孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/01/29 16:03:44|フィクション
アガペのラブレター 22
03章 青春時代 22

いまなお心に残る初恋の人
友人・MHさん


 地方の中学を出た十五歳の少女から勤める職場だった。男子だけの工高から、一挙に花園に舞い降りたようなもので、最初、男は身の処し方に戸惑った。いまの時代なら、その気になれば、いくらでも女の子たちと愉快に交流できるだろう。しかし、男の同期生にも、後輩たちにも、彼が知る限りにおいて、職場の女性を弄ぶような者はなかった。そんな環境の中でも、男は選ばれ、女もまたも選ばれて、ある者たちは恋におちた。

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あなたのふるさとは変わっていました

 いま、あなたが生まれ育ったまちで生活しています。ひとりです。妻や子らとは別に、ここに移ったのは2002年3月、楽しい引越しではありませんでした。あの時代から、四十数年もたちます。駅舎も町並も変わっています。あなたの住まいが、どのあたりだったのかも特定できずに、多分この辺かというあたりも変わっています。あなたはいま、どこで、どのような家族に囲まれているのでしょうか。

 出会いは、荻窪あたりの労音の会場でしたね。二十歳の私と、十九歳のあなたとの幼い恋が始まりました。いつかは結婚をと誓った恋は三年ほどで終わりを迎えました。最も多感なころでした。職場での仕事も楽しく、乗りに乗っていました。オフの会社の文化活動にも積極的で、田舎で鬱積したつらい思いを、一挙に爆発させるような日々でした。あなたのすすめでコーラス部に入って歌ったりしていました。

 母に仕送りしたり、雑誌や単行本、文庫などを買ったり、映画や演劇、音楽会なども楽しめました。多くはなくても不満なく生活できる給料ではありましたが、貯金するほどの余裕はなく、デイトの費用にも事欠くような経済状態でした。中学を出て家計を助けるために就職した長女のあなたもつつましい生活でしたね。しかし、それを物質的にさほど不満を感じたことはありません。手の届く範囲の生活で満足できる時代でした。

 私たちはデイトに、奥多摩にハイキングに出かけました。お金がかからなかったせいもあります。そのころ休日の青梅線がラッシュ並に混雑するほど、若い人たちの間でハイキングはブームでした。歌声喫茶で山の歌を歌い、私のような地方出の若者たちが、なれない窮屈な職場から解放される広い空間を求めたのかもしれません。ブームとはいっても、山に入れば.二人きりの世界になれます。

 つき合って大分たったころ、私はあなたを五日市の奥、笹尾根に誘いました。そこは友人のMとよく歩いたハイキングコースで、やさしい陽射しがふりそそぐ、カラマツやススキの美しい、穏やかな起伏の尾根です。二人きりになれること、セックスまでは無理にしても、キスくらいは許してくれるのではないかと期待していました。なにしろ、抑えきれないほどの性欲に満ちた若者でした。

婚前の性がタブーの時代の幼い恋でした

 昼食休憩にしようと、コースをはずれた草むらに席をつくりました。正直、次への期待で、あなたがせっかくつくってきてくれたおにぎりをゆっくり味わうどころではありません。早々に食べ終わると、肩を抱きよせ、キスを求めます。激しい抵抗にあったのです。それでもと求めます。抵抗は弱まるどころか、ますます激しくなり、ついには立ち上がり、泣き出して、逃げ出すあなたでした。

 全身で泣く、好きな少女の嗚咽を前にして、それでもと踏み込むには、幼すぎる私でした。そのまま突き進んでいれば、それからの人生も別のものになってしまったかもしれません。婚前交渉はタブーの時代です。頑なまでに守り通そうとしたものは何だったのでしょう。付き合って何か月かたち、お互いの思いも確かめあっていながら、ちょっとした接触までを拒んだ行為は、少女の恐怖心だったのでしょうか。

 悲しみは伝播します。好きな男の悲しみは、少女にすこしずつ妥協をもたらしました。その日からすこしたって、あなたはキスを許してくれましたね。そのころのまちにあった背もたれの高い一方通行型のシートが並ぶ同伴喫茶店が、私たちの逢い引きの場になりました。会社を終えて連れ立って吉祥寺に向かいます。もどかしい時間をむさぼった後、あなたを福生に見送っていきました。

 福生の駅から、ゆっくり時間をかけてあなたの家に。家の裏の暗がりの中で、また、抱き合い、口づけを交わします。いつかこの行為だけで、それなりの満足を得るようになっていました。別れたくなくて、福生の夜のまちを歩き回ったことありましたね。玉川上水のあたりから多摩川べりが、幼い恋人たちの夜の愛を確かめあう散策コースでした。その福生に、いま、棲んでいます。

 お互いに、結婚して一緒になるのは必然だと思っていました。愛のもどかしさについて考えました。どんなに愛しあっても、愛の行為をかわしてさえ、ひとつになれないもどかしさと悲しみ。私の文学のテーマが生まれたのは、あなたとの愛の中からでした。そんな思いを私の小説の中で、戯曲やシナリオの中で、求め続けました。いま読んでも瑞々しいいくつかの作品が生まれました。

二人で山形の母の元に行きました

 ふるさと山形にまつわる楽しい思い出があります。夏の休みを利用して、私たちは友人のカップルと一緒に、蔵王山に登る計画を立てました。上の山口の方から登ってお釜を越えて、かもしか温泉で一泊、蔵王温泉に下りてそこでもう一泊して、山形市に下りる。友人たちとはそこで別れて。私たちは天童市街にひとり住むようになっていた母のところに行くというスケジュールでした。

