孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/11/12 17:09:12|フィクション
アガペのラブレター 56
05章 成長時代 56

無言実行に過ぎたパートナー
同業・NTさんへ 「有言実行」

 営業マンや制作者の間で、自前の制作プロダクションをつくるのが流行っていた。得意先は、在籍し担当していた会社のクライアントをそのまま引き続けるという異様な業界の中で、百万円の資金を用意できれば、株式会社ができる。特に、制作者の間では、原宿界隈に事務所をつくるのが、ひとつのステイタスとしてもてはやされていた。男たちは、まず会社をつくって登記した。一国一城の主人になることは、男たちにとって魔力だった。

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骨を拾いあうはず

 残ったものが骨を拾いあおうという約束は、まだ続いているはずです。いま、あなたの居場所がわかりません。多分、元気にはしているのでしょうが、風の頼りさえもありません。もっとも、私の方が、風も届かないような棲み家で、息を潜めた隠遁生活を余儀なくされているからでしょう。子どももいなかったあなたですが、あの気丈な奥さんと相変わらず、やっているのでしょうか。

 私たちが仲間と一緒に会社を作ったのが約三十年前。そして、二十三年前に、代表をあなたが受継ぎ、その会社を倒産させてから、はや十年たっています。どの倒産社長も同じでしょうが、あれは悲惨で、悲しくなるような出来事でした。街金業者に手形帳を取り上げられ、決済不能の手形の取りたてから逃れるために、会計士のKKさんの事務所に、かくまってもらいました

 招くべくして招いてしまった結末だと思います。市況の悪化によるものではないことだけは確かです。クライアントのE社は外資のグローバル企業で、取引きは続いていましたし、社員四、五名の会社がやっていくには十分な受注量でした。請求したらすぐに指定口座への振り込みで決済してくれる。そんな取引きなのに、支払いを約束手形にしたのがつまづきだったのでしょう。

 私が代表を譲るような形で身を引いたのは、両雄並び立たずの故事通りでした。雄と言うのはおこがましいのですが、登記上や金融機関には私が代表者のはずなのに、E社内ではあなたが社長として取り引きしていました。子どもの、ガキ大将争いとおなじ次元の話ですが、男はたとえ鶏口といえども、ボスはボスとしていたいし、そう遇してほしいのです。あなたもそうだったはずです。

 会社を引き継いだ後、会計をKKさんの事務所にお願いしたはずですが、担当されたのが子息の会計士と聞きました。聞くところによれば、その彼に対して、経理を担当するようになった、あなたの奥さんがクライアント風を吹かせて、不愉快な思いをさせてしまったとか。私たちの会社が受けた恩を知らなかったでは済ませられない。基本的な礼儀さえ欠いていると思ったものでした。

共に新会社を設立

 あなたは、あまり喋らないお人でした。のめりこむように、黙々と業務をこなしていく。真摯な仕事への姿勢は、有能なアドミニストレーターとして評価されていました。A社のあなたは、E社のビッグウエルカム作戦と名付けられたプロジェクトに取り組んでいました。全国の新車登録者に、その人に最短距離のSSをDMで紹介して来店利用を呼びかけるというプログラムです。

 ビッグウェルカム作戦が、所期の目的を達成しました。そして、次に作り上げたのがEEプラン(EXTRA SALES EXTRA PROFIT)と命名した作戦です。具体的なプロジェクトにするために、私たちは金沢市で合宿ミーティングに入ります。そこはHNさんの営業時代の在任地で、彼にあなたや私、H社のKKさんが参加して、プランを練り上げました。

 全国の販売店が、エリア特性を活かして展開するセールスプロモーション支援プログラムです。その頃、E社では特定の販売店を対象に全国統一プロモーションを展開していました。これを地域特性を活かしたアレンジでの展開を推奨指導しているうちに、独自のプロモーションが展開できるプログラムを提供しようと。あらかじめ用意したメニューから、選択ができるようにしました。

 この展開のために、EEブランセンターの構想が出てきました。あなたが在籍していたA社、私がいたSA社、KKさんのH社の共同で事業所を立ち上げようと。HNさんは、E社の担当窓口として機能する手筈でした。この構想を、まず、私が自社のボス、HYさんに提案したのですが、受け入れてもらえない。そのために、あなたがいたAA社の社長に協力を快諾してもらったわけです。

