不満です。いま、六十歳のひとを老人と呼んではいけませんし、呼ぶ人も少ないでしょう。

 あの戦争の傷跡をまだまだ深く残していた時代、結婚を夢みてせっせと貯めたお金が十万円ほどの世界、職場で働く女性がBGと呼ばれ、タバコのフィルター付きのハイライトが大切にされた時代、同伴喫茶店が恋人たちにやさしかった時代、そんな香りのする君の世界は、できる限り残しておいてあげましょう。

 でも、そうなんだ、私は六十歳に近づいている、老人の領域に達しているんですね。あのとき君は、認識してはいなくても、どのように生命を活かそうかについての考えが及ばなくても、少なくてもあと三十二年は生きられるという状況にありました。が、いまの私は、君には思いもよらない齢に達していることだけは確実です。とっくに折り返し点を過ぎ、これからあと何年生きられるのか、それは二十年なのか、十年しかないのか、いや三十年も生きられるかもしれない。わかりませんが、君よりも一日、一時間、一分、一秒の重さは違っています。

 あれから、私は何をしてきたのでしょうか。二十五歳、H社M工場を辞めた年です。その後、ガソリンスタンドの洗車機のサービスエンジニア、機械設計事務所で自動械械の設計等の仕事を経て、いまのマーケティング関連の企画やツールの制作を担う仕事につきました。

 私のいた職場は、苦しい生活から解放される、明るい希望の持てる環境だったはずです。日活映画、吉永小百合さんの「キューポラのある街」で、主人公が苦しい境遇から、「苦しいときには手のひらを見つめてみよう」と、仲間皆んなで力を合わせて脱出できる職場として描かれたほどのところでした。

 東京オリンピックを機にH社の女子バレーチームが台頭したころでした。君はあの職場の中で、いまならとうてい信じれないような、少なくない表現規制はありましたが、企業内文化活動を満喫していましたね。会社の費用で文芸誌をつくり、文化祭で演劇を上演し、コーラスや絵画、書道を楽しむ。楽器演奏部もあり、スポーツにも野球、サッカー、テニス、バスケット、山岳部と多彩な活動が行われていました。時代もあったのでしょうが、企業はさながら学校の延長といったさまでした。そんな恵まれた環境があってこそ、君は好きなことをやってこられたのですね。

 そんな環境を捨てて以来、君が書いたような小説やシナリオなどを書くということはなかったのですが、三十余年、あるときは一日に四〇〇字詰原稿用紙換算で二十〜三十枚以上というペースで文章を書きまくってはきたことも事実です。

 それは広告やカタログ、DMのコピーであり、セールスマニュアルであり、セールプロモーション用のスライドやビデオなどのシナリオ、PR誌やハウスオーガン、あるいは、マーケティングや販売促進の企画書など、マーケティング・ビジネス分野でのコミュニケーションのための文章でした。

 売りの現場が、まだメーカー主導のもとにあって、ワープロやパソコンのない時代、万年筆から3Bの鉛筆に代え、さらにはシャープペンでと、ペンだこをつくりながら、書くことだけは書いてきました。私は、原稿を枚数ではなく、目方で売るといわれたほどでした。書くという行為の代償は、誰から誰に支払われるかは別として、流行作家なみの値段だったようです。君が、企業という環境の中で、余技としての活動で感じていた満足とは別質の喜びや満足感を味わってきました。

 私生活について話しましょう。君は、Rさんと恋をして、確か、恋の終止符を打ったのが二十四歳の頃。ここで再録した作品集は、その恋がもたらしたエネルギーが創らせたものといってよいでしょうね。その恋が、あまりに真剣でありすぎたために、見なくてもいい現実や、確かめなくてもいい情念を追求した中で、そのぎりぎりの思いを創作に託していたのでしたね。これらの作品をつくらせたのは、原動力のひとつはRさんだといってもいいかもしれません。

 H社を辞めるとき、別れてもう二年かそこいら経っていたRさんとの逢瀬がありましたね。新しい天地で飛躍しようとする不安の中にも、もう後へは引けない決意を秘めていた君からの申し出を快く受けてくれたRさんでした。その後の作品が多分「三人三脚」のシナリオで、その後、君はこの種の作品を書かなくなります。

 あのとき、Rさんと話したとき、あまりにもRさんが「君ナイズ」していたことに気づきます。考えること、話すこと、いろいろな行動が、君と過した年月の影響を強く残していました。それは生来の性癖といってもよいほどのものになっていました。夜も更け、別れが迫った頃、Rさんをそのまま引き止めることもなく、帰してしまいました。Rさんは、あるいは帰らなくてもよい覚悟があったのかもしれません。それを確かめ、応えられない君は、以来三十余年、何かの折りにそんな思い出を温めながら生きることになったのです。

 その後、もう恋をすることもありませんでした。シナリオ修業時代の仲間との恋らしきものはありましたが、シナリオライターからコピーライターという業種への関心を強めた頃、また、利己的な性格からも、長続きしない関係でした。

 結婚したのは、三十一歳のときです。結婚した兄に代って母親と住むことになり、世間的な信用ということからも結婚しなければならない。まだ具体的ではない妻と同居できる妥当な家賃の家に住もうと、多摩川を越えた街で見つけたアパートの大家さんの紹介で、いまのカミさんと知り合い結婚することになりました。秋に出会って、翌年の春に挙式というあわただしいものでした。

 その頃、仕事が面白くて、まともなデイトの時間もなく、いわゆる恋らしき思いがなかったようです。恋に燃えつき、その方面では抜けがらになっていたのかもしれません。いろいろな事情で、母親とは別居することになりましたが、男子と女子の二人の子らに恵まれました。その子らは、君と同じ年代になっています。

 愛って何だろうと、君からのメッセージである作品集を改めて読みながら考えます。愛という絆でいくら強く結ばれていても、所栓、ひとは一人なんだというわかりきったことをテーマにした君の作品は、その後の、私の生き方の出発点になったことは事実です。
 
 どんなに愛し合っても、身体で交り合っても、自分は自分でしかないもどかしさへのいらだちがモチーフになってはいますが、それは、私が生きているいま、どんな共感性を持つものでしょうか。だからこそ、ひとの心に近づかなければならないのかもしれない。それは、異性へのエロスの愛を越えた、アガペの愛だという認識が、ポーズだけかもしれませんが、その後の私のコミュニケーションづくりの「ウリ」の基本にしてきたようです。

