孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2010/01/16 15:29:15|福生な人たち
20 こころーど
障がい児の第四の居場所をつくりたい
支援が必要な子どもと家族の会  

個性を認め地域の一員として共生

 いま、子どもたちを、かつてのように地域で見守り、社会全体で育てようという機運が高まっています。このまちでも「ふっさ子の広場」や、このコーナーでも紹介した「おじいさん会」や「おやじの会」、「老人クラブ・女性部」などなど、地域の子どもたちを見守り、健全育成を支える行政や民間ボランティアの活動が盛んです。

 支援が必要な子どもと家族の会「こころーど(代表・濱中供子さん)」は、会の活動をサポートしてくれる協力者、支援してくれるボランティアの仲間を求めています。

 いままでこの「広がれボランティア」のコーナーでは、自主的に社会福祉活動などに参加して、いろいろな奉仕活動をしているボランティアグループを紹介してきました。「こころーど」は、そんな人たち、さらに多く人たちの協力を求めている、障がいを持つ子どもと家族が中心のグループです。

 障がいをもって生まれた子や、病気や事故などで障がいをもつようになった子とその家族は、他の人と同じように、元気に、懸命に生活しています。そんな子どもたちを認め、家族を見守って、支援し、遊んでくれるサポーター。一緒の活動を通じて、暮らしやすいまちづくりを考え、共に実践する仲間です。

 これは老若男女、生きている人の数だけあるそれぞれの「個性」をそのまま認めて、共に育ち、社会の一員として共生していく、『元気で、いきいきしたまちづくり活動』のひとつでしょう。いろいろな疾病や障がいを含め、ひとりひとりがどのような「個性・特性」を持っていようと、それを一つの人格として認め尊重して、必要に応じて支え合う、同じ市民であるという認識に立った活動です。

単独課題解決型のグループではなく

 「こころーど」は、ひとつの個性をもつ子どもの家族たちが、互いに支え合い、励まし合い、情報を交換し合うために、平成十七年に結成されました。このような会は、ともすれば、その時々の会員のニーズを満たすためだけに活動を行なうことが多く、そのニーズが満たされたときには消滅することが多いのが実情です。例えば、外国でしかできない臓器移植のための多額の費用をカンパしてもらうといった期間を限った活動などです。

 「こころーど」が求めるサポーターは、障がいをもつ人も、等しく同じ市民として共生できる、市民が住みやすいまちづくりを進める(進めたい)人たちです。
 会の広報で濱中さんたちは書いています。
 「私たちがこの会を始めようと思ったきっかけは、私たち自身が、障がいをもつ子どものことで、悩み・戸惑い・不安・焦りなどを強く感じた時期があったからです。子どもが成長した今、振り返ってみると、困難な時期をいろんな人の助けをお借りしながら、乗り越えてきたのだと気づきます」

 「この会は、もちろん私たちも、今あるニーズを満たすために活動を行なっています。しかし、自分達のことだけではなく、障がいを告知されて戸惑っている保護者の方に、あなた方だけではないのよ、と知ってもらい『障がいという個性』を持った子どもたちが過ごしやすい環境・社会にするためには何が必要なのか、一緒に考え、作っていきたいと思ったからです」

 これがなかったら、当面のニーズが解決したら解消してしまう「単独課題解決型」のグループになりかねません。とはいっても、障がいをもつ子どもの保護者として、一時も気を抜けない多忙な毎日です。そんな生活の中で、非日常ともいえる活動に思いは及んでも、実際の行動は難しいのかもしれません。優しい行動型のボランティアだけではなく、企画提案のできる知恵のボランティアも必要です。そんなことから、子どもたちと一緒に遊んだり、活動を見守り、「こころーど」の活動を通じて、その視点からの「まちづくり」を考えて企画し、実践するサポーターの参加も必要でしょう。

