孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2008/10/16 23:36:57|フィクション
愛の行方に 三人三脚
昭和41年(1966) 25歳作品

シナリオ
三人三脚

●人
 悦子
 信夫
 正男
●所
 マンションの一室
●時
 昭和四十年頃

 マンションの部屋の中央に、
 テーブルを挟んで肘掛椅子とソフアがある。
 壁に、まがいもののマントルピース。
 その上に、電話器と、
 額に入った船をバックにした船員姿の男の上半身写真。

 悦子がソフアで編物をしている。
 彼女は、赤ん坊の白い靴下を編んでいて、
 既に出来上った片方はテーブルの上に置いてある。
 開け放たれた窓で、
 レースのカーテンが風に揺らいでいる晩春の午後のひととき。   
 編物を続ける悦子の顔が、時々ほころび、
 軽ろやかにハミングを口づさんでいる。
 この曲は、後で出てくるワルツの曲だ。

 電話が鳴る。
 ゆっくり立ち上って、電話の方へ行く悦子。
 受話を取り上げる前に、片手で写真を取る。

悦子「(写真を見ながら)はい。あらお母様……ええ……そう、いよいよ今日よ……そりゃ、勿論、だって三ヵ月も待っていたんですもの、フフフ……そう横浜、もうじき帰ってくるわ、さっき電話があったの……そりゃあ、悦子、一秒でも早く。でもあの人も迎えに来なくてもいいって言うし、かえってここで待っていた方が、誰も見ている人がいないでしょ、ね……フフ、そういうこと。それに身体も大事にしな いと……うん、三ヵ月……ええ……そんな、まだ……うん、悦子、女の子でも構わなくってよ……ええ……はい。じゃあ、さようなら……え、大丈夫、じゃあ」

 電話を切った 悦子、写真を両手で抱える。

悦子「(写真に)まっすぐ帰って来るのよ、寄り道なんかしたら承知しないぞ、分っ
た?よろしい」

 悦子は、写真に口づけする。
 写真を元の場所に置き、ソフアに戻りかけるが、思いついたように写真を取りに戻り、それをテーブルの上に置く。
 悦子、編物を始める。

悦子「(写真に、編みかけの靴下を示して)ほら、かわいいでしょ。きっと赤ちゃ
ん、悦子に似て、きれいよ」

 やがて、編物を置くと、窓際に寄り、窓から下の方を見る。
 ちらと腕時計を見て、部屋の方に振り返える。

悦子「(写真に向って)ねえ、正男、いやん、こった向いて(と、写真に近づき、写真を取り上げる)ほら、この曲(と、先刻のワルツを口づさみ)ね、また踏りましょうよ、ね、待ってて」

 悦子、写真を置くと、ステレオに近づ きレコードをかける。
 部屋いっぱいに、ワルツが流れる。
 悦子、写真を取り上げ、両手で持つ。

悦子「さ、正男、踊るのよ、はい、フフフ(悦子、踊り出す)……(男の声で)始めてお会いしますね(地の声、つまり彼女自身の声で)ええ、お友達に誘われて。あなたは、このパーティには、いつもいらっしゃるんですか(男の声で)ええ、ね、あなた冷奴お好きですか?(女の声で)は?冷奴?(男の声で)ほら、トウフを冷して、あれでビールを飲むの最高だな。庶民なんですよ、僕あ。(女の声で)あの、あまり……。(男の声で)お上手ですね、それに素敵だ、あなたは。(女の声で)そんな、困りますわ、ご冗談をおっしゃっちゃ。(男の声で)きれいだ、本当に素晴しい人だ、あなたは」

 突然、入口のチャイムが鳴る。
 悦子、写真を置くとはっとして、ドア に近づく。
 室内に、ワルツが残る。
 ドアを開けて、外と応待する彼女の後姿。
 やがてしょんぽり部屋に戻る。
 悦子、写真に肩をすくめて笑ってみせ る。
 しばらくぼんやり立たづむ。
 ふと手の写真に気づき、元のマントルピースの上に置く。
 ステレオに近づき、レコードを止める。

悦子「さてと、何しているのかしら」

 窓辺に行って、外を見たり、
 部屋の 中を行ったり来たりする悦子。
 悦子、ふと微笑すると隣室に行く。
 すぐ、テニスラケットを持って戻 る。

悦子「(写真に)さ、今度はテニスよ。あなたは上手だったわ、悦子はいつも負けてばっかりいたわね。ほら、皆んなで軽井沢へ行った時、悦子、あなたに負けてべそかいちゃったわね、だって本当にくやしかったんですもの」

 悦子、ラケットを軽く素振りする。
 やがて、見えないボールをサーブする。
 打ち返えされたボールを打ち返す。
 ポーンというボールの弾む音が聞えると……

 〈イメージ〉

 ショートスカートをはいた悦子が、
 コートでボールを追っている。
 ボールがラケットに打ち返され、
 白い雲の流れる空に飛んでいく。
 まわりに若い歓声と拍手。
 汗だくになってボールを追う悦子。
 そして、ボールを逃がし転ぶ悦子。
 大きくなる若い歓声と拍手。
 汗の中で、泣きべそをかく悦子。

 デゾルブして、
 
 悦子、部屋でラケットを抱きかかえて いる。
 遠くを見つめる目。
 一瞬、悦子の目の中に寂しさが走る。
 ゆっくり、ソフアに戻る悦子。

悦子「(無理に明るくなろうとして)そして、ドライブ。あなたが運転して、悦子が助手席……」

 一瞬、ブレーキの音。

 〈イメージ〉
 
 悲鳴を上げて、運転する男に寄る悦子。
 明るく笑う若い男(後姿のみ)。
 フロントグラスの向うに拡がる鬼押出、続くハイウェイ。
 イメージが続くうちに、ドアのチャ イムが鋭くインサート。

 はっと期待に輝く悦子の目。
 悦子、ドアに駆けるように近づく。
 そして、一瞬、ドアの前にととまる と、大きく深呼吸する。
 悦子、ドアを開ける。
 と、驚いて、あわててドアを閉めようとする。
 が、外から強い力で押し返えされる。
 ドアから手を離し、うろたえる悦子。

 部屋に入ってきたのは、信夫だ。

悦子「困りますわ、信夫さん。ね、お帰りなってください」
信夫、構わずソフアに腰を下す。

 ラケットに気づき、取り上げて素振りする。

信夫「外のホテルでは会っても、ここに来られちゃまずいというわけですか」

 悦子の視線がふと正男の写真に走る。

信夫「(それに気づいて)ああ、なる程、今日ですか、ご主人のお帰りは、僕も会いたいですね、彼とは、もう、そう半年、会っていない。あなたが結婚する前からですからね」
悦子「ね、お願い。今日は帰って……」
信夫「親友だったんですよ、僕らは……あなたが彼と結婚を決意する時まではね」

 悦子、部屋の隅でうなだれる。
 信夫、ラケットを持って立ち上ると、 悦子の側に寄る。
 彼女の前でラケットを振って、

信夫「よくやりましたね。あなたは一度も僕に勝てなかった。それでもあなたは何回も何回も手向か ってくる。ほら、思い出しますね、 昨年の夏、軽井沢のコートを。あの時、あなたはとうとう泣きべそをかいてしまった……僕らは三人、いつも一緒でしたね」

 部屋をぐるりと見回した信夫、やがて写真を見て、近づく。

信夫「(写真に)お前は、ただ見ているだけだったな。いくらすすめても、これを握らなかった」

 信夫、写真に向ってゆっくりラケットを振る。
 悦子、ふっとため息をつくと、窓辺に行き、
 信夫を無視するようにレースのカーテン越しに外を見る。

信夫「素晴しい生活だ。高級マンション、この豪華な調度品の数々、僕はあの頃、いつもそんな夢を見ていた。そして、それらの中には、いつも静かな微笑をたたえたあなたがいた、というわけです」

 悦子、依然として彼を無視している。

信夫「僕は信じていた。あなたを、あなたの愛を……ま、いい、それはいい、こうなってしまった以上、僕は何もいわない。結局、あの時、親父の会社が倒産し、僕の専務の肩書きを一瞬にして喪ったことが……」
悦子「(振り返って)いくら欲しいんです」
信夫「と、外国航路、高級船員の若奥様はおっしゃる。しゃあしゃあと。その人は、この僕のこの胸の中で、何度も愛している、愛しているとおっしゃったのだ」
悦子「(ヒステリックに)出ていって!でないと警察を呼びますわよ」
信夫「どうぞ、どうぞ(急ぎ足で電話の前に行き、受話器を取り上げ)ええと、一一〇番でしたね」

 だが、ダイヤルには手をかけずに、 
 受話器をしばらく耳にあてている。
 信夫、写真を取り上げる。

信夫「正男 、楽しいじゃないか、え、人生ってやつは。学生の頃、田舎から出てきたお前に、いろんなことを教えたな。いろいろな所に連れていき、タバコ、酒、麻雀。喫茶店すら知らなかったお前だった……」

 信夫、しばらく写真を見ている。
 悦子、ゆっくのソフアに戻り、
 彼を無視するように背を向け、赤ん坊の靴下を編み出す。

信夫「(そんな彼女を見 て、ふと思いついたように写真を額から外し、写真の裏に、ポケットから紙片を入れる)苦学していたお前に、僕は何回も金を用立ててやったことがあったな。返せないことは分っていても、それでも、お前は僕の親友だったから。僕には大勢の友人がいたが、お前には僕しかいなかったしね。それが、お前の奥様は金を恵んでくれるんだって、出ていけだって、この僕に」

 悦子、黙々と編み棒を動かす。
 彼女の後に立った信夫、背後から彼女を見下す。

悦子「お願い、お帰りになって、何でもしますから。今日は……」
信夫「(ゆっくり彼女の前の肘掛け椅子に近づき)罪ほろぼしのために、結婚後も、僕に抱かれた、というわけですか」

 信夫、テーブルの上の靴下の片方を取りあげ、指で弄ぶ。

信夫「おめでとう奥さん、ご主人のいない退屈もまぬがれますね。というと、僕は、会ってもらえなくなり、ホテルに連れていってもらえなくなり、そこの料金を払ってもらえなくなるってわけですね。いつですか」
悦子「……」
信夫「ようし、男の子でったら茂樹、女の子だったら、そうだ幸子、そういう名前をつけなさい」
悦子「あなたのご指示は受けません」
信夫「どうして?もしかしたらってこともあるじゃないですか……もっとも、子どもの父親を知っているのは、母親だけだっていいますけどね」

 悦子、ソフアのクッションを信夫に投げつける。
 そして、悦子、苦痛に歪んだ顔をひきつらせ、泣き出す。

 信夫、そんな悦子を冷たく見ている。
 そして、ゆっくりクッションをソフアに戻し、立ち上る。
 ステレオの傍に行く。

信夫「(レコードを取り 上げ )なる程、そう いうわけですか(と、 悦子を見て、レコードをかける)」

 先刻のワルツが流れ出す。
 悦子、びくっと顔を起し、信夫の方を向く。
 信夫、少しの間、聞いている。

信夫「そうこの曲、僕とあなたが始めて会ったパーティで、最初に踊ったワルツ。
(悦子に近づき)さ、お嬢さん、踊りましょう」
悦子「いや!止めて!」
信夫「さ、踊りましょう(悦子の腕を無理に取って)さ、いいですね」

 悦子を力づくでも立たせる信夫。
 悦子、必死に逃れようとするが、逃れられない。
 やがて奇妙なワルツが始まる。

信夫「始めてお会いしますね。このパーティは始めてですか(悦子、逃れようとする)あなた、冷奴お好きですか。ほら、トウフを冷して、あれでビールを飲むのは最高だな、庶民的なんですよ、僕は……」
悦子「いや!いや!」
信夫「お上手ですね。それに素敵だ、あなたは……きれいだ、本当に素晴しい人だ」

 悦子、悲鳴をあげて、信夫から逃れ、
 床に倒れると激しく嗚咽する。
 信夫、そんな 悦子を見ている。
 やがて、ステレオに近づき、更に、ボリュウムを上げる。
 耳を両手でふさぐ 悦子。
 乾いた声で笑う 信夫。
 そして、写真に 近づき、じっと見入る。

 室内に流れる思い出のワルツ。

 その時、ドアのチャイムが鳴る。
 はっとして、入口のドアを見つめる悦子。
 再び、チャイムが鳴る。
 信夫、悦子に近づく。

信夫「さあ、ご主人のお帰りですよ」

 悦子、立ち上がり、壁の鏡に寄ると、
 衣服や髪のみだれを直す。
 信夫、立ったままドアを見つめる。
 いらだつようなチャイムが鳴る。
 悦子、気を鎮めようとしながら、ドア に近づく。

 ドアを開ける。
 入ってきた正男、悦子を抱こうとして、信夫に気がつく。
 正男から離れる悦子

信夫「やあ、お帰りなさい。どうでしたか、長い航海生活は」

 正男、悦子を見る。

 悦子、その視線を逃れるように、正男を部屋に導く。
 信夫、ステレオに近づき、スイッチを切る。

信夫「いま、奥様とワルツを踊ってたところなんですよ」
悦子「ビール、冷えてます」

 悦子、隣室に消える。
 正男、黙って肘掛け椅子に座る。
 信夫も、正男に向い合って座る。

信夫「いつ、ついたんだい」
正男「やっぱり、そういうわけか、俺、帰ってくる所を間違ったようだな」
信夫「たくましくなったな。見違えたよ。外で逢っても、気づかないだろうな」
正男「俺が俺でなくなる。海はそういう所だ。いや、陸でも俺が俺でなくなっているってわけだ。玉手箱が欲しい心境だよ。で、奥さんは元気かい」
信夫「ああ、いま考えているところだよ。冷奴にしようかしら、それとも枝豆にしようかしらってね。(コップをあおる手まねで)海に鍛えられたんだろ」
正男「日米電機の専務のお嬢さんなら、今頃は、課長といったところかい」
信夫、悦子がいるキッチンの方を見る。納得したようだ。
正男「結婚式は、あのホテルプリンセス。結婚旅行はハワイだってな。いいところだ、のんびりできて」

 信夫、笑い出す。

信夫「それで、私は振られました。正男さん、どうか私と結婚してください、ってか」

 信夫、笑い続ける。

 悦子、ビールとグラス3個、枝豆と冷奴を運んできて、
 黙ってテーブルの上に置く。

信夫「(悦子に)ああ、奥さん、さっきはダンスに夢中になって忘れておりましたが、妻が、くれぐれも、よろしくと……」
悦子「それはごていねいに。さすが日米電機の専務のお嬢さまだけあって、美人で、お上品で、私なんぞは足元にも及びませんわ」
信夫「いえいえ、見かけによらず、あばずれの、とんでもない大嘘つきでしてね。で、我が家でも、近々、赤ん坊が生まれるんですよ。いやあ、世間様には恥しいお話しなんですが、昨年の夏、軽井沢にドライブに行ったとき、できちゃったらしいんですよ。それで仕方なく、式を挙げた、と。こういうわけでして、どうも」

 正男、悦子の編んでいた靴下に視線を移し、
 手を延して取り上げる。
 それを弄びながら、

正男「子どもができちゃったじゃ、そのお嬢さんと、きちんと式を挙げなくちゃあな。ましてや、そんなことには厳しいお家柄なんざんしょうからな」
悦子「うちは、きっと男の子ですわ、あなた」
正男「ああ、高校くらいまでは上げて、あとは工員にでもさせるか。それでよ、赤旗を振られて、革命でも起してもらおうか」
悦子「やはり、ちゃんとした大学くらいは出してあげなきゃ、ね、信夫 さん、同じ学年なんだから、同じ大学もいいですわね」
正男「(信夫に)で、お前、いま何をやっているんだい」
信夫「(悦子に)あなたのご主人、いま、何ておっしゃったんですか」
悦子「いえね、主人は、日米電機のオフィスでも、ピーコックルックは許可されるんでしょうか。課長さんのお立場としては、どうお考えなのでしょうか、とこう申しておるんですが」
信夫「(悦子に)なるほど。それじゃ、ご主人にこうおっしゃってください。面白いもので、世の中ってものは、捨てる神あれば、拾う神ありでして。倒産で、駄目になった親父の跡を継いだ僕に、スポンサーがついて、新しい事業を始めた、と」
悦子「じゃ、いまは社長さん?」
信夫「いえいえ、まだまだ課長なんですよ、日米電機の。妻には、早く部長にしてくれるように、専務の親父さんに頼んでくれっていってるんですが、なかなかね」
悦子「どんな事業なんですの。あなたがお始めになった会社は……」
信夫「(正男に)海の生活って、楽しいんだろうな。僕、新婚旅行で、日がな一日、のんびり海を見ておりましてね、いろいろと海の上での生活を想像してたよ」