 また君の時代に、愛していれば身体の交りをするのが当然という概念があるにしても、それは結婚という社会的に認知された状況の中でこそ許されるという強い「掟」が生きていました。恋愛の中にその関係をどう持ちこむか、君自身が悩み苦しみながら、それが別離の一因にもなるほどの精神環境の中で青春期を過したことが、その後の性的生活を悲惨とはいわなくても味けないものにするにせよ、節度ある人間関係、特に男女関係づくりのためには幸いしているのかもしれません。
 
 とにかく、婚前性交渉はタブーであり、その掟を破ることがメディアのトピックスにもなる時代でした。もし、君がいま、私がいる時代に青春時代を過しているなら、もっと別なモチーフやテーマの作品が生まれているのかもしれません。

 タブーが愛を育て、ドラマタイズすることは、シェークスピアはもちろんのこと、古くからの劇や物語のモチーフになっています。君の愛のテーマは、タブーを見すえながら、その根源にひとの孤独感の幻の解放を実現しようと錯覚した、やさしいひとたちの生きざまなのかもしれません。
 
 恋においても、かつてのようなタブーがなくなっているいまの時代、君の感性は、どんなドラマをつくるのでしょうか。どんなひとたちに、どんな生き方をさせながら、いまの時代の人たちにどんな質と量の感動を与えてくれるでしょうか。

 それを見つけるのが、多分、私の仕事なのかもしれません。私は、君からのメッセージを受けとめ、根源は同じですが、仕事でのコミュケーションづくりとは違った、ひとからひとへの新しい感動づくりができないかと考え、それを実現しようと思っています。

 それが、私の、君への愛情であり、愛の行方を追い求める、私と君の、コラボレーションなのかもしれません。まだ、多分もう少しはあるだろう時間の中で、この作品集の続編「作品集2」を、どんな形にしろ出版したいと考えています。

1999年4月   著者

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作品集
「愛の行方に」

57歳のわたしが
25歳のぼくから受け取ったメッセージ
「愛を見つけてくれましたか」


●作品その1 昭和38年(1963) 22歳作品
 民話伝説 あこやの松

●作品その2 昭和39年(1964) 23歳作品
 戯曲 われらの出発

●作品その3 昭和40年(1965) 24歳作品
 小説 二人だけで愛しあおう

●作品その4 昭和41年(1966) 25歳作品
 シナリオ 三人三脚








2008/10/13 0:35:39|エッセイ・日々是好日
秋の夕日に
●秋の夕日に 2008.10.13(月)

文章読取
テキスト化で生きざま遺産にする

 パソコンソフトの中で、感激したのはOCRソフトです。印刷された文章をスキャナで読取って、テキストデータにしてくれるソフトで、いまはエプソンのスキャナ付きプリンタに「読んでココ!!」がおまけでついてきます。かなりのすぐれモノで、ヒット率もまあまあで、一般的な使用に支障がありません。これを使う前は、他社製のソフトを使っていました。このソフトの価格は十五万円くらいしたのです。そのくせにヒット率はよくない。だましだまし使っていました。だから、タダでついてきた件のソフトの機能を期待しなかったのですが、これは大誤解でした。

 私が過去に書いた手書きの原稿を読取ってくれたらいいと思っていましたが、かなり癖のある「早書きマイフォント」では、まず無理なことは分かっていました。考えてみれば、周りには私の手書きの原稿は残っていません。残っている原稿や、取り込みたい文章は、ほとんどが印刷されたものか、ワープロで打ち出したもので、OCRで十分読み取れます。特に、読取りたいと思っていたのは、ずっと前、二十代の前半、文学青年だった頃に書いた、小説や戯曲などの作品でした。これらはタイプ印刷された文芸誌に掲載されたもので、手打ちするには時間がありません。
 
 時間を見つけて取り込みました。かすれた不鮮明なところもあるタイプ印刷で、取り込んだ後に修整して、なんとか読める文章にできました。テータ化しておけば、これをいろいろ加工できます。テキストデータの素晴らしさはこの点にあります。いろいろなメディアに記録し保存できます。早速、DTPで編集して、冊子にしました。それをPDFにも変換しておきました。冊子も、サイズを変えたり、縦書きや横書きにしたりして遊びました。私がいま進めているHONづくりです。仕事関係のものではない、若いころの作品は、ひいき目ですが、よくできています。
 
 私が気に入っているそれらの作品は、民話伝説、戯曲、小説、シナリオの4ジャンルの小品です。タイトルを「愛の行方に」としました。結局は、小説家にもなれず、劇作家やシナリオライターにもなれず、書くことを仕事にするために、コピーライターの道を選んだきっかけになった作品たちです。HONにしたのは57才の時でした。ちょうど10年前のことです。そのときの私が「あとがき」のなかで若い私からのメッセージに応えています。それは若い私が投げかけた問いに、新たに小説を書くことで、応じようとしたのです。それをいまだに果たしていません。
 
 書くことの意味は、メッセージを伝えることかもしれません。文化遺産として残る作家たちの作品と違って、私たちの書いたものは、何かの時に消えてしまいます。手紙や日記などは、よほどのことがない限り、長く残ることはないでしょう。いつ、誰が読んでくれるか分りませんが、書いたものをテキストデータにしておくことを奨めてています。そして、書くきっかけとして、生きざまを残そうと、遺言を書くことをすすめています。日記や手紙は、できるかぎりデジタルデータにしておくこと。残っている文章はOCRなどでデータ化しておくようにすすめています。


●秋の夕日に 2008.10.12(日)

企画提案
スライドがパワポに代わった後に

「パワーポイント」というソフトのお陰で、スライドが影をひそめてしまいました。どこまで私たちのスキルフルな仕事を取り上げればいいんだという気がしないではありませんが、これも時代でしょう。そういいながらも、いまはこのソフトを使っての商売もしています。手軽に、ひとり仕事でスライドショーが制作でき、便利にはなりました。かつて、MACには「クラリスインパクト」というソフトがあり、私のパソコンにも入れてあったのですが、使いこなせないまま、どこかへいってしまいました。WIN中心のビジネス業界では、日の目を見なかったのでしょう。

 もっぱら企画書作成のための総合ソフトだったと思います。トライしたのですがそのお世話になることなく、企画書を作っていました。ソフトは、どれもそうでしょうが、内容をまとめるための道具で、これがあるからといって企画が立てられるものではありません。見栄えのする表現にはなりますが、それは企画の善し悪しとは全く関係ありません。商売としての企画料はいただけません。企画は、どう書いてあるかではなく、何が書いてあるかによってその価値が決まるもの。当時、月に数点の企画をこなしていましたが、どう表現するかに時間をかけませんでした。
 