 お揃いのシャツをつくろうと、洋裁ができたあなたに頼みました。黒い半袖に、白いステッチのすてきなオリジナルのシャツは、友人らにうらやましがられました。上野駅から夜行に乗り込み、朝早く山裾につき、そこから登りはじめます。あいにくの小雨まじりの天候でしたが、霧の中をお釜を目指しました。引き返すに返せない中で頑張って、晴れたお釜を見下ろすことができました。

 今はなくなっているというかもしか温泉は、歩いてしかいけない山小屋の温泉宿でした。若いハイカーたちと着たままの雑魚寝でしたね。その夜に見た美しい天の川は、翌日の晴天を約束してくれました。翌朝、遠刈田から蔵王温泉に予約していた宿に泊まりました。そして、次の日、山形駅で友人たちと別れた私たちは母の待つ天童市の、私にとっても始めての部屋でリュックをおろしました。

 もう一度、二人で母の元に向かったことがあります。その前の正月に、上京した母とすっかり親しくなっていたあなたを連れて、婚約を確かなものにする旅のはずでした。また、上野駅から夜行列車に乗り込みました。興奮しながら眠れないままに天童駅に降りた私たちを、叔父が待っていたのです。そのころ東京の化粧品メーカーに就職して間もない弟が自殺未遂を起したというのです。

 私たちが帰ることを知っていたはずの弟の行為に、憤りを感じながら、ゆっくり休む間もなく、私たちは東京に向かっていました。眠るまいと努力するあなたを無理にでも眠らせようとしながら、何故だ、を繰り返していました。弟は命をとりとめましたが、それから数カ月後、私とあなたは、この事件とは関わりない理由で別れることになりました。別れてからが、つらくて悲しい別れでした。







2009/01/29 15:04:30|フィクション
アガペのラブレター 21 〈青春時代〉
第三章 青春時代

 男にとって、その職場はまさしく新天地だった。そこで学び、体験したことは、後の人生に大きな影響を受けたと思っている。工業高校で教わったことは、ほんの序の口で、そこで得た知識は、次の知識を学ぶための、準備体操のようなものだった。仕事や生きていく上での知恵や知識、技術は、その後に、どこで、誰に、どんなことを習ったのかで、その人生が決まってくるようだ。

 入社した年に、ちょうど創業五十周年を迎えた企業で、その事業所は新設の工場だった。つくる製品も、トランジスタやダイオードなどの半導体で、今までにない全く新しいジャンルの工業製品だった。何もかもが新しく、製造の標準規格を手探りながら作り上げていた。製造現場では、提携していたアメリカの工場に学んだ方法で、それを日本流に手直しした方法で作っていく。良品歩留りも低いものだった。

 塵埃や温度湿度の変化を排した製造環境は、エアコンが徹底していた。製造方法は、手作業中心で、三千名ほどの従業員の八割方が、近在の市町村をはじめ、全国から募集された女子工員だった。そのために、工高の新卒者でも、現場でもスタッフ部門に配属され、工程管理や品質管理、合理化推進などの職務に就いた。前例がなく、トライ&チャレンジの毎日で、小さな改善でも大きな成果に結びついていった。

 男は、製造現場のスタッフとして、現場での品質管理や工程管理を任され、機械課出身ということで、作業治工具の改善設計なども任された。それらの仕事の中で、提携先のアメリカ企業から持ち帰った技術を、その工場の製造現場に合わせて改良するなどの他に、標準作業時間の設定や作業手順書の作成など、その企業を離れた後でも役立った知識や技術が多い。おそらく従来型の職場ではかなえられない職務だったと思う。

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03章 青春時代 021

入社時からの頼りになる親しい友
友人・MYさん


楽しかった国分寺界隈での青春時代

 1960年4月、あなたは宇都宮、私は山形から上京し、H社M工場に入社しました。住んでいた独身寮や職場があったのは小平市でしたが、JR国分寺駅界隈は私達が青春を過ごしたところ。この夏の猛暑が始まるちょっと前に、通過するだけの場所になっていた国分寺に行きました。これといった用もなく、駅から街に足を伸ばすのは三十数年ぶりの、H社を辞めて以来のことです。

 北口から北に延びる狭いバス通りを進み、NTT営業所がある通りを左に折れ、西武多摩湖線沿いの道から、住んでいた独身寮に向いました。四十年に近い歳月は東京郊外の街並を大きく変えていましたが、道筋だけはかつてのままでした。工場周辺も大きく変わっていました。帰りの道で見た、あの頃に通っていた理容店が朽ちてはいましたが、営業しているらしいことに、妙な感動を覚えました。

 高校を卒業して入社した私達昭和60年同期生四十名余のうち、地方出身の男子十数人は、できたばかりの独身寮に住むことになります。合理的な設計の二人部屋で、五階建ての一階と二階が私達に割り当てられていました。工場に隣接する立地で、作業服のまま、最短路を歩いて数分で通え、通用門から職場までの方が距離があるほどです。工場もできたてで、増築が進み、すべが新鮮でした。

 IT産業の創成期でした。トランジスタをつくる最新鋭の工場は、年々、従業員を増やし、私達がいた頃の最盛期で、三千名近くの従業員が在籍していたでしょうか。そのうち七、八〇%は女子従業員で、近在の市町村からはもちろん、全国各地から募集されていました。金の卵と云われた女子中学卒業者たちには、専用の教室があり、正規の高校卒業の資格が授与される制度もありました。