 「こころーど」は、ここから始まる道しるべになりたいという思いをこめて命名したと濱中さん。まず、当面の目的を掲げています。

●支援の必要な子どもとその家族が、住み慣れた地域で
  ・自分らしく生きること
  ・地域の人と共に、楽しく充実した人生を送ること

●孤立しがちな支援の必要な子どもとその家族へ、必要な応援をし、それぞれの成長過程で『今』を大切にしながら、地域に根ざした活動を通して、支援の必要な子どもとその家族を取り巻く環境を充実させること。
 活動としては、
  ・他のグループとのネットワークづくり
  ・学習活動
  ・余暇活動(放課後活動・長期休暇活動など)
  ・広報活動

をあげています。

 「まず、基本は障がいを持つ子どもにとっての『楽しい居場所づくり』です。
 子どもがその子らしく生きていくために何が必要なのか、一緒に考えて創っていきたい。少し工夫された場所作りが必要なんだと思います。

 いま、子どもたちの日常の行動範囲が狭いんです。家、学校、病院の三カ所しか居場所がありません。このトライアングル生活を、四カ所、五カ所にと広げてあげたい。そのために、いま月一回ですが、福祉センターの部屋で、あるいは不定期にプールを借りたり屋外などで一緒に遊ぶ機会をつくっています」

 このような機会を増やしたい。そのために、手助けがほしいと濱中さん。まず、どんな子どもたちが、どんなことをしているのか。いまの活動を見てほしいと話します。定例会は、福祉センターで第一土曜日の午後一時半から三時半まで。役員会や屋外活動、放課後活動は、不定期に開催しています。

 
                                                                







2009/11/13 15:52:20|フィクション
アガペのラブレター 65
05章 成長時代 65

一見飄々の内実辣腕広告マン
同業・KTさんへ 「実力悠久」

 男が自前の事務所をつくってからは、得意先との直取引は少なくなり、ほとんどが代理店通しの仕事が殖えていた。新規開拓のターゲットもメーカーやチェーン本部から代理店になり、紹介やDMアプローチで発注先の代理店を増やしてきた。一回でも繋がリができれば、あとは受けた仕事を要求以上の質で仕上げることで、次の仕事を確保するというやりかたであった。そのためには、代理店と担当者との関係が重要になっていた。

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広告会社の有能マネジャー

 AKさんが入社した広告代理店AT社で、グループのリーダーとして紹介してもらいました。もう二十数年も前のことです。いろいろな仕事の手伝いをさせてもらいながら、AT社のめざましい躍進を見てきました。新橋のビルの通い、次に、各所に分散したオフィスに、迷いながら通いました。新橋時代、会議室が取れなくて、社長室で打ち合わせしたことを懐かしく思い出します。

 本社が銀座に移ったときの挨拶状には笑いました。地図を見れば、すぐその場所がわかったのですが、目印になるはずのN社の本社ビルの表記がない。あのあたりの地図なら、必ず入れるだろう、目標です。あなたの会社は、ライバルのM社がクライアントでした。そのために、N社はないことにしてしまった。そんな愉快な洒落っ気もありました。

 テレビアニメの雄として名を馳せ、業界ではじめて株式を公開し、DK社と合併するなど、成長を続ける会社の中で、あなたは着実に出世されていったようでした。私は、DT社やHH社など、いくつか大手広告代理店の仕事をさせてもらいましたが、あなたの会社とは、最も長く、充実したお手伝いをさせてもらいました。交換した社員の名刺は、八十数枚にもなったほどでした。

 担当の人たちは、現業から遠くなっていきます。初期のころのP社やO社の仕事が忘れられません。なかでも長く続いたのがY社の仕事で、本社のT部長とは、かなり機密に関するような仕事もさせてもらいました。T社やT社などの仕事もあり、一時は事務所の売上げの半分以上にもなりました。このような仕事ができたのも、あなたの変わらない支援があったためだと感謝しています。

 広告代理店との仕事では、私たちは下請け業者になります。元請会社である広告代理店がどんなに成長しても、外にいる私たちは、何の恩恵に浴することもありません。提供した知恵と役務に対しては、その都度、納得した額で精算しているというわけです。いわば、使いきりの消耗品で、それを承知で付き合っているわけで、嫌なら付き合わなければよいという取引きです。

