昭和41年(1966) 25歳作品
シナリオ 三人三脚
●人 悦子 信夫 正男 ●所 マンションの一室 ●時 昭和四十年頃
マンションの部屋の中央に、 テーブルを挟んで肘掛椅子とソフアがある。 壁に、まがいもののマントルピース。 その上に、電話器と、 額に入った船をバックにした船員姿の男の上半身写真。
悦子がソフアで編物をしている。 彼女は、赤ん坊の白い靴下を編んでいて、 既に出来上った片方はテーブルの上に置いてある。 開け放たれた窓で、 レースのカーテンが風に揺らいでいる晩春の午後のひととき。 編物を続ける悦子の顔が、時々ほころび、 軽ろやかにハミングを口づさんでいる。 この曲は、後で出てくるワルツの曲だ。
電話が鳴る。 ゆっくり立ち上って、電話の方へ行く悦子。 受話を取り上げる前に、片手で写真を取る。
悦子「(写真を見ながら)はい。あらお母様……ええ……そう、いよいよ今日よ……そりゃ、勿論、だって三ヵ月も待っていたんですもの、フフフ……そう横浜、もうじき帰ってくるわ、さっき電話があったの……そりゃあ、悦子、一秒でも早く。でもあの人も迎えに来なくてもいいって言うし、かえってここで待っていた方が、誰も見ている人がいないでしょ、ね……フフ、そういうこと。それに身体も大事にしな いと……うん、三ヵ月……ええ……そんな、まだ……うん、悦子、女の子でも構わなくってよ……ええ……はい。じゃあ、さようなら……え、大丈夫、じゃあ」
電話を切った 悦子、写真を両手で抱える。
悦子「(写真に)まっすぐ帰って来るのよ、寄り道なんかしたら承知しないぞ、分っ た?よろしい」
悦子は、写真に口づけする。 写真を元の場所に置き、ソフアに戻りかけるが、思いついたように写真を取りに戻り、それをテーブルの上に置く。 悦子、編物を始める。
悦子「(写真に、編みかけの靴下を示して)ほら、かわいいでしょ。きっと赤ちゃ ん、悦子に似て、きれいよ」
やがて、編物を置くと、窓際に寄り、窓から下の方を見る。 ちらと腕時計を見て、部屋の方に振り返える。
悦子「(写真に向って)ねえ、正男、いやん、こった向いて(と、写真に近づき、写真を取り上げる)ほら、この曲(と、先刻のワルツを口づさみ)ね、また踏りましょうよ、ね、待ってて」
悦子、写真を置くと、ステレオに近づ きレコードをかける。 部屋いっぱいに、ワルツが流れる。 悦子、写真を取り上げ、両手で持つ。
悦子「さ、正男、踊るのよ、はい、フフフ(悦子、踊り出す)……(男の声で)始めてお会いしますね(地の声、つまり彼女自身の声で)ええ、お友達に誘われて。あなたは、このパーティには、いつもいらっしゃるんですか(男の声で)ええ、ね、あなた冷奴お好きですか?(女の声で)は?冷奴?(男の声で)ほら、トウフを冷して、あれでビールを飲むの最高だな。庶民なんですよ、僕あ。(女の声で)あの、あまり……。(男の声で)お上手ですね、それに素敵だ、あなたは。(女の声で)そんな、困りますわ、ご冗談をおっしゃっちゃ。(男の声で)きれいだ、本当に素晴しい人だ、あなたは」
突然、入口のチャイムが鳴る。 悦子、写真を置くとはっとして、ドア に近づく。 室内に、ワルツが残る。 ドアを開けて、外と応待する彼女の後姿。 やがてしょんぽり部屋に戻る。 悦子、写真に肩をすくめて笑ってみせ る。 しばらくぼんやり立たづむ。 ふと手の写真に気づき、元のマントルピースの上に置く。 ステレオに近づき、レコードを止める。
悦子「さてと、何しているのかしら」
窓辺に行って、外を見たり、 部屋の 中を行ったり来たりする悦子。 悦子、ふと微笑すると隣室に行く。 すぐ、テニスラケットを持って戻 る。
悦子「(写真に)さ、今度はテニスよ。あなたは上手だったわ、悦子はいつも負けてばっかりいたわね。ほら、皆んなで軽井沢へ行った時、悦子、あなたに負けてべそかいちゃったわね、だって本当にくやしかったんですもの」