 工業高校の卒業者のうち、製造現場に配属された者は、いきなりスタッフの職務につきます。私は二百名程の製造現場で、組長や先輩スタッフと机が並べられて、作業管理や品質管理などの仕事に就きました。三ヵ月間の試用期間が過ぎても、職務に関連する科目について、みっちり二年間、教育を受けることになります。仕事をおぼえ、こなしながらで、半ば学生生活のようでもありました。

幼いなりに力をふるえた仕事環境

 あなたは同じ課直属の品質管理スタッフで、全工程を縦断的に受け持っていました。工程スタッフの私らと協力しながらの仕事でしたね。私の最初の一、二年は、工程の品質管理で、不良品対策が主な仕事でした。初期のトランジスタの製造歩留りは低く、不良の原因をいろいろな試作を続けながら見つけて、改善していきます。工夫した効果が見える仕事であり、それなりの充実感がありました。

 ラインはまさしく労働集約型で、女子作業員達は、手早い器用な動作で作業をこなしていきます。これらの作業のひとつひとつを細かく分析し、改善して、組み合わせて、より効果的な作業にします。それを検証して、現場に降し、各ステップの作業時間に合わせて人員の配置数を調整してベルトコンベアのスピードを変える。作業者に負担をかけないで実現することが腕の見せどころでした。

 手作業から治具化、機械化、自動化という流れの中で、手作業段階では、標準作業時間の設定をワークファクターの手法を使って行ないます。その傍ら、作業の治具化を進めていました。その頃、会社が提携していた米国R社から、研修社員が持ち帰った作業治具の図面を、私の現場の実情に合わせて設計し直し、製作すること。高卒二、三年目の私に与えられた重い仕事ではありました。

 勤務先を自らが強く望んで、厳しく選ばれて入社してくる大学卒業者と違って、工業高校を卒業して就職した私とは事情が違ってきます。高校に行かさせてもらったからには、卒業したら就職し、家に仕送りをするということは、中学二年の十三、四歳の時に決めざるを得ない、それ以外に選択肢のない道でした。自分の適性や希望で仕事を選ぶことなど、考えてはならないことでした。

 山形の片田舎の中学、高校進学さえままならないような時代で、大学に進めるのは、同学年全体の五%にも満たないほどです。戦争中に、母親の郷里に疎開したままに住み着いた、家族四人の母子家庭では、普通なら高校入学はかなわないことでした。就職していた兄の援助で、やっとの思いで実現しました。卒業して有利に就職できるとされていた工業高校への入学がやっとのことです。

勢いで七年で辞めてしまいました

 六〇年頃は日米安保条約で世間は騒然としていました。しかし、ポッと出の私には遠い世界のことです。寮と工場を、作業服のまま徒歩で行き来し、時事問題を話し合う家族も仲間もいない日常の中では、閉鎖的ですがそれなりに大きい企業社会が全でした。しかし、その頃に純真無垢の田舎出の若者の温室であった寮に、民青のオルグが入り、私達同期生を一人、二人と変えていきました。

 同期の何人かは、彼らの仲間になっていきます。当然のように会社の介入がはじまります。特に、私達同期の寮生は、同類の仲間として生活が監視され、労働組合からも排除の対象になります。彼らの理想とする考え方や、その実現社会の有り様を、素直には受け入れない程には大人であったあなたと私は、いっそう親しくなっていきました。同期生の中には、のちに解雇された者もありました。

 私は職場での少ない男子であることや、社内の文芸誌に創作を発表していたことなどもあって、職場では割合に名前を知られた存在でした。労働組合の執行部役員の人気投票のような予備選挙が行なわれて私も選ばれました。まず候補者を選び、本選挙をという段取りでしたが、問題の60年入社組であることから、職制の組長を通じて立候補を棄権させられました。誇りは傷つきました。

 その後、民青の進出を防ぐためもあってか、労組役員立候補者は予選なしで決められ、名前だけの選挙になりました。当時の企業組合の通例でしたが、それでも労組は何回かのストライキを実施しています。そんなときには、小遣いの少ない私達は、街の食堂で弁当を作ってもらい、奥多摩や五日市の嶺歩きなど登山を楽しんでいました。秋川から入る笹尾根は、私達の好きなコースでしたね。

 寮を出て母親と弟との三人での生活が始まり、私は退社します。会社では遺留されましたが、自分なりにお礼奉公もしたと思う、会社にお世話になった七年間でした。しかし、生活がかかっている私にとっては、無職の期間は許されません。退社前に決めていた、四ッ谷の洗車機販売会社のサービスエンジニアとして就職して再出発です。H社の経歴も面接試験には役立ちました。








2009/01/12 14:52:33|福生な人たち
14 福生おもちゃの図書館“チューリップ”
遊びを豊かにするおもちゃで育む

500点ものおもちゃと楽しく遊ぶ

 子どもたちは、遊びの中で「学び」ます。おもちゃは「遊び」を豊かにする道具です。「おもちゃの図書館」は、障がいのある子どもたちに、おもちゃの素晴らしさと遊びの楽しさを、という願いから始まった世界的な広がりのボランティア活動です。
 福生おもちやの図書館チューリップ(綾部晴美代表)は、一九八八年三月、障がいをもつ子どもの親たちの「手をつなぐ親の会」の人たちの熱意により設立され、親の会とボランティアで運営されています。平成七年から、福祉センターの中で運営されています。