制作会社を下請けにした

 逆に、私たちが受けた仕事を、メディア利用のために、広告代理店に手伝ってもらうこともありました。私たちが元請になったその仕事のひとつに、木造住宅展示場のプロジェクトがありました。数社との企画コンペで、設置運営企画からオープニングイペント企画提案の採用を受け、クライアントと共に作業を始めました。その中で、メディアの扱いをD社に依頼したのです。

 そのD社の担当者にとって、はじめてのことだと、私を仕掛人のひとりと知ってか知らずか、仕事を受けたときの感想を漏らしていました。大手広告代理店で働く彼にとって、制作会社は、彼らが仕事を発注する下請け業者であることが常態だと考えていたのでしょう。そんな彼にとって、私らのような存在は、許さないとはいわないまでも、意外なことだったのかもしれません。

 クライアントの仕事を代理店が受け、その制作を制作会社に発注するというフローが一般的になっています。それにこだわらないというのが私たちのやり方でした。仲間のNTさんに、代理店通しの仕事も増やそうと、営業としてあなたの会社に出向いてもらったことがあります。彼には、始めての慣れない体験で、結局、仕事がしにくいので、勘弁してくれと降りてしまいました。

 広告代理店は、制作会社に仕事を与えているという意識が強くなって、契約関係が、少しずつ高圧的になってきます。それが業務改善のための合理化だというわけです。支払い条件も、振り込みから、約束手形になり、その期限が長くなる。土木建設業の元請下請の関係に似てきています。その条件を飲まないのなら、取引きをしなくてもよいと。あなたの会社もそうなってきました。

 制作会社の制作内容に質の差がなくなったか、それを見抜けない代理店の社員やクライアントが多くなったからかも知れません。仕事は、単なる役務サービスだとする考えが一般化してしまったのでしょう。仕事が均質化しているように見受けられるひとつの要因に、パソコンによる制作作業もあるように思います。データが少しの手直しで、繰り返し使えるようになっています。

少しでも高く売りたい

 外部の制作会社が、広告代理店からルーチンな仕事を取るには子会社になるか、クライアントとパイプの太い担当者と協働関係を結ぶか、ということになります。後者は、請求に上乗せした分をバックするといった、金銭等の便宜を供与するもので、クライアントが請求を受け入れてくれたのだからよしとする考えで、この関係で制作会社の経営がを保つというわけです。

 私たちの制作料金は、基準があって、ないようなものです。売り手が、買い手の顔色を窺いながら、価格を設定するオープン価格です。真っ当なビジネスとして機能させるために、メディアの料金はコスト積み上げから妥当なものに落ち着いています。こうしておく方が、虚業かも知れないコミュニケーション産業を、業界がこぞって正業のように繕っているからかも知れません。

 制作作業では、付加価値をどうつくるかがビジネス展開で重要になってきます。同じものを百円で売るより、一万円で売った方が、仲介者にとっても旨味があります。要は仕事の広範な権威づけであり、そのためにいろいろな広告賞を設けて仲間誉めをする。売り手にとって、高く売れればよく、買い手側が、上役の叱責を受けずに決済できる理由が整っていればよいというわけです。

 あなたには、いろいろなアドバイスを受けました。あなたの部下が、TG社へのプロジェクト出向スタッフとして仕事をしていたとき、手伝っていた私も、状況打開の貴重なヒントをもらったことがあります。劣勢になってしまいそうな仕事の要所での的確な指摘は、業勢の建て直しに有効でした。そんなあなたならではの、広告代理店としてのマクロな視点が参考になりました。

 私が手伝っている環境関連のプロジェクトがあります。現在の市場の中で、メーカーなどの企業が、環境問題にどのようにかかわり合ってくれるかについて、あなたの考えを聞きました。結果、私が望むような方向とは、まだ隔たりがありそうだと認識しました。ここが企業活動の難しさなのでしょう。あなたが、慣れ親しんだ会社から、別の会社に転進されるという時期でした。

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2009/11/13 15:44:27|フィクション
アガペのラブレター 64
05章 成長時代 64