 EEプランセンターを起業することにしました。ただ、EEプランは、E社のプロジェクトから生まれた名称であり、社名にするのは問題だという声が上がり、私たちの会社は名称を変更することになります。その頃にはHNさんは、E社を退社して叔父のS建築事務所の経営をまかされるようになっていました。私たちの会社は、HNさんの会社の仕事も手伝うようになります。

四ッ谷で本格事業を展開

 KKさんが大久保に借りていたアパートの一室を事務所にします。フリーの立場だった私を代表に、あなたはAA社の社員のままで、あなたもその事務所に通います。若い私たちは、熱く燃えていました。AA社にいたコピーライターのTMさんもスタッフの一員となり、大久保での仕事は忙しくなります。私は代表の名刺をつくり、あなたは専務の名刺を持ちました。

 ほどなく、私たちの事務所を、あなたが通っているE社にほど近い、赤坂に移すことにしました。しばらくした頃、仲間のHNさんが出資していた四ッ谷三丁目に事務所があったE社が、倒産するという情報が入ってきました。何とか債権を確保しようと、急遽、そこに所に私たちの事務所を移して、一画を占拠することにしました。やがて債権者が怒号を上げて大勢やってきます。

 私たちは、善意の第三者です。結局、前の会社の権利金を引き継ぐという形で、広かったスペースの半分を区切って私たちの事務所にしました。ここで、私たちの会社が会社らしくスタートしたわけです。あなたはようやくAA社を辞めて私たちの会社の仕事に専念することになります。その頃から、あなたは事務所の営業、代表としての顔で、E社と取り引きするようになります。

 デザイナーのTEさん、KYさんに、新しくSYさんがコピーの一員となり、営業にSMさんも加わりました。経理を手伝うかみさんを含めて、七人のメンバーです。私は、E社の仕事はほとんどしなくなり、新人のSYさんが担当することになりました。私は、S建築の仕事を中心に、M社のブランドマーケティングなどの他にも、いろいろなクライアントからの仕事で忙殺されます。

 あなたは、そのうちにS社の代表になっていたHNさんの要請で、S社の経理を手伝うことになりました。赤坂のE社に毎日のように顔を出しながら、世田谷にあった事務所に通い、資金繰りにもかりだされていたようです。そこまでやるかという、思いがつのります、そして、私たちメンハーは、また離散するようになります。その後、私は、原宿で新しい会社をつくりました。







2009/11/12 16:58:28|フィクション
アガペのラブレター 55
05章 成長時代 55

仕事の幅を広げてくれたボス
師匠・KKさんへ 「人故縁新」

 男の仕事は、コピーから販売促進の企画やいろいろな新規事業の起業企画にと広がっていった。ひとつの商財や物件をどのように売っていくかの企画であり、これも販売促進やマーケティング企画の仕事ではある。ただ、この作業量金の見積りは難しい。一応、その仕事のために、どのくらいの時間がかかりそうかの日当計算で基本を作り、内容によってプラスアルファを決めていた。実際には、料金は低く押さえられ、払ってもらえない例も少なくなかった。

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人脈が仕事を集めた

 三十数年もの長いおつき合いの間、主なものだけで、酵素卵、ハウス椎茸、深海鮫エキス、スッポン卵、麦飯石、乾燥野菜、舞茸エキスなどのプロジェクトに関わりました。ビル壁面自動清掃機、プール浄水機、路面硬化剤、生ゴミ処理機など食品以外の案件もあり、全部は思い出せないほどです。事業計画書づくりをはじめ、調査や意見をはさむ程度のものもありました。

 人脈の広いあなたのもとに持ち込まれるプロジェクトは、よくまあ次々に続くものだと感心するほどありました。あなたは関連企業を紹介したり、自ら事業に参加するなどされていました。私の仕事は、事業計画づくりや販売計画づくり、販売ツールの企画制作などです。好奇心の強いせいもあり「ヤロヤロのクラさん」と称されるほど面白がっては飛びついていました。