 障がいのある子どもたちの中には、上手に遊ぶことができない、またおもちゃに興味を示さない子どもがいます。そうした子どもに沢山のおもちゃを用意して、気に入ったおもちゃを選んで遊ぶ場と機会を提供し、家でも楽しく遊べるようにと貸出しをするのがおもちゃの図書館です。

 チューリップを利用できるのが第2、第4土曜日の午前10時30分から午後3時30分まで。障がい者(児)と一般未就学児、その保護者が対象です。福祉センターの広い保育室には、ボールプールを始め、500点以上ものおもちゃがあり、お母さんたちの交流の場にもなっています。おもちゃの貸し出しもあり、障がい者(児)は2つまで、健常者は1つを次の開催日まで借りる事ができます。

 子どもが求めるおもちゃは時代とともに変わってきています。かつて、人気のあったブロックなどから、いまは電気で動くものが好まれていとか。壊れることもあり、いまは、月一回、同じ場所で活動している「おもちゃの修理屋さん」に直せるものは直してもらっているということです。おもちゃの購入は、年に1回、人気のもので壊れたりしたり、要望の強いものがあったら、年の途中でも買いにいくときもあります。

課題はお母さん世代の参加

 スタートした当時は、障がいのある子どもとその兄弟姉妹のための活動でしたが、現在は障がいのある子もない子も、ともに遊び、交流し育つ場となっています。子どもの発達を促すだけでなく、お母さん、お父さんにとっても、情報交換をしたり友人を作ったりする場、心を開き肩の力をぬいて語りあえる場です。

 現在、利用者は障がい者よりも、就学前の子どもたちの方が多くなリ、全体としては少しずつ少なくなっています。運営スタッフは10名ほどのボランティアで、「手をつなぐ親の会」の会員よりも一般ボランティアの方が多いとか。代表の綾部さんをはじめ、メンバーの皆さんにお話しを伺いました。

 「ここ数年、障がい者や障がい児たちを支え、支援する施設やグループが増えるなどして、この福祉センターに来た10年前にくらべて利用者は減ってはきています。でも、おもちゃが、障がい児を健やかに育てる効果や、私たち親たちを含めて、知り合い、交流しあうこの活動を、絶対になくしてはならないと思います。なくしてしまったら、もう一度立ち上げるには、並みの苦労ではないでしょう」

 「赤ちゃん連れのお母さんには、私たちが赤ちゃんを見ているから、大きい子と遊んであげてねとお願いしたりすることもあります。ここには子育てを終えた先輩として相談に乗れる頼りになるお母さんたちがいます。子育てについての相談や同じ仲間との話し合いも、子どもがおもちゃで夢中で遊んでいるときにもできます」

 「夏ボランティア」に、中高生の若い人たちに選ばれます。最初の頃は、一緒に遊んでとお願いしても、兄弟が少ないせいもあってか、幼い子とどう遊んでよいのか分らない様子も見られるとか。しかし、ゲームなどを一緒に楽しむうちに、子どもたちとすっかり打ち解けて仲良くなるそうです。「中学生とか女の子がお相手すると、一生懸命に話したりしています。私たちが相手するのと違って、子どもたちの目の輝きがちがいますね」

 おもちゃの図書館チューリップのこれからの課題は、若いボランティアにどのように参加してもらうかにあるということです。「10年20年と長くボランティアとして運営してきた私たちは、親を介護する年代になってきました。未就学児は、孫のようなものです。若い元気な手助けがほしいんです」

 利用する子どもたちの親の世代のボランティアの参加をと願っています。高齢者介護支援のボランティアなら、活動内容は何となく分るのでしょうが、ここではどんなことをしたらよいのか分かりにくいこともあるのかもしれません。「やっていたたくことは、おもちゃの準備や片付け、貸し出し業務の他に、子どもと一緒に楽しく遊ぶことなんですよ」と元気いっぱいのボランティアの皆さん。子どもたちから元気をもらっているのでしょう。       







2008/11/26 1:36:18|エッセイ・日々是好日
とりあえず
百遍の日々是好日 2008.11.26(水)

 2008年08月19日より、100日間、ブログエッセイとして「日々是好日」を掲載させていただきました。お陰さまで、08年11月26日、午前1時現在で、延べ4千700名近くの方々のお目にかかりました。t-netさんのご厚意に、改めて感謝させていただきますとともに、おつきあいいただきました皆さまに、衷心より感謝させていただきます。ありがとうございました。
 
 思いつくままに、好き勝手に、毎日毎日、独断と偏見で書き綴ってきました。百回を持ちまして、とりあえず毎日の掲載を休載いたします。もちろん、追加稿を掲載しないだけで、このカテゴリーはそのままに、これからも不定期に掲載させていただきます。私としましては、いくつか書き直したいところもあり、字句の校正を含めて、ときどき編集するつもりです。また、この続編になるかはわかりませんが、考を新たに、お目にかかりたいと考えます。あらためて感謝いたします。
 
       08年11月26日    Kurasan







2008/11/26 1:30:35|エッセイ・日々是好日
朱黄大地に 
●朱黄大地に 2008.11.26(水)

100 遺言企画
お世話になった人へ手紙での遺言

 自分の伝記は、遺言になります。遺言とは、遺産の配分法を定めるものであってもいいでしょう。それは法的にも拘束できるものとして、必要な人は作ってもいい。私の場合は、子らに残す資産は何もありません。それを彼らも承知しているでしょう。ただ、親父がどのように生きてきたかの「生きざま」の記録は、精神的な遺産になると信じて、「魂のDNA」を伝える証として「伝記」を遺言に加えることを勧めています。「自伝エッセイの書き方講座」を、このブログのプレゼンテーションのカテゴリーで「報謝巡礼」を書くための方法を紹介させてもらっています。