木を学んだ木造権威の建築家
師匠・STさんへ 「木魂永遠」

 男は、住宅建築マーケティングのジャンルで数多くの仕事をこなしてきた。プレハブ工法や2×4工法住宅のマーケティングにも関わってきたが、大きな影響を受けたのは日本伝来の工法による木造住宅であろう。木を適材適所に、生かしながら使う技は、その内容を知る度に驚嘆していた。居住性や耐久性にもすぐれているという。ただ、住宅そのものへの価値観が変ってきているいま、在来工法の木造住宅をどのように評価したらよいのかを考えている。

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木造住宅のチャレンジ

 良質の木造住宅を低廉な建築費で供給するために、林野庁や当時の全国林業改良普及協会などが呼びかけた運動から生まれたF住宅でした。開発したあなたにお会いしたのは六本木のバーでした。あなたの甥のHNさんが、その住宅供給の本格的事業を展開するためのスタッフとして紹介されました。私がSA社を辞めた頃で、以来、日本の木造住宅との関わりがはじまります。

 木造建築の著名な建築家として知られたあなたに、木や木造建築、住宅設計などを教わりました。いろいろな出版物への著述のお手伝いを通して、建築エンジニアではない私は、技術だけではなく基本理念や考え方を学びました。生きている木を生きたままにつかうこと、木を金物を使わずに組み上げる伝統の建築工法など、機械設計のエンジニアであった私には、新しい観点でした。

 あなたはS建築事務所でもっぱら設計業務に携わることになります。HNさんが社長として住宅供給を経営し、従来からの工事監理の社員に、K大のアメフット部OBとしてのコネを活かして集めたスタッフを加え、営業を開始します。あなたはS建築事務所の看板として、日本木造住宅の権威の建築家、FIC住宅の産みの親として、いろいろな講演会等に引張り出されます。

 それまでの傘下工務店グループを協同組合とし、またN新聞社との共催で消費者の会「新しい民家をつくる会」等を組織し、一般向けの木造住宅を供給。本来の事業である公共施設やゴルフ場クラブハウスの設計監理等では高い評価を得ていました。いろいろな原稿依頼も多くなり、私はそのお手伝いや講演録の整理など、F住宅のマーケティング以外でも多忙でした。

 招かれた食事の席で、お身内の防衛庁長官になったKYさんが、あなたを最高のアーチストと賞賛されていましたね。建築はアートだと再認識しました。ゴルフ、ハンティング、くるま等、多趣味な方で、交際範囲が広く、個性派俳優のKKさんやピアニストのKIさんを紹介されたのもあなたでした。このご縁で、私の事務所でKIさんの後援会事務局を引き受けることになります。

アート領域の住宅設計

 間伐材の有効利用は、三十数年前のその頃も林野行政の大きな課題でした。これに応えたのがF住宅のもうひとつがSAブランド住宅です。林野庁開発によるログハウス風な住宅で、実質的開発はあなたのS建築事務所が行いました。小径木の間伐材を上下の厚みが一定になる縦溝をカットし、間に角材を挟みボルトで締め付けて壁体をつくる。特許を取得した新工法です。

 機械設計のエンジニア意識が残っていた私は、住宅建築のエンジニアリングの一端を知りました。考え抜いたメカで、鋼材やステンレス材を、プラマイ数ミクロンの精度で加工し組立てる世界にいた私には、生きた木を使う木造建築とは新鮮な出会いでした。そして、たとえ矮小変型敷地の小さな住宅でも、意匠美が求められるアートの事業であることを知らされたものです。

 在来工法の合理化を図ったというF住宅は、それまでは家一棟ごとに調達し、多種多様にわたっていた部材を規格化して整理し、プレカットして現場に搬入して組み上げるという現場少量産型とでもいえるシステムで、工場量産型のプレハブ住宅とは一線を画する家づくりを標榜するものでした。使用木材を産地直送するなどして、流通コストの削減を図るものです。