 かなりの調査が必要なものもあります。バックグランド情報として、開発者や関係者を取材したり、実際に使用体験をしたり、関連資料を漁ったりします。仕事に取りかかるころには、その世界の専門家に近いほどの知識武装をしています。もっとも、終わればすっかり忘れることにしていました。専門外という言い方は、集中して情報を収集しないいいわけだといっていました。

 あなたは農大を出てすぐに食品会社の経営に携わり、人脈を広げられたということです。私が知ったのは、あなたがE社の新規開発プロジェクトに携わっていたときですが、ボスと仰ぐまでに親しくさせてもらうのは、あなたの会社が倒産し、私が独立したころからです。ひとまわり上の巳年ということもあって、つかず離れずの気楽なおつきあいを続けさせてもらっています。

 会員制で、アメリカの牧場で肉牛を委託肥育するプロジェクトは、親しくなった最初のころのお手伝いでした。あなたはいろいろな企業にかかわり、ご自分で新会社を起業されたりして、面倒見のいい親分肌のお方でした。いろいろなスタッフの出入りがありましたが、これほど長くおつき合いをさせてもらっているのは、多分私だけでしょう。急に、お声がかかるといった関係でした。

レジャーランドの再開発計画

 私の郷里に関わるプロジェクトとして、山形市郊外の倒産したレジャーランドの再開発計画づくりが忘れられません。老朽化する前に、再開発計画書つきの物件として売却するとかで、その調査と計画策定をする仕事です。あなたと私は、さっそく現地に乗り込みました。かつて、小動物園、ジャングル温泉大浴場、大宴会場つきのレジャー施設として隆盛をきわめたという物件でした。

 バブル期に入る前のころでした。動物園は跡形もなく、大浴場は荒れていました。建物はまだ使えるという前提です。入場料金を籠に入れて足で押し込むほどに集客できたという施設は、工事現場で働く労働者の宿泊所として、管理人が一人住み込んで、掃除や食事づくりをしていました。山形という市場規模や提供サービスの陳腐化がリピーターづくりにつながらなかったわけです。

 私たちは、施設をできる範囲で精査し、管理人をインタビューして関係図書をみせてみらいます。そして、利用方法のアイデアを出し合います。変型の建物をウリにしたことが、かえってマイナス要因になりました。レジャー目的以外には活用できないだろうし、この方向で、新規の提供サービスを考え、新たなターゲットを設定して、再開発事業計画をつくることにしました。

 私たちは市内のホテルにチェックインし、夜のまちに出ての食事です。ひさしぶりのまちは変わっていましたが、懐かしさがこみ上げます。居酒屋で出た名物の芋煮にはなじみがあっても、出された他の名物は私にとって珍しいものでした。思えば、山形で過ごしたあのころには、ろくな食べ物がなかったし、あっても口にできなかったわけです。それでも、楽しい山形の宵でした。

 私たちは山形でレンターカーを借りで、あなたの運転で、蔵王エコーラインを通って仙台に向かいました。仙台のあなたのお兄さんに会い、帰京します。帰ってからがさらなるアイデア出しとまとめの作業です。あなたとデスカッションでコンセプトは決めていましたが、それからは私の作業になります。まとめあげた計画書は結構なボリュームになったことを覚えています。

グリーンツーリズムを先取り

 信州農興プロジェクトも、思い出深い仕事です。長野県の山間の開拓農地の、ほとんどの農家が離農した地域を再開発しようというものでした。その郷の出身者で、東京で成功した実業家が、件の土地を買収して再開発し、郷里への報恩事業にしようと。あなたは、話を受け何度か現地を訪ねて調査した後、私に声をかけてくれました。またもや、面白がって仕事にかかります。

 雉子が棲息しているその地を「きじの里」とネーミングしました。何度か現地に行き、離農した農家の廃屋や分校の校舎を調査します。どの建屋も痛んでいましたが、手入れをすればなんとか使える状態にありました。新しいオーナーは、廃屋の一軒を現場事務所の拠点とし、水利がよくなかったその地に井戸を掘って、飲料水を確保しました。この費用も相当な額だったようです。

 この計画書づくりには、造園設計をしているあなたの息子のNYさんにパースを描く手伝いをしてもらいました。三十年ほど前に、都会生活者の農業体験ゾーンとしての開発コンセプトはグリーンツーリズムのはしりでしょう。オーナーは、地域住民の協力取り付けのために、元皇族の宮様に出てもらうなどの手を尽くしていました。結局は資金不足とかで中断してしまいます。