 その点、パワーポイントはビジネス現場でのプレゼンに役立つソフトで、至れり尽せりの内容です。最初、バカにしやがってと腹が立ち、やがてパソコンの守備範囲の広さに畏れ入ったものです。アイデアのまとめから、情報処理、図表作成や画像取り込み、コメントまで書き込める。おまけに、画像を動かし、音声までつけられる。マルチスライドの表現世界までに到達しています。しかも、デジタルデータですから、CDやMOなどのメディアに納められるし、ネットを通じて瞬時に送配付できる。ここでも、スライド制作者のスキルフルな仕事を奪ってしまいました。
 
 スライドは、映画やビデオに代わる、制作費が安価なプレゼンメディアでした。それなりの制作料金がとれるビジネスです。企画、台本、コンテ、オーデション、撮影、フリップ制作、オプチカル合成などの絵づくりを終えて、音入れとして、ナレーター選び、BGM選曲、スタジオを借りての録音編集の後も、ダビングがあり、実作業が多く、関わる会社やスタッフも多いことが、料金構成の根拠でした。モデルなどを使わない仕事でも、制作費は最低でも百万円は下らなかったでしょう。それがいまでは、データ集めは別として一日仕事で、制作料金は数万円でしょう。

 ビジネスとしてのスライド制作業は、極端に減ってしまいました。誰でも簡単に使えるパワーポイントは、企画をまとめ、メディア化して、スライドショーができる道具になっています。ビジネスの現場で、社内会議や発表会、得意先や消費者への説明やプレゼンで使われ、また、ネットでの配付資料として、ビジネスコミュニケーションを円滑にしています。スライド画面をプリントして配付資料も作れます。これらの機能を、使いこなすスキルも大切ですが、同時にこのメディアで、何を表現するかも大切にしたいもの。企画職人は、その分野でお役立ちできそうです。


●秋の夕日に 2008.10.11(土)

商標戦略
ブランディング作業の楽しみかた

 ブランディングは、マーケティングにおいて有効な戦略のひとつです。特に、若い女性を対象にした商品では、大きな力を発揮します。ファッションで、海外の有名デザイナーズブランド商品は、着て、持ち歩くことで、大きな優越感をつくります。まだ、知られていないブランドでも、それなりの質をもっていれば、目ざといまちのファッションリーダーがキャッチします。まして、そのブランドがパリやミラノあたりであったりすれば、半ば成功が約束されてようなもの。こんなブランド戦略を見逃すわけはありません。ただ、かなりの初期での費用投下は不可欠です。
 
 美容業でも、ブランド戦略は力を発揮します。ファッションでは、かなり力のあるパリのRというブランドを、日本で美容業界で展開している企業のシステム開発やマニュアルづくりのお手伝いをしたことがあります。Rブランドを冠したビューティサロンの、運営マニュアル制作などです。このブランドの本家お膝元では、多分、サロン展開はしていなかったようで、そのノウハウはありません。それでもいいのです。もちろん、少なくないブラント使用料は支払います。これは宣伝費です。そして、運営システムや美容用品の商品開発は、日本の会社が独自に行います。
 
 このシステムを、おなじ企業の別部門でも展開することになりました。もちろん、Rブランドは使えません。といって新たに開発する日本製のブランドでは、事業効果はありません。ファッション界で定評のある海外で、ブランド契約を安く締結できる、イタリアのFブランドを探してきました。このブランドでは、美容用品の扱いはありませんし、サロン運営のノウハウも皆無です。それらしいブランドであれば、あとはブランドイメージをつくるのも、商品をつくるのも、サロン運営システムをつくるのもその展開もこちらで行います。私にとっても結構な仕事量です。
 
 美容用品の中身は、その会社が行います。容器デザインから先は、このプロジェクトチームの仕事になります。製品をつくり、商品化し、それを使っての施術方法を開発し、システム化します。一方では、総合的なコンセプトをつくり、宣伝販促計画やサロン開発、運営システム、スタッフ訓練システムの開発を行い、それらをすべてマニュアルに落とし込みます。いわゆるフランチャイズチェーンシステムのすべてを、少ないメンバーのプロジェクトチームでこなさなければなりません。デザイナーは、多忙極まりない最中、イタリアに飛んでのプレゼンをこなしました。
 
 開発が済んでからは、あとはラインのルーティン仕事になります。このようにして旅立った事業を、その都度、要請に応じてチェックすることはありますが、私たちの手を離れてしまいます。こんなブランディング作業は、私たちマーケッターにとって面白い仕事です。ここまで大掛かりな仕事は、そうそうありませんが、その後も、いくつかのブランドづくりのお手伝いをしてきました。そのひとつが、このブログでも紹介している、東京の木で家を造る「環」プロジェクトです。まだ道半ばですが、この活動について、この先、ここで紹介し、考えていくつもりです。


●秋の夕日に 2008.10.10(金)

個性確認
まちづくりに活かしたいCI手法

 企業が金あまりのころ、CIの開発や見直しが盛んでした。コーポレートマークの開発に億単位の費用投下をしたという企業の噂が飛び交い、デザイン事務所は我も我もと名乗り出ました。マスコミでゴシップを流されるタレントまがいのデザイナーも出てくる始末でした。マークひとつのデザイン料が、数千万円にもなりました。それだけの投資効果があったかは、その企業のCIのそれからの活用方法にかかっていますが、投資以上の成果を挙げたところは多く、ただのブームに踊らされたとこもあったようです。たいがいの中小企業は、後者ではなかったでしょうか。
 
 私も、仲間とともにある建設会社のCI開発に、コピーライターとして参加しました。クルーは他に、プランナー、リサーチャー、デザイナー、コーディネーターと、カタカナ職業が並びます。なにせ、煙を撒くようなカッコづけが料金交渉を有利にします。社長、重役陣、専任担当者に向かってプレゼンテーションを行います。その会社の、大正時代から戦中戦後を経て使われてきた古ぼけた、ロゴやマーク、スローガンが新しくがつくりかえられ、提案されます。社歴の長い社員には愛着のある昔ながらの土建屋イメージを、みごとに払拭したような痛快な仕事でした。
 