 黙って聞いていた正男、
 やにわ立ち上がり、電話に近づき、ダイヤルを回す。

正男「(受話器に、大声で)あ、南海荘?あ、俺だ、俺。すまんが、うちの母ちゃん呼んでくれや。いるだろ?」

 信夫と悦子、呆気にとられて、正男を見つめる。

正男「(電話口で)ああ、お前か。……何、ガタガタいってんだい、馬鹿やろ。……いいじゃねえか、久しぶりでちゃんとした制服を着たんだ。しまいっぱなしにせんと、ナフタリンぐらい入れておけ。せっかくの服、ムシに食われていたぞ。全く、カビ臭くって仕様がないや。……あ。あの、鉄にな、今日中にあと三人くらい、若いの見つけて、今晩、俺んとこに連れて 来いっていっておけや。それから、酒、忘れんなよ。……馬鹿やろう、呑めリゃいいんだ、あいつらは。……ああ……分った。今晩、泊らずに帰ることにする。よし、分った、早目に銭湯行って、きれいにしとけや。んじゃあな」

 正男、席に戻る。ビールを一気にあおる。また、注ぐ。

正男「(悦子に)で、いつなんだって、予定日は?」
悦子「……」
正男「赤ん坊だよ」
悦子「……三ヵ月、ですって……」
正男「(壁のカレンダーを見て)うまく合ってやがら。俺が、この前にここに泊った頃だったな」

 正男、高く笑う。

信夫「(正男に)いつ、船を降りたんだい」
正男「信夫、こいつをお前に返すよ。こいつは、まだお前に惚れているんだろ。いいって、いいって。分ってんだから、俺には」
信夫「何だったら、僕んところに来ないか。いま、人手が足りなくて困っているんだ。何人か、まと めてめんどうみてもいい。待遇は、悪いようにしないか
ら」
正男「(笑う)お前、まだそんなことをいっていんのか。さっきもいったろうが、俺は俺でなくなってるってよ。海が、変えちまった、全く、徹底的によ」

 悦子、なすすべもない。

正男「こいつが、俺んとこに来たときな、俺には分っていたんだ。振られたのはこいつじゃなくて、失業したお前だってことが……。俺は、学生時代から、お前の後にくっついていた。金も、いろいろ融通してもらっていた。どれだけ助かったか。友だちらしい友だちもいない俺を、お前は親友だといって、よくしてくれた」
信夫「憎んでいたのか、僕を……」
正男「どうしてよ。親友を憎むはずがないじゃねえか。そんで、俺は、こいつと結婚をした。あのと き、俺は勝ったかなって。ざまあみろって、気もしたんだ、あのときはな」
信夫「一体、僕はお前に何をしたっていうんだ」
正男「こいつが、心底、好きだったのは俺じゃない。俺の将来だったわけだ。それも、俺を愛しているふりをして、俺ん中に、お前を見ていたんだ」
悦子「(ヒステリックに)いえ、私は、あなたを、愛していました、心から」
正男「ええ、ええ、ボクもあなたを心から愛していました。でもね、お嬢さん、ボクは気がついたんですよ、あなたは信夫さんをボクよりも、ずっとずっと愛しているということを。それでね、ボクは、信夫さんから受けたそれまでのご好意を恩返ししようとね。信夫さんが、しかるべき収入と社会的地位や信用が得られるまで、あなたをお守りしょうとね、そう決心して新婚生活を送ってきたんですよ」
悦子「嘘、嘘よ。悦子は、あなたを愛しています。あなたも、悦子を愛してくだ
さっている。私は、毎日毎日、あそこの(写真を指して)あなたとお話しをしていました」
正男「(写真に近づきながら)あなたとダンスをしました。あなたとテニスをしました。あなたに口づけをしました。(写真を見て)口紅を拭いてから、口づけをしてもらいたいもんだな」

 正男、額を取り、ハンカチで拭く。
 しばらく弄んだ後、額の裏を開ける。紙片が落ちる。
 それを拾って、笑い出す正男。
 いぶかる悦子。

正男「(悦子に近づき)隠れキリスタンが発覚したら、火あぶりの刑だったんだぞ、歴史は勉強しておくもんだ」

 正男、その紙片を 悦子に突き出す。
 悦子、それを見る。はっとして、信夫を見る。

信夫「(紙片を取りあげる)あ、これは僕の写真ですね。(正男に)お代官様、この隠れキリスタンを、いかがいたしましょうか」
正男「刑は決っておる。お上のきついお達しにより、火あぶりの刑はまぬがれまい」
信夫「はい、そう致します。お代官様」

 ライターを取り出し、悦子の顔の前で点火する。
 悦子、それを思いきり平手で飛ばす。
 部屋の隅にまで、飛んでいく。

正男「いや、時代は変った。現代は、どんな宗教を信じてもいいと、日本国憲法は定めておる。法律は勉強していてよかったな。それでじゃ、信者は信じるその神のもとに帰るべきだと、わしは思う」
信夫「それでも、彼女は、お代官様のお子を身ごもっておると、そう申しておりますが」
正男「わしの子か、ハッハハハハハハ……、交りもなきはしためを、このわしがみごもらせたとは、きついな。それは神のみこであろう」
悦子「違う!あなたの子よ、正男、あなたと私の子よ!」
信夫「と、申しております。また、私といたしましても、それが自然だと思いますが。何故なら、神は、このようなけがれた女に、よもやその尊いお子を宿さぬように、用意万端整えまして、行うものでごさいますから」
正男「はて、そうなるとますます分らなくなってきおった。医学は勉強しておくんだったな、これじゃ。実はな、わしもかつての尊いお方から、女をおあずかりするには、宿しちゃい けないと思ってな、現代医学のお力ぞえをいただき……カットしちまってた、というわけですがな」
信夫「とすると……」

 突然、悦子が大声で笑い出す。

悦子「嘘よ、みんな嘘、嘘。私は、別に妊娠なんかしていないわ」
信夫「またしても、ああいっておりますが」
正男「しかし、やっぱり、写真を隠し、それに口づけをしたりすることを見ると、やはり、彼女はお返しすべきかと思うんじゃが」
信夫「実は、お代官様、あの写真は、わけあって私めが、こっそり隠したものでございます」
正男「お主も、なかなかの知恵者じゃのう」

 信夫と正男、顔を見合わせて笑い合う。

悦子「(信夫に)違うわ、私がそうしたんです。私は、信夫さんを愛しています。正男なんか、最初から嫌いでした。私は、ずっと信夫さんを愛していました」
正男「ほれ、娘もさように申しているではないか」
信夫「全く、社長さんなんてなりたくないものでございますなあ。……正男、さっきの話だが、本当に僕の会社に来て、片腕として手伝ってくれないか」
正男「今度は、俺に何をあずかれっていうんだ。悪いが、俺はもうごめんだ。おそらく、俺の住む世界とは違っているんだ、お前のいる社会は。お前の住むところでは、倒産して もすぐ援助がある。だが、俺のところは、倒れちまったら、もうお終いよ。それに、俺は海から離れて陸では暮らせない」
信夫「しかし、さっきの電話は」
正男「(笑う)上手かったろう。船の上で、今度、芝居でもやってみるか、座興に。ダイヤルを何回まわしたか、注意して見ておくべきだったよ」
悦子「信夫、私は本当に、あなたを愛しているんです。どうか一人にしないで!」
信夫「いえ、奥さん。私にはご承知のように、日米電機の専務の娘の妻がいるんです。実は、僕も知らなかったんですがね。で、日本では一夫多妻は、法律で厳しく禁じられているんです」
正男「そうそう、法律はよく勉強して、しっかり守らなくちゃあな」
悦子「何よ!あんた達!グルになってたのね。二人して、私を……一体、あたしのどこがいけないのよ。何がいけないのよ!あなた方は、愛を信じろっていうの!愛があれば、それで生きていけるっていうの!……私だけじゃないじゃないの、皆んな同じことしているじゃないの、どうして、どうして……」

 うずくまる悦子。

信夫「正男、どうするんだい、これから」
正男「予定外でちょっと早いが、船に戻るよ。どうだい、今夜は飲み明かそうか。今度は、ブラジルだ」
信夫「いいね」
正男「あんたともこれっきりだろうな。今晩は、俺におごらせてくれ。いろいろいいつくせないほど、世話になって、そのお返しということで……」
信夫「(うなづく)」

 うずくまっていた悦子、よろよろ立ち上がる。
 ステレオの前まで寄ると、レコードをかける。
 例のワルツが流れ出す。
 悦子、その曲に乗ろうとするが、
 足が もっれてなかなか乗れない。

 正男と信夫、グラスに残っていたビールを飲み干す。
 二人、部屋を出る。

 室内に、ワルツが充満してくる。
 悦子、よたよたと踊るが、すぐしっか りとステップを踏む。

 そして、軽やかに、しっかり踊る。

   〈了〉







2008/10/16 22:46:43|フィクション
愛の行方に 二人だけで愛しあおう/その2

〈承前〉

「それじゃ、初恋の話をしようか」
「興味ないわ、そんなの」
「どうして?楽しいもんだよ」
「いやなの、今の私がそのためにこうなったと人に解釈され、自分でそれを認めそうになるのが……。本当は、そんなんだろうけど」
「いまの私だって!おかしな言い方をするんだね。まるで君が、他の人と全く別な人間のようなそんな言い方はよくないね。もしも、たとえ君や僕が他の多くの人と別なものであっても、その原因は君の初恋の人のせいじゃないと思う」

「そうかしら?」
「そうさ、僕らの世代の現在の状態、それはひとつの些細な原因によって決められたものじゃないんだ。もし、原因があるとしたら、そ れは歴史そのものなんだ。そして、僕らの世代にとって、今の状態が極く自然なもので、少しも異常なものではないんだ。あるいは僕らの次の世代の生き方は、僕らとは違ったものになるかもしれない。だけど、僕らにはこんな生き方が必然的なんだと思う」

 それはこじつけだ、とあやうく言いそうなになった。まわりには同じ世代の人達でわたしとは全く異った生き方をしている人も多くいるもの。それに少しも疑問を持たないでいる人達が。
 
 そして、わたしはもしあの時、Mと会わなかったら、そんな今の自分のようでない人と同じように生きただろう可能性をわたしの中に見い出しているのだ。そうなのだ、いまのわたしは、Mのせいであり、Mから出発した状態なのだ。わたしは黙り込む。

「じゃ、僕から話そうか、初恋の話を」

 わたしはうなづく。まるで意味のない過去の話、それはわたし達の生活そのものが意味のないもので、それがかえって意味があるように思い込んでいるところから出ているだろうそれを、西洋の小説でも読むように聞けばいいのかもしれない。

「じゃ、始めよう。僕の初恋は、もうずっと前のことなんだ」

 ぼくはおとぎ話でも話し出すような気になり始める。そうなのだ、ぼくにとっては何度か新しい恋人に話したこの話はおとぎ話なのだ。過去にほんの少しあったことを、歪め、再編成し、虚偽を入れることにより、ぼく自身に夢を呼ぶおとぎ話になっている。だからぼくはこの話をするときは、ほとんど陶酔している。

「Gという青年は、子供の頃に両親を失いました。父親を戦争で、母親をその過労からくる肺炎で。それで彼は、その母親の弟に、つまり叔父にあたる人に育てられることになったのです。

 東北の片田舎で貧しく農業を営む叔父夫妻は、充分に彼を愛してくれましたが、その愛を受けとめられる程に幼くはなく、自分の立場を真に理解する程には成長していなかったので、彼は毎日のように彼の母親のことばかり思い出していました。叔母は、その地方の女らしい素朴でしたが、それは無神経だということの善意に解釈に過ぎませんでした。

 こんなことがありました。ある日、学校が終ると、彼はいつものように他の同級生のように急いで家に帰ろうとはせずに、ゆっくりと田んぼの畔道を家に向っていました。その途中、彼は草むらの中で泣いているまだ小さな猫を見つけたのです。茶色いぶちの猫で、抱き上げて顔を近づけると、顔をなめるのです。
 
 彼は弁当に残しておいたごはんをカバンから出して、その猫に与えると夢中で食べ始めました。やがて彼が帰りかけると、もうすっかりなついた小猫は、彼の足に体をすり寄せてきます。それで彼は家に連れて帰ることを決めました。
 
 家に帰ってからも、小猫と遊び続け、それは野良から叔母達が帰るまで夢中になっていました。小猫を見つ けた叔母は、彼を家の子供とへだてなく叱りつけました。つまり、ごはんを食べる、ふとんにそそうをする、柱に爪あとをつける、障子を破る、大きくなったら子を産む、あらゆる猫族の人間にとっては不都合なことを理由に。
 
 それでも彼は、しっかりとその小猫を抱いて離しませんでした。夜、食事もしないでふとんの中に入った彼は、その小猫を抱き続けました。しかし、朝になるとその子猫は、もう彼の腕の中にはいませんでした。そして、家の中にも、家のまわりにも。彼はさがしても見つからないのを知ると、家を飛び出し、学校へも行かずに子猫を見つけた田んぼの畔道に所に行って泣き続けたのです。
 
 こんなことがあってから、彼はますます自分の中にとじこもり、母親との会話だけをするようになったのです。そして、叔母を憎み出しさえしたのです」

「次は老人向け芸術映画の主人公だ」

 ぼくは急に立ち止り、それから老人のように歩き出す。それまで、ぼくはゆっくり老人の歩きぶりを観察したことはなかったが、老人の心情を理解し、肉体的条件を考慮すれば演じられるという自信があった。それは初歩の演技者の方弁に過ぎないものかもしれないが、いまのぼくは何の商業的価値をも有していないということが、そのぼくに対して寛大になれる。
 
 六十才の老人はこうだ。ぼくはつい先刻まで屋台のおでん屋で、一ぱいひっかけてきたような気持に自分を駆り立てる。定年をすぐにひかえ、妻を亡った平凡なサラリーマンの老人。そして、その日嫁いでいった一人娘のことを思い出しながら、寂しく、ほっとしたように、冷酒を一息にあおったような彼になり切ろう。時折、ため息をつかなければならない。そして、抗うすべもなく肩をすぼめ、ゆっくりゆっくり歩いていく。遠くで電車の警笛を哀れっぽく聞き、急にせき込む。
「ああ、娘は、もう行ってしまった……」
 消え入りそうな声でつぶやく。

 ふと、二十二才の本当のぼくまでが寂しくなっていくのを感じる。六十才の老人と何の関連性もないはずの自分が、こんな気持になるのは実際おかしなことだ。あるいはぼくの演技力のせいかもしれないが、それにしてもこの寂しさ、それは明らかに老人の持つそれに酷似しているように思う。
 
 こんな中で、ぼくは自分の中で許し難い嫌悪の対象であった老人に同情すら感じている。それがあるいは、自分に対する同情かもしれないという意識の中で……。

 明りのついている家も、もはやなくなっている。水銀灯がアスファルトの道路を冷たく照らしている。昼のはなやかな通りを想像できるだけにそれがぼくにはやりきれない。

 それからぼくはコメディの主人公を演じる。

 現在に生きるには、道化者にならなければならない青年の必然性を熟知しながら。そして、芸術という名を借りた商業主義の成人映画の主人公を演ずる。ますます歪められていく性にそんな一面のあることを惜しみながら。

 その後、ぼくはそれらの行為にほとんど興味を感じなくなった。そして、再びぼくの心に重苦しくのしかかってくる思いを忘れるために、次の興味を引きそうな行為を思いつかなければならない。そうでなければ、一刻も早く眠りたいと思う。

「それからしばらくたったある日、学校から帰った彼はいつものように一人で畑に遊びに行きました。そして、かつて彼が母親とそうしたように、畑の境界の草むらの中から、もち草をつんでいました。その時には、もう食用にはならない程に堅くなったそれは、ただ一心に摘むということに、彼の亡った母親への、幼いせいいっぱいの愛の具現だったのです。