 会員システムで、ベンツのキャンピングカーの隊列を組んで、専用のキャンプサイトに行ってアウトドアライフを楽しむというプロジェクトもありました。クライアントは、九州で進めていたレジャー開発が頓挫して、一族郎党を引き連れて、新たなスポンサーを担ぎ出したグループでした。運営マニュアルやカタログ等の販売ツールの開発制作が私たちへのオファーの内容でした。

 あなたはその事業体の役員として参加し、豊富な人脈を使っての販売活動を担います。運営マニュアルをつくる傍ら。私たち制作スタッフは那須高原の別荘地でロケを行なうなどの準備をしました。制作費の請求三〇〇万円を、現金で支払うからと一〇〇万円をバックさせられるといったアブない取引きでした。このプロジェクトも、資金足らずで頓挫するという、ていたらくぶりでした。







2009/11/12 15:56:45|フィクション
アガペのラブレター 54
05章 成長時代 54

弱者に優しい恩義ある会計士
師匠・KKさんへ 「仁侠導士」

 会社組織にすれば、経理業務は不可欠である。貸方と借方をきちんと記録して、利益に応じて納税する。男たちのような個人経営のプロダクションでは、日々の金銭の出し入れを伝票に書いておき、定期的に契約している会計士に経理処理をしてもらっていた。男の場合は、日々の経理処理を、妻に担ってもらい、決算期に会計士にお願いするという方法で処理していた。男が長い間、依頼していた会計士は、男にとっては、師匠であり庇護者であった。

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会計を「診て」もらった

 仲間たちとつくった最初の会社の時から、会計をお願いしてきました。ボスのNTさんが紹介してくれ、三十年も前のことになります。以来、前の会社を設立したときから、次の会社に続いて、会計を見てもらっていました。「見て」もらうのではなく、まさしく「診て」もらっていました。この長い期間の全部を、妻が会社の経理を担当して、あなたの指導と助言を仰いできました。

 弱きを助け、強きに立ち向かう、仁侠派の会計士でした。正業を全うしながらも力の弱い零細企業のために、食い物にしようとするその筋や悪徳企業、権力からの理不尽な攻勢から守ってくれます。一方で、巨人OBのHさんがSL球団の監督に就任したときの法律顧問として、メディアに紹介されたこともあります。大企業の顧問とかには就こうとはしなかったあなたでした。

 会社の経理作業は、日常の金銭の出納を、決められた帳簿に記録することでした。金の出入りの管理は代表の私の仕事です。仕事の内容が、企画制作であることから納品先は数社に限られ、せいぜい五、六社です。仕事を受けなかった月もあり、実際に請求が発生するのは、二、三社というところでしょう。約束の期日までに仕事を納めて、担当者との打合せで決めた額を請求します。

 支払日に、銀行口座に振込まれます。得意先によっては、通常の支払いは約束手形ですが、5%ほどの手数料を引いた請求で、現金を支払ってくれるところもあります。5%は少なくない額になります。これに消費税の5%を加えて、元の金額です。私の事務所の売上げ規模では、消費税を納めなくてもよく、通常ならプラスアルファの収入になります。

 主な支払い先は、デザイナーとカメラマンです。印刷まで引き受けた場合は、印刷会社への支払いもありますが、私たちの得意先のほとんどは、印刷などの製作はそれぞれ独自のルートで発注していました。版下での納品が中心で、その点で、煩わしい仕事がなく、制作の仕事に専念できました。得意先によっては、小切手による支払いが約束手形に替わったところもありました。

人件費が経営を危うくした

 私たちの仕事は、いわゆる役務作業です。得意先への請求は、印刷物制作の場合、企画コピー費、デザイン版下費です。印刷への発注は別でも、印刷管理費の請求が認められたところもありますが、ほとんどは、企画コピー費とデザイン版下費です。デザイン版下費は、そっくりデザインプロダクションへの支払いに回します。イラスト費や写真撮影費はこの中に含めていました。