悦子、ラケットを軽く素振りする。 やがて、見えないボールをサーブする。 打ち返えされたボールを打ち返す。 ポーンというボールの弾む音が聞えると……
〈イメージ〉
ショートスカートをはいた悦子が、 コートでボールを追っている。 ボールがラケットに打ち返され、 白い雲の流れる空に飛んでいく。 まわりに若い歓声と拍手。 汗だくになってボールを追う悦子。 そして、ボールを逃がし転ぶ悦子。 大きくなる若い歓声と拍手。 汗の中で、泣きべそをかく悦子。
デゾルブして、 悦子、部屋でラケットを抱きかかえて いる。 遠くを見つめる目。 一瞬、悦子の目の中に寂しさが走る。 ゆっくり、ソフアに戻る悦子。
悦子「(無理に明るくなろうとして)そして、ドライブ。あなたが運転して、悦子が助手席……」
一瞬、ブレーキの音。
〈イメージ〉 悲鳴を上げて、運転する男に寄る悦子。 明るく笑う若い男(後姿のみ)。 フロントグラスの向うに拡がる鬼押出、続くハイウェイ。 イメージが続くうちに、ドアのチャ イムが鋭くインサート。
はっと期待に輝く悦子の目。 悦子、ドアに駆けるように近づく。 そして、一瞬、ドアの前にととまる と、大きく深呼吸する。 悦子、ドアを開ける。 と、驚いて、あわててドアを閉めようとする。 が、外から強い力で押し返えされる。 ドアから手を離し、うろたえる悦子。
部屋に入ってきたのは、信夫だ。
悦子「困りますわ、信夫さん。ね、お帰りなってください」 信夫、構わずソフアに腰を下す。
ラケットに気づき、取り上げて素振りする。
信夫「外のホテルでは会っても、ここに来られちゃまずいというわけですか」
悦子の視線がふと正男の写真に走る。
信夫「(それに気づいて)ああ、なる程、今日ですか、ご主人のお帰りは、僕も会いたいですね、彼とは、もう、そう半年、会っていない。あなたが結婚する前からですからね」 悦子「ね、お願い。今日は帰って……」 信夫「親友だったんですよ、僕らは……あなたが彼と結婚を決意する時まではね」
悦子、部屋の隅でうなだれる。 信夫、ラケットを持って立ち上ると、 悦子の側に寄る。 彼女の前でラケットを振って、
信夫「よくやりましたね。あなたは一度も僕に勝てなかった。それでもあなたは何回も何回も手向か ってくる。ほら、思い出しますね、 昨年の夏、軽井沢のコートを。あの時、あなたはとうとう泣きべそをかいてしまった……僕らは三人、いつも一緒でしたね」
部屋をぐるりと見回した信夫、やがて写真を見て、近づく。
信夫「(写真に)お前は、ただ見ているだけだったな。いくらすすめても、これを握らなかった」
信夫、写真に向ってゆっくりラケットを振る。 悦子、ふっとため息をつくと、窓辺に行き、 信夫を無視するようにレースのカーテン越しに外を見る。
信夫「素晴しい生活だ。高級マンション、この豪華な調度品の数々、僕はあの頃、いつもそんな夢を見ていた。そして、それらの中には、いつも静かな微笑をたたえたあなたがいた、というわけです」
悦子、依然として彼を無視している。
信夫「僕は信じていた。あなたを、あなたの愛を……ま、いい、それはいい、こうなってしまった以上、僕は何もいわない。結局、あの時、親父の会社が倒産し、僕の専務の肩書きを一瞬にして喪ったことが……」 悦子「(振り返って)いくら欲しいんです」 信夫「と、外国航路、高級船員の若奥様はおっしゃる。しゃあしゃあと。その人は、この僕のこの胸の中で、何度も愛している、愛しているとおっしゃったのだ」 悦子「(ヒステリックに)出ていって!でないと警察を呼びますわよ」 信夫「どうぞ、どうぞ(急ぎ足で電話の前に行き、受話器を取り上げ)ええと、一一〇番でしたね」
だが、ダイヤルには手をかけずに、 受話器をしばらく耳にあてている。 信夫、写真を取り上げる。
信夫「正男 、楽しいじゃないか、え、人生ってやつは。学生の頃、田舎から出てきたお前に、いろんなことを教えたな。いろいろな所に連れていき、タバコ、酒、麻雀。喫茶店すら知らなかったお前だった……」