 しばらくして、その彼の頭の上で声がしました。ふり仰ぐとそこに彼の家の近所に住むおみねさんが立っていました。自分だけの秘密を知られてしまったことへの憤りを感じた彼はうつむいてしまいました。

 そのおみねさんは、一言も言わないでそんな彼の傍で、同じように何の役にも立たないもち草を摘み始めました。それをとがめるように見すえた彼の視線に、彼女は微笑で応えます。彼はやり場のない怒りを、再びそのもち草を摘むむという行為に没頭することで柔らげようとしました。
 
 そんな内、おみねさんの口唇から小さくもれる、その地方のわらべ歌に彼は敵意を失っていました。そのわらべ歌は、彼の母親がいつも彼に歌って聞かせたそれだったのです。

 彼はおみねさんと一緒に歌い出していました。笑えば、それに応じて微笑み返してくれる、あの張りのある愛に支えられながら、彼は失ったものを再び手にすることが出来た満足にひたれたのです。
 
 それを契機に、彼はおみねさんと話を交わすほどになりました。それからしばらくして、一方の手をおみねさんにしっかり握られ、一方の手にはわらで束ねたもち草をかかえながら、彼は夕焼け雲の下の彼の住む村に向っていたのです。

 そのおみねさんは、飲んだくれの父親とそまつな家に住んでいました。母親は既に亡くなり、一人いた彼女の兄は家を飛び出し、行方が知れなかったのです。彼女の父親は働こうとせず、荒れ放題の田や畑は二十才そこらのおみねさんと親戚の人や近所の人の好意とに任せっきりでした。そんな彼女の父親を当然、人達は激しく罵りました。でも彼女は澄んだ大きな瞳に涙をいっぱいにためて、黙ってうつむくだけだったそうです。

 その日から、彼はおみねさんといつも一緒でした。前の日に、翌日の予定を聞きます。それは田んぼであったり、畑であったりしました。そして彼は学校から飛んで帰ると、おみねさんの所に駆けていくのでした。彼は小さな身体いっぱいにおみねさんを慕い、おみねさんから愛される喜びに夜も眠れないほどでした。

 そんな彼にとっては充実した日々が一年くらい続いたでしょうか。確か、あれはまだ陽の浅い春のことでした。その日も学校から飛んで帰った彼は、畑に行っているはずのおみねさんのもとへと行ったのですが、どこにも見当りません。その辺りをさがしまわったあ げく、裏切られたような思いで、 お みねさんの家に行ってみました。

 おみねさんは家にいました。でも、そのおみねさんは、それまでのつぎはぎだらけのかすりの着物ともんべ姿の人ではなく、けばけばしい色彩の洋装の彼女でした。彼を見つめたおみねさんは、何かいいたそうな中で、寂しそうに微笑しました。
 
 そのいつもの顔の表情さえも違ったものに感じた彼は、突然不安にかられました。『どうしたの?おかしいや、ね、畑に行こうよ』じっと見すえる彼女の瞳は充血していました。『ずっと遠くへ行ってしまうの、もう坊やとは会えないわ』

 その意味を知った彼は、おみねさんの胸に飛び込んで行きました。『行っちやだめだ、行っちやいやだ』彼はおみねさんまでも奪おうとする何者かに抗うように、しっかりしがみついたまま泣き続けました。でも、彼はすぐ帰ってくるというおみねさんに、何度も何度も約束させて、しぶしぶおみねさんから離れました。

 でも、それからおみねさんは戻っては来ませんでした。期待に始まる朝が、やがて失望に終る夜を、彼は何日過したでしょう。でも、そのうちに彼は、おみねさんを忘れるようになっていました。

 おみねさんは、何でも、近所の大人達の言うことには、彼の村から汽車で四十分ばかり離れた進駐軍のいる街に、アメリカの兵隊さんの弄びものになるために行ったということです。

「これがGという青年の初恋の物語」
「あら、それは恋かしら?」
「そうさ、僕にとってはね」

 ぼくはたまらなく愉しい。ぼくのおとぎ話に、更に一人の理解者ができ、それをまんまとあざむき通したぼく自身の話術の巧みさと、その構成の素晴しさに、また酔いしれることができるのだ。

「僕はね、その人のことを、まだはっきり記憶しているんだ」
「ふうん、そう」

 もう興味を失ったようなYの態度は、実際,無理のないことだ。ぼくは別にYの同情を引こうなどと話しを始めたわけではなく、そうすることはどだい不可能に近いのだ。それはぼく自身についても言えるだろう。他人がどのような過去を持っているとしても、それは自分には何の関係もないことだ。

 だから過去の話の真相などは、どうでもいいことなのだ。ぼくらは行為や会話に求めるものは、一時の現在の忘却でしかないのだ。
 
 ぼくは、確かにおみねさんのことを、時折思い出す。でもそれは、畑で働くおみねさんの姿ではなく、うす暗い小屋の中で淫らに拡げた白く痩せた肢を持った女としてのみねちゃん、みね公なのだ。
 
 彼女がぼくの前に現われたのは、確か、ぼくが中学二年の時だ。彼女は父親と二人暮しだったが、父親は働きもので通っていたし、彼女は兄同様、手のおえない不良だった。そして、ぼくは彼女に、彼女の家の 小 屋で犯されたのだ。そして、それらのことがぼくの日常生活の習慣になりかけた頃、彼女もまた兄のように家を飛び出し、近くの街の怪し気なバーで働くようになったらしい。

 それによって確かにぼくは、彼女とそうなる前のぼくよりも変った。だが、それらの事実が、現在 のぼくを形成したと飛躍して断言するこ と はできない。もし、そう断言したなら、ぼくだけが特別な青年だということを自認することだし、第一、それはぼくの信念、つまり、ぼくはぼくらの世代の中の特別な青年ではないと信じていることに反している。

「あなた、じゃあ孤児なのね」
 Yは愉しそうに問う。ぼくは誇らしく応えよう。ある意味で真実の答えを。
「そうだよ」

 ぼくには父親はいない。だが母親は健在で、近い将来、いまぼくがいるこの地に出てきて、一緒に暮らすことを夢みながら働いている。

 ぼくは、駅に向って歩いている。そして、これはしごく当然のことだが、それに対して何の疑惑も感じない。確かに、ぼくが歩いているこの道は駅に向っていると思う。だが、果してこの道を進めば、駅にたどりつくのかどうかは、歩いているいまのぼくには判らない。
 
 いろいろな映画のラストーンを演じた後、ぼくはこれから何をしなが ら 歩こう、何をして気を紛らわせようかと考えていたようだ。そしていま、そう考え、ぼくの頭がその何かをしている自分のイメージを追うことで充満していたのが、それ自身ぼくの気を紛らわすことに役立っていたのに気づく。だが、もうそう思うことも億劫だ。それでいてぼくは、自分の頭の中が空虚になるのを恐れている。

 そんな内に、道端の街灯と街灯の間の短い、それでいて,ぼくの背たけよりも高い塀の上に、一匹の小猫を見つけた。小猫はそこから飛び降りるにはまだ幼さなすぎるらしい。恐らく捨猫なのだろう。ぼくを見つけたその小猫は、ぼくに向ってなき出す。
 
 せいいっぱい絶叫するように救いを求めるその哀れっぽいなき声を、ぼくは無視する。それでいて、ぼくは興味あり気に、わざとへいの傍に寄り、ゆっくりと歩き出す。小猫はなきながら、塀の上を、ぼくの歩調に合わせて移動する。
 
 ぼくは事実同情し、興味を感ずるのだが、かえって無頓着そうに放っておく。夜更けのこの道は、今夜はもうぼくの後に通る人がないかも知れない。しかし、それがぼくがその小猫を、塀から降さなければならないという理由にはならない。小猫はなき続ける。そして、ぼくはそこを離れた。ぼくに向ってなき続けているだろう小猫のなき声を後に聞きながら。

「さあ、今度は君の番だ」
「どうしょうかな、私、まだ迷っているの」
「もったいぶらないことだよ。僕らにとって、良くないことなんだ。過去にこだわることは」
「そうかもしれないわ……」

 やはりわたしは話そう。かつてわたしとMとの間に起ったいきさつを。そして、これから新しい恋人にGのように気楽に話せるようになるために。

「じゃ話すわ。二年前のことだわ。高校を卒業すると私は都心にあるS商事に勤め出したの。その頃の私は、今から考えると、どうかしていたと思われるほどに、自分が大人であることを信じていたの。大学に進んだ友人や家にいて花嫁修業を続ける友人に比較して、社会に出て働いているんだという単純な事実を実感したいということに固執していたわけよ。

 その私がさらに自説を主張するために、保守的だと決めつけていた両親の反対をおし切って、私のいる街からほど遠くない街で下宿生活を始めたわ。もっともS商事でもらうお給料が良かったということと、結婚することになった先輩の下宿が安かったというせいもあるけど。
 
 仕事は単純だったけれど社会人としてのBGの生活、更に、独立した個人の自活生活、そんな生活の中で私は時折、大人としての自分に陶酔していたわ。恐らくその頃の私は今までの半生の内で最も充実した生活を持っていたと信じられるの。そして、女性が真に男性と同等の権利を持つためには、こんな生活が必要なんだと覚ったの。

 そんな私が同じ職場のMという男と交際し出したのは、そこいらの女性週刊誌に書かれてあるようなきっかけだったわ。そんな意味で私は普遍的BGの一人であることを確認したわけよ。私はほとんどMに夢中になったわ。
 
 Mが私の理想の男性像となり、今思うと単に彼が彼自身の退屈から逃れる手段と、欲望を合理的に満すためだけの目的で、私に新しい真の恋愛のあり方を教え、実践していくのを、その時の私はそれをMの強い愛のせいにしていたの。確かにその頃の私は、映画やテレビ、小説の中だけの出来事でしかなかった恋愛のいろいろなことが、自分の身の囲りで起るのをほとんど歓喜を持って見ていた。
 
 恋愛を始めて三ヵ月ばかりたったある夜、Mは熱っぽく私を求めたわけよ。今から考えると、その時期は遅過ぎていたし、何でもないことなのに、恋愛の掟のように話すことに、羞恥を感じるようなことだけど、その頃の私には重大だったの。
 
 わかる?そりゃあ、Mはそれまでに、そうすることが恋愛する者にとっては必然的で、自然の行為だと教え込み、私も反対する理由もなかったので、熱ぽく同意していたけど、それは暗い喫茶店が交わされる愛のささやきと同じ性質のムードに負けた同意だとふいに知らされたわけなの。
 
 あんなことは、明るい人通りのある公園で言べきことじゃないのにね。その頃の私は、私はMであり、Mが私であって、私はMの目で見て、Mの頭で考えていると信じていられるほどに、Mを身近かに感じていたけど、怜悧なその時の私は、なかなかそうは出来なかった。
 
 ほんとに、あんなことは始めての女にとって事務的に事を運ぶべきじゃなかったのに。Mは知らなかったのかしら。あるいは知った上での計算かもしれない。とにかくそのとき私は拒み切ったわけ」

「なんだか僕は古い通俗小説でも読んでいるような気がしてきた」

「馬鹿なことを言って、話の腰を折らないでよ。それで、Mは怒ったようなふりをして帰ったわ。その時の空しさ、いいようもない寂しさ。自分がひどくいけないことをしたみたいで、激しく後悔したわ。で、彼は次の日、私を何げない風に誘ったわ。事実うれしかった。

 そして、前夜のような要求を期待する自分の心に気づいてはっとしたわ。でもその日は、いつものように喫茶店で話しただけ。私は実際にMが私を求めたら、それを受け入れられるかどうか自分に自信はなかったけれど、かえってそんなことを言い出さないMを不満に思ったわ。そして、Mが私から離れていきそうで不安だった。恐しかった。おかしいほどに焦ったの」

「その頃の君は、きっと通俗小説と週刊誌を読み過ぎていたんだね」

「少し黙っていてよ。いい気持で話しているんだから。それで、それからMと私は時々会ったわ。そして何げなくよそおうMに、私、腹立ちさえ感じてしまったの。私はだんだん離れていきそうなMを必死に引き止めようとしたわ。そして、私はMと完全にひとつのものになるには、もっとも単純な行為を肯定することの他にないと決心して、ある夜、むしろ自分から進んでいったわ。

 そして、その間中、私は呆けたように『これで私達はひとつになった』って、何回も言っていたようだわ。そして、そのそのことにMも同意したわ。私は安心したわ。
 
 単純で幼なかったのね。それからしばらくして、Mが私ではない女と恋愛し出したの。このMっていう男は、俗物であり過ぎたのね。その時の私にはあまりにも大きな衝撃だった。より親密に、より深い所で結びつきうるその行為を信じかけた矢先だけにね。そして絶望し、自殺しようと決心した。馬鹿馬鹿しいほどに、Mも私も俗説にのった道を歩いていたのね。その時の私にとっては、それ以外の真実はなかった自殺という行為を決行したけど、不幸なことに、この通りよ」

「生きていて良かったね。おめでとう」

「ありがとう。そしてね、この話にはおまけがついているの。私が自殺に失敗して生命をとり戻した丁度その日に、Mは交通事故でぽっくり。おかしなものね、死のうと思った私が死ねなくて、死のうなどとは思わなかったMが死ぬなんてね」

「そして、君はいつ訪れるかわからない死の不安におびえている。そして、死の不安におののきながら、君は現在の恋愛の中に生きがいを見い出しているってわけだね。出来すぎた話だね」
「そうね、考えてみれば……。でも、こんな話をして、少し、すうっとしたみたい」

 それから、ふっと、わたし達は黙り込んだ。わたしはの瞳の中を探ろうとし、Gもわたしの瞳の底から何かを探り出そうとでもするように、目と目をみつめ合う。いいようのない不安から逃れるようにわたしはGの手を探る。
「私達、お祈いに孤独なのね」
「えっ!」

 ぽくは呆気にとられる。極く当然の、そしてもう十分に慣れきった今の状態、それが孤独という言葉で表現できるとは……。

 ぼくは駅についた。そして、その時になって今まで歩いてきた、もうほとんど忘れかけている道が、駅にたどリつける道であったことを確認出来た。待合室にはもう誰もいない。しいんと静まり返ったこの雰囲気の中に、ぼくは何の程抗も感じないほどに、ぼくの心は虚になっている。
 
 ぼくは電車の時刻表を見上げる。郊外の私鉄の駅の時刻表には、通勤に利用される国鉄の電車のようなにぎわいはない。およそ強烈な恐怖さえ感じるあのにぎわいが。
 
 ぼくはそんな時刻表の数字を、上の方から足していく。途中でわからなくなって、再び、最初から加え始めていく。何度かやり直していくうちに、ぼくは紙とペンを取り出して、計算をし始めていた。最初は上りの時刻表の数字を総計し、次に下りの時幹表の数字を合計した。そして、今度はそれらの時間帯の合計の差を求めてみる。それらは同じ数でななく、零にならないわけは何故かに、ちょっとの間、思いをめぐらす。

 そして、ぼくは壁に視線を移す。観光案内のけばけばしい嘔吐を催したくなるような色彩の中の哀れな文字を、声をあげて読み出す。

 ぼくとYは、その喫茶店を出ると、夜の街に出た。ぼくらは、外観はそう見えるだろう、愛の楽しさ、幸福さをぼくら自身で思い込もうとするかのように、手をつなぎながら快活さをよそおう。それがぼくの傍にYがいて、Yの傍にほくがいるということのために、無理じいしたそれを十分に知りながら。

 洋装店の飾窓をのぞき、そこに飾られてある婦人服に、端から勝手な批評をして行く。さっと頭に浮んだ意味の深くない言葉を使いながら。そして、ぼくらは本屋に入る。書棚から、てんでにばらばらに本を抜き取る。そして、さも内容を確かめるようにパラパラとページをめくり、いいかげんなところを開いてじっと見入るふりをしてうなづく。その後、買うのをあきらめたように閉じ、元にあったところにではなく、違った書棚にさし込む。そして、ぼくとYは微笑し合う。
 
 菓子屋に入って、店員にショーケースにある菓子の値段を、次々に聞いて行く。そして、店員がぼくらの意図を知って急にぞんざいな口調に変る時、Yはありきたりな菓子を求め、ぼくが代金を払う。花屋で、赤いバラを一輪だけ買い、それをYのスーツのボタン穴に挿し込んでやる。