 私たちの仕事のレートは、ページ単価でした。内容がマニュアルとか、ハウスオーガン、カタログとかによって、単価いくらと決められます。見積書を作って、あらかじめ了承してもらいますが、実際には、仕事に掛かってからの見積書の提出でした。得意先の担当者の中には、表紙はタイトルだけで。コピーはないのだからこの分のコピー費はないだろうと主張する人もいます。

 要は、全体の仕事の質と量を単純にページで割って出した料金ですと、納得してもらいます。その全体額の多寡は、得意先の中での価値判断によるもので、その企画コピー費の算出基準もはっきりしません。仕入れがあるわけではなく、ちょっと安くしてよといわれれば、そうせざるを得ない力関係ではありましたが、よほどの場合を除いて、事務所として容認できる範囲でした。

 事務所の支払いの多くは、人件費です。企画制作事務所の中では、著名タレント的に遇されている一部の人以外、ネームバリューでレートが決まるということはありません。見習いアシスタントを置く場合は別ですが、徒弟制度の色濃いカメラマンの世界とは違って、小遣い程度の賃金でよしとはなりません。結局、この人件費が私の事務所経営の大きな足かせになってきていました。

 人件費は、世間相場なみに、年々のアップが求められます。初任給が、妥当な額であっても、年数が経てば。給料を上げざるを得なくなります。やむなく上げ止まりはさせますが、一方で、仕事の量は少なくなっても増えることがなく、レートも少しずつ下がってきます。世間がバブル景気を過ぎて、経済状況が厳しくなってくると、人件費の負担に耐えられなくなります。

納税額からの決算書づくり

 オリジナルのコピーを書く役務作業の効率化は、図りにくいものです。書く道具をワープロにしたところで、2倍のスピードで書けるわけでもありません。原稿が読みやすくなったからと、料金を高く請求できるものでもありません。内容の質は、目に見えて料金を上げるほどにはならず、逆に質の低下は、致命傷になります。質が落ちたとたんに、他の制作会社にとって代わられます。

 広告代理店などは、制作プロダクションへの要求も厳しくなってきます。力関係の優位性をかさに、振り込みが約束手形に代わって、そのサイトが少しずつ長くなります。銀行に割り引いてもらえるからいいようなものの、それでも無理が出てきます。こちらは時間や労力を売っているんだ、ものを仕入れて、流しているんではないんだと叫んだところでその声が届くはずもありません。

 そろそろ引き際だと、あなたのアドバイスを受けました。経理を担ってくれていた妻も、あなたのところに相談に行き、同じような結論に達します。一人で仕事を受けてもできないことはない。債務は自宅を処分して弁済しなさいといわれました。確かに、そのときに決断していれば、いまの状況にはならなかったでしょう。男の見栄を、ずるずる引きづってしまいました。

 あなたは、経営を診てくれただけではなく、その処方せんも書いてくれました。仲間の事務所の会計士のように、出納をただ計算して決算書を作って、税額はこれこれだから、納めてくださいという事務的なやり方ではなく、今期は、税をいくら納められるか、から始まるけ決算書づくりでした。そのために、妻は何度か入退社をして、退職金を払ったことになったりしていました。

 株式会社の資本金が1千万円以上でなければならなくなりました。得意先の中には、会社の資本形態で区別します。当時、3百万円の資本金の株式会社にとって、有限会社にもできず、かといって、その差の7百万円を用意することも不可能でした。あなたに頼って、結果、個人の借入金の返済とか、資材の現物供与とか、いろいろな方法で1千万円の資本金にすることができました。








2009/11/12 15:46:07|フィクション
アガペのラブレター 53
05章 成長時代 053

代理店で偉くなっていた同僚
同業・GHさんへ 「協働配慮」

 広告代理店は、代表者一人で切り盛りしているところから、数千人もの社員を抱える企業まで、その規模は千差万別である。大手メーカーやグループ企業など、広告出稿量の多い企業は、傘下に広告代理店を持っている。扱いの広告仲介料金だけで、数十人もの社員でも十分に経営できる。この代理店には、クリエイターと呼ばれる制作者がいるところもあるが、営業や貴各部門、販促管理部門が中心になる。制作は、外部のプロダクションに外注していた。