信夫、しばらく写真を見ている。 悦子、ゆっくのソフアに戻り、 彼を無視するように背を向け、赤ん坊の靴下を編み出す。
信夫「(そんな彼女を見 て、ふと思いついたように写真を額から外し、写真の裏に、ポケットから紙片を入れる)苦学していたお前に、僕は何回も金を用立ててやったことがあったな。返せないことは分っていても、それでも、お前は僕の親友だったから。僕には大勢の友人がいたが、お前には僕しかいなかったしね。それが、お前の奥様は金を恵んでくれるんだって、出ていけだって、この僕に」
悦子、黙々と編み棒を動かす。 彼女の後に立った信夫、背後から彼女を見下す。
悦子「お願い、お帰りになって、何でもしますから。今日は……」 信夫「(ゆっくり彼女の前の肘掛け椅子に近づき)罪ほろぼしのために、結婚後も、僕に抱かれた、というわけですか」
信夫、テーブルの上の靴下の片方を取りあげ、指で弄ぶ。
信夫「おめでとう奥さん、ご主人のいない退屈もまぬがれますね。というと、僕は、会ってもらえなくなり、ホテルに連れていってもらえなくなり、そこの料金を払ってもらえなくなるってわけですね。いつですか」 悦子「……」 信夫「ようし、男の子でったら茂樹、女の子だったら、そうだ幸子、そういう名前をつけなさい」 悦子「あなたのご指示は受けません」 信夫「どうして?もしかしたらってこともあるじゃないですか……もっとも、子どもの父親を知っているのは、母親だけだっていいますけどね」
悦子、ソフアのクッションを信夫に投げつける。 そして、悦子、苦痛に歪んだ顔をひきつらせ、泣き出す。
信夫、そんな悦子を冷たく見ている。 そして、ゆっくりクッションをソフアに戻し、立ち上る。 ステレオの傍に行く。
信夫「(レコードを取り 上げ )なる程、そう いうわけですか(と、 悦子を見て、レコードをかける)」
先刻のワルツが流れ出す。 悦子、びくっと顔を起し、信夫の方を向く。 信夫、少しの間、聞いている。
信夫「そうこの曲、僕とあなたが始めて会ったパーティで、最初に踊ったワルツ。 (悦子に近づき)さ、お嬢さん、踊りましょう」 悦子「いや!止めて!」 信夫「さ、踊りましょう(悦子の腕を無理に取って)さ、いいですね」
悦子を力づくでも立たせる信夫。 悦子、必死に逃れようとするが、逃れられない。 やがて奇妙なワルツが始まる。
信夫「始めてお会いしますね。このパーティは始めてですか(悦子、逃れようとする)あなた、冷奴お好きですか。ほら、トウフを冷して、あれでビールを飲むのは最高だな、庶民的なんですよ、僕は……」 悦子「いや!いや!」 信夫「お上手ですね。それに素敵だ、あなたは……きれいだ、本当に素晴しい人だ」
悦子、悲鳴をあげて、信夫から逃れ、 床に倒れると激しく嗚咽する。 信夫、そんな 悦子を見ている。 やがて、ステレオに近づき、更に、ボリュウムを上げる。 耳を両手でふさぐ 悦子。 乾いた声で笑う 信夫。 そして、写真に 近づき、じっと見入る。
室内に流れる思い出のワルツ。
その時、ドアのチャイムが鳴る。 はっとして、入口のドアを見つめる悦子。 再び、チャイムが鳴る。 信夫、悦子に近づく。
信夫「さあ、ご主人のお帰りですよ」
悦子、立ち上がり、壁の鏡に寄ると、 衣服や髪のみだれを直す。 信夫、立ったままドアを見つめる。 いらだつようなチャイムが鳴る。 悦子、気を鎮めようとしながら、ドア に近づく。
ドアを開ける。 入ってきた正男、悦子を抱こうとして、信夫に気がつく。 正男から離れる悦子
信夫「やあ、お帰りなさい。どうでしたか、長い航海生活は」
正男、悦子を見る。
悦子、その視線を逃れるように、正男を部屋に導く。 信夫、ステレオに近づき、スイッチを切る。
信夫「いま、奥様とワルツを踊ってたところなんですよ」 悦子「ビール、冷えてます」
悦子、隣室に消える。 正男、黙って肘掛け椅子に座る。 信夫も、正男に向い合って座る。