「僕は、君を愛している」
「私も、あなたを愛している」

 わたし達にとって、この香しい言葉が常に必要なのだ。わたしの胸のバラのほのかな香りが、Gにより添って歩くわたしの心に届く。

 そして、わたしとGの足は、ゆっくりホテルに向う。わたしが一層Gを愛し、Gが一層わたしを愛してくれるということを理由に。その実、わたしとGは、それぞれ相手に頓着することなしに、自分自身の歓喜をむさぼるだろう。

           ※   ※   ※   ※

「送ってくれるわね」
「いいとも」

 そこを出たわたしとGは、上気した頬を夜風に愛撫させながら、駅に向う。
「タバコ吸う?」
「うん」

 Gはフィルター付きのタバコを箱ごとわたしに渡す。そして、Gもわたしの手の中の箱から一本抜き取ると、口にくわえマッチをする。その火がまるで貴重なものに思えるわたしは、わたしの手でその炎を覆う。わたしの髪がGの髪に触れる。そんな顔を近づけ合ったわたし達の視線の交点に、風に吹き消されそうなマッチの炎がゆらぐ。
 
 それはGの顔を明るく照らし、おそらくわたしの顔をも照らしているだろう。次々にタバコに火をつけた後も、Gもわたしもその火を見入っている。Gの瞳の中にその炎が小さく映る。それが、すぐ消えてしまうだろうことを、お互いに痛いほどに感じながら。

「じゃ、さいなら」
「うん、さようなら」

 ぼくらはYの下宿の前で握手する。明日はあるいはYとは何の関係もない自分になるだろうことを漠然と感じながら手を握り合う。

 Yは家の中に駆け込んで行く。そして、ぼくもそこを離れ、後をふり返えろうともせずに、夜更けの道を歩き始めた。

「私達、お互いに孤独なのね」

 ふっと、ぼくはYの言葉を思い出す。
「それがどうしたんだ」
 とも、あるいは
「そうじゃないんだ」
 とも言わなかったぼく。その「孤独」ということばは、ぴったりぼくに密着している。

 歩いて行く前方に、ぼくは道路の端の「〇〇薬局」という看板の下に、寝間着姿の男が、小さな窓から内に向って何か話しかけているのを見つける。

 壁のポスターを全部読み終ったぼくは、出札口のガラス板の上を五十円硬貨で
叩いた。しばらくして奥から駅員が顔を出した。
「もう終電車は出ちゃいましたよ」

 駅員は無愛想にそう言うとひき込んだ。ぼくは何も聞かなかったように、いつまでも、軽くガラス板を叩き続ける。打楽器でも、叩いているような気分で、単調なリズムを何度もくり返す。

〈完〉







2008/10/16 22:42:54|フィクション
愛の行方に 二人だけで愛しあおう/その1
昭和40年(1965)24歳作品

小 説
二人だけで愛しあおう


 昼休み時間、わたしは机の上に拡げた週刊誌の面にはまだとどいていない空間に視点を止めたまま、レンズの焦点を思いきってずらせた幻燈の投影を見ているような、輪郭の定かでない赤や黄や緑などの色彩を意識の底にぼんやり感じながら座っていた。

 といって別に考えごとをしていたわけでもない。食堂で昼食をとった後、職場の自分の机に戻ったわたしは、つい先刻まで確かに初秋のモード特集を見ていたのだ。そして、いつの間にか、これはいつものことだが、それらのカラー写真は無意識のうちに四次元の果に追いやられてしまっている。

 わたしはこのもはや習慣的にさえなっている状態から覚醒した直後に感ずる、白々しい程の空しさに、軽いおののきさえ感じていたが、この深い霧の中に放り出されたような状態が至上命令か何かのように襲ってきて、わたしはいつもその中に身動きできない自分を感じるのだった。

 わたしの事務机の上には、更に仕事のための必需品であるインク壷やペン軸、クリップやピンなどを入れた筆箱、墨色の電話器などが置かれているはずだ。見ようと思えば見られるそれらのものも、今のわたしはあらためて見ようとは思わない。だが、わたしはそれらのありかを身体が熟知しているのを知っている。しかし、今それが一体 何 になろう。その内に昼休み時間も 終るだ ろう。その時になって仕事のために身体の機能が自然にそれらを必要とするはずだ。

 昼休み時間は終りかけている。わたしを取りまく霧の外から、その時間が段々侵触し始め、わたしまで到着した時に午後の勤務は始まる。それはいとわしいものでも、かといって楽しいものでもない。わたしは、ただ無抵抗に時の流れの中に身を投げ出しておくしかない。

 突然、机上の電話が鳴った。
「はい」
伸ばした左腕が、ほとんど自然に受話器を取り上げている。勤務時間中なら習慣的に「〇〇課です」といっているはずの声は、何故か出てこない。
「誰?君は?」

 そんな無作法な相手に憤りを感じてもいいはずのわたしだが、今はそんなことなどどうでもいい。わたしはまだ霧の中にいる。
「私、Yです、が……」
「やっぱり!僕はG、知ってる?」
「G、さん?知らないわ」
「そう、いいんだ。気にしなくっても。僕ね、さっき食堂で始めてあなたに会ったんだ。それで、あなたを知っている友人から聞いて電話しているわけ」
「何て聞いたの?」
「名前と職場だけさ、だってそれ以外に知る必要もないしね。ね、僕と恋愛しない?」
「え!レンアイ?」
「うん恋愛。コイのアイね」

 わたしはいつの間にか立ち上っている。恋愛という言葉の響きが、どうやらわたしを霧の中から引張り出したようだ。そのわたしの急に明確に働きだした視線が、机の前の床の上に落ちている一本のクリップをとらえた。すると何故か急に動揺し始めた。
「ちょっと待って下さい……」

 受話器を机の上に置いて、ゆっくり机の端をまわると、まだ手をつけていないコーヒーの表面から糸屑でもつまみ上げるように、床の上からクリップをそって拾い上げ、大事そうに筆箱の中に戻した。予期したように、わたしの動揺はおさまっている。そして、またゆっくり席に戻る。

「それで、その、恋愛の話ね、私は別に構わないんだけれど、どうしてそんな気になったのかしら?」
「どうして?そんなこと全然問題じゃないね」

 彼、確かGといった、は確信的に断言した。
「そうね、それもそうだわ」
「そうだよ。僕らにとって問題にすべきことは、これからいかに愛しあうかってことだけだよ」
「うん、判るつもりよ。つまり私があなたをまだ知っていない。あなたも今日、始めて私に会ったということは、これから恋愛を始めていく上に、何ら支障ないわけね」「その通りだよ。なまじ相手を知っているということは、僕らに偏見を持たせ、僕らの恋愛の純粋さを歪めるだけで、何の役にも立たないんだ。だから僕は白紙のままで相手に臨み、相手もまた白紙のままで対してくれるということが、僕の理想であり、ぜひとも実行しなければならない掟でもあるわけだよ」

 その後、ぼくはYに会う場所と時間を指定した。彼女はそこに、ほとんど一分もたがわず現われるだろう。それは充分に確信の持てる考えだ。

 電話を切った。そして、ぼくは机の上に拡げてある小説に目を落すと、先刻の続きに何の抵抗もなく入っていける。

 やがて、昼休みの終りを告げるチャイムが鳴ると、勢い本を閉じ、それを机の引出しの中に放り込むと立ち上がった。そしてその瞬間に、ぼくは午後からやるべき仕事を思い出し、その手順を考える。そして、時間の割りふりをして、その計画に従って、夢中で肉体を酷使し、頭脳を急回転させる。そして、仕事が終る頃に、それらは秩序だてられて処理されるのだ。それに対して、入社四年目のぼくは何の喜びも満足も感じないが、こんな仕事を追って、それに夢中になれることが、まあいわば会社生活では唯一の救いなのだ。

「あれねえ、あのこの前の薬ねえ、あれは良かったですよ。強くなくて、だんだん効いていくんですよ。わかるんです。少しずつ身体があの薬を吸収していくのがねえ、あれは優しいんですねえ。優しく効いていく薬なんですねえ。本当に良薬ですねえ、あれは……」

 男は閉ざされた薬局の鎧戸の普通の新聞受けなどより大きくなっている小窓から、明るい店内に顔を向けている。中窓が作る明るい方形の上端が男の丁度額のあたりを斜めに横切り、その下の顔は心なしか青白く見える。薬局の中でも、何かいっているようだが、それは聞き取ることができない。ただもの憂げな、変に引き伸ばす特徴のある男の言葉を、ぼくは意味もなく聞いている。

 黄昏時から蓄積された夜の重さがずっしりと覆い、この郊外の街を黙り込ませている。もう街灯も 必 要な いと思う。ちかんも若い女ももう眠っている頃だろう。今時分起きているのは、天井に空ろな目を向けて死に近づく自分を感じて、自分の息さえもおしころし他人に覚られまいとする病人か、あるいは時たま思い出したように激しく愛し合う愛人達か、ほとんど絶望的な受験生だけかもしれない。
 
 互い違いに道の両端に輝く水銀灯は狭い道路に添った店や家々の外界を拒否する戸口を鋭く刺している。嫉妬という言葉は、馬鹿な人間のそれを証明するだけの感情を表わす他に、こんな真夜中の街灯の光も表わすものだと、ぼくには思われる。

 ぼくは道の真中を、頑なに両端の商店や家々を無視して歩いているうちに、ふと、あるおかしさに衝られる。こんな夜の、誰もいないアスファルトの道を、鋲を打った靴を履いて歩いて行く自分は、まるで映画のラストシーンの主人公みたいだと思う。あいにく、ぼくの靴底は合成樹脂で出来ていて、鋲が打ってなかった。だからぼくは野良猫のようにしか歩けないわけだ。

 映画はどんな内容のものだろう。メロドラマでも殺し屋の出てくるものでも、退屈な老人の哀歓云々という芸術映画でも、空々しいコメディでも、このラストシーンは使えるだろう。しかし、少なくてもそれは現代劇でなければならないだろうが。
「要するに、この主人公たる僕の容貌、服装、顔や身体の表情、それらがおのずと前に展開されたドラマの内容を決めるというものだ」

 ぼくが相手を認める役割なので、約束の時間より少し早めにその喫茶店に行ってなければならなかった。入口に近い席を取ると、紫色の厚い板ガラスで出来ていて、暗い店内からはまだ明るい外が見られるドアに目を注いでいた。
 
 ぼくの座っている場所から、そのドアを通して見ることができる外界の範囲はごく限られていたが、それがかえってその狭い枠内にに入った人の動作や表情が活々と観察できるのかも知れない。

 まるですぐにも別離が訪れ、それから逃れでもするように焦りさえ含んだ執容さで愛を確認したがるような、身体を寄せ合って危かしい足どりで入ってくる愛人達や、外観は若々しい朗らかさと明るさを認められるが、一人一人がその瞳の底に退屈さと欲求不満とが見られる男女のグループが入ってくるのを、ぼくはこの喫茶店に来た目的を忘れてしまうほど、あきずに眺め続けている。

 ぼくが信んじていた通り、約束の時間かっきり、Yがその入口まで、確かにぼくではない男と腕を組んだ恋人同志気取りで現われた。Yの頭を男の肩のあたりにおいたまま。ぼくはそんなYと男の様子に妙にこだわり始めた。そんな格好は歩きながら取るべきものではないと思う。男が足を運ぶ度に、女の頭は男の肩のごつい骨の上で踊るはずだし、そうしないためには男は人間の能力ぎりぎりに静かに歩かなければならないだろう。また交通事故に遭遇しないために、女は自分の頭の痛みに甘んじなければならないわけだ。しかし、とにかく彼女らは、つい先刻入ってきた愛人達のような雰囲気を持っていた。

 だがYは、入口でその男とあっさり別れてしまった。軽く上げた指の白さが、紫の板ガラスを通しても、なおも白く認められる。Yはしばらくの間、そのドアによって区切られた枠からはみ出した男の姿を追っていたらしく、その方を向いて立たずんでいた。
 
 やがてドアを身体ごと押す。そして中に入ってきて足を止めた。つまりYはぼくの顔をまだ知っていないのだ。ぼくは落着きはらって、ゆっくりとあたりを見まわす。テーブルを一人で占めている若い男は、ぼくの他に四、五人いるようだ。その時、衝られた無邪気ないたずら心は、入口の辺りまでYが男と一緒に来たことへの報復では断じてなかった。ぼくはただ好奇心がさせた業だと言い切れる。
 
 Yがどこへ行くか、Yがどんな風にしてぼくの所に来るか、また、そのまま帰ってしまうか、それはギャンブルにも似た興味だった。Yは見てくれの良い青年の前に行き「Gさんでしょうか」というか、あるいは難かしそうな本を拡げて読むふりをしている青年の脇に坐って「Gさん?」と尋ねるか、ぼくは後で報告書を作成しなければならない時のような真剣さで観察し始めていた。

 Yにとっては、ぼくでなければならない、という絶対的な制約はないはずだ。おそらくこれからぼくとYが愛し始めたとしても、そんな制約は不要だろう。Yはまだ入口で立っている。傍のレジの女が怪訝そうに見て、何か声を掛けたようだが、Yはちょっとその女を見たきり、また店内をゆったり見まわし続ける。
 
 その内、そのYの視線がぼくに突き刺ってきた。少し狼狽し始めていたぼくは、それを無表情に見返してやる他はなかった。しかし、すくそれは隣りの青年に移っていった。

 やがてYはぼくを呼び出してもらうことを決めたらしく、しばらく後に、音楽とハーモナイズするぼくの名前が店内に流れた。ぼくはほとんど満足していた。ぼくはゆっくり店内を見回わす。と、斜め後の席で、音楽を聴いていたのだろう青年が、その途中のぼくの名前(もっともその青年は、それが彼を見つめているぼくのものだとは判らないはずだが)によって、現実にひきもどされたせいか、不快そうに舌うちするのを、ぼくは楽しいものでも見つけ出した時のように、笑顔をつくる。
 
 そして、顔をYに向け直したぼくは、彼女の傍 に 誰も行かないのを、半ば不思議そうに見つめてやる。やがてYはくるりと向きを変えると、店内から外へ出ていった。
 
 愉快だった。おそらくこのことで、Yはぼくに始めて会おうとしたことを後悔はしていないと思う。たとえ、ぼくがこの喫茶店にいなかったとしても、ここに来て、ぼくをさがす緊張した気持が、Yにとって一時の生きがいににっていただろうから。

 ぼくもすぐそこを出て、まだ遠くない道路の片側を、子供が始めてお使いに出た時のようなしぐさで、バッグを振って歩いていくYのあとを、急いで追った。
「Yさん!Gです」
 やっと追いついたぼくは、息せき切って声をかける。
「あら!」

 ぼくを見たYの瞳の中に驚きを見つける。そして、それが憤りを含んだものに変わり、やがてまぶしそうにぼくを見つめ出している。それはほんの一瞬の変化だったが、いつも初対面の女性に見せるぼくの最も魅力的だと自分自身信んじている笑顔のもとで、ぼくは詳細にYを観察していたので、見逃しはしなかった。

「メロドラマのラストシーンはこうだ」

 ぼくは片手をズボンのポケットに入れて、少しうつむきがちに歩き始める。前に出す一足一足が悲しみを深くしていくような歩き方だ。そして、時折りもうそれ以上耐られなくなったように立ち止まると、ふり返って、まだ、ぼく(メロドラマの主人公の)を見つめて立たずんでいる恋人を遠く見つめてため息をつく。

「ああ、彼女の方になら飛ぶように行くだろうこの足が、彼女から離れていく方には、どうしてこんなに重いのだ」

 ぼくがつぶやくと、思い切るように身をひるがえして歩いていく。そのぼくの頬には、涙が二筋の道をつくっているはずだ。だが実際のぼくにはそんなものはなく、そんな気分にひ たり切っているだけだ。ぼくの足は急ぎ足になる。そして、もう決して後を振り返るまいと決心する。だが、百メートルもその急ぎ足が続くと、ぼくはがっくり歩調を落す。

 ぼくは今だかつて芝居をやったことはなかったが、ひたすら主人公になりきっていたので、きっと名演技だったと信んずることが出来た。ぼくはカーテンコールの時の演技者の顔を思い出してそれを真似た。

「さあ、今度は殺し屋だ」

 急にぼくは緊張する。そして背広の内ポケットが重く感じ始める。そこに黒光りする拳銃が入っているのだ。コルト・オートマチックがいいな、とふと思う。そして、ぼくの頭には黒いソフト帽が、目深かに載っているわけだ。
 