 あなたがお膳立てしたシステムを、具体化するのがHNさんの役割です。建築家が個別設計をする、手慣れた専門の施工集団、設計料込みの坪単価がプレハブ住宅と大差ない建築費、木曽檜、秋田杉、西川杉、佐渡アテビ等の産直材の導入、新潟加茂産の木製サッシの採用、構造見学会や完成邸見学会など、当時としては新機軸セールスポイントを打ち出した戦略を展開しました。
 大手住宅メーカーには太刀打ちできませんが、告知のためのマスメディア活用も重要です。新規見込み客の発掘は、紹介だけでは確保できないほどに、企業規模が膨れていました。メディアを含めた効率的なプロモーションを展開するために、林野行政の後援を得て、N新聞広告局との連繋で、消費者の「新しい民家を考える会」を発足、あなたに会の中心論客になってもらいました。

住宅供給事業からの撤退

 建築家としての設計業務のほかに、いろいろな講演会やセミナーの講師としての日常は多忙を極めたのではないでしょうか。あなたの講演会に付添うかたちで、木製サッシの開発を進めていた新潟県加茂市の建具協同組合に伺いました。私はマーケティング実務の学識委員の一人として参加し、あなたの会社のIKさんと共に、カタログなどの企画制作のお手伝いもしました。

 F住宅のマーケティングは、広告を打ち、資料請求者とコンタクトをとってフォローして、実際の契約に持っていく。回を重ねることにより、1回の広告で獲得できる契約数が読めるようになります。必要な契約棟数のための広告回数が決められるようになり、受注獲得活動はこの繰り返しです。もっともあなたは、やがてS建築事務所のオーナー所長からも外れてしまいます。

 社外で手伝っていた私には、具体的に何が原因なのかは分りません。S建築事務所は、債務超過に陥り、実質的な破産寸前にまで追い込まれたようです。オーナーだったあなたの、世田谷にあった歴史のある屋敷が売却され、ブランド化していたS建築事務所は、私の知らない工務店オーナーが引き継ぐかたちで経営に乗りだします。そして、あなたは設計三昧の活動に入りました。

 そんなとき私の事務所があった四ッ谷に来られ、喫茶店で、迸るような悔しい心情を吐露されました。世田谷の名門の先祖伝来の家屋敷を手放さなければならなくなった悔しさを、誰かにぶつけたかったのでしょう。直接的な関係者ではないが、内容をほどほど理解していて、心が通いあっていた私は、その適役だったのでしょう。そんな心寄せをうれしく受け止めさせていただきました。

 それから私のS建築事務所間連の仕事はなくなります。従来同様のパターンで広告掲載が行なわれ、それが通常の営業活動になっているようです。あなたの新しい仕事場にお邪魔したのは、ピアニストのKIさんの後援会の会員からの会費収入が減って、恒例の集う会が開けそうもなかったときです。あなたのお力で何とかなりましたが、私は後援会から手を引くことになりました。







2009/11/13 15:35:53|フィクション
アガペのラブレター 63
05章 成長時代 63

営繕チェーンの草分け起業家
施主・KRさんへ 「連理想鎖」

 いまでこそ、ごく普通の事業形態になっているが、フランチャイズシステムの導入期の頃、このシステムは、斬新で小資本で展開できるビジネスモデルとして大きな関心を集めていた。男が担当していたE社では、成功裡に展開していたが、システム整備の仕事として出会った最初の仕事は、いまでいうリフォーム、営繕事業だった。仕事そのものは、大工や左官、タイル工事が中心だったが、建築会社以外で下職たちを組織した点で新しかった。

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営繕事業をシステム化

 右頬の傷に、鋭い眼光、まさしくそのものの企業舎弟的な貫禄には圧倒されました。あなたが立ち上げて協同組合として運営していた住宅営繕事業をシステム化して、帳表類やマニュアル、カタログをつくり、最終的にフランチャイズチェーンにするお手伝いが依頼の内容です。NTさんからの紹介で、東京のコピーライターという触れ込みで、大阪の本部事務所にあなたを訪ねました。