 ブログの本文でも書いていますが、自伝を書いてみたらといっても、なかなか書きだせるものではないでしょう。生い立ちから、少年時代、青年時代と書きすすめていくのが一般的です。日記が残っていれば、それを見ながら、また、アルバムなどを見ながら思い出すままに書き進めていく。ある時代は書くことも多いが、ある時代は特別に書くこともない。これだけは書いておきたいが、書きたくないこともあるものです。書く分量も決まっていません。自分で決めない限り、締めきりもない。いつの間にか挫折してしまう。そんなことが多いのではないかと思われます。
 
 そんな自分伝記を、書きやすくする方法はないか。そんな思いから、私はひとつのトライをしてみました。あったことを書きすすめるだけなら、いま、各地で関心を集めている聞き書きボランティアさんの仕事と、書き手が違うだけでの、同じような内容になってまう。過去にあったことに、自分はどのように受けとめ、どう考えたのかが肝心です。それを、一緒にしてくれた人との関係で見直してみたらどうなのだろうか、という視点です。その人とした出来事に、自分の思いを重ねてみよう。その方法として、その時々の人に、手紙を、仮想の手紙を書いてみようと。

 百人の人に手紙を書こうとしました。60才を過ぎた頃です。百人の人たちに、私がいま感じている感謝の思いを、その人への「遺言」という形の手紙を書こうと。タイトルを「百人巡礼」としました。親や子までの身内、学び修業したときの師匠や友人たち、仕事時代にお世話になった人たち。あげ出したら百人では納まりません。絞リ抜いて百人にして、順不同に、手紙を書きました。全部を、ほぼ同じ文字数にしました。これも長く書くためのコツでであり、執筆管理がしやすくなります。これは戦後の混乱期を生きてきた市井の市民の記録にもなると気付きました。

 予定の期日通りに、書き上げました。できたら出版したいとも考えて、手を尽くしたのですができません。パソコンのDTPで編集して、それをHONにしたり、CDにしたりしました。自費出版をと考えて、友人たちに協力を願ったのですが、それも不発でした。いまも諦めてはいないのですが、この経験を他の人にノウハウとして伝えようと考えました。まず巡礼する百人は多すぎるので半分の50人への報謝巡礼にしようと。書き方も、仕事のレポートを書くようにと、サポート体制もつくり、進捗管理を取り込むなど、いろいろな工夫をこらしてはみたのですよ。


●朱黄大地に 2008.11.25(火)

099 自伝企画
魂のDNAを残すための事実記録

 私には、息子・太郎と娘・花子の二人の子どもがいます。もう成人し、巣立っている彼らですが、子どもの頃のエピソードです。ある日、出かけていた妻が、持ち帰り寿司を買ってきました。空腹を我慢していた私は、すぐにも食べようとしたら、息子が「どの順番で、食べるか分る」と言い出しました。面白がった妻と娘は、「じゃあ、それを書いてみて」と。書き出されたメモを私に見えないようにして、「さあ、どうぞ」。私は、特別に気を使うこともなく、いつもの調子で、妻たちが見守る中、食べたい順に、食べていきます。結果、順番はすぺて当っていました。

 彼女らの歓声の中、全部正解とは、素直に感心してしまいました。少しは外れるだろうと思っていたのですが、息子は、私の好みや性格などを分かっていて、予測てきたのです。子は親たちを、彼なりに観察して、好みや性格を把握していたというわけです。親父の背中を見て、子は育つと言われてきました。確かに、毎日生活を一緒にしていれば、親のことは分るでしょう。しかし、農耕時代の生活とは違って、親と子は、24時間一緒というわけにはいきません。子が知らない親がいて、親が知らない子がいるでしょう。個室時代の今、ますます顕著になっているでしょう。

 子は、親を「分る」が「知らない」のではないか。分ることと、知ることとは違います。分かってはいるが知らない。それは当然のことでしょう。親の仕事がどんなものかを知っている子でも、具体的には知らない。その苦労や喜び、悲しみを知らない。親の子ども時代の事は、祖父母などが話していない限り知らない。まして、親父の失恋のエピソードなどは、多分、妻も知らないのではないか。父親と母親は、親や伴侶、子らが知らない歴史を背負って生きてきたのです。知らなくてもいいし、生きられる。しかし、知らないことがいろいろな社会問題の根源ではないか。

 親が、というよりも、血が繋がる父や母が、どのような時代や環境の中で、どのように生きてきたのか。どんなことに出会い、それにどのように対してきたのか、喜怒哀楽、希望や絶望など、心のひだに収めてきたたくさんの事実は、本人が明かさない限り、妻にも、子どもにも、そして、やがて出会う孫たちにも伝わりません。親を知らない限り、子どもは、親を理解したとは言えないのではないか。それは背中を見せただけでは、一緒に生活しただけでは、伝わらないのではないか。それでは、親の思いのたけが伝わらず、親の思いとは別な行動を生んでしまうのでは。