 殺し屋の歩き方はこうだ、とぼくは昔の剣の達人のような用心深さで、足を運ぶ。それは前に出した足をスプリングにして、横にすっ飛ぶか、路上をすぐにでも転がれるように歩き方だ。そしてぼくは急に立ち止る。急いで 右手を背広の内ポケットに入れ、両足を軽く開いて傍の家と家の間の暗がりをきっとにらむ。
 
 そして、歪めた笑顔をつくり、口先だけでふっふっふっ……と笑わなければならない。敵はもちろん現われて来はしない。ぼく、殺し屋に変身したぼくは、再びゆっくり歩き出す。カメラの位置が次第に高くなり、ぼくの後姿は小さくなる。ジ・エンド。

 ぼくは歓喜の笑声を上げる。実に爽快な気分だった。笑い続けながら、スキップを踏んで駅に向う。

 ぼくとYは、最初の喫茶店にもどろうとしたが、そこの入口のドアの色が気に入らないといういう意見の一致をみたので、そこからはほど遠くない喫茶店の同伴席にいた。真面目な地方の高校生だったぼくは、上京したばかりの頃、喫茶店に誘う先輩の言葉に、おどおどして、妙に後めたいものを感じたものだったが、今はどうだろう。こんな抱き合って口づけを交している愛人達の中でも、平然としていられるのは、ボクが一人前になりきったからかもしれない。

 ボーイが注文を聞いて引き下った後、ぼくはタバコケースを取り出し、一本を口にくわえYに顔を向ける。
「どうですか、あなたも……」
「それ、何?」
「いこい」
「じゃだめ、ハイライトなら、いいんだけど」
「持ってますよ、ハイライトなら……」

 Gは今度は反対側の内ポケットから、まだ封の切っていないハイライトを取り出すと、わたしは狼狽した。まだタバコなど一度も喫ったことのないわたしは、その場をつくろうために、おそらくGの持っていないだろうタバコの銘柄を言ったに過ぎなかったが、もう、今更あとへは引けない。わたしは決心した。
「じゃ、一本」

 おそるおそるくわえたタバコの先端にGは慣れた手つきで火をつけてくれる。と突然、煙の洪水がわたしの胸を襲った。始めてのわたしは、まるで深呼吸でもするように吸い込んだのがいけなかったのだろう。激しくむせりながら、上目づかいにGを見ると、彼はこ んなわたしをただ微笑して見ている。
 
 何ということだ。少しは同情してくれるべきだ、とわたしがGだったら、やはり彼と同じ態度を取るだろうことを意識しながらも思った。それで、わたしは一生懸命タバコを吸う練習を始め出すと、いつもの癖ですぐ夢中になり出した。大胆に鼻から煙を出してみた。鼻の奥がツーンと痛む、そしてむせる。だが、実際に面白いものだ。
 
 今度はくわえ方の研究だ。だが、その前にGに言訳けしておこう。
「私ね、本当を言うと始めてなの、タバコは」

 Gはただ笑ってタバコを 吸っているだけ。ふとわたしは、小さな後悔を感じた。そんなことはGには関わりのないことなのだ。わたしはハンドバッグから鏡を取り出し、わたしの口もとを見つめる。真中辺にくわえてみたり、傍にくわえてみたりするが、どれが一番美しい形なのか見当がつかない。
 
 持ち方もいろいろ変えてみる。それでも、どうにか手を伸ばしきって、人差指と中指にそっとはさむ持ち方と、何げなく口の真中より少し片側に寄りぎみの辺りにくわえ、ただ、煙を口に含むだけで吐き出す方法が、一番自然だという結論を得たが、もっと検討してみる必要がありそうだ。さっそく今夜から始めてみよう。

 一本のタバコに弄ばれた後、頭痛がしてきた。だがこんな頭痛は時折感ずるものと変わりなく、たいしたことではない。頭痛すらわたしにとっては、そのことだけで夢中になれるということで好いている。

「僕ら、これから恋愛を始めるわけだけど、まず、その宣誓をやろう」

 Gは真面目な様子でわたしを見つめる。
「そんな必要はあって?」
「あるさ!オリンピックだってやるだろ」

 わたしは思わず吹き出したが、Gは真面目ぶり続ける。
「で、どうすればいいの」

 わたしは段々、Gに強い興味をおぼえ始めていた。今はでわたしの相手だった恋人はそれぞれ異っていたが、ある面では似かよっていた。ことすら、わたしを立ててくれたということで。だが、あるいはこれはGにとって目的は同じのひとつの方法かもしれない。

「まず、こうやって二人は握手する」

 Gはわたしの手を握った。柔らかく暖い手だった。
「そして宣誓する。君はこうだ。『私はあなたを愛しています。だから、これから私はあなたと恋愛します』分った?いいね!さあ」
「私は、あなたを愛して、い ます。だから、これから、私は、あなたと恋愛します」

 すっかり楽しくなったわたしは、熱を込めて言った。
「僕も君を愛している。だから、君と恋愛をする」

 Gもまたひどく意気込んで断言した。しかし、わたしはこの宣言が少し気にかかるのを感じる。まだGを愛してはいないのだ。といって「愛」という甘美な響きを持ったこの言葉の定義をまだ理解していないばかりか、その存在さえ知らない。だからといって、わたしはそれを追求するためにGと恋愛を始めるわけでもないのだ。

「これで終りね?」
「いや、この後、僕らは接吻するんだ!」

 わたしの視野に大きくGの顔が入ってきた。わたしは目を見開いたままそれを待つ。やがてGの瞳が一つになり、鼻が触れ合うと同時に、Gの唇を感じた。さして意味もないこの行為が済むと、大きく深呼吸をした後に、Gは言った。

「さあ!これでいい。僕らはもう恋人同志なんだ」

 朗らかなGの言葉は、わたしを一層愉快にさせる。わたしは笑い出す。Gもつられて笑いながら、片腕を後にまわし、わたしの肩を抱いた。これが恋なのか。

「僕、君はこれで六人目の恋人。君は?」
「九人目よ、確か。あなたで」
「すごいね!いいなあ!」

 Gは羨ましそうに見つめる。それは収集家が彼よりも多く収集している者への単純な羨望の念でしかないことを、わたしの体験が自信を持たせてくれる。Gの二人前にあたる恋人は、これで十人目だと自慢するように言った後に、その記念として豪華に奢ってくれたものだった。ほとんど始めてといっていい高級なレストランで、テーブルに向い合わせに座り、運ばれてくる料理を待ちながら、狂おしいほどにその男を羨んだものだ。









2008/10/16 21:23:14|フィクション
愛の行方に われらの出発/その2
〈承前〉

   2

 それから一ケ月たった日曜日の夕刻。
 同じくアバートの真一の部屋。
 隅で健二が真一の小説の原稿を読んでいる。
 よしえ入つて来る。

よしえ あら健ちやん、来てたの。夕刊の配達はもう済んだの、今日は?
健二 うん、今日の夕刊は休み。
よしえ あっそうか、休みね今日は。真ちゃんはどこか行ったの?
健二 一緒じゃなかったの?
よしえ 今日まだ会ってないわ。
健二 どこへ行ったんだろう、兄貴のやつ。俺もう腹へっちゃった。めし食うつもりで来たんだけどなあ、しょうがないなあ。
よしえ いいわ、あたし用意してあげる。おかずも買ってきたから。
健二 草岡さん、いつも会事の準備してやってるの、兄貴の?
よしえ ううん、いつもってほどじゃないわ。時々ね。
健二 どうしてそんなことするの?
よしえ どうしてって…。
健二 つまり兄貴を愛しているから?婚約しているから?
よしえ そうね、見ていられないのかもしれないわ。それに好きなの、勉強にもなるでしょ、こうするのが。
健二 ふうん、そんなものなのかねえ。
よしえ 何していたの?
健ニ 兄貴の小説読んでいたんだ。
よしえ ああ、それね、どうなのそれ。あたしには、よく分らないんだけど。

 よしえ台所に行き、夕食の単備を始める。

健二原稿をめくりながら。
健ニ うん、前より少しは良くなったけど、まだまだだね。ただ器用なだけだよ。
よしえ どういう意味?
健ニ つまりね、 今文壇 で流行しているような小説の模倣に過ぎないってこと。新しさがないんだな。兄貴の個性的な新しさが。それにまだ甘いし、文体もよく練れていないし。
よしえ ふうん。そうなの。彼、張切っていたんだけどなぁ。こりゃいいぞ、できたできた、こいつぁ傑作だって自慢していたんだげどね。
健二 兄貴らしいや。だめだなあ、兄貴は。
よしえ どうして?
健二 自己満足が強過ぎるんだよ。うぬばれっていうのかな。とにかく現在の時点ですっかり満足しちやってね、自分をより高めようなんて気はないんだなあ。例えばね、文芸雑誌の新人募集に投稿してみようともしなりゃ、同人雑誌に入つて大勢からもまれてみようなん て気にもならない。誰に見せるでもなく、単に自分だけで、いい、いいって喜んでいるんだ。これじゃいつまでたっても成長しいよ。兄貴の気持は分るんだけどね。
よしえ どう分るの?
健二 つまりね、兄貴は批判が恐しいんだよ。なにも小説に限ったことじゃないけど、自尊心が強いんだよ。それも変な自尊心がね、劣等感の裏返しの。批判されたら、こんちくしょうって立直って刃向っていくような兄貴じゃないでしょ。批判される、けなされるってことはね、兄貴にとっては存在の杏定なんだよ。今まで立っていた地面が急に くずれ去って、奈落の底へまっさかさま。それが兄貴にとってはたまらないんだよ。だから、そんなことのない世界で自己満足を続けている、兄貴ってそんな男なんだな。
よしえ 分るような気がする。でも真ちゃんは別に小説家になるつもりはないのよ。趣味なのよ。毎日の生活が生活でしょ。健ちゃんの言い方じゃないけど、それこそ自尊心の傷つけられ通しよ。それで何かこう自分で本当に自分の力だけで創り出すってことの中に生きがいを見い出してるんだわ。だから、発表すること、多くの人に読んでもらうこと、それは大きな問題じゃないのよ。あたしはね、それでもいいと思うの、近頃は。真ちゃんがそれで満足しているなら、そしてそのことで生き生きした生活が送れるなら。
健二 違うんだな。そんな安易なものじゃないんだよ、文学っていうのは。そりゃ確かにある面には自己満足もあるよ。でもね、それだけで終ってはならないものなんだよ。よく俺は商売でやっ てい るんじゃない、趣味でやってるんだ、なんていうでしょ。でもそれは文学や芸術の世界では許せないことなんだよ、芸術に対する冒涜だよ。そんなのは単に負けおしみでしかないんだよ。今のままの兄さんだったら、あまりにもみじめ過ぎるよ。仕事もまあまあなら、文学もまあまあ、どっちつかずで一生終ってしまうんだなあ。
よしえ 真ちゃん、苦しんでいるのよ。いつか言ってたわ、俺は本当は文学なんぞ要らない生活が欲しいって。彼にとっては愛情すらそれに代れなかったわ。あたしね、真ちゃんとつき合い、愛すようになった頃、文学から遠ざかれない真ちャんが少しうらめしかったの。寂しかったの。でも近頃はそんなこと問題じゃないの。あたしは今のままでも充分幸せよ。
健二 草岡さんは兄貴のこと本当に愛しているんだね。あんな兄貴だけど。
よしえ そりゃ、だつてフィアンセですもの、あたしの。あたりまえよ。
健二 弱いなあ、俺。でも婚約したから好きなんじゃなくて、好きだから婚約したんでしょ。でも、俺…。
よしえ でも?何、言つてよ。
健二 うん。あのね、気にしないでね。でも俺、今の兄貴と草岡さんを見ていると不安になって来るんだ。
よしえ どうして不安なの。あたし達ちっとも不安じやなくってよ。
健二 あのね、今のあなたと兄貴ね、あまりにもとじ込もり過ぎているように思うの。兄貴のペースにまき込まれてしまっているようなんだな。二人は現実から逃避した一つの小さな枠の中で幸福を感じていると思うの。全然社会性のない、というより社会牲を放棄したところで満足している。
 これは恋をしている二人なら誰でもそうなるんだろうけど、兄貴があんなだからよけいね、それが強いと思うんだ。そりや兄貴が今のようにならざるを得なかったことは分るんだ、痛い位にね。でもそれは兄貴一人の問題として処理すぺきじゃなかったのかなって思うの。個人的には処理できるものでも二人になるとそうはいかなくなる。だって二人がいるってことの中には当然社会性が入ってこざるを得ないもの。そうすると社会性の放棄から成り立っていた今までの幸福が、次第にくずれて来ると思うんだ。
 だからね、安易に結婚しない二人の間がいつまで続くかっていうのは、要するに二人の問にどれ程の社会性が入っていたかによるんじゃないかな。でないと、別れた後になっても、あの時の幸福つていうものは、一体何だったのだろうっていうことになるんだと思うのよ。
よしえ よく分からないんだけど、ただ気になるのは、さっき健ちやんが言ったわね、兄さんが今のようにならざるを得なかったことが分るって、あれはどういう意味なの。
健二  俺達の過去のことだよ。兄貴から何も聞いていない?
よしえ 詳しくは聞いていない。ただ俺の子供の項は不幸だった。だからこそ俺は自分の家庭を幸福に満ちたものにしたいんだって言っているわ、いつも。
健二 あまり言いたくないな。
よしえ どうして?だって、あたしは彼と結婚するのよ。やがては健ちゃんのお姉さんになるんじゃない。他人じやないわ。
健二 うん。でもこの世の中の夫婦の中でどれだけ相手を知っているだろうね。きっと知らない面の方が多いと思うんだ。だってお互いがまるで別の親から生まれ、全く別の家庭や環境の中で育ってきた他人なんだもの。それに相手の過去やなにかを知っているってことは、それほど問題じゃないんじゃない。大事なのはこれから二人で作っていく歴史だと思うんだけどなあ。
よしえ ええ、そうかもしれないわ。でも知りたいのよ。彼の何もかも全部知りたいのよ。彼を、真ちゃんをもっとあたしのものにしたいの。
健二 草岡さんの気持ぜ分るんだ。でもねえ……。
よしえ 言って、お碩い。聞かせて。
健二(じっとよしえ の顔を見て、やがて決心する)うん。じゃぁ話すよ。その前に、っていうよりもう話し出すわけだけど、俺と兄貴の性格は似ていると思う?
よしえ そうね、あまり似てないわ。というより全然別ね。
健二 そうなんだ。一つの同じ過去から出発した俺たちが別の方向に歩いていたんだ、気づいてみたらね。でもニ人は似ているところがあるんだ、分る?
よしえ よく分らない。
健二 あのね、ニ人とも排他的だっていうこと。エゴィストだっていうこと。そりゃエゴイズムがどの位世の中にとって迷惑かは充分に知ってるさ、でもそうならざるを得なかったんだよ。つまり俺達の過去の生活が他の人とは同じような考え方に立てないようにしているんだよ。
 こんな俺たちにはヒユーマニズムなんてくそくらえなんだ。兄さんのように感受性が強く、何事でもよく考える人間は、誰よりも今の社会の矛盾を知っているんだ。そんなこと二十才にもなってからギャアギャア言いだす連中とはわけが違う。そんなことはもう子供の頃から知っていたんだ。
 もちろん、理論とかとしてのそれじやなく、感じではあったけどね。身体いっばいで感じ苦しんできたんだよ。人間のどんづまりの姿ってやつをこの目で見、この耳で聞き、この手で触れてきたんだ。そして所詮人問っていうのは一人ぼっちであり、他人とは決して一つになれないもんだってことを子供の頃に覚っていたんだ。
 俺たちはどうしても他人なんか愛せないんだ。もっとも兄さんは近頃、ヒューマニズムを認めるようになってきているけどね。この小説にもそれが少し出てきているように思う。でもそれはいまの兄さんだからなんだ。そして、それにはやはりそれにたどりつくだけの長い道程があったとは思うんだ。
よしえ  ……。
健二 草岡さんに聞くけど、あなたは、自分の親父さんの顔を知っているでしょ。
よしえ ……ええ……。
健二 そうだよね、どんな貧しい家庭でも、父親が早く亡くなっりした家鹿でも、写真や何かで自分の親父の顔くらい知ってるよ。親父にまつわる思い出があるよね、親父の存在というものを否定するにしろ、肯定するにしろ。ところが俺達にはそんな親父の顔すら知らないんだよ。最初から親父なんぞいなかったんだよ。
よしえ どうして、だって…。
健二 簡単なことだよ、子供が生まれるなんてことは。何も定まった家庭というものが必要じゃないんだ。とにかく男と女がいりゃそれでいいんだから。俺達のおふくろはね、ニ号さん、妾だっ たのよ、早くいっ ちまえば。戦争中 だよ、俺が生れたのは、他の男達が戦地 に出て命がけで戦 っている最中にね。ま、こんなのはよくある話だけど、そ れが自分のことと なりや全く別の話だよ。
 俺が生まれてすぐ戦争がひどくなってきた。それで俺たち母子はおふくろの田舎に疎開したんだ。やがて東京は空襲にやられ、それまで戦地には行かずうまく立回っていたはずの親父は空襲の時死んでしまった。もっとも家はそのまま残ったらしいけどね。
 それで俺たちはそのまま、田舎にいついてしまつた。勿論、親父の家では俺たちにかまってなんかくれやしない。かえって厄介ばらいしたってんでせいせいしていたんだろ。いま、もし親父が生きていたらなんて思うことがある。そしたらあるいはもっと違った生き方をしていたんだろうけど、そんなこと言ってみても始まりゃしないさ。それで、俺たちの田舎での生活が始まったわけ。近い親戚のない田舎での生活がね。
よしえ  ………。
健二 田舎で、俺達はよそものだったし、誰も相手にしちゃくれない。みんな俺達を自い目で見るか、石を技げるかだ。ね、あなたは学校にはだしで通ったことある?小学校のPTA会費ね、それも特別安くしてもらっているやつを何ケ月もためたことがある?また冬のさ中、それも東北の冬だよ、あんかもこたつもない、ましてゆたんぽすらないせんべいぶとんの中で、母子三人が身体で暖め合って過したなんて想像すら出来ないでしょう。
 あなたは少くても日に二度は食事をとっていたと思う。だけど俺たちは一日何も食えない日があったんだよ。それで夜中に兄貴と俺はよその畑へ行って果物をとってきたり、いもを掘ってきたりするんだ。善いとか悪いとかそんなもんじャない、とにかく腹が減って、腹が減ってね。何回か、それが見つかってねえ。大人たちから死ぬほどぶんなぐられたことがあるよ。おふくろは勿論、誰にも相手にされない。一度なんか俺と兄貴の前でおふくろが大人からなぐられたことさえあったよ。
 俺と兄貴は、他の子供達が俺達に見せびらかして食う菓子が食いたくてねえ、おふくろのいない時、おふくろがかくしておいたサイフをあけた時があるよ。金を盗ろうと思ってね。それを見て俺連は、子供の俺達だよ、絶望的な思いになったね。それでもひっこみのつかない俺達はその中から金をとって、二人で菓子を買いに行ったよ。美味いなんてもんじゃない。二人でこっそりかくれて食った。
 やがておふくろにばれる。俺達をなぐる元気もない。ただ泣くだけだった……。
よしえ ………。
健ニ そんなことは終戦直後の物のなかった頃では、よくあることだったろう。でも俺達の場合はいつまでも続くんだよ、それが、いつまでもね。吹雪の強い日、俺はおふくろの赤いはなおの高げたをはき兄貴がぞうりをはいて、ひとつのマントに入って学校へ行くような日がね。先生が見かねて俺達に長ぐつを買ってくれた。
 そしたら他の子供達が、俺達が先生から特別あつかいされているって、石を投げられるやら、けんかをうられるやらしてね、生傷がたえなかった。俺達はこっそり田んばの中のあぜ道をかくれるように歩いたりしたもんだ。帰ってからも家から外へ出られない。俺連があまり身体が強くないのや、スポーツをやらないのはあの頃、外で遊ぺなかったからだと思うよ。始業前や昼休み、校庭のかたすみに学年の違う俺と兄貴はすわって、他の子供かが遊びまわるのを見ていたよ、黙ったまんまね。
 それから、俺達の生活が割合に、といってもまあ食事の心配をしなくても良くなった時がやってきた。おふくろはそのために俺と兄貴の愛と信頼を、憎悪と不信とに変えるという代償をはらってね。兄貴が中学に入り、俺が小学校五年になった時だった。
よしえ  もういいわ、やめて……。
健二 (かまわず続ける)俺達はそれまで少なくてもおふくろを愛していた。でもおふくろは女だっ たんだな。いや、それ までの息苦しい生活に自暴自棄になって、とにかく逃げ出したかったのかもしれない、俺と兄貴のためにという大義名分をひっさげてね。俺たちのあ ばら 家に知らない男の人が来るようになったんだな。そいつはくだらない奴だったが金は少しはあったらしい。
 その時から俺と兄貴はおふくろを軽ぺつし憎むようになったんだ。考えたなあ。貧乏っていうこと。俺たちに「おじちゃん」って呼ぺだってよ。そりゃ「お父ちゃん」じゃないんだから「おじちゃん」だろうけれど、冗談じやないよ。とうとう呼ばなかった。
 家でよく一緒に食事をしたよ。そんな時は、俺達がそれまで食ぺたことがないようなものが出たけど、味なんか全然分らない。始終うつむいて黙々とはしを動かしていたね。やがて夜、一間きりの部屋だ、隅っこのひとつのふとんの中に、かけぶとんを頭からすっぽりかぶって、声を殺してていた兄貴と俺、その時の気持なんておそらく分ってはもらえないでしょうね。
 ある時は、なにがしかの金をもらって遊びに行ってこいなんて家を出される時があった。夜中にだよ。店なんかあいてやしない。それでも夏はまだよかった。川原の土手や田んぼのあぜに寝転んでていることもできたから。でも冬、吹雪の夜、俺達はどこへ行きゃよかったんだよ。兄貴と俺はよその家のわら小屋に忍び込み、見つけ出される恐れと寒さのためがたがたふるえていたよ。
 それでも、勉強だけはと頑張った俺達はなんとか高校へ 行 かせてもらえたよ。そんなおふくろの犠牲とやらのためにね。そして、兄貴が東京に行き、俺が高校を出て、東京に来てまもなくおふくろは死んでしまった。世間ていは肺災かなんぞになっているが、自殺だよ。葬式はみじめだった。兄貴と俺は泣くでない、終始、黙っていたなあ……。
よしえ  ……。
健二 こんな過去を持つ俺達だ。こんな俺達は土台、人のやれることがやれないのは分りきったことなんだよ。自分の母親でさえ愛せず許せない俺達、他人なんか愛せやしないじゃないか。
 それでも俺達はぐれたりはしなかった。ぐれることですら甘ったらしいことだったんだ、俺達にとっては。また社会がどうしたのこうしたの、あんなのも子供じみてるし、甘ったれていることだ。
 俺達は一匹狼なんだ。とにかく自分で自分の仕末をしなけりゃならないんだ。でも、最近兄貴は変った。兄貴は始めてといっていい、人の愛を味わっている。あなたのおかげでね。俺はそれを壊してやろうとは思わないけど、そんな逃避が我慢できないんだよ。兄貴は前はもっと精悍だった。今みたいに愛だ、恋だなんてでれでれしちゃいなかった。反抗的だった。怒りに燃えていた。
 でも分らないんだ。こんな俺達の怒りを誰にぶつけていいのか。