 まちづくり、都市整備もこのCIの展開と似ているかもしれません。必要なのは、理論に裏打ちされたマーケティング・アイの視点でしょう。激しい生存競争のもとで企業生命をかけて精錬されてきた逞しい手法が役立ちます。まちづくりの進め方を見てみると、この手法が取られていない。思いつきで未消化のアイデアや時代の浮薄な流行、古臭い感情論に流され、それらがコンサルのフォーマットの中で、なんとなくまとめられる。都市間競争も企業の市場競争と同じように、熾烈なはずですが、ソフト面よりも、ハードなハコもの的な投資を優先しがちのようです。
 
 まず、まちのアイデンティティを、近未来の視点で見直すことでしょう。そのためには、まちの歴史や立地条件、自然環境、住民特性、産業、文化などを、時代環境や社会動向の視点で、詳しく調べあげて、精査検討が必要です。委員会や市民会議では、この段階の十分な納得なしに、急いで、あれしたい、これもしたいの具体的なアクション策定に走ってしまう。これでは、そのまちの個性を、思いつきレベルでは生かせても、未来に向けての魅力づくりに活かせない。どうしても自らがスケジュール化した制約の中で自縛してしまう。真の生きたノウハウを使わなきゃ。
 
 地道で基礎的なようで、華やかさに欠ける作業です。多望な中をお集りいただいて、貴重なご意見を伺うと慇懃にお願いしても、所詮、施策構築の基礎体力がない人の、自己意見を客観視できない主張は、空に虚しく消えていくだけ。時代を読み切れず、環境変化に即応できず、大勢からも取り残されて衰退を続ける団体代表の意見はあまり役立ちません。実務に基づく知識や情報のもとに、経験者の知恵を活かしながら、若い感性も取り入れること。企業で推進されたCIは、マインド、ビヘィビア、ビジュアルで構成されますが、まちづくりではどう構成しましょうか。


●秋の夕日に 2008.10.09(木)

有償協働
市民参加というアリバイの共犯者

 まちでは、次の基本構想づくりが進められられています。市内各種団体の代表者や学識経験者、市会議員などに、市民代表も加えた審議委員会のメンバーに、市職員、コンサル会社職員を加えた人たちによって、討議が進められているのでしょう。その中の市民委員は、公募による審査を経て決められた委員で、多分二、三名のはずです。この審議会の前に、市民意見を基本構想へ反映させるための市民会議が開催されました。私も手を挙げて、何回か意見交換が始まっていましたが、途中から加わらせていただきました。そして、市長あての提案書にまとめられました。
 
 その市民会議が、終りに近付いた頃、審議会の市民委員の募集が行われ、私も応募しました。結果、任命されませんでしたが、少なくない失望感を味わいました。簡単な応募理由の作文が応募要件でした。私なりの考えを提案したものですが、結局は採用に至らなかったわけです。結果は結果として甘受しました。多分、このまちとの相性が悪かったのでしょう。前に住んでいたまちでは、基本構想づくりの市民審議委員として参加していたいたのですが、ここでは他の条件が必要なのでしょう。少しはいままでの経験を役立てられるのではないかと、自負していたのです。
 
 市民委員には報酬が支払われます。といっても、ほんの雀の涙程度で、金額よりも市からの報酬と言うことに意味があるのかもしれません。それでも、無償のボランティアではないことだけは確かです。有償の市民協働というわけです。前にいたまちで市民審議委員になったときの経過と感想は、このブログの「協働の市民参加のコスト」で紹介していますが、14万市民の中の、現役あるいはリタイア・エリートビジネスマンたちとの競争でした。ここの審査要因に適わなかったわけで、もちん、選任されたとしても、お手伝いできることは殆どなかったかもしれません。
 
 市民会議のメンバーと、あるイベントでお会いすることがありました。審議委員会の傍聴ができるというお話しです。前のまちでも、委員会の市民傍聴者がいました。あるときは、三十名近くも詰め掛けました。その人たちは、同時進行していたまちづくり研究会の仲間たちで、意見も言えずにただ見ているだけ。そんな彼らの実りのない行動に、空しさを感じ、自身、身の置き場のないような恥ずかしさと、そんな状況をつくった当局に憤りを感じました。市民公開の会議であることをアピールするだけのアリバイづくりではないか。市民とは、一体どんな存在なのか。
 
 そのときの委員には、大学教授や企業市民の現役プランナーも混じっていました。凄いメンバーの意見に強く啓発されたのですが、結局、できあがった基本構想はごく当たり前の内容で、どこのまちにでも通じるような常識を逸脱しないものでした。影でうごめくコンサル側に、そんなフォーマットがあるのかもしれません。結局は、どこでも当たり外れのない、人当たりのよいものになってしまう。要は、市民の皆さんや有識者のお知恵を借りて、作成したものですというセレモニー。所詮、そんなものでしょう。私は、傍聴には行きませんが、結果は看取るつもりです。


●秋の夕日に 2008.10.08(水)

協働参加
評論家気取りの地震でもの言う人

 快い午寝のまどろみの中、国会中継のテレビ傍聴を夢うつつに面白がったしているうちに、うっかり、社協広報の編集会儀を忘れて、スッポかしてしまいました。先日、10月7日3時からの予定を4時からにするという連絡があり、スケジュールに入れておいたのですが、ま、過ぎてしまっては取り返しようもありません。少しばかりですが、後ろめたさを感じています。律儀というか、くそ真面目な自分を、そこまで気にすることはないのにとは思うのですが、これも性分でしょう。広報づくりの手伝いはボランティアですが、だからと取り組み方を区別していないつもりです。
 
 このまちで、少しばかりボランティアとして活動に参加してきました。その私は、手を挙げて参加するからには、まず、その仕事を大事にしたいと考えています。活動の優先順位は高くしているつもりです。しかし、手を挙げたメンバーでありながら、会議や活動に出て来なかったりする人は少なくありません。いろいろな事情があってのことでしょうが、次の会には何気なく参加して、欠席を悪びれようとはしません。確かに、その人がいなくても会議は滞りなく進みました。それでいいのかなという気がするのです。自分がいなくても済んだことが平気なのでしようね。
 
 つまり、その人にとって、ボランティアの活動は、第二義、三義的なものなのかもしれません。空いた時間に、ちょっと顔を出してみるか、言いたいことがあるから、この際、一発かましてやるか、と面白半分。報酬があるわけではないし、義務や責任があるわけでもない。いわば暇つぶしなのでしょう。本人は、そんな参加の仕方に少しの疑問も感じない。そこまで行政などの行事に関わるつもりはないと、半身の構えです。このような市民がいる限り、市民協働なんかできっこありません。これはこのまちに限ったことではありませんが、評論家気取りがいるものです。
 