 親のことを知らせよう、というのが私の提案です。時間をみては語ってあげたいもの。しかし、語って聞かせるだけでは足りない、父親、母親の「魂」を作ってきたたくさんの事実があります。それを伝えるためには、書き残すこと。私は、それを「魂のDNAの伝記」と呼ぶ「遺言」です。子どもらには、いま、すぐにも読ませたい。しかし、いま読んでもらえなくてもいいのです。書かれたものは、記録として長く残ります。いつか読んでもらえばいい。子らは、孫らは、精一杯生き抜いてきた親の事実を知れば、何かが変わるはずです。それを信じて書き残すことです。


●朱黄大地に 2008.11.24(月)

098 指南企画
スキルではなく飲み場でイデアを

 事務所で何人かの若い人たちと一緒に仕事をしてきました。多分、私は職人なのでしょう。他のいくつかの分野の職人と同じように、手取り足取りでの指導は苦手で、盗んで覚えろの指南しかできなかったようです。そのために志半ばで、辞めていった人も、また、辞めてもらった人もいます。どんな分野でもそうでしょうが、他人には頼れないひとり完結の仕事では、ただその仕事をしたいだけでは済まされない能力が必要であり、向き不向きがあるようです。私の事務所は、授業料をとって教える指南所ではなく、利益をあげなければならない、営利の制作事業所です。
 
 新人であっても一緒に働く仲間になってもらうわけです。稼いでもらわなければなりません。稼ぐとは、プロとして、クライアントから認めてもらえる仕事をすることです。正直、未経験の人には短文を書く仕事でも、すぐに書けるものではありません。まして、私は、他所の制作事務所の手垢がついたような人の採用は避けてきました。もちろん、日本語が書けることが前提ですが、同時にビジネスマンとしての経験がなければならないとしていました。そのために実会社での実務経験が、少なくても三年以上は必要だと。もうひとつの条件は、お酒が飲めることでした。
 
 新人であっても、給料は支給します。安い額でありません。その日暮らしのような経営では、仕事が途切れると人件費の負担が重くなり、自分の給料は我慢するということは再三あることでした。経営規模的に零細ではあっても、一応、会社の形態で社員として働いてもらっている以上、給料は欠かせません。銀行からの借入もあり、その返済もあります。そんな中で新人を、いかに早く稼げるプロのライターにするかが毎日の課題でした。ただ、事務所のウリは、ひとえに私のキャラクターです。この商品特徴で受注した仕事を、質を落さずに作ることが必須の条件です。

 私が大事にしていることは、どう書くかのスキルではなく、何を書くかのイデアです。このイデアこそが、私の売物であり、事務所の商品です。うちのスタッフには、彼ら自身の売物を作って、それが売れるまでは、私が作る売物を作ってもらわなけれはなりません。それは対象をどのようにとらえ、それをどのような概念にして提供するかです。好き嫌いは別として、私の事務所で仕事をする以上、それを知ってもらわなくてはなりません。これを伝えるのは、コミュニケーションを通してか、あるいは私の仕事を、徹底して倣ってもらうかです。これはきついことです。
 
 打ち合わせや取材に連れていくこともありますが、せいぜい二三回止まりです。日常の会話を通して伝えることが中心です。時間を見ては、私が思っているマーケティングソリューションを聞いてもらう。体験や感想を聞いてもらう。そのためには、飲み場が最適です。思いを伝えながら、彼らの思いを聞いて、ディスカッションをします。もちろん飲むことや、酔うことが目的ではありません。ただ、美味しく飲むことが絶対であり、不味く感じたらお開きです。私の考え方とは、別の解決法を見つけるのもその場であり、それで事務所から独立していく人もいました。


●朱黄大地に 2008.11.23(日)

097 域業企画
リタイア後の仕事をNPOとして

 8年ほど前に、住んでいたまちで、コミュニティ・ビジネスが関心を集めていました。まだ、NPOが一般化していなかったときで、子離れした団地の主婦たちがこぞって立ち上げを画策していました。公民館活動として、市民グループの主催でセミナーが行われました。その頃、ちょうどコミュニティ・ビジネスを、考えていたこともあって、参加させていただきました。五回ほどのセミナーで、まず、その関係のハウツー本を上梓したという人の講演です。参加者は50名ほどで、うち男性は10名ほど。女性が積極的に市民活動していたまちらしいセミナー光景です。
 
 コミュニティビジネスという呼び方が珍しかっただけで、要するに、地域社会を市場にしたミニビジネスの立ち上げ方です。事業計画書の作り方など、セオリー通りの内容でしたが、高学歴者が多い主婦たちには、好評のようでした。アタマで学習して実践していこうという意気込みでしょう。まず、出席者への宿題として、いま考えているビジネスの事業計画の概要の作成を求められました。提出された全部の計画書を、主催者がコピーして全員に配りました。それを読み合わせして、講師が講評します。福祉的な意味合いの濃い彼女たちの事業には感動さえ感じました。

 主婦らしい視点からのコミュニティビジネス計画は、いまならNPO法人としての設立を目指すものかもしれません。NPOであっても、利益をあげることを目的にしないだけで、労力を提供する職員に給与を支給してもよく、必要経費はもちろん計上できますし、運転資金のための預貯金もできるわけです。NPO法人といえば公益的な事業なのだから、職員を無償奉仕にするか、あるいは低額の給与でも良しとするような、ボランティア的な臭いが強くするものです。公益事業を有償で行うのは望ましくないという考えで、これがひとつの偏見になっているようでした。