 「住まいの一一〇番、棚板一枚から増改築まで」と唱って、大阪地域で営繕事業を展開していました。基本的には、折り込みチラシや屋外広告で告知して、申込みを電話で受けます。本部に管理スタッフが待機し、問合せや相談を受け、営業員が訪問して契約に持ち込みます。それを施工業者に振り分けて施工し、完工後に本部で代金を回収して、業者に支払うというフローです。

 施工業者は大工を中心とした各種建築下職たちで、営業が不得手な、自分では仕事を開拓できない職人たちが中心です。彼らを社会的に担保能力をもった協同組合の組合員として組織するのが第一のポイント。そして、仕事を公平に配分するのかが第二のポイントでした。営業員や職人を指名するのが管理スタッフであり、どうしても恣意的になり、彼らのさじ加減が加わりがちです。

 営業員が独力で受注してくる物件もあります。組合の看板、組織の信用力があって受注できた物件ですが、組織として規制をかけないと、営業員が自分で差配するものとして勝手に進めかねません。この仕事の扱いを含めて、組合員全員が納得できる公平な物件振り分けのルールをつくっておかないと、組織が内部崩壊してしまいます。ここがシステム化するための課題でした。

 営業員は、受注して契約を結ぶ営業の実践部隊です。彼らは、歩合給で仕事をしていました。本部で電話を受けるのは管理スタッフですが、リピーター以外は問合せや相談が大部分です。実際に仕事にし、リピーターにするのが営業員で、彼らが代金回収まで責任をもっていました。この営業員をどのように管理するのかが、システムを機能させる大きな要素のひとつだと認識しました。

準幹部待遇での仕事

 営業員は、本部に専用の席もありません。朝礼での本部長の訓示の後、街に飛び出し、夜遅く帰って、日報で実績を報告します。管理スタッフも、電話での受注獲得数や契約額が評価管理されます。活気があるというより、殺気立っているような雰囲気で、理事長のあなたには絶対服従です。まさしく、映画で見るような仁侠社会風でした。この緊張感の中で、仕事は回転していました。

 着任して私はまず、仕事全体のフローを観察分析しました。管理スタッフ個々人の仕事のしかたや、事務所全体の物理的な行動もチェックします。かつて身につけた工程分析や作業研究が役立ちます。管理業務は、製造作業のような動作分析がないだけに楽といえば楽ですが、使う伝票や帳表がポイントになってきます。数日間の観察を終えて、一旦、東京に戻っての作業になります。

 在阪時は、ホテルでの宿泊です。始めのころは、あなたの見栄もあってか、一流ホテルでした。何回目かの後は、私からの申し出もあって、本部事務所にほど近い、それでもシティホテルに変わりました。食事は、昼と夜はあなたと一緒でした。朝食付きのホテル代は、管理スタッフがチェックアウトにやってきて払ってくれます、往復の交通手段は、飛行儀という豪華版の仕事でした。

 まず全体のフローチャートをつくり、パートごとに分析して、改善を加えます。懸案の課題の解決策をつくって、パートごとの簡単な手順書にまとめました。これを後でマニュアルにします。そして、新しいシステムの伝票や帳表類を設計、デザインして制作し、使用方法をスタッフに徹底して実務の場に降ろします。使い勝手や問題点を洗いだして、修正して本番制作にかかります。

 印刷まで、私の事務所で扱わせてもらいました。伝票、帳表類を固めたら、カタログ等の営業ツールづくりに入りました。十二ページのカタログに、ペラのリーフレット、専用封筒もつくります。そのカタログに載せるあなたの写真をカメラマンを連れて行って撮ったのはいいのですが、配慮の足りないご仁で、まともに頬の傷まできれいに撮ってしまいました。知らん顔を通しました。

突然舞台から降ろされた

 キャッチフレーズとロゴマークは、商標登録をされていました。あなたは、その認定証のコピーを大事そうに、自慢げに見せてくれました。ツール類が最小限整って、さあ、フランチャイズ・マニュアルづくりに入ろうとしたときです。詳しい事情は知りませんが、あなたのまわりに異変が起こりました。紹介してくれたNKさんから、あなたが理事長から降ろされたと聞かされたのです。