信夫「いつ、ついたんだい」 正男「やっぱり、そういうわけか、俺、帰ってくる所を間違ったようだな」 信夫「たくましくなったな。見違えたよ。外で逢っても、気づかないだろうな」 正男「俺が俺でなくなる。海はそういう所だ。いや、陸でも俺が俺でなくなっているってわけだ。玉手箱が欲しい心境だよ。で、奥さんは元気かい」 信夫「ああ、いま考えているところだよ。冷奴にしようかしら、それとも枝豆にしようかしらってね。(コップをあおる手まねで)海に鍛えられたんだろ」 正男「日米電機の専務のお嬢さんなら、今頃は、課長といったところかい」 信夫、悦子がいるキッチンの方を見る。納得したようだ。 正男「結婚式は、あのホテルプリンセス。結婚旅行はハワイだってな。いいところだ、のんびりできて」
信夫、笑い出す。
信夫「それで、私は振られました。正男さん、どうか私と結婚してください、ってか」
信夫、笑い続ける。
悦子、ビールとグラス3個、枝豆と冷奴を運んできて、 黙ってテーブルの上に置く。
信夫「(悦子に)ああ、奥さん、さっきはダンスに夢中になって忘れておりましたが、妻が、くれぐれも、よろしくと……」 悦子「それはごていねいに。さすが日米電機の専務のお嬢さまだけあって、美人で、お上品で、私なんぞは足元にも及びませんわ」 信夫「いえいえ、見かけによらず、あばずれの、とんでもない大嘘つきでしてね。で、我が家でも、近々、赤ん坊が生まれるんですよ。いやあ、世間様には恥しいお話しなんですが、昨年の夏、軽井沢にドライブに行ったとき、できちゃったらしいんですよ。それで仕方なく、式を挙げた、と。こういうわけでして、どうも」
正男、悦子の編んでいた靴下に視線を移し、 手を延して取り上げる。 それを弄びながら、
正男「子どもができちゃったじゃ、そのお嬢さんと、きちんと式を挙げなくちゃあな。ましてや、そんなことには厳しいお家柄なんざんしょうからな」 悦子「うちは、きっと男の子ですわ、あなた」 正男「ああ、高校くらいまでは上げて、あとは工員にでもさせるか。それでよ、赤旗を振られて、革命でも起してもらおうか」 悦子「やはり、ちゃんとした大学くらいは出してあげなきゃ、ね、信夫 さん、同じ学年なんだから、同じ大学もいいですわね」 正男「(信夫に)で、お前、いま何をやっているんだい」 信夫「(悦子に)あなたのご主人、いま、何ておっしゃったんですか」 悦子「いえね、主人は、日米電機のオフィスでも、ピーコックルックは許可されるんでしょうか。課長さんのお立場としては、どうお考えなのでしょうか、とこう申しておるんですが」 信夫「(悦子に)なるほど。それじゃ、ご主人にこうおっしゃってください。面白いもので、世の中ってものは、捨てる神あれば、拾う神ありでして。倒産で、駄目になった親父の跡を継いだ僕に、スポンサーがついて、新しい事業を始めた、と」 悦子「じゃ、いまは社長さん?」 信夫「いえいえ、まだまだ課長なんですよ、日米電機の。妻には、早く部長にしてくれるように、専務の親父さんに頼んでくれっていってるんですが、なかなかね」 悦子「どんな事業なんですの。あなたがお始めになった会社は……」 信夫「(正男に)海の生活って、楽しいんだろうな。僕、新婚旅行で、日がな一日、のんびり海を見ておりましてね、いろいろと海の上での生活を想像してたよ」
黙って聞いていた正男、 やにわ立ち上がり、電話に近づき、ダイヤルを回す。
正男「(受話器に、大声で)あ、南海荘?あ、俺だ、俺。すまんが、うちの母ちゃん呼んでくれや。いるだろ?」
信夫と悦子、呆気にとられて、正男を見つめる。
正男「(電話口で)ああ、お前か。……何、ガタガタいってんだい、馬鹿やろ。……いいじゃねえか、久しぶりでちゃんとした制服を着たんだ。しまいっぱなしにせんと、ナフタリンぐらい入れておけ。せっかくの服、ムシに食われていたぞ。全く、カビ臭くって仕様がないや。……あ。あの、鉄にな、今日中にあと三人くらい、若いの見つけて、今晩、俺んとこに連れて 来いっていっておけや。それから、酒、忘れんなよ。……馬鹿やろう、呑めリゃいいんだ、あいつらは。……ああ……分った。今晩、泊らずに帰ることにする。よし、分った、早目に銭湯行って、きれいにしとけや。んじゃあな」
