03章 青春時代 22
いまなお心に残る初恋の人 友人・MHさん
地方の中学を出た十五歳の少女から勤める職場だった。男子だけの工高から、一挙に花園に舞い降りたようなもので、最初、男は身の処し方に戸惑った。いまの時代なら、その気になれば、いくらでも女の子たちと愉快に交流できるだろう。しかし、男の同期生にも、後輩たちにも、彼が知る限りにおいて、職場の女性を弄ぶような者はなかった。そんな環境の中でも、男は選ばれ、女もまたも選ばれて、ある者たちは恋におちた。
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あなたのふるさとは変わっていました
いま、あなたが生まれ育ったまちで生活しています。ひとりです。妻や子らとは別に、ここに移ったのは2002年3月、楽しい引越しではありませんでした。あの時代から、四十数年もたちます。駅舎も町並も変わっています。あなたの住まいが、どのあたりだったのかも特定できずに、多分この辺かというあたりも変わっています。あなたはいま、どこで、どのような家族に囲まれているのでしょうか。
出会いは、荻窪あたりの労音の会場でしたね。二十歳の私と、十九歳のあなたとの幼い恋が始まりました。いつかは結婚をと誓った恋は三年ほどで終わりを迎えました。最も多感なころでした。職場での仕事も楽しく、乗りに乗っていました。オフの会社の文化活動にも積極的で、田舎で鬱積したつらい思いを、一挙に爆発させるような日々でした。あなたのすすめでコーラス部に入って歌ったりしていました。
母に仕送りしたり、雑誌や単行本、文庫などを買ったり、映画や演劇、音楽会なども楽しめました。多くはなくても不満なく生活できる給料ではありましたが、貯金するほどの余裕はなく、デイトの費用にも事欠くような経済状態でした。中学を出て家計を助けるために就職した長女のあなたもつつましい生活でしたね。しかし、それを物質的にさほど不満を感じたことはありません。手の届く範囲の生活で満足できる時代でした。
私たちはデイトに、奥多摩にハイキングに出かけました。お金がかからなかったせいもあります。そのころ休日の青梅線がラッシュ並に混雑するほど、若い人たちの間でハイキングはブームでした。歌声喫茶で山の歌を歌い、私のような地方出の若者たちが、なれない窮屈な職場から解放される広い空間を求めたのかもしれません。ブームとはいっても、山に入れば.二人きりの世界になれます。
つき合って大分たったころ、私はあなたを五日市の奥、笹尾根に誘いました。そこは友人のMとよく歩いたハイキングコースで、やさしい陽射しがふりそそぐ、カラマツやススキの美しい、穏やかな起伏の尾根です。二人きりになれること、セックスまでは無理にしても、キスくらいは許してくれるのではないかと期待していました。なにしろ、抑えきれないほどの性欲に満ちた若者でした。
婚前の性がタブーの時代の幼い恋でした
昼食休憩にしようと、コースをはずれた草むらに席をつくりました。正直、次への期待で、あなたがせっかくつくってきてくれたおにぎりをゆっくり味わうどころではありません。早々に食べ終わると、肩を抱きよせ、キスを求めます。激しい抵抗にあったのです。それでもと求めます。抵抗は弱まるどころか、ますます激しくなり、ついには立ち上がり、泣き出して、逃げ出すあなたでした。
全身で泣く、好きな少女の嗚咽を前にして、それでもと踏み込むには、幼すぎる私でした。そのまま突き進んでいれば、それからの人生も別のものになってしまったかもしれません。婚前交渉はタブーの時代です。頑なまでに守り通そうとしたものは何だったのでしょう。付き合って何か月かたち、お互いの思いも確かめあっていながら、ちょっとした接触までを拒んだ行為は、少女の恐怖心だったのでしょうか。
悲しみは伝播します。好きな男の悲しみは、少女にすこしずつ妥協をもたらしました。その日からすこしたって、あなたはキスを許してくれましたね。そのころのまちにあった背もたれの高い一方通行型のシートが並ぶ同伴喫茶店が、私たちの逢い引きの場になりました。会社を終えて連れ立って吉祥寺に向かいます。もどかしい時間をむさぼった後、あなたを福生に見送っていきました。
福生の駅から、ゆっくり時間をかけてあなたの家に。家の裏の暗がりの中で、また、抱き合い、口づけを交わします。いつかこの行為だけで、それなりの満足を得るようになっていました。別れたくなくて、福生の夜のまちを歩き回ったことありましたね。玉川上水のあたりから多摩川べりが、幼い恋人たちの夜の愛を確かめあう散策コースでした。その福生に、いま、棲んでいます。
お互いに、結婚して一緒になるのは必然だと思っていました。愛のもどかしさについて考えました。どんなに愛しあっても、愛の行為をかわしてさえ、ひとつになれないもどかしさと悲しみ。私の文学のテーマが生まれたのは、あなたとの愛の中からでした。そんな思いを私の小説の中で、戯曲やシナリオの中で、求め続けました。いま読んでも瑞々しいいくつかの作品が生まれました。
二人で山形の母の元に行きました
ふるさと山形にまつわる楽しい思い出があります。夏の休みを利用して、私たちは友人のカップルと一緒に、蔵王山に登る計画を立てました。上の山口の方から登ってお釜を越えて、かもしか温泉で一泊、蔵王温泉に下りてそこでもう一泊して、山形市に下りる。友人たちとはそこで別れて。私たちは天童市街にひとり住むようになっていた母のところに行くというスケジュールでした。
お揃いのシャツをつくろうと、洋裁ができたあなたに頼みました。黒い半袖に、白いステッチのすてきなオリジナルのシャツは、友人らにうらやましがられました。上野駅から夜行に乗り込み、朝早く山裾につき、そこから登りはじめます。あいにくの小雨まじりの天候でしたが、霧の中をお釜を目指しました。引き返すに返せない中で頑張って、晴れたお釜を見下ろすことができました。
今はなくなっているというかもしか温泉は、歩いてしかいけない山小屋の温泉宿でした。若いハイカーたちと着たままの雑魚寝でしたね。その夜に見た美しい天の川は、翌日の晴天を約束してくれました。翌朝、遠刈田から蔵王温泉に予約していた宿に泊まりました。そして、次の日、山形駅で友人たちと別れた私たちは母の待つ天童市の、私にとっても始めての部屋でリュックをおろしました。
もう一度、二人で母の元に向かったことがあります。その前の正月に、上京した母とすっかり親しくなっていたあなたを連れて、婚約を確かなものにする旅のはずでした。また、上野駅から夜行列車に乗り込みました。興奮しながら眠れないままに天童駅に降りた私たちを、叔父が待っていたのです。そのころ東京の化粧品メーカーに就職して間もない弟が自殺未遂を起したというのです。
私たちが帰ることを知っていたはずの弟の行為に、憤りを感じながら、ゆっくり休む間もなく、私たちは東京に向かっていました。眠るまいと努力するあなたを無理にでも眠らせようとしながら、何故だ、を繰り返していました。弟は命をとりとめましたが、それから数カ月後、私とあなたは、この事件とは関わりない理由で別れることになりました。別れてからが、つらくて悲しい別れでした。
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