 往々にして、その人たちの意見や行動は、まわりを唸らせるほどに群を抜いたものではありません。情報不足の上、思慮も知恵も足りません。ごく一般的、常識的な言動であることが多く、本人だけが自画自賛しているだけのこと。そして、会議の席で、他人の意見に耳を傾けずに、言いたいことだけ言って帰ってしまったりします。自分を何様だと思っているのかと質したいところです。自分が何者であるのか、自分の専門性はどんなことで、そのスタンスで何を言えるのかを、自問自答してからお出でといいたい。発言しなくても、会議を見守るだけでも協働なのです。
 
 かつて男性に多かったそんな人種は、最近、女性にも増えているように見受けます。こんなところで男女共同参画状況を造り上げているわけです。市民協働の意味を考えない人、そんな人の数によって、まちの民度が見えてきます。市民協働は、参加する人の量ではなく、質で推進するべきなのです。オリンピックと同様に、いまや参加することに意義のあるものではなく、実のあるものになってこそ意味があるのだと。それができないなら、活動に参加できないなら、最初から手を挙げないこと。と、ボランティアでも仕事は仕事を、さぼってしまった私の自己弁護です。


●秋の夕日に 2008.10.07(火)

仕事責任
仕事をどう考えるかを問うた御仁

 「仕事をどう思っているのですか」と問われたことがあります。このまちに来て、紹介を受けてホームページのコピーの仕事を請けたときです。個人起業家で、新しいビジネスを起すので、そのホームページをつくりたい、その企画とコピーを頼みたいとのことでした。既に、駅前に瀟洒な事務所を構えていました。いろいろ話を聞きます。その人は、かつて似たような仕事はしていたらしいのですが、新しいジャンルの仕事への挑戦です。いろいろな仕事を手掛けてきた私にとって、そう目新しい仕事ではありませんでしたが、私なりの考えを提案することにしました。
 
 かつて、ホームページは、小規模なビジネスにとって、期待の需要開拓法と思われていました。営業力が足りない事業所で、仕事を増やすための絶好の手段だと。その頃、私の事務所にいたデザイナーと共に、片手間仕事でしたが、頼まれたホームページづくりを仕事のひとつに加えていました。まちの小さな事業所からの依頼もあり、それまでに関わったことのない業種がありました。例えば、探偵社、マージャン用品製造業、宝飾業から、テレホンクラブからの依頼もありました。ホームページが、業績不振の突破口のように期待された十年程前のよき時代のことです。
 
 私に依頼したクライアントにとって、新しいジャンルの仕事で、ホームページの営業力があれば仕事になると考えたのでしょう。その仕事はサービス業のひとつで、競合がしのぎを削っています。ホームページでのPRも多く、そのクライアントも何社かのホームページをプリントアウトして持っていました。私に依頼する前に他のクルーにホームページをつくってもらったのですが、どうもお気に召さないらしく、新しい切り口をほしがっていたようです。その仕事を見せてもらいましたが、ギャラを含めて、与えられた条件をそれなりにクリアしている仕事です。
 
 ふたつの企画を提案しました。それは特殊なサービスで、需要の発掘が難しい業種です。彼らしいコンセプトを立ててのプレゼンをして、ひとつの方向で行くことの了解をもらって、次のステップであるコピー制作にかかります。そして、提案です。彼は、一応読んでくれるのですが、どこか気に入らないらしい。何度か、直しをくり返して、アップする期限を定めていたことから、デザイナーにバトンを渡します。ネットに仮置きしました。ここでも、ギャラを含め、与えられた条件をそれなりにクリアできた仕事だと。彼はOKを出さず、やり直しを命ずるわけです。
 
 とうとう自分でコピーを書いてしまいました。しかし、自分で書いたにもかかわらず、そのコピーにも満足がいかない様子。私に向かって、ちゃんと仕事をしてくれと。仕事をどう思っているのかと問い質すのです。何なら、コピーライターを変えてもいいんだと。彼の思う通りの仕事をしてこそ、仕事なんだというのでしょう。40年以上のキャリア職人にとっては、我慢のならないきつい言い種です。結局は、契約したギャラももらえないまま、その仕事はうやむやのうちに終ってしまいました。そのビジネスを始めたのかどうか、不明のままで知りたくもありません。








2008/10/06 9:21:14|エッセイ・日々是好日
風と雨の峽
●風と雨の峽 2008.10.06(月)

カラオケ
素人演芸会定番のカラオケの序列

 社協の福祉まつりが終りました。私にとって3回目か4回目の体験なので、過去に較べて大きく変わったのかどうかは分りませんが、前年や、一昨年とは大差がないようです。いまの運営体制のままでは、変えようがないのかもしれません。これは勝手にそう言うだけのことで、もし自分が加わったら変えられるかと言えば、多分、変えられないでしょう。長い間に定着してしまったこのまち独特の体制が、いろいろなしがらみをつくっているのかもしれません。いままではまつりの途中で帰ったのですが、今回は終了の少し前までいました。体力的に疲れてしまいました。
 
 この福祉まつりでは、アトラクションに大勢のゲストが出演します。市内の趣味の活動サークルやお稽古ごとをしている個人で、その人たちと、その人が動員をかけたお仲間たちで賑わっているようなもので、もしアトラクションがなかったら会場は閑散としてしまうでしょう。運営側はそれでよしとする見解で、アトラクションは動員のための仕掛けなわけです。畳敷きの大広間は、大人の学芸会かお祭りの素人演芸会の様相です。プログラムを見て、まいったなと思いながら、見学することにしました。障がい者慰問の演目はありますが、趣味のお披露目会のようです。
 
 中高年のご婦人たちが、お揃いのTシャツとスラックスで楽しそうに歌って踊るのは、微笑みものです。障がい者や高齢者、福祉施設慰問という大儀名聞が、恥じらいなどを吹っ飛ばしているようです。ここでよかったのはカラオケがなかったこと。この手の演芸会では定番演目のカラオケ歌競べがないのは福祉まつりの「良心」でしょう。いま、カラオケは市民生活にすっかり居着いてしまいますが、私はどうも馴染めません。新人歌手が地方まわりの営業には欠かせなかったものでした。そんな、システの導入前から、カラオケの普及に仕事として関わってきました。
 