正男、席に戻る。ビールを一気にあおる。また、注ぐ。
正男「(悦子に)で、いつなんだって、予定日は?」 悦子「……」 正男「赤ん坊だよ」 悦子「……三ヵ月、ですって……」 正男「(壁のカレンダーを見て)うまく合ってやがら。俺が、この前にここに泊った頃だったな」
正男、高く笑う。
信夫「(正男に)いつ、船を降りたんだい」 正男「信夫、こいつをお前に返すよ。こいつは、まだお前に惚れているんだろ。いいって、いいって。分ってんだから、俺には」 信夫「何だったら、僕んところに来ないか。いま、人手が足りなくて困っているんだ。何人か、まと めてめんどうみてもいい。待遇は、悪いようにしないか ら」 正男「(笑う)お前、まだそんなことをいっていんのか。さっきもいったろうが、俺は俺でなくなってるってよ。海が、変えちまった、全く、徹底的によ」
悦子、なすすべもない。
正男「こいつが、俺んとこに来たときな、俺には分っていたんだ。振られたのはこいつじゃなくて、失業したお前だってことが……。俺は、学生時代から、お前の後にくっついていた。金も、いろいろ融通してもらっていた。どれだけ助かったか。友だちらしい友だちもいない俺を、お前は親友だといって、よくしてくれた」 信夫「憎んでいたのか、僕を……」 正男「どうしてよ。親友を憎むはずがないじゃねえか。そんで、俺は、こいつと結婚をした。あのと き、俺は勝ったかなって。ざまあみろって、気もしたんだ、あのときはな」 信夫「一体、僕はお前に何をしたっていうんだ」 正男「こいつが、心底、好きだったのは俺じゃない。俺の将来だったわけだ。それも、俺を愛しているふりをして、俺ん中に、お前を見ていたんだ」 悦子「(ヒステリックに)いえ、私は、あなたを、愛していました、心から」 正男「ええ、ええ、ボクもあなたを心から愛していました。でもね、お嬢さん、ボクは気がついたんですよ、あなたは信夫さんをボクよりも、ずっとずっと愛しているということを。それでね、ボクは、信夫さんから受けたそれまでのご好意を恩返ししようとね。信夫さんが、しかるべき収入と社会的地位や信用が得られるまで、あなたをお守りしょうとね、そう決心して新婚生活を送ってきたんですよ」 悦子「嘘、嘘よ。悦子は、あなたを愛しています。あなたも、悦子を愛してくだ さっている。私は、毎日毎日、あそこの(写真を指して)あなたとお話しをしていました」 正男「(写真に近づきながら)あなたとダンスをしました。あなたとテニスをしました。あなたに口づけをしました。(写真を見て)口紅を拭いてから、口づけをしてもらいたいもんだな」
正男、額を取り、ハンカチで拭く。 しばらく弄んだ後、額の裏を開ける。紙片が落ちる。 それを拾って、笑い出す正男。 いぶかる悦子。
正男「(悦子に近づき)隠れキリスタンが発覚したら、火あぶりの刑だったんだぞ、歴史は勉強しておくもんだ」
正男、その紙片を 悦子に突き出す。 悦子、それを見る。はっとして、信夫を見る。
信夫「(紙片を取りあげる)あ、これは僕の写真ですね。(正男に)お代官様、この隠れキリスタンを、いかがいたしましょうか」 正男「刑は決っておる。お上のきついお達しにより、火あぶりの刑はまぬがれまい」 信夫「はい、そう致します。お代官様」
ライターを取り出し、悦子の顔の前で点火する。 悦子、それを思いきり平手で飛ばす。 部屋の隅にまで、飛んでいく。