 NPO法人の事業体は、コミュニティビジネスに最適な組織なのかもしれません。ただ、公共福祉的な臭いのために、かえって、ビジネス経験者たちにとって、自分の柄ではないと、衒いを感じるものになっているようです。いま住んでいるまちでも、NPO法人化推進に積極的で、セミナーをはじめいろいろな支援活動をしています。昨今、リタイア後の男性たちの積極的な活動が求められているときだけに、彼らのキャリアを活かした、お金のもらえる仕事としてのコミュニティビジネスがあってもよいのではないか。NPO法人としての職場をつくること方向です。

 ただ、この場合に難しいのは、どんな分野の仕事をするのかです。まず、仕事があって、この仕事をしたい人たちを募って事業展開をするのは、それほど難しいことではないでしょう。しかし、集まってNPO法人化して、仕事はしたいが、どんなことができるのかわからないのでは、進めようがありません。ただ、仕事をしたいという意思は、事業資源だと考えるのです。この資源を集めれば何かできる。何ができるかは、集まって、それぞれの自己資源を残らず出し合って、まとめてよく見つめることで、見えてくるはずです。きっと、そんな事業体が創れるはずです。


●朱黄大地に 2008.11.22(土)

096 事業企画
夢を託す成功のための愛の計画書

 いろいろな事業計画書を書いてきました。ボスのNKさんを通しての依頼が多く、顔の広い彼のもとに入ってきた依頼のほとんどをこなしていた時期があります。新商品を開発したので、販路の開拓と事業計画を策定してほしい、購入した不動産施設の新しい活用としての新規事業の開発と事業計画を策定してほしい、などの案件です。もちろん私一人で策定するわけではなく、NKさんをはじめ、彼が集めてきた専門スタッフに参加してもらうこともありますが、ほとんどは、私と二人で現場に飛んで取材、調査してアイデアを出し、ディスカッションしてまとめました。

 あるとき、東北の都市郊外のレジャー施設の再開発企画の依頼がありました。動物園と遊園地、大宴会場つきの温泉宿泊宿泊で、オープン当初は爆発的な人気を博したものの、数年を経たあとに廃れてクローズしてしまった。これを丸ごと引き受けた不動産会社が、新しい事業計画をつけて、新しいスポンサーに売り込みたいので、その事業計画を立ててほしいとの要望。いつものノリで引き受けて、NKさんとともに現地に出向き、施設や行政、商工会などを調査、取材して事業計画をまとめあげました。結果、どうなったのかを聞くこともなかった無責任な仕事でした。
 
 バブル期のバブルな仕事でした。再計画事業計画書付きの不動産施設販売で、温泉があり、土地もそこそこあり、施設ぬきでも転がせたのでしょう。そうなることも承知の上、不動産としての魅力も書き込んでおきました。そのNKさんとの仕事に、N県の山間開拓地の再開発企画がありました。戦後、満州からの引き上げ農家が開拓した農地が、後継者不足や高齢化のために過疎化している。それをまとめて再開発を引き受けた、地元出身の実業家からの依頼でした。その地域に残って、営農中の人たちとの協力による、一年近くをかけたビッグなプロジェクトでした。
 
 私たちの提案は、地元住民も参加する運営会社をつくって、オーナー会員制による複合レジャー農園化策でした。そこは避暑地としても魅力ある地域で、残っている民家を改築して貸別荘にする。農地はそのままに、地元住民の指導でオーナー会員による農業を続け、溜池をレジャー湖にする。廃校を整備して宿泊施設として、中学校の体験農業や高校や大学のクラブ活動の合宿を受け入れるなどなど、地元住民の就業や雇用機会をつくりのも大きな狙いでした。旅行会社をも巻き込んだプロジェクトで、中長期のかなり綿密な収支予算を含んだ事業計画書をつくりました。
 
 長期契約の仕事で、私たちのギャランティは、何回かに分けて支払ってくれるほどの気遣いをもらいましたが、本格的な設計を含めての着工となったとき、クライアントの本業が倒産の憂き目にあってしまいました。プロジェクトは計画半ばでの頓挫です。私のやるべきことはまだまだあって、私なりの大きな夢を抱いていたこともあり、まさに断腸の思いでした。こんな事業計画を何度か作りましたが、それは私にとっては夢をつくる仕事でした。どのようにしたら成功させるかに、体験を活かして、クリエイティブを発揮させる。これもアガペ愛の発揮としていました。


●朱黄大地に 2008.11.21(金)

095 生活企画
謝恩・倹約・順応の生活道を設定

 つゆ知らずに私は「林住期」の行動パターンをなぞらっていたようです。林の地であるこのまちに仕事部屋をもって、これからどのように生活していくかを考えました。私自身は、いわゆる団塊の世代といわれる1947年から1949年の3年間の生まれではありませんが、行動や心情面では、高度経済成長を支え、高度経済成長期を走り抜いてきた団塊世代の人間の一人だと思っています。そして、いままさに「林住期」の真っただ中にあるというわけです。仕事をするときは、その目的を確認して、より効率的な行動を取ることに努めている私は生活の目標を考えました。
 
 まず思ったのは、「感謝」することです。「家住期」にあったころには、とにかくがむしゃらに生きてきました。こうと思ったら、少しくらいの障害があっても、何するものと突き進む。身にあまる様な仕事でも、取り組んみ、実践しながら、学び、技を身につければよいと、自分自身が思い込んだ正義に向かって突進してきました。そして、そこそこの成果をあげてきました。まさしく、団塊世代の生きざまでした。いま思えば、少なくない人を傷つけ、迷惑をかけてきたようです。思い上がっての勇み足もあったでしょう。それを良しとしてきた生き方ではありました。
 