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遺言その53
制作部長という肩書き

 SB社でデザイナーをしていたあなたが、MグループのハウスエージェンシーAM社で、制作部長になっていました。あの頃のことは、どんなことでもHYさんが辞めたときに起こったとしていますが、多分、あのどさくさに紛れての転進だったのでしょう。おいしい仕事を持って行かれてしまっては、デザイナーとして腕の振いようがなくなったと。そんなとこですよね、Gちゃん。

 SB社の二人のデザイナーのうちの一人だったあなたは、就業中から、社外のアシスタントと一緒に、せっせとアルバイト仕事に勢を出す先輩のHさんとは違って、真面目に、じっくりと仕事に取り組んでいました。マニュアルなどの編集ものは、外部のデザイナーに頼り、社内デザイナーのあなたたちは、色もののカタログとか、ポスターなどのデザインをしていたようです。

 独立して、フリーにはならなかったあなたが、辞めてからどのような経路で、AM社にたどり着いたのか知りません。そこは中堅広告代理店として名が通っていて、Mグループの社内広告部といったところです。デザイナー出身のあなたが、どんな仕事をして出世して行ったのでしょうか。弟さんも、同じ会社にいて、メールアドレスでは、BIGかBOSSのbが頭についていました。

 あなたとも仲がよかったATさんと一緒に、仕事を手伝いました。店頭電飾サインを、M社の営業ネットワークで市場展開するプロジェクトで、市場参入は二番手でした。パートの女性営業員たちを特訓して、受注しようとする企画で、特訓とマニュアルで戦力化しようと。特訓のゼミは、ATさんが紹介した女性の中小企業経営診断士HIさんに担当してもらうことになりました。

 彼女は、女性中小企業経営診断士のグループをつくって、代表幹事となり、個々の活動とは別なアプローチからの活動を展開しようとしていた矢先でした。私は、そのグループを「グループ赤とんぼ」と命名し、その事業企画をつくりました。その嚆矢ともなるゼミで、採用したパートのセールスレディたちを特訓してもらおうという企画で、マニュアル制作に先行して実施されました。

女性経営診断士との協働

 「グループ赤とんぼ」の事務局を、私の四ッ谷の事務所で運営することになりました。私のつくる企画とも提携でき、商売にもなると目論んだのです。何度か、彼女たちに事務所にきてもらって、打合せをしました。いずれのメンバーも、実際のコンサルティング経験はまだ少ないようでしたが、個性的で、頭脳明晰な人たちです。講習会の講師等が主な仕事になっていたようです。

 資格取得講座ビジネスの、若くて知性美が輝く看板講師です。商工会などからの依頼で、商店のカウンセリングもしているということでした。男性の診断士は、資格を取っただけでは、カウンセリング業務はおろか、講師のお呼びもかからないほどに増殖を続けていました。女性診断士のアピールパワーは強力です。診断士を目指すひとたちの、アイドル的な先覚者であったようです。

 HIさんに、販促指導のケースを聞いたことがあります。男性スーツ専門チェーンで、売り上げ増強策を求められ、古いスーツの下取りをしようと提案して採用されたと。洋服ダンスに、新しいスーツを入れるためには、古いスーツを処分してもらえばいい。ただ捨てるのではなく、新規購入のための費用の足しになる。そのものズバリの明解な、直球ストライクの解決策です。

 経営分析は、学んだ通りの手順にそって実施できます。中心市街地開発事業などの、政府施策の情報も、協会を通していち早く入手でき、その準備も怠りなくできます。知り合いの診断士は独立して事務所を構えるのは、至難だと嘆いていましたが、少しは給料に色がついた勤務先の名刺に、肩書きとして刷り込めて、ちょっとは話を聞いてもらえるくらいかなと。

 あなたのしかけたプロジェクトの、セールスレディの特訓ゼミに入る前に、マニュアルの構成をつくるために、内容の摺り合わせのために、彼女と打合せをしました。ATさんはギャラの交渉にもあたったようですが。仲介料なしの、新人講師の相場を支払ってもらえた。ただ、この電飾サインのプロジェクトは、本格導入する前に頓挫してしまったようです。