 間。

健二 ね、草岡さん。これが俺達、兄弟の過去なんだ。あなたが知りたがっていた、あなたが、よりあなたのものにしたいと願っていた森村真一のね。
よしえ あたし…、ああ、あたしには分らない、どうしたらよいか、ああ……。
健二 そんなことはあなた自身で決めるぺきだ。もうここまで言った以上、あなたに対して俺は何の釈明もしない。これからのあなたが行く道を自分で考え選ばなきゃならないんだ。
よしえ 健ちゃん、どうしてあなたしやぺってしまったの。あたし、あたし、あ
あ、あたし……。

 健二、じっとよしえを見つめている 。しばらくの間。

よしえ (ぽつんと)帰るわ。

 よしえ逃げるるように部屋を出て行 く。
 残された健二、中央に立つ。

健二 俺だって何も、好きこのんで、今まで生きてきたわけじゃないんだ。俺だって、俺だって出来ることなら人を愛したい、ちっぽけでもいい、満足できる幸せが欲しい。

 健二、立ちつくす。
 少しの間。

真一、あわてて部屋に入って来る。
真一 (強く)あ、健二、一体どうしたんだ。何があったんだ。あいつにそこで会った、いま。どうして俺をさけるように走っていったんだ。え。おい、健二。
健二 (ぶっきら棒に)俺、話しちまったよ。(真一をじっと見て)俺達のむかし
をね。
真一 (飛びかかろうとする)なにぃ、お前……。(急にしおれ)お前、どうして……。
真一、頭をかかえてしゃがみ込む。健二、じっと見つめている。

 しばらくの間。

健二 立て、立つんだ、兄さん。女がなんだ、愛が何だ。ちっぽけな幸せが一体なんだというんだ。そんなもの俺達には所詮無縁のものなんだ。
真一 健二、お前は、お前は…。
健二 立つんだ、兄さん。
真一 お前には、お前には分っていないんだ。俺が今の生活にどれだけ幸せを感じていたか。どれだけ満足していたか。俺がどれだけあの娘を必要としていたか。それがどうして悪いんだ。どうしてそれを壊す必要があるんだ。
健二 ……。
真一 俺はな、確かにからの中の幸せしか味わえない男かもしれない。一生、表面に出られることがないかもしれない。このままでいけばな。しかし俺は満足していた。そりゃ確かに浅い満足かもしれない。だが俺は正直、そんな満足にひたり切れる俺がうれしかったんだ。一匹狼、そりゃ結構だ。だがお前のように力んでみたところで、どうしようもないことなんだ。一体何ができるというのだ。

 二人顔を合せたまま立ちつくす。
 次第に興奮が消えていく。

健二 (ぽつんと)兄さん。悪かった。
真一 いいんだ、もう。
健二 でも、はつきり草岡さんが離れたわけじゃないんだし、ね、兄さん。
真一 (寂しく笑う)……。
健二 もし、これで離れていくような人だったら、彼女は所詮たいしたことがなかったんだ、きつぱり諦めるぺきだよ。正直、俺は兄さんが結婚するのは反対じゃない。むしろそうしてもらいたいんだ。でも、兄さんには兄さんに適した相手が必要なんだ。しっかりこれから兄さんを助け、励まし、理解してくれる人がね。だから俺ね、どんなに話してっていわれても、話さないこともできた。でもいけないこと、やってはならないことだとは思ったけど、草岡さんを試してみようと決心したんだ。
 その結果、こんなことは俺が言っちゃいけないことだけど、どうなるか知らない、とにかく俺はあの人がどんな人なのか知りたかった。表面のきれいごとだけじゃなくあの人の本心をね。
 だって俺にとって草岡さんは、いつか出会うかもしれない俺の相手を代表するような女性なんだと思ってしまった。それに、兄さんの結婚は、俺にとっても初めての家族、姉さんをつくることなんだからね。
真一 ……。
健二 それにさ、兄さん。兄さんには遇去に対して責任はないんだし。むしろあんな過去から、こんな兄さんになれたってことは、兄さんだったからこそなんだと思う。立派だよ、えらいよ。少しも過去のことを表面に出さず、いつも明るいもの。草岡さんはそんな兄さんを愛しているんだと思う。きっと兄さんから離れていったりはしないよ。
真一 でも、俺はそんなに立派でもないし、えらくもない。ただ、いままで精いっぱい生きてきたんだ。いいよあの娘のことは……、でもな……。
健二 え?
真一 あの娘が俺から離れていったら、俺は、これからもうずうっと、恋なんかできないだろうと思うよ。俺から好きだなんて言えやしない。もしも、俺を好いてくれる人がいて、俺もまた好きだったら話は別だけどね。でもこんな俺だ、よっぽどの人でなきゃ好きになってはくれないだろうよ。
健二 兄さん。
真一 健二、俺ね、今日どこへ行ってきたか分るかい?
健二 いや。
真一 俺もね、見てきたんだよ、親父が残した家族たちをね。正直いって腹がたったなあ。あの何十分の一でもいい。おふくろに回してくれたらってね、俺たちだって、もつと素直な人生が送れたろうってね。でもいいんだ。
健二 兄さん。
真一 お前、おふくろのことまだ許していないのか?
 許してやれよ、もういいかげん。おふくろだって犠牲者だったんだ。可愛そうな何もできない、それでいてお前や俺を育てなけりゃならない一人の女だったんだよ。
 俺はね、あの頃は確かにおふくろを憎んでいた、貧乏でもいいからとにかく平和な家庭であってほしかったよ。でも貧乏というもの、それからくる屈辱にたえることっていうのは大変なことなんだよ。ましてや能力のある人間にとってはね。
 おふくろはかわいそうだった。あんな死に方をしなければならなかったなんてね。人間なんて、男と女なんてどうしようもない程のもんなんだなあ。いやそれが人問なのかもしれないな。それでいて、みんなそれぞれ生きていくんじゃないかなあ。
健二 兄さん、俺……。
真一 な、いいかげん許してやれよ、な。

 健二、うなだれる。

〈暗〉

   3

 そして、一週間過ぎた。
 晴れた休日の午前、同じく真一の部屋。
 真一とよしえが向い合って坐っている。

よしえ あたしは何も、真ちャんが嫌いになったわけじないの。今だってずっと愛しているわ。でもね、あたしは決心がつかないのよ。今までのような生活を続けいくことが。
真一 それで一ケ月位会わないでいようってわけだね。
よしえ ええ。
真一 要するに嫌いになったってことだろ。いいよ、何も一ケ月なんて言わなくても、これから先ずうっとでもね。
よしえ 真ちゃん、何てこというの。あたし、そんな女に見えて。馬鹿馬鹿!真ちゃんの馬鹿。(真一にむしやぶりつく)

 真一じっとそのままにさせておく。
 しばらくよしえは真一の胞の中で泣きじゃくり続ける。

よしえ あたしね、この間、健ちゃんからあんなことを聞いて、それはショックだったわ。あの夜は眠れなかった、とうとう。次の朝、どうしてもお勤めに行く気がしなくて休んでしまったわ。そしてね、一日中お部屋に閉じ込って考え続けたの。
 でもやがてあたしはっと気づいたわ。真ちゃんには何の責任もないんだってことに。そりゃ確かに真ちゃんの過去はあたしが想像できない程に暗くみじめなものだったと思うの。でもそれは真ちゃんが好んで選んだことでも、真ちゃんのお母さんだってやりたくてやったことじゃないんですものね。あたしが好きな真ちゃんは今のままの真ちャんで、別に過去の真ちゃんでもなんでもないんだって考えるようになったの。
 過去にどんなことがあったにしろ、そんなものは無関係なんだってね。そしたら急におかしくなって、それまで喉を通らなかりたごはんも急に食べられるようになったわ。でもね、その夜、確かにそれはそうなんだけど、急に真ちゃんて人が何かこうあたしなんかには手のとどかない人のように思えてきたの。だってあんな過去がありながら真ちゃんは今まで少しもそんなことおくびにも出さなかりたし、いつも明るく頼もしかったわ。
 それだけにかえって、そうかえって何だか、真ちゃんて人が大きなものに見えてきたの。あたしが今まで理解し手の中につかんだと思っていた真ちやんが急にあたしの指の間をすり抜けて高い所へ飛んでいってしまったの。すると今まであたしがしっかり握っていたと思っていた真ちゃんて一体何だったのだらう。それは本当の真ちゃんじゃなかったのではないだろうかって思ったら、そしたら急にこわくなってきたわ。
 真ちゃんのことあたしは愛していた。でも今まで愛していた真ちゃんは本当の真ちゃんではなく、別な真ちゃんのような気がして来たの。あたし分らなくなってきたわ。あたしの指の問をすり抜けていってしまつた真ちやん、あたしには手がとどきそうもない高い所にいる真ちゃんをこれからも愛していけるかどうか分らないのよ。あたし、だから考えたいの。もっと、もっと自分の心にきいてみたかったの。だから、一ケ月なんて言ったんだわ。
真一 分ったよ。俺が悪かったな。でも俺はよっちんが思っている程高い所になんかいないよ。
よしえ ええ、そうかもしれないわ。だからそのことも考えてみたいの。
真一 で、一ケ月たってどうしても俺のことを愛せなかったら、別れるっていうの?
よしえ しかたがないわ。どんなに好きでも人にはそれ相応の相手がいると思うのよ。
真一 それが、そうできるの?
よしえ (はつとして)真ちゃん、あなたは一体どうなの。あなたは……。
 あなたはどうしてもっとあたしを強くだきしめておこうとしないの、好きだったら。今度だってそうだわ、健ちャんからあんなこと聞いて一週簡もの間、どうしてあたしに電話をくれるなり、家に会いに来てくれるなりしてくれなかったの。その間、あたしは考え迷いながらどれ程あなたが来るのを侍っていたか、あなたには分らないの。一ケ月会わないってことだってそう よ、あたし、本当はね、ここに来るまでそのことを言おうか言うまいか迷っていたの。で、あたしは、あなたの出かたを見て言おうと決心したんだわ。
 でも、とうとうあなたはあたしに言わせてしまったわね 。 いえ言った後でも、もし真ちゃんが 本当にあたしを好きなら思いきりてなぐってくれてもよかったのよ、そして思いきりだぎしめて離さないって言ってもらいたかった。
真一 (苦しそうに)出来ないんだよ、俺にはそんなことが…。
よしえ どうしてなの、ね真ちゃん。あなたもっと自信を持ってもいいんじやない。あなたとあたしは他人じゃないのよ。あなたは自信を持ってあたしに対してもいいはずよ。あ たし、そんな強さと自信をあなたに持ってもらいたいのよ。
真一 俺、こんなことよっちんに言わせてしまってもう駄目だね、おしまいだね。
よしえ 真ちゃん……。