正男「いや、時代は変った。現代は、どんな宗教を信じてもいいと、日本国憲法は定めておる。法律は勉強していてよかったな。それでじゃ、信者は信じるその神のもとに帰るべきだと、わしは思う」 信夫「それでも、彼女は、お代官様のお子を身ごもっておると、そう申しておりますが」 正男「わしの子か、ハッハハハハハハ……、交りもなきはしためを、このわしがみごもらせたとは、きついな。それは神のみこであろう」 悦子「違う!あなたの子よ、正男、あなたと私の子よ!」 信夫「と、申しております。また、私といたしましても、それが自然だと思いますが。何故なら、神は、このようなけがれた女に、よもやその尊いお子を宿さぬように、用意万端整えまして、行うものでごさいますから」 正男「はて、そうなるとますます分らなくなってきおった。医学は勉強しておくんだったな、これじゃ。実はな、わしもかつての尊いお方から、女をおあずかりするには、宿しちゃい けないと思ってな、現代医学のお力ぞえをいただき……カットしちまってた、というわけですがな」 信夫「とすると……」
突然、悦子が大声で笑い出す。
悦子「嘘よ、みんな嘘、嘘。私は、別に妊娠なんかしていないわ」 信夫「またしても、ああいっておりますが」 正男「しかし、やっぱり、写真を隠し、それに口づけをしたりすることを見ると、やはり、彼女はお返しすべきかと思うんじゃが」 信夫「実は、お代官様、あの写真は、わけあって私めが、こっそり隠したものでございます」 正男「お主も、なかなかの知恵者じゃのう」
信夫と正男、顔を見合わせて笑い合う。
悦子「(信夫に)違うわ、私がそうしたんです。私は、信夫さんを愛しています。正男なんか、最初から嫌いでした。私は、ずっと信夫さんを愛していました」 正男「ほれ、娘もさように申しているではないか」 信夫「全く、社長さんなんてなりたくないものでございますなあ。……正男、さっきの話だが、本当に僕の会社に来て、片腕として手伝ってくれないか」 正男「今度は、俺に何をあずかれっていうんだ。悪いが、俺はもうごめんだ。おそらく、俺の住む世界とは違っているんだ、お前のいる社会は。お前の住むところでは、倒産して もすぐ援助がある。だが、俺のところは、倒れちまったら、もうお終いよ。それに、俺は海から離れて陸では暮らせない」 信夫「しかし、さっきの電話は」 正男「(笑う)上手かったろう。船の上で、今度、芝居でもやってみるか、座興に。ダイヤルを何回まわしたか、注意して見ておくべきだったよ」 悦子「信夫、私は本当に、あなたを愛しているんです。どうか一人にしないで!」 信夫「いえ、奥さん。私にはご承知のように、日米電機の専務の娘の妻がいるんです。実は、僕も知らなかったんですがね。で、日本では一夫多妻は、法律で厳しく禁じられているんです」 正男「そうそう、法律はよく勉強して、しっかり守らなくちゃあな」 悦子「何よ!あんた達!グルになってたのね。二人して、私を……一体、あたしのどこがいけないのよ。何がいけないのよ!あなた方は、愛を信じろっていうの!愛があれば、それで生きていけるっていうの!……私だけじゃないじゃないの、皆んな同じことしているじゃないの、どうして、どうして……」
うずくまる悦子。
信夫「正男、どうするんだい、これから」 正男「予定外でちょっと早いが、船に戻るよ。どうだい、今夜は飲み明かそうか。今度は、ブラジルだ」 信夫「いいね」 正男「あんたともこれっきりだろうな。今晩は、俺におごらせてくれ。いろいろいいつくせないほど、世話になって、そのお返しということで……」 信夫「(うなづく)」
うずくまっていた悦子、よろよろ立ち上がる。 ステレオの前まで寄ると、レコードをかける。 例のワルツが流れ出す。 悦子、その曲に乗ろうとするが、 足が もっれてなかなか乗れない。
正男と信夫、グラスに残っていたビールを飲み干す。 二人、部屋を出る。
室内に、ワルツが充満してくる。 悦子、よたよたと踊るが、すぐしっか りとステップを踏む。
そして、軽やかに、しっかり踊る。
〈了〉
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