イヌネコ本の編集企画

 あなたから、Mグループの印刷会社のH社に、役員として移籍することを聞きました。これまた出世で、仕事が増えると期待含みでの、新たなおつき合いが始まりました。手がけた仕事が、某獣医大の教授の監修によるペットの医学本の、J出版社への提案企画です。事務所を多摩の自宅に移したころで、海のほとりまでの遠い道のりを通いました。

 どんな内容のものにするか。市販の目についてペット本から、専門書まで集めました。かなりの量になります。ざっと目を通して、参考になりそうな何冊かに絞りました。監修する教授は、かなりの個性的な人らしく、売れそうな本というよりも、まず、彼のOKが取れそうな内容にするためだと。ずっと以前に出したという本をも下敷きにすることになりました。

 目に止まった本が、アメリカで出版された、家庭向けのペットの医学本の翻訳もので、イラストを豊富に使った読みやすそうな本です。展開はこの方向で行くとして、内容をどうするか。イヌ派、ネコ派と区別されるように、イヌネコの合体本ではなく、イヌ本、ネコ本に分けることにしました。似たような症例もあるようで、制作の負担が軽くなりそうだというのも理由のひとつです。

 執筆もその教授がするということでした。実際には、弟子たちが書くことになるわけですが、その元を書くのがこちらです。大先生に見てもらう前に、小先生たちが自分で書くという、チェック仕事をするわけです。実際の執筆はこちらに回ってきます。チェック作業は、繁忙期を外すということでしたが、こちらは、すぐテータペースづくりに取りかかります。これが結構やっかいです。

 出版社のチェックも入ります。四、五ヵ月時間を費やしたでしょうか。途中、十万円の請求を受けてもらいましたが、それまでの手間賃は、安くて月二十万としても。百万弱にはなります。結局は、教授の都合とかで、中止ということになりました。給料をもらっている、あなたはいいでしょうよ。「中止になりました」というメール1本の通知だけというのは、ないんじゃない。







2009/11/12 15:33:06|フィクション
アガペのラブレター 52
05章 成長時代 052

いつも企画採用のES社課長
施主・SYさんへ 「提案与頼」

 かつて、企画書の書き方のハウツウ本が売れていた。男が、自社のホームページを初めてつくったときのプロバイダーをお願いしたKさんも、企画書の書き方の本を出版していた。そこそこ売れているらしく、結構、印税も入っていたようだ。よくできた内容だったが、企画書としての体裁よりも内容を重視していた男にとって、少しもの足りなかった。企画書とはアイデアを伝えるメディアであり、種類にしなくても、言葉での提案でこと足りたこともある。

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ハウスオーガンから始まった

 新しいクライアントのE社の宣伝課長のあなたは、パイプの煙をくゆらせていました。始めての仕事は、SS(サービスステーション)向けのハウスオーガンの編集制作でした。その前まで、V社のハウスオーガンづくりに携わっていた私の得意分野です。前に担当していたTO社の仕事を見せてもらいました。PR誌にもなっていなくて、私たちに代えた理由が納得できました。

 E社は、世界的なマーケティングを展開している企業ですが、現地の市場特性に合わせた、きめ細かい施策を実践している会社です。こんな編集では満足できないはずだと思っていたら、その通りだと担当のHNさんが言います。消費者向けのお知らせのPR誌感覚でつくっているようで、マーケティング戦略の一環として機能していない。SPのプロの仕事ではありませんでした。

 あなたにはそれが歯がゆかったのでしょう。担当者に権限を全面的に委譲している組織です。私たちの力は未知数でしょうが、いままでよりもましといった程度の期待だったかもしれません。それはしかたのないことで、実際の仕事を通してしか認めてもらえません。このES社で、私はハウスオーガンの仕事を通して、次々に新しい仕事をつくり出していきました。

 ハウスオーガンは、基本的にセールスマニュアルだとするのが私の持論です。販売店が、元売り会社やメーカーに求めているのが商品だけではなく、売るノウハウもあります。そのノウハウは、机上の空論ではなく、自店が置かれている市場で有効なものでなければなりません。これを提供するメディアが、セールスマニュアルであり、定期刊行のハウスオーガンだとしていました。