 ニ人黙り込む。やがてよしえすすり泣き始める。
 しばらくの間。
 ドアの外で管理人 森村さん、森村さん、電話ですよ、病院から。

真一 はい……病院?どうしたんだろ一体?
よしえ もしかしたら、健ちやん……。
真一 馬鹿な、とにかく行ってみる。

 真一出て行く。後によしえ残される 。おちつかないよしえ。
 数分後真一が入って来る。取りみだしている様子。

よしえ どうしたの真ちゃん。
真一 健二のやつ……(坐り込んでしまう)
よしえ 真ちゃん、ね、健ちゃんがどうしたの?何か……。
真一 車にはねられて病院に……。
よしえ で、けがは?
真一 うん、大したことはないらしい、なんでも足を折っただけで済んだらしい。
よしえ まあ!
真一 こんなことがいつかは来ると思っていたんだ。あの野郎め、大丈夫だ心配かけないなんていっておきながら、これだ。無茶だったんだ、土台な。

 真一頭をかかえ込む。

よしえ 真ちゃん!とにかく病院ヘ!
真一 いいんだ!放っでおけ!
よしえ まあ、真ちゃん!(坐り込む)
真一 あいつ、自分でやるなんて言っておきながら、あいつ、ちきしょう健二のやつ。
よしえ ……。
真一 馬鹿だよ、あいつは、健ニ、お前は馬鹿だよ、
よしえ あたし行ってみる!病院に行ってみる!健ちやんのところへ。
真一 よしてくれ!同情なんぞまっぴらだ。俺には我慢ができないんだよ。一段高い所に上って哀れみの手をさし出す。自分はそのままの少しも傷ついていないくせに、さも悲しいような顔つきでね。甘ったるい、少女趣味のセンチメンタルなんかまっぴらだよ。分ってたまるもんか、他人なんかに。関係ないんだ、よっちんには。
よしえ 真ちゃん!どうしてそんな……。あなたには分らない の、ねえ真ちゃん。関係ないなんて、ああ、真ちゃん……。

 よしえ、すすり泣き出す。
 真一、ちょっと彼女をみるが、すぐ目をそらし黙って考え込む。

 急激に暗くなって真一のみが光の輪の中に浮き出される。

 真一の回想。

 激しい吹雪の音。舞台の真一は黙ったまま。
 第一の回想は少年の頃。

 声のみ。

健二 兄ちゃん、寒い。
真一 がまんしな。またあのわら小屋に行こう。それまでな。
健二 いやだ兄ちゃん。また見つかってなぐられる。
真一 だってしょうがないだろ。他に行くところがないもの。この前はお前が泣き出したから見つかったんだぞ。黙って静かにしていれば見つからないよ。
健二 いやだよ、ねえ兄ちゃん。もう帰ろうよ。ねえ、お腹へったよぉ。
真一 きっとまだいるぜ、あいつ。それでもいいのか?
健二 ……。
真一 それみろ、だったらしょうがないじゃないか。もうじき帰るさ、あいつ。
健二 もうみんな寝てるね。
真一 ああ、もうじき十一時だろ、寝てるよ、こたつかあんかに入ってな。
健二 兄ちゃんあいつ憎くらしいね。
真一 まあな。
健二 あいつの子供、友行っていう奴ね、俺のこといじめるんだ。昨日なんか雪の中にうずめられたよ、兄ちやん。
真一 我慢するんだ、我慢な。苦しくても、悲しくてもじっと我慢するんだ、今は。

 吹雪の音消えて、第二の回想に移る。
 健二から真一にあてられた手紙である。

健二 兄さん、ごぶさたしました。相変らず、お元気のことと思います。僕もまあなんとか病気にもならないで元気です。あと半年で卒業です。今はもうそれだけが唯一の希望になっています。兄さんのいる東京での新しい生活、その日が一日でも早く来るのを毎日侍ち望んでいます。
 母さんは相変らずで家は全く静かです。僕らはもう生活に必要なぎりぎりの会話しか交しません。こんな親子はよその人から見たらずい分おかしいことでしょうが、僕にはもうすっかり身につきかえって今の状態が自然なんだとさえ思っています。兄さんがいつか親子さえ他人だって言いましたね。今の僕も本当にそう思います。親子なんだなどと思っていた時には言えなかったことも、今はかえって何気なく言えます。これは悲しむぺきことなのでしょうか。僕には分りません。
 兄さん、僕は時々母さんが泣いているのを見ます。でももう僕にはどうすることも出来ません。かえってそんな母さんを忘れたくなります。一刻も早く東京へ、いや東京というより兄さんの傍へ行きたい思いです。僕が少しの警戒もなく裸のままでいられるのはもう兄さんの前しかありません。兄さん、また兄弟だって他人さなんて言わないで下さい。そんなことを兄さんから言われる恐しく、不安になってしまうのです。僕にとって兄さんは、他の誰よりも頼りになり、安心していられる人なのです。どうかいつまでも僕を見拾てないで下さい。
 では兄さんもお手紙下さい。さよなら。

 舞台は明るくなる。

真一、やがて決心したように立ち上る。その顔は明るい。

真一 俺、病院に行く。(よしえ の肩に手をおき)来てくれるね、一緒に。
よしえ (喜びの微笑の中で)真ちゃん!

 二人、急いで部屋を出ていく。

〈溶暗〉
  時問の経過を表わす音楽。
〈溶明〉

 その夜。
 真一とよしえ、部屋に入って来る。ニ人はすっかり明るい。

真一 健二のやつぶざまなかっこうしていやがったね、あいつめ。(笑う)
よしえ 笑いごとじゃないわよ。
真一 でも良かったな、大したことがなくて。どんなけがかと心配したよ。
よしえ 本当ね。
真一 健二のやつ、兄さんすまん、あやまっていたな。もっと病人らしくうんうんうなってりゃいいのにな。もっとも足一本折れただけだものな。その位でへこたれるような奴じゃないよ、奴は。
よしえ 大丈夫なの、真ちゃん。
真一 何が?
よしえ だって、ようし俺にまかせろ、お前は心配したり変なこと考えたりしないで早く足を直して新聞配達やれ、なんて。
真一 ああ、こうなったらな、めんどうみてやるよ。二人きりだものな。
よしえ あたしは?
真一 ここにもいたか、もう一人。ようし三人だ。たのむよ、なよっちんも。
よしえ もちよ。まかしといて。
真一 でもちょっと困ったな。
よしえ 何が?
真一 うん、あれ、明らかに健二の奴が、悪いわけだろ、信号が赤だったんだから。賠償金なんてほとんど取れないんだろ。奴の入院費とか、何とか、かかるだろ。
よしえ そんなの、あたし達の貯金を使えばいいわ。
真一 だってあれは……。そうか、ありがとうよっちん、恩に着るよ。
よしえ 何を言うの、あたしはあなたの何なの?
真一 何だっけ?
よしえ 知らない!真の馬鹿。
真一 でもよっちんは俺から離れていくんじやなかった?
よしえ 考え直したわ。だってあたしがいなけりゃ真ちゃんやっていけそうもないものね。ずうっといてあげるわ。
真一 何をこいつ、おしかけ女房か、うんそれも悪くないな。でもどうするんだい俺達の結婚式は。
よしえ あきらめたわ。いいわよ。あんな形式だけの結婚式なんか。式なんてよりも、結局二人の問題よ、ねえ真ちゃん。
真一 悪いなあ。夢をうばっちやって。
よしえ いいのよ、そんなこと。それよりあたし今晩泊っていこうかな?
真一 (あわてて)おい、よせよ。馬鹿だなあ、よっちんは。
よしえ だって……。
真一 いいかち、俺がちゃんと家まで送っていってやるよ。
 そうだ、よっちん、じゃ健二が退院して全決したらその時、俺達結婚しよう。大げさな式なんてやれないだろうけど 、友達とささやかでもいいからやろうじゃないか。いいかい?
よしえ 真ちゃん!いいわ。
真一 ようし決った。
よしえ でもあたしを食ぺさせて行ける?
真一 何を言うか、働くんだそ、よっちんもな。二人で一緒に働くんだ。せっせとね。
よしえ ヘヘえ、しかたがない。そうするわ。でも真ちゃん。あたしだけに食事の用意やお洗濯、それにお掃除をさせないでね。
真一 ああいいとも。奥さんを大事に大事にしてやるよ。
よしえ きっとよ。
真一 まかしておけ。
よしえ 真ちやん、あたし真ちゃん大好き!
真一 俺もよっちん大好きだ。さあ、これから俺達の出発だ!

 ニ人近づいて激しく抱擁する。

   〈幕〉







2008/10/16 21:17:48|フィクション
愛の行方に われらの出発/その1
昭和39年(1964) 23歳作品

戯曲
われらの出発


と き  1960年代後半
ところ  安アパートの一室
ひ と  森村真一
     森村健二
     草岡よしえ
     管理人〈声のみ〉


  1

 真一のアパート。夜七時項。
 夕食が済んで、部屋のかたわらの狭い台所でよしえが食器を洗っている。
 部屋の中央には食事に使われたテーブルが置いてあり、そこに真一がぼんやり肘をついてよしえを見ている。

真一 よっちん、もういい。後は俺がする。こっちに来いよ。
よしえ うん、あともう少し。
真一 本当に後でちゃんと洗っておくから、こっちに来いよ。いいかげん、もう。
よしえ また。真ちゃんの言うこと信用出来ないわ。昨日だってそうじゃない、後でするなんていってて、全然、洗ってなかったじやない、来てみたら。
真一 へへへ……。だから、今日は本当にちゃんとやるよ。だからさ、ね、よっちん。
よしえ はいはい。でももうじきだから、そこてタバコでもで も吸って待ってらっしゃい。
真一 うん。