 カートリッジテープで火がついたカラオケは、やがて映像がついて、レーザーティスクや多チャンネルVレコードの世代を迎えました。ここでも規格方式の戦いです。私は、レーザー系のP社側の陣営に組みしました。その普及のために、普及ツール制作のために導入スナックやバーの取材をして、V社のレコード系のシステムとの戦いに挑みました。使い勝手的にはレーザー方式に軍配を上げたのですか、やがて、通信系のカラオケ全盛になり、PV戦いは終焉したようです。この頃から、歌うのはどうも苦手なことからも、カラオケには近付かないようにしています。
 
 カラオケも素人と玄人の意識のバリアを薄くしたようです。プロと同じように本格オケをバックにマイクで歌い、それがビデオ映像で写し出せる。気分はプロ歌手で、中にはプロ何ものぞといったつわものも出てきます。テレビメディアが仲介してプロをつくり出す。その歌をカラオケでリピートする。ここでも均一社会が進んでいるようです。プロが手の届かない世界に住む人ではなく、連綿と続く上手下手の序列の先にいる親しみやい並みの人。それがどうも落ちつかないのです。このようなカラオケが、福祉まつりのアトラクションになかったのには安堵しました。
 

●風と雨の峽 2008.10.05(日)

目的志向
社協の福祉まつりは開催が目的か

 今日、このまちの福祉センターで、午前9時30分から午後2時まで、恒例の社会福祉協議会「みんな友だち/2008福祉まつり/ほほえみフェスティバル」が開催されます。いろいろなボランティアグループの代表で構成された実行委員会が主催するもので、市民に地域福祉ヘの理解を深めるきっかけにしてもらうのが目的。市内中学校生徒のブラスバンドや社会活動グループや趣味の会のいろいろなアトラクションのほか、障害疑似体験、手づくり作品の販売、グループの展示PR、模擬店など盛りだくさんの内容のお祭りイベントです。この最終準備が昨日行われました。
 
 例年、そこそこの参加者があり、今年も同じような盛り上がりを見せるでしょう。ただ、一般市民の参加は少なく、まつりの出演者や出店者のメンバーのにぎわいでボランティアグループの交流会といったおもむきです。来月行われる福祉バザーの動員力にくらべたら寂しものです。このような状態が今回もくり返すことは想像にかたくありません。まあそれでよしとしているのでしょうが、もっと目的の範囲を広げたらどうだろうと思うのです。地域福祉の浸透をはかるのなら、一般市民の動員力アップを目論むとかのサブ的な目標を立てるべきではないかと思うのです。
 
 ともすれば、このイベントだけではなく、仕事を含めていろいろなことが、何のために実施するのか、が置き去りになることが多いものです。目的よりも手段を優先させる。手段はあくまでも方法です。手段あっての目的であり、手段を完遂させることに力を傾注することは悪いことではありません。が、参与者全員がそれだけにかかずりあってしまうのはだだの馬鹿騒ぎです。その原因の多くは、全体を見渡せるディレクターがいないため。指揮者のいない集団は、何のために行動しているのか知りませんし、あるいは知ろうともしません。烏合の衆でしかないのです。
 
 右向けといったら、次の指示があるまで右を向き続ける。操る人にとっては可愛い集団でしょう。いまやっていることが何のためにやっているのか知ろうともしない。現にそんな国があり、この国でも、過去にそうやって大きな誤りをおかさなかったか。人びとは少しずつ慣らされているのかもしれません。恐いことではあります。はっきりと目的を徹底させることです。私はマニュアルづくりでも、何のための作業なのかを伝えることが必要だと口すっぱく言ってきましたが、ある人たちにとっては、余計なことだったのかもしれません。しかし、わたしは言い続けます。
 
 福祉まつりのイベントを、ただ華やかに実施するだけで終らせないこと。一兵卒の私としてできることは、このイベントを通して、福祉ボランティアを一人でも多く増やすお手伝いをする。そのためのメディアミックスとして、社協広報に掲載した「広がれボランティア」の記事を小冊子にまとめて、イベント会場で配付すること、これは手段です。そのために準備に忙しい前日会場の中で、社協事務所のコピー機を借りて小冊子づくりをすることでした。乞われてのことではありませんし、だれもそのことの意味について気付かなかったようです。それでもいいのですよ。


●風と雨の峽 2008.10.04(土)

健康食品
舞茸など茸三種類の健康補助食品

 一時、マス広告を賑わせていた「アガリスク」が、規制にあってかすっかり影を潜めてしまいました。何種類か「健康食品」として販売されていました。薬品ではないので、真正面から、癌が治るとはうたえませんが、多くの治健例があるといわれていました。いまも元気に売られているのかもしれませんが、一般の目にはつきにくいようです。決して安くない価格は、もし薬効があったら安いものです。何しろ、現代医学からも見放された、不治の病から生命を救ってくれるのです。財産を投げ打ってでも、欲しいものでしょう。かえって高価さが効き目を示すようです。
 
 アガリスクの他に、いろいろな茸類が、癌に効くと喧伝されています。健康食品として茸類は、昔から食されてきました。椎茸やえのき茸などは、人工栽培され、年間を通して安価に売られています。かつては椎茸健康法とかで、人気を集めたことがあります。以来、いろいろな茸類の「健康によい」効果が発見され、食用とは別に、エキスや錠剤に加工され、健康補助食品として商品化されてきました。私のボスが、食品のエキスパートであったことから、私も茸類だけではなく、深海鮫とかスッポンなどの健康補助食品の販売企画立案の手伝いをさせてもらいました。

 私の仕事は、業界に顔の広いボスの知り合いの卸商社など向けに、健康商品の案内や販売戦略、事業計画の企画書をつくることでした。そのために、栽培や生産加工の現場に赴いて、必要なデータを集めます。生産者から話を聴き、また、使用者に先行試作品の使用感や治健例を聞き出します。それを企画書にまとめて、プレゼンするまでが仕事。はっきりいって、その後、どのような販売活動が展開されたのかについてはフォローしない無責任でやくざなプランナではありました。ボスの秘蔵っ子の私に、それ以上の仕事が入らないように、抑えてくれていたようです。
 
 もっとも深く関わったのが、茸類をミックスした健康補助食品です。「舞茸」を中心に、話題の「アガリスク」、これは「姫松茸」という和名があります、と「冬中夏草」という茸の仲間を混合したエキスです。ボスが友人たちと販売会社を起して商品化しようとしていました。「舞茸」は、山奥に自生する貴重な茸で、人工栽培が開発され、いま、量産されたマイタケが、スーパーなどでも売られています。商品は、特別の菌株で栽培された舞茸を、他の二種の茸とミックスして、エキスにした健康補助食品です。私は、この商品を「健茸逸品」とネーミングしました。
 