 バックにあるものを知った上で引き受けた仕事でした、それはそれ、と割り切っていましたし、きちんと支払いをしてもらえるなら、私としては仕事をするだけです。実際、請求通りの制作費を振込んでもらえましたし、遅れそうなときは、あなた個人振り出しの小切手でもらったことがありました。フランチャイズシステムづくりは、私にとって挑戦しがいのある魅力的な仕事でした。

 十人ばかリの管理スタッフは、皆、普通のビジネスマンで、若くて元気、体育会系の乗りで、日夜を問わずあなたに尽くしていました。私の立場は、旅行会で座らせられた席順が、本部の幹部の下、管理スタッフ、営業員の上でした。施工業者は末席に座っていました。その旅行会でも打合せをしましたが、そこまで必要はなかったはずです。ちょっと、異様な組織ではありました。

 あなたに代わった理事長は、見るからに強面でした。未精算の売掛け金が100万円ほど残っていて、その処理を確かめるために、NKさんと本部に乗り込みました。理事長室のインテリアがガラリと変わっていて、秘書と紹介された派手な女性が、内容を理解していたのかどうか、我がもの顔で仕切っています。わけの分らない幹部風の男が、傍で成りゆきを黙って見守っていました。

 結局、約束手形で支払ってもらったのですが、私の事務所では処理しきれません。NKさんが一計を謀って、あなたの時代からの経理担当のスタッフに、彼個人へのキックバックを臭わせて、特別に現金化を依頼しました。それが功奏して、何とか回収できたときは快哉を叫んだものです。ただ、フランチャイズシステムの目論見が、道半ばで為せなかったことに悔いが残りました。







2009/11/13 15:17:49|フィクション
アガペのラブレター 62
05章 成長時代 62

自称文科系マーケターの仲間
同業・SMさんへ 「利得輩分」

 バブル期の洗礼を受けた後、デジタル世界が席巻し、マーケティングは変ってきている。ダイレクトマーケティングの中心メディアは、広告やチラシやカタログなどの紙媒体から、インターネットなどのデジタルメディアに移行している。かつて売り買いの現場は、人間らしさに溢れていた。商財の価値だけではなく、売る環境も大きな訴求力を持っていた。いまは商品そのもののパワーであり、販売価格がいくらかになってきている。

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感性でも成果をつくる

 全国が赤ヘル旋風で涌いた昭和五十年、あなたはマーケティングのエポックを開きました。初優勝に向かってばく進していた広島カープの私設応援団のひとつとして、千人針に倣った「千人赤バッジ旗」を掲げてエールを送りました。街頭で広島カープの優勝を願う市民に、赤いバッジを、用意した応援旗に、専用の器具でつけて、応援意思の表明をしてもらおうというものでした。

 これはバッジを、器具を使って簡単につけられる製品のPRの一環として図った活動でした。スポンサーは、アメリカの玩具メーカーで、スポーツマスコミを中心にメディアにも取り上げられ、大きなパブリシティ効果を発揮しました。あとで私たちの仲間として、一緒に仕事をするようになります。千人赤バッジ応援旗作戦は、私たちの間で語り継がれる伝説になりました。

 マーケティングの世界に、流れをつくることは難しいが、流れを利用すれば、少ない費用で目的を実現できるという基本則があります。マーケティングは、確率で成果を予測できます。たとえば、DMによル販促では、何パーセントの割合でと実売数が見込めます。販売目標に合わせて送付数を設定すればいいというわけです。あなたはこれを「理数系マーケティング」と呼んでいました。

 これに対して、あなたは「文科系マーケティング」の実践者であることを、セールスポイントにしていました。実際の制作に携わるクリエイターではありませんが、効く制作内容の目利きができる文科系マーケターという売り込みです。商品や時代に応じて、ディレクターやコピーライター、デザイナー、カメラマンなどへの制作管理で、要求以上の成果をあげていました。

 あなたは、私たちの仲間として仕事をするようになります。あなたを通して、美容院(サロン)用の化粧品メーカーのM社が、イタリアのFプラントを輸入して、ブランディング活動をするので、協力して欲しいというオファーが入りました。輸入するのは、ブランドだけで、商品企画は日本で行ないます。メーカーとしては、商品アイテムやスペックはほぼ決めていました。