 よしえ、肩をすくめて徴笑。ハミングし出す。食器洗いが続く。

真一 ね、タバコどこだっけ。
よしえ タバコ?さっき吸ってたでしょ。ああ、ほらそこ、机の上に…。
真一 とって。
よしえ 目下勤務中です。ち ょっと手を伸ばせば届くで し ょ。 しようのない真ちゃん。
真一、傍の机の上からタバコを取る。
真一 マッチ。
よしえ いっしょに置いてあるでしょ。
真一 ないよ。ねえ、マッチ。
よしえ ないって……あっそうか。(エプロンのポケットからマッチを取り出す)ほら。(マッチを放る)
真一、タバコを吸い出す。
真一 灰皿ないよ。
よしえ はいはい。(台所から、洗つたばかりの灰血を持って来る)
真一 もう終った?
よしえ もうちょっと。いい子だからおとなしく待ってらっしゃい。
よしえ、軽く真一の額を指で突いてまた台所へ。ハミングを統ける。
真一、タバコの煙を天井に向って大きくはき出す。
しばらくして。
よしえ(エプロンで手をふきながら)さあ、終ったわ。お待ちどうさま。(真一の向いにすわる)
真一 よっちん、コーヒー飲みたい。
よしえ あたしも。真ちゃんいれてよ。
真一 俺がか。
よしえ あたり前よ。自分のコーヒーじやない。あたしはまだ真ちゃんの奥さんじゃないんですからね。お客さまにはサービスするもんだわ。
真一 めんどうだな。よそうか、コーヒー飲むの。
よしえ 何いってるの。自分で飲みたいって言つたくせに。さ、さ、文句をつべこべ言わないで、早く、お湯は沸いてるわ。
真一 あんなこと言うんじゃなかったな。
真一立上って台所へ。よしえ、微笑しながら見ている。
真一(台所で)ね、よっちん。俺たちの貯金どの位たまった?
よしえ ええとね、十万円とちょっとくらいかな。どうして?
真一 三十万円もかかるかな、本当に。
よしえ そりゃ必要だ わ。それでも少い位よ。式を挙げ た り、 いろいろなもの買ったり、それに旅行だって行きたいし。
真一 結婚式、本当にやる気か。俺はいやだよ。あんなの意味ないよ。
よしえ また。式くらいちゃんとやりましょうよ。そこで誓うのよ。森村真一は草岡よしえの夫として、妻を充分に愛し、尊敬し、本当に尊敬するのよ。今みたいにことあるごとにお前は馬鹿だ、馬鹿だ、なんて言っちゃだめよ。ええと、それから、生涯の良き伴侶となることを誓いますか?
真一 あ?
よしえ 森村真一、誓いますか?
真一 (コーヒーを持って来る)いやだよ。
よしえ あら、いやだ。いやよ、誓ってよ。でなきや、あたし真ちゃんの奥さんになってあげないから。それでもいいの。
真一 本当に尊敬するのかい。俺がこのよっちんを。冗談じゃないよ。
よしえ まあ、失礼ね、いじわる。
真一 でもさ、俺、本当に結婚式なんて嫌いなんだよ。もう何度も言ったろ。
よしえ ええ、ええ、何回も何回も聞きました。結婚式なんて偽善だ。神だの、仏だの信じてもいないものの前で、しかつめらしい顔をして将来を誓い合う。あんなものは内容のない、ただの形式だけだ。古い大人どもを満足させてやるだけだ。そんなものをありがたがって厳粛ぶってやる奴の気がしれない。いいか、よっちん。俺たちには神も仏もない。あるのは自分たちだけだ。また、結婚するのは古い大人たちじゃなくて俺たちなんだ。その俺たちの結婚式が、ただ形式だけの内容の ないものだったら 、やったって意味がない。分ったな、よっちん。だから、偽善に満ちた結婚式なんて止めよう。もう暗記してるわ。
真一 だったら何も、いまさら結婚式を拳げようなんて言わなけりゃいい。
よしえ でもね真ちゃん。一生に一度のことだもの、たとえ形式だけに過ぎないとしても、ちやんとした式を挙げたいの。女ってね、子供の頃から結 婚式にあこがれているのよ。勿論、相手の人や結婚の意味なんて考えないでね。お振袖に高島田、純白のイブニングドレス。理屈じゃないんだわ。夢なのよ。そんな夢を見ながら成長し、やがて恋をするの。結婚て何のことか分らなかった頃から、段々分って来る頃まで、その夢はずうつと続くのよ。素晴しい、美しいものとしてね。あたし、真ちゃんがどんなこと言つても、式だけはちゃんと挙げたいわ。ね、式だけは正式に挙げさせて。
真一 だったら、こんなのどうだ。俺達二人と友達五、六人連れてお寺へ行くんだょ。本堂の仏像の前に坐るんだ。俺とよっちんは前に坐り、友達は後だ。みんな珠数もってね 。やがて坊主さん が出 て来て、俺達の前の仏像の前に坐る。そして木魚をポクポクやりながら、お教を読むんだ。なんまいだ、なんまいだ。俺たちも友達も、みんなでなんまいだ、なんまいだ。これで終り、どうだこんな結婚式は。仏前結婚式ってやつだよ。正式だよ、これは。
よしえ いやよ、そんなの。いじわるねえ。ああ、あたし真ちゃんなんて好きになるんじゃなかった。たくさんいたんだから、あたしを好きで、好きでたまらないって人がね。
真一 嘘つけ。誰もいなかったじゃないか。
よしえ あら、いたわよ。
真一 本当か?
よしえ 本当よ。三人ばかりいたわ。
真一 おいよっちん、誰だそいつは。
よしえ あら、嫉妬してるの。へえ、真ちゃんが。へえ、真ちゃんらしくもない。何よ、いつもは、嫉妬なんてものは、低俗な感情で、現代青年のやることじゃない、なんていってながら。ヘえだ。
真一 ね、本当にいたの、そんな人。これ嫉妬じゃないよ。たださ、参考までにね。
よしえ いたわ。三人よ。すごいでしょ。
真一 ね、そいつ俺の知ってる奴かい。ね、誰だよ言えよ。こら、よっちん。
よしえ  ヘヘヘ…。う、そ、よ。
真一 馬鹿やろう。
よしえ 安心した?だったら、真ちゃん。ちゃんと結婚式を挙げましょうよ。
真 一 いやだよ。
よしえ 何さ、いじわる真のけちんぼ。婚約したときだってそうじゃない。俺たち婚約しよう、なんて言うから、いいわって言つたら、じや左手だせ。目をつぶれ。あたし真ちゃんにしてはめずらしく準備がいいんだなあ。指輪をはめてくれると思ったの。そしたら、何よ。薬指に、ピンクのリボン巻いて、結んで、はいおわり。がっかりしちゃったわ。あんなの十円もしないじゃないの。
真一 何いってるんだ、あとでちゃんと高いやつ買ってやったじゃないか。
よしえ あらいやだ。買ってやったじゃないか、ですって。二人の貯金をおろして買ったんじゃない。
真一 へヘヘえ。
よしえ 何かへへへえ、よ。でもね、本当は、あたしうれしかったの。真ちゃんがあたしの左手の薬指にリボンをつけてくれたときね、ああ、真ちゃんらしいなあって。
真 一 そうさ、センスあるんだよ、俺。
よしえ またすぐつけ あがる。とにかくね、式はちゃん と 挙げるわよ。いいわね。命令だから。絶体服従よ。
真一 じゃさ、こんなのどうだ。
よしえ また変なの言うんでしょ。いやよ。
真一 まあいいから間けよ。こいつはまたね、ロマンチックなんだ。やっぱりさ友達を連れて行くんだよ。ま、大人もいたっていいな。
よしえ 今度はどこよ。
真一 湖。白樺と原生林の間にある湖だよ。夜、空にはたくさんの星が輝いている。林の中を通って吹いて来た風が、俺たちの頬をなで、やがて湖に小さな波を作る。あたりは全く静かなんだ。俺たちは、湖のほとりに大きな火を燃すんだ。火をかこんで俺たちは坐るんだ。よっちんは俺の丁度向いだ。友達もめいめい坐る。やがて明るく楽しげにコーラスが起る。みんなの歌は林の木立の中へ、湖の水面へ、高く澄んだ空へ流れていく。火は燃える。燃える炎の問に俺とよっちんは目と目とを見つめ合う。君の瞳には燃えさかる炎が写っている。きっと俺の瞳にもね。やがて、めいめいがたいまつを持つんだ。俺とよっちんが持っている自分のたいまつに、真中のファィヤーから火をうつす。
そして俺はその火を隣りの友達のたいまつにうつしてやる。その友達は次の人に、やがてみんなのたいまつに火が点ると、ファィヤーを消すんだ。みんなの顔が火に揮いている。やがて、俺たちは湖の岸辺につけておいたボートに乗るんだ。よっちんは君の最も親しい友人とともに、俺も友人とボートに。みんなの乗ったボートは湖の中央に進んでいく。コーラスをしながらね。やがて中央に来ると、コーラスはハミングに変わる。俺の乗ってるボートをよっちんの乗ってるボートに寄せつける。そしてよっちんが俺のボートに移り、俺のボートの友人はよっちんが乗ってたボートに移るとハミングはコーラスに変わる。
俺たちを囲んでいるボートの上の火が湖の水面にうつっ ている。やがて俺はよっちんを乗せて、反対側の岸に向ってこぎ出すんだ。友人達はそのままで歌い続ける。やがて俺たちのボートは 段々と遠のいていく。そして岸につき、二人で湖の方をながめる。水面にうつるたいまつの火、空の星、コーラスは次第に低くなり、消えていく。それから俺とよっちんの二人だけの旅行。二人だけの出発なんだ。どうだい、こんな結婚式は?
よしえ いいわ。ロマンチックね、本当に。でも夏ね、どんな洋服でしょうね、着物じゃおかしいもの、着ればいいのかしら。それに、そんな湖あるかしら。
真一 さあね。あるだろ、さがせば。
よしえ 素敵でしょうね。まるで童話の王子様とお姫様みたい。

 よしえ、いつの間にか真一の傍にいる。
 頭を真一の肩によりかけ、遠くを見ている様子。
 真一は時折、よしえの顔をのぞき込む。二人しばらく無言。
 突然、目覚し時計のベルがなる。

よしえ あっいけない。もう時間よ。帰らなけりゃ。
真一 早いなあ。もうそんな時間か。もう少し、いろよ。送っていってやるから。
よしえ ううん、帰る。明日もまた来るわ。
真一 本当に帰るの?よっちん。いいだろ、今日は泊まっていけよ。な、よっちん。
よしえ だって…。
真一 一緒に住もうよ。な、よっちん。そしたら、俺がめしたいてやるよ。
よしえ 出来っこないわよ、あなたには。
真一 出来るさ、前はちゃんと一人でやっていたんだから、うまいもんだよ。だからさ、ねえ、よっちん。
よしえ 馬鹿ねえ、真の甘えん坊。今日は帰して、ね、いい子だから。
真一 いやだよ。帰さない。よしえのけちんば。
よしえ やだあ、けちんぼだって。…その内ね。
真一 その内っていつ?
よしえ そうね、その内よ、だから、ね。
真一 その内か、きっとだよ。じゃ、今日は送っていく。

 ニ人、抱擁しようとする。
 ドアがノックされる。

よしえ(少し身体を雑して)誰か来たわ。
真一(よしえに近づいて)隣りだよ。

 再びノック。今度は強く。

よしえ やっぱりここよ。
真一(大きく)誰?
健ニ(ドアの外で)兄さん、俺だよ。
よしえ 健ちゃんね。
真 一 しょうがないなあ。こんな時、来やがって。なあ、よっちん。
よしえ 馬鹿ねえ。さあ、入れてあげなさいよ。
真一、ドアをあけてやる。
よしえ こんばんわ。

 中に入った健ニ、よしえを見て立ち止る。

健ニ 兄さん、俺また来る。(帰りかける)
よしえ いいわよ、健ちゃん。あたしいま帰るところだったの。さあ、いらっしゃいよ。
健ニ(よしえに)すみません。こんばんわ。
よしえ すみませんってことないわよ。兄さんの所ですもの。
真一 どうしたんだ健二、こんな時間に。何かあったのか。
健二 うん、ちょっと相談があって…。
よしえ あたし帰るわ。
真一 おい、待てよ。送っていくよ。
よしえ いいわ、道は明るいから。駅まで行って車で帰るわ。
真一 そう。
健ニ 兄さん送っていけよ。俺はここで待っているから。
よしえ 本当にいいわ。じゃおやすみなさい。またね。健ちやん、さよなら。
真一 悪いな、じゃまたな。

 よしえ出て行く。真一と鍵二しばらくドアの方を向いて立っている。

真一 ま、立つてないで坐ろうや。どうしたんだ。一体?
健二 (すわる)うん。
真一 コーヒーでも飲むか?
真一、テープルの上のカップを取り、台所へ行く。
健二 兄さん。
真一 あ。
健二 兄さん、あの人と結婚するつもり?
真一 (カップを洗いながら)ああ。
健二 やめなよ、結婚なんて。
真一 (振り返って)何だって。
健二 俺たち兄弟には、まともな結婚なんて出来やしないよ。
真一 どうして?何故だよ?
健二 何故?兄さんこそ何故そんな質問するのよ。俺たちは家庭というものから断絶された人間だ、って教えてくれたのは兄さんじゃなかった?話してないんだろ、彼女には。
真一(苦し気に)ああ。におわせてはあるんたが…。(強く)はっ きり言ったって、気にはしないよ。そんな娘じゃないよ、あいつは。
健二 分らないよ女なんて。理屈はそうでしょ、でもあたし出来ないわ。感情的だからね。きっと兄さんが嫌になつて離れていってしまうと思う。本当のこと聞いたらね。
真一 じゃあ、どうすればいいんだんよ。
健二 だから結婚なんて止めろっていってるんだよ。
真一 婚約しちゃったよ。
健二 いいじゃないか婚約なんかしたって、解消するのに法律杓な手続きが必要なわけじゃない。そんなもの男と女の二人が作った偽りの社会的拘束に過ぎないよ。
真一 なるほど、しかしね健二、法律的な拘束力がないからこそ、婚約というものは意味があるんじゃないかい。するにも、しないにも要するに二人の問題だということにね。相手を信ずること、相手を愛すること、どこまで信じられるか、どこまで愛することが出来るか、それが婚約というもんだろ。
健二 兄さん、いつからそんな安っぽいヒユーマニストになり下ったのよ。俺たちのどこをたたいてもそんなもの出てきやしないはずだよ。
真一 前はそうだったよ。確かにな。でもその頃は息苦しかったな、毎日の生活が緊張の連続だったよ。俺はね、やすらぎ、安息が欲しいんだよ。疲れてしまったんだよ、もう。
健二 逃避さ、そんなもの。兄さんは安息が欲しいって言った。しかし、俺たちにとってそれは安息の幻影に過ぎないよ。
真一 分ったよ、もう。お前今日少し変だな。どうし た んだ、何かあったのか。さっき相談したいって言ってたな。
健二 俺ね、今日会社に退職願いを出して来たんだ。辞めることにしたよ。今月いっぱいで。
真一 辞める?本当か、おい健二。
健二 ああ。
真一 何だ理由は?
健二 理由って……そうだな、嫌になったんだよ。つくづくね。このサラリーマン生活ってやつがね。
真一 いいかげんにしろ!そんな嫌いになったなんてことは理由にならん。そんなことでいちいち辞めていたら、どうなるんだ、これから。もっとよく考えてみろ。
健ニ 考えたんだよ、俺。長い間ね、それでどうしようもなかったんだよ、辞めるよりね。一時の気まぐれやなんかじゃない、分ってくれよ、兄さん。
真一 それだけじゃ分らん。詳しく説明しろ詳しく。
健二 分ってるだろ、兄さんには。
真一 ……。
健二 サラリーマンが嫌いなわけじやない。サラリーマンにもいろいろあるからね。俺ね、どうしても大学に行きたい。たとえ一日や二日くらいめしを食わなくても、とにかく行きたいんだ。
真一 分る、その気持は俺にだってよく分るよ。だが俺はこうしているじやないか。俺だけじゃない、他の同じような連中がどんなにいか。しかし、何も辞めてまで大学に行こうとしなくたって、その気さえあれば夜間にでも行けばいいんだよ。
健二 駄目なんだよ、それじゃ。通用しないんだよ、夜間じゃね。
真一 いいじゃないか、例え通用しなくても大学は大学だ。それだけ劣等感がなくなるってもんだ。
健二 違うんだよ。そりや兄さんの考えはそうだろうけど、俺は違うんだ。
真一 どう違うんだ、俺とお前は。
健二 言ってもいいかい。
真一 ああ、言ってみろ。
健二 兄さん、いま言ったね。兄さんだって同じ気持だって。でも実際は行けやしないんだよ。また夜間が通用しなけりゃそれでもいい、劣等感だけはなくなるっていったね。兄さんていうのはそんな人間なんだ。
真一 つまり俺は消極的だってわけか。
健二 消極的?ちょっと違うな。消極的でも行動は起すわけだよ、一応は。でも兄さんのはまるで何もしないんだよ 。一人で自分のか らの中にとじ込もっちゃっているんだな。バイタリティがないんだよ。全ての希望を捨てきった中で、軽ろうじて小市民的な平和を味わっているだけだよ。しかも、いつくずれるかも知れない幻影のね。
真一 そうかも知れない。でもそれだっていいじゃないか。それで俺自身満足しているなら。
健二 満足?本当に満足できるの。出来っこないよ。俺たちにはあんなみじめな過去があったんだよ。今だつてひとときも忘れることのでき来ない過去が。
真一 いいじゃないか、 人 のことなんて。俺には俺なりの考えがあるんだ。放っといてもらいたいな。
健二 それなんだよ、それが兄さんの生き方なんだ。批判すれば、さっと自分のからの中に入ってしまい、自分に関係がないって顔をしてしまうんだ。みじめだよ、それじゃだめなんだよ。
真一 放っといてくれ。そんな事位、俺自身承知しているんだ。
健二 (冷笑)
真一 俺のことはどうでもいい。どうするんだお前は、これから先。
健二 予備校に行くよ。来年の試験の時までね。
真一 そんなこと聞いてるんじゃない。どこに住んで、どうやって食っていくか、それを聞いているんだ。独身寮、出なきゃならないんだろ。
健二 住み込みで新聞配達することに決めたよ。さっきその話をしてきたんだ。
真一 大丈夫かそんな新聞配達なんて、第一病気でもなったらどうするんだ。
健二 そんなこと考えていたら何も出来やしないよ。分ってるよ。兄さんが心配なのは俺が兄さんの負担になることなんだろ。
真一 ああ、俺はごめんだそ。今の内にはっきり言っておくが、どんなことが起っても、泣きついて来るなよ。
健二 分ってるよ。そんな時はひと思いに死んでやるよ、きっばりとね。
真一 ああ、そうしろ。但しだ、ちゃんと後の葬式のことまで考えておけよ。

 二人黙り込む。
 少しの間。

真一 健二、今夜は泊っていけよ。
健二 うん。

 少しの間。

健二 兄さん。
真一 あ。
健二 俺ね、この間親父の家族に会ってきたよ。もっとも話はしなかったけどね。
真一 よく分ったな。
健二 うん、おふくろに大体聞いていたからね。でもさがしたよ大分。
真一 よせよ、聞きたくないよ。
健ニ 親父が生きていたらなぁ。面白かったと思うよ。兄さん、向うの家族のこと知ってる?
真一 知らないよ。おいよせよ、もう。
健ニ 三人兄妹らしい。いろいろ聞いたよ、近くの店やなんかでね。一番上の奴は親父がやっていた会社に勤めているらしいよ。将来は社長ってわけだろ。
二番目の奴は、大学院だってよ。下の娘はK大学生、仏文科だって。テレビのホームドラマだね、やりきれないなあ、全く。
真一 ……。
健二 おふくろの奴、何で俺たちを産んだんだろうね。兄さんはともかく、俺までさ。怨んだなあ昔は。二人でよく泣いたっけね。でも今はかえって生れて来てよかったと思っているよ。俺はね、兄さん、あいつらのためだけでも大学へ行きたいんだよ。
真一 何かやろうっていうのか、お前。
健ニ 分らない。でもとにかく何かやらなけりゃね。あいつらのためだけではなくて、もっと大き いもののためにね 。でも何をやって いいのか俺にはまだ分っていないんだ。
真一 出来ゃしないよ。この社会の中では。
健ニ 確かにね。でも俺は信じたいんだ。俺にはその何かがやれる才能を持っているってことを。俺にだけじゃなく兄さんにも。
真一 まあな。そうでも信じなきゃ、生きていけないよ。
健二 でも、ね兄さん。俺達の外に会ったことも話を聞いたこともない兄妹がいると思うと、何だか変な気持だね。
真一 ……。
健二 兄さん……。
真一 もう寝ようや、な。明日はまだ、会社に行くんだろ。
健ニ うん……。小説書いてる?
真一 ああ、少しずつな。お前はもう文学を止めたのか。
健二 とっくにね。兄さん。……兄さんはいま幸せそうだね。
真一 まあな。
健二 俺にはいつ来るんだろう、幸せが……。