 売り方の中には、セルフサービス店のような、陳列方法や価格設定などによって売上げが大きく左右する販売方法もあります。一方で、対面販売が基本の売り方をする販売店では、どのようにうまく売るかには、提案を含めて、いろいろな要素がからみ合ってきます。ES社の商品はガソリンを中心とした自動車のための消耗品であり、販売形態は、SSでの対面販売です

取材法を磨いた

 売れるノウハウのヒントは、販売の現場にあります。私たちは、現場を訊ねて、それを見つけ出します。ポイントはたくさんあり、一筋縄ではいきません。観て、聴いて、想像することから始まります。それまでも販売店のインタビュー記事が掲載されていましたが、あらかじめ準備した質問に答えてもらい、それを紹介する内容で、ノウハウ探索の取材記事にはほど遠いものでした。

 そんな取材なら、現場まで出かけていかなくても電話でもできます。写真が必要なら、撮って送ってもらえばいい。ノウハウは、現場でしか発見できません。重要なポイントには、現場の当事者でも気づかないものもあり、それを探し出してあげます。見つけた喜びはひとしおです。取材の質問はあらかじめ用意していますが、現場の状況によって、変わっていきます。

 現場の音を聴き、空気を嗅いで、商品に触って、スタッフや来店客の表情を読んで、出されたお茶を味わって、トイレを借りる。POP広告やディスプレィだけではなく、売りの現場が語りかけてくるものを吸い取って、整理してみる。売れたノウハウの輪郭が見えてきますが、それはその現場だけが発揮できる固有のものです。どこの販売店でも使える普遍のノウハウではありません。

 これをハウスオーガンに載せても、「へえ、そうですか」と受け取られる自慢話になるだけで、セールスマニュアルにはなりません。全てとはいかなくても、多くの販売店が使えるノウハウに構成し直す作業が必要になります。取材しながら、当事者たちが気づいていないノウハウを明確にして、それを意識して磨きあげるアドバイスも、仕事のひとつと考えていました。

 後輩の若い人がお昼を挟んだ取材から帰ったら、まず、何を食べさせてもらったかを聞いたものです。お茶も出なかったケースから、ビールとステーキをごちそうになったまで、どんな応対をされたかで、取材の出来がわかるというものです。そして、記事にして喜ばれ、その記事を他の人に見せていることを人づてに聞いて、ノウハウ取材が成功したと言えるのだと。

LPガスでもお世話に

 あなたに、こんな取材のできる仕事をさせてもらいました。その頃に展開していた全国統一プロモーションのセールスマニュアルにも、使えるノウハウどころか、不可欠の要素です。提供するPOP広告の型通りのインストラクションシート程度だったマニュアルが、充実してこの企画制作が、私の仕事になります。こんなやりかたで、仕事を増やしていきました。

 担当者と私の仕事を、あなたはよく見てくれていました。宣伝部の課長が代わるときも、あなたはしっかりと、仕事と私たちを次の課長に繋いでいってくれました。そのためもあって、新しい課長の下でも、快適な環境の中での仕事が楽しくできました。この業界の仕事は会社が変わっても、人についてきます。E社の仕事は、SA社を辞めた後も、私たちのグループについてきました。

 あなたは、LPガス・マーケティングの担当課長になって、一緒に仕事をさせてもらうことになりました。そのころは、私が別会社にしていたこともあって、ルーチンワークは、仲間のNTさんが営業を、制作の実務はSYさんが担当していました。新しいプロジェクトのときに、身内のスタッフとして企画を手伝います。気心が知れた仲で、提案する企画はそのまま通っていました。

 安全キャンペーンの展開とキャラクターの設定、販売店CIの推進など、あなたは精力的に新規プロジェクトに取り組んでいました。私は、要所要所で打合せに加わり、企画の提案を行ないます。やがて、ずっとあなたの仕事をしてきた仲間のNTさんのSS社が破たんしてしまいます。あなたがE社を定年退社するときと同じころでした。急なことでした。

 それまでの仕事の流れを知っていた私は、NTさんの代わりに仕事を手伝おうと名乗り出ました。E社と契約を交わし、年間キャンペーンのツールづくりを手伝います。担当は、あなたのアシスタントだった年輩の女史です。異様なほどに厳しく、悪し様に罵るように指示します。本人は「口が悪いので」といっていましたが「口が汚い」お人で、ついて行けませんでした。