ブラディングを展開

 容器デザインから、サロンでの販促支援までのマーケティング全般にわたるプロジェクトです。あなたは、M社のマーケティング総括責任者K専務の信任を得て、リーダーとして仕事にかかります。進行を担うコーディネイターはNTさん、コピーディレクターとして私、他は外部スタッフで固め、グラフィックデザインは、私と親交が長いIHさんにお願いすることにしました。

 商品企画や流通政策は、あなたが中心になって進めます。私は企画書の作成から始まって、コピーに関わる全般の仕事です。「スポーティハート戦略」として、健康で、明るく、清潔感のあるイメージで、毎日の行動を健康的な躍動の方向に拡げようというコンセプトを立てました。キャッチフレーズは「地中海の風は、スポーティハート」としました。

 サロンで、全ての活動をトータルで売ろうという作戦です。プロモーション活動は、新客誘致と固定客化としてのリピート対策があります。サロンに対して商品を供給し、経営を支援するシステムです。新規客獲得を「サープ作戦」、固定強化策を「レシープ作戦」、オープニング告知を「スマッシュ作戦」として、テニスをフィーチャーしたゲーム感覚での展開をはかりました。

 街のサロン個々のPR活動は、折り込みチラシやDM等が中心になります。これらのツールも、スポーティハートのコンセプトで統一します。そのためには個々のサロンで制作するのではなく、私たちスタッフが代行制作するとしました。ただ、同じテーマのツールでも、サロンが何点かの中から選べるような、セミオーダーシステムを採り、低コストでの提供を実現しました。

 そのひとつが、ビジュアルとコピーを何種類かずつ版をつくっておき、組み合わせてつくるというものです。コピーが3種類、ビジュアルが3種類あれば、合計9種類のバリエーションになります。契約サロンの地域フランチャイズ制を採るために、同じツールが同じ地域でダブるということはありません。個性的でありたいとするサロン経営者には、受け入れてもらいやすい方法です。

住宅供給でも手腕を発揮

 あなたのブランディングの仕事は、他にもありました。サロン向け化粧品のFブランドは、なじみのないブランドであったために、その認知向上のために、ことさらイタリア色を出そうとしました。知られているブランドは、その既存イメージに乗った商品開発をするだけで、商品の品質管理が主な仕事になります。マーケターとしては、あまり食指が動かなかったのではなかったかと。

 私たちは、SK社の木造住宅の供給事業に関わります。SK社の経営を担うことになったHNさんとは、あなたが広告代理店ME社の担当営業マンだったE社時代からの付き合いであり、仲間として共に知恵を出し合うことになります。住宅のプロジェクトでは、新聞社との連繋による、消費者の会の展開でした。あなたの働きで、N新聞社広告局とのタイアップができました。

 日本の林業を育成し、日本の気候風土に育まれた、世界に誇る伝統の木造構造技術を受け継いで、時代に合わせて合理化した、住みやすい住宅を、行政やメディア、家づくりの担い手たち、そして、消費者が一体になって普及していこうとする戦略です。どの住宅会社でもできないし、どこからも文句のつけようもないもので、供給側には、費用対効果の優れたマーケティングでした。

 「新しい民家を考える会」として、工務店グループの協同組合を運営事務局として、発足講演会からスタートさせました。N新聞社広告局主催で、後援が当時の建設省、林野庁、日本建築センター他の協賛を得て開いた講演会は、会場のホールをいっぱいにする盛況でした。あなたはマスコミ対策でも大きな力を発揮して、グループに新しい風を吹き込みました。

 やがて私たちは、それぞれ別の組織で仕事をするようになります。あなたは文科系マーケターとして、ファッションにも強みを発揮します。住宅についても、デサイン面からのアプローチを試みていきます。お手並み拝見といったところです。著名な元ニュースキャスターのKHさんの義兄で、私にとっては、また組んで仕事をしたい大事な仲間です。