 ボスのアシスタント的な参加でした。メンバーの中心は写真家のHさん、会社役員を辞めたAさんは総括担当です。私は、まず、PR小冊子を作る仕事。他社の資料や、ウェブで集めるだけの資料を集めました。効くとされるメカニズムから、原材料の茸の紹介をします。癌が治癒するとは言えぱ、詐欺になります。治験者の体験もでっち上げるわけにもいかず、生産者の元に届いた礼状をリライトしました。36ページの冊子にまとめ、案内チラシのコピーも書いて、居心地の悪いそのグループから離れました。その後、志半ばで、Hさんは癌で亡くなったと聞きました。


●風と雨の峽 2008.10.03(金)

論戦興業
主張台本を読みあう無進展の芝居

 テレビで国会中継を興味深く観ました。新しい首相はじめ閣僚に対しての、各党の代表質問とそれに対する応答は、なかなか熱の入ったものです。これを論戦とか抗争とか呼ぶらしいのですが、そうするとテレビ傍視聴する私たち国民は、さしずめ、観戦していることになります。よくいうよ、という感じです。ご本人たちが、言葉で闘っているのではなく、誰が書いたかは別にして、用意した台本を読みあっているだけです。確かに、一問一答ではなく、質問者が一定の時間内に、たくさんの質問をしてからそれに応えるのですから、いちいち覚えきれないものでしょう。
 
 質問者の目は台本に釘付けです。応える方は、それに集中して聴いている様子もないし、メモをとってもいないようです。さすが頭脳明晰な代議士先生方です。あれっ、もっと質問項目があったのではと思っても、それはこちらの勘違いのようでした。質問に慇懃に応える風を装いながら、自らの主張を巧みに言い張る見事さ。質問する方も、自分の選挙区向けのアピールを折り込みます。総選挙が近付き、なんとか再び、いまと同じ質問者の身分を守りたいのでしょう。地域を代表しているのですから、地方の課題を国会の場で問い質すのは当然といえば当然のことです。
 
 国会に限らず政治の議会は、都議会、市議会も似たり寄ったりなのでしょう。腕の立つ、百戦錬磨の台本書きの、してやったりの顔が見えてくるようです。こんなやりとりを論戦とは呼んでほしくない、ひとつのお芝居、儀式です。国会という檜舞台に立った千両役者たちが、国民という観客に向かって演技を競い合う興業ともいえます。この論戦とやらで、互いの考え方や方向性が変わることはなく、それを承知の上で、それぞれの党の方針を言い合うだけの儀式。意見や主張、話し方によって相手の考え方を変えていく、法廷ドラマのような緊迫感も感じられません。
 
 それにしても出演者たちの演技が下手なこと。皆さん同じょうなキャラクターでの熱演です。台本を覚えて、そらでやりあったらいかがですかとはいいません。もちろん初見ではないでしょうが、役者にスタイリトやメークがつくように、演技のディレクターがいてもよい。読み上げるだけなら、いっそのこと、プロの役者を使って、情感たっぷりの演出をしたらいかがなものか。そのほうが内容が、観客の心と知性に飛び込んでくる気がします。もっとも、そうなると顔と名前をマスメディアを通して売り込むという、最も大事にしている願いはかなえられませんが。
 
 台本がよくできているだけに、どのようなプロセスで作られるのかに興味があります。まさか、演ずるご本人が台本づくりに一切関わらないということはないでしょうが、何人かのスタッフによって練り上げられるのでしょう。そんな人たちを、とどの詰まりは国民の血税で支えているわけですが、タイトな時間の激務は想像にかたくありません。居酒屋タクシーがはびこるわけです。といって、台本づくりを本人にまかせたらとんでもないことを言い出して、役職を追われかねません。そんなスタッフを守り抜くのが、役者の命がけの課題であり、いい関係が続きます。


●風と雨の峽 2008.10.02(木)

均一社会
本物クリエイティブは別の世界で

 私はクリエイターと呼ばれてきました。前々から、この呼称には抵抗がありました。クリエイティブとは、創造的,独創的であるさま.創造力のあるようすと定義されていますが、広告業界では「制作」という仕事全般を呼んでいます。広告の制作に関わる人たちが、クリエータというわけです。いわゆるクリエイティプは、どんな分野でも必要とされるものでしょうが、広告の先進国の米国で使っているからと、ことさらこの業界で使うのはいかがなものかと。小説家とか画家、作曲家などの芸術分野の作り手を指すのなら、許せるとは思っていました。
 
 コピーライトのスキルとは、手持ちの語彙数と、言葉に対する思い入れ、推敲して最終の言葉にたどりつく時間の早さではないでしょうか。この知識と技術は、バソコンの力によって、かなり楽に越えられるようになりました。語彙数については、類語辞典があります。これをパソコンに入れておけば、表現したい言葉を見つけることができます。これをくり返すうちに、本人なりの、言葉感が養われます。推敲のしやすさは、パソコンの独壇場です。思いついた言葉を入力していき、それらをつないで文章化して、画面上で何度でも、手軽に検討訂正の推敲ができます。
 
 必要なら、インターネットなどから、誰かが書いた文章を取り込んで、これを加工することができます。文章がデジタルデータ化され、玉石混交ですが、多くのジャンルで数多く出回っています。珠玉の文章が惜し気なく、さらけ出してあり、ライターの端くれとしてゾッとしてしまいます。例えば、S社の文庫本100册のCD-ROMがあります。多くの人びとが愛読しているすぐれた小説のテキストデータを取り込んで、登場人物を自分やまわりの人たちの名前に、置換え操作で、一瞬のうちに替えられます。これをプリントアウトして、オリジナルHONがつくれます。
 
 ウェブに出回っている専門的な学術論文も、一瞬のうちに取り込めます。卒論の作成などには使われているテクニックらしいのですが、程度問題はありますが、学生の多くは活用している方法でしょう。長いセンテンスをそのまま使えば著作権侵害の犯罪になりますが、いくつかの短文たちを自分の考えで再構成してつなげば、誰からも批判されない国語の作文です。資料や文献を参照して、原稿用紙に万年筆で手書きするのと、基本的に変わらないのではないでしょうか。批判の矛先の本当は、お手軽過ぎることへの、それができない人のやっかみなのかもしれません。
 
 独創性に突出した作品は、特異な才能と、長い時間をかけた研究や調査、取材と、鋭利な観察と熟考があってこそ生み出されるものでしょう。そして、たっぷりの時間と経済的にもゆとりのある、ごく一部の人たちだけに許された、神の領域に近い行為かもしれません。日々の生活に追われる一般の人たちにとっては、残念ですが独創のクリエイティブ作業は難しい。とすると、道具であるパソコンを使って数をこなして、スキルフルな仕事をするしかない。これは、職人の世界です。このようにして、凡人はどんぐりの背比べの、均一社会をつくり出していくのでしょう。


●風と雨の峽 2008.10.01(水)

イラスト
手づくりの世界が遠くなった時代

 この世界に入った頃、マニュアルのカット程度のイラストなら、デザイナーが描いていました。イラストだけではなく、レタリングも書き、スタイリスト役もこなしていました。デザイナーは、まさしくグラフィックアートの総合職人でありディレクターだったわけです。私が書くセールスマニュアルは、言葉の世界です。どうしても紙面は文字だけになり、これじゃあ読まれないだろうと、息抜きというか、目休めのために、線画の絵を入れていたわけです。読まない人は、そんな工夫をしたからといって読まないものですが、少しでも読んでもらう努力はしていました。
 
 書いたコピーにどんなイラストを描いてくるかで、内容をどの程度、理解してくれたか一目瞭然です。デザイナーが最初の読み手であり、理解者です。やがて、イラストとデザインは分業化され、デザイナーの指示で、イラストレータが描くようになりますが、デザイナーがどんな理解をしたかです。狙いにピタッとはまった時は快哉ものです。ただ、締め切り時間のせいもあったのでしょう。指示なしで丸投げしたのかもしれません。コピーが何を伝えようとしているのかではなく、その中から絵を描きやすい、絵になる言葉を選んで、それを描くという人もいました。
 
 それでもイラストは、ひとつのコピーのためだけのオリジナルでした。そして、1点いくらというギャランティをしていました。いま、パソコンのDTPでレイアウトするようになると、オリジナルなイラストを描くということが少なくなり、出来合いのカットを使うようになります。画稿料の要らないカット、イラスト集のCDROMの中から、適当なものを探して当てはめるだけです。インパクトのあるイラストは、描き手の個性が出てくるものですが、どこかで見たような感じを与えてしまいます。そのために、無個性なイラストが好まれ、つまらなくしています。
 
 精緻な、写真のようなイラストを描くイラストレータがいます。写真と見まごうばかりの絵で、描いた内容よりも、その絵の見事さに圧倒されてしまい、それだけで合格、採用されてしまう仕事です。そんな絵を描けるイラストレータが仲間にいました。彼の場合、下絵は自身のスケッチや写真ではなく、どこかに掲載された、誰かが撮った写真になります。その写真を忠実に描きあげるわけで、その写真以上にリアル感が出していました。この上手すぎることが災いします。元の写真の作家が割れてしまい、中には著作権侵害の訴訟にまでなってしまったことがあります。
 
 絵が下手だったら、多分見過ごしてくれたことでしょう。写真以上に、メッセージ力を持ってしまった力量は、まさしく、彼ならのものです。いま、デジタルの画像づくりの世界では、素人目には、もとの絵が想像できないほどに、色はもとより、形や表情まで変えてしまうことができます。こうなると何も、手描きする必要がない。キャンバスに描いた油絵風や、ガラス越し風の絵まで描けてしまう。これを活用したビジネスまで生まれています。論文などの文章だけではなく、画像作品まてがコピーされてしまう時代を、どのように受け止めたらよいのでしょうか。 


●風と雨の峽 2008.09.30(火)

はじまり
新朝ドラのスタートでのドラマ考

 NHKの朝ドラの新番組が始まりました。今度は大阪制作版です。仕事部屋で独り生活するようになって、自分の生活時間に、好きな番組を見ることができます。朝ドラは、私の生活の中にすっかり組み込まれています。何せ、ここではその気になれば、一日に同じものを録画しないでも5回も見ることができます。もっともこんな利便をいつもいつも行使しているわけではありませんが、ただ、筋を追うだけではない見方ができるということは、私にとって楽しいことでもあります。視力のせいもあるのでしょうが、前に見た時に、気付かなかったものが見えてきます。
 
 背景へのこだわり方など、制作スタッフの苦心の跡が見えてきます。その他大勢の出演者の一生懸命さが見えてきます。ドラマづくりにかける人たちの熱い思いを感じ取れるのも、愉快なものです。それにしても、東京制作版より、大阪制作版が面白いのは、エンターティメントへの取り組み方の温度差なのでしょうか。朝ドラを見ている此岸の感情や事情をよく理解していて、うまい展開をしている。ドラマだと分かっている覚めた視聴者と一緒に遊んでくれる。東京よりドラマづくり資源が少ないせいか、ひとり一人、ひとつひとつを大事に扱っていることが伺えます。
 
 私にとって、嫌いな筋はこびがあります。この朝ドラでは不倫ものや殺しものは嫌です。主要な登場人物を途中で殺してしまったり、どこかに追いやってしまうのは嫌。エピソードの起伏が激しすぎるのも嫌です。どんでん返しもいらないし、くさいラブシーンもいらない。珍しいゲスト出演者と話がついたからと、引っぱり出して見せられるのも嫌。こうなるだろうな通りの展開でいいんです。そうならない筋はこびは、朝ドラの邪道です。2時間の劇場映画とは、違った作り方でなければならない。ながら見ができるから、高視聴率がとれるというものです。
 
 視聴者のドラマづくりへの関わり方はいろいろあります。ただ、見せられる通りのものを、泣いたり笑ったりしながら見ていればよいものを、ああでない、こうでなけれはと、いっぱしの評論家風な訳知り顔で評する人がいます。私などはその類いでしょうが、少しばかり作り手の立場や事情なりを想像でき、自分が作るだろうものへ反映できます。しかし、受け手の視聴者なのに、自分の好き嫌い世界の中で、大声をあげる人がいます。このような人は、ドラマづくりの当事者になる機会が訪れようものなら、声が大きいだけに、他を巻き込んで突っ走る馬力があります。

 いま、このまちで市制40周年記念の映画づくりが進められています。この映画づくりのために市民の声を活かそうと市民会議が設けられました。それを知って手をあげて、メンバーの一人として参加させてもらいました。集まったのは十人にも満たなかったでしょうか。皆さん映画に関する経歴はいろいろでしたが、それぞれが強い思い込みがあるようです。あらかじめ決まっているスケジュールがあり、会議の回数は限られています。行政スタッフの真摯で懸命な取組みは分るのですが、まだ、制作途中のことであり、そのうちに、ここで考えたいと思っています。