 この地に来て、しばらくして体調を崩し、国民健康保険のお世話になりました。眼の手術を受けることになり、そのとき、行政や医療機関の人たちから、手厚い支援を得たのです。いままでには、あっても気に止めず、感じなかった優しい心遣いです。そんなことへの恩返しとして、なにか自分ができることをしたい、しなければならないと思っていました。そんな思いの中から「おかげさまで」ということばとともに「謝恩」という生活の目標をみつけました。「ありがとう」と、素直に言える自分自身を創ることだと。私なりに、これを「Voluntary」と定義しました。
 
 欲張りな私は、三つくらいの目標をと思います。そして、二つ目は、このまちでの活動の狙いである、地球環境改善です。友人の東京の森林を甦らせる活動に、共感、賛同していることからも、また、私自身ずっと前から大切にしている「倹約」という概念です。ものづくリの現場で育ち、マーケティンクの仕事でも第一義にしてきた「もの」への愛を全うすること。必要なものだけを、少しだけ使わせてもらう「倹約」という意識です。少年時代からの信念の「もったいない」という思い。これを循環型社会の構築、再編成につながる「Sustain(nable)」と定義しました。
 
 そして、三つ目は自分をあわせる、対象に適合させることです。他人や事象、過去は、絶対といえるほどに変えられません。変えられると力んできて、変えられなかった虚しさ、はかなさを体験した私の結論です。このまちでの生産活動を始めた動機のひとつで「順応」という概念。状況を、積極的に楽しんで、自分を抑え込む「我慢しよう」という決意です。「Conform」という定義です。以上の三項目を「お陰さまです、ありがとう。もったいないから。すこしだけ。がまんを楽しみ、合せていきる」という、フレーズとして、私の生活企画のモットーにしています。


●朱黄大地に 2008.11.20(木)

093 林住企画
黄金の林住期を迎えうつ準備とは

 人生には四つの時期があり、50才から75才までを「林住期」といって、もっとも輝かしい人生のクライマックス「第三の人生」であると、作家の五木寛之さんが著書の「林住期」というエッセイ集で語っています。人生100年の中で「林住期」は、人生の黄金期で、50才になったら仕事から離れ、人生を生活のためだけでなく生きること。自分が本来なすべきことは何か、自分が本当にやりたいことは何かということを大切にする。他人や組織のためでなく、ただ自分のために残された時間を、それまでの50年で蓄えた全てのものを土台にして高くジャンプしようと。

 古来、インドには人生を4つの時期に分ける「四住期」という考え方があったのだといいます。これを五木さんは人生100年として、最初の25年を学生期として、将来のために学ぶ時期。次に、50才までを、自立して職業に就いて、一家の主として家族を養う家住期。これを終えると、すべてを捨てて森林に住み、自分自身の人生を静かに見つめ直す林住期。そして、最後に人生の大団円、遊行期には、あらゆる執着を捨て去り、解脱を願ってただ独り遊行せよと。そうか、さしずめ私はいま「林住期」を実践しているのかと、我が意を得たりと思ったりはしています。

 五木さんのエッセイは、団塊の世代への応援歌でもあったのでしょう。会社人間であった人たちが、定年という職場コミュニティを離れた時、どのように生きていけばよいのかへの、ひとつの提案で、親身のこころ配りだと、勇気づけられます。多くの会社人の場合、定年までが家住期であり、定年を経て林住期に入るものかもしれません。50才を過ぎたら、林住期に備えて、助走をはじめなさいということなのでしょう。確かに、定年を迎えて、さあ、これからは、あなたのためだけに生きなさいといわれても、具体的に何をしてよいのかわからないのではないのか。
 
 組織の中で生きてきた人たちにとって、特に、管理職で職場を離れた人にとっては、自分が蓄えてきたものとはどんなものなのか、よく自覚できないのではないでしょうか。職場のルールや文化、方針や役職で、実は組織に動かされてきた仕事を、その職場を離れたら、一体、どんな意味を持つものなのか。それが社会的には、どれほどに評価されるものなのかを計れないというのが現実でしょう。蓄えたもので見えるのは、結局、貯金や年金を得られる権利だけの「財」なのかもしれません。他に、どんなスキルフルな特技があるのか。いわゆる「つぶし」がきくかです。
 
 自分のためためだけに、蓄えたものを使えといわれても、それがどんなものか検討がつかない。そんなことを無視して、趣味や社会奉仕のボランティアに生きるという道があるかもしれません。最初の頃は、仕事から離れた開放感や新しい世界との出会いの新鮮さで、毎日が充実しているように思うことがあるでしょう。しかし、多くの場合、かつての「家住期」での充実感とは違うようです。時にはつらく苦しく、嫌々とはいわなくても好きではなかった仕事でも、あれはあれで、生きている実感があったのではないでしょうか。この先、もう少し考えてみたい問題です。


●朱黄大地に 2008.11.19(水)

093 営繕企画
将来のリフォームを考えた設計か

 営繕事業、いわゆるリフォーム事業に関わったのは、世の中がこれからバブル経済期に突入しようとしていた頃でした。新築ブームに沸き返っている建築業界にとって、手間がかかって割の合わないリフォームは、義理などで請負うついでの仕事でした。そんな中で、リフォーム事業の将来性に目をつけた人が、大阪のOさんでした。大手の組織から弾かれたような一人親方の大工たちを集めて協同組合に組織して、営繕事業を展開していました。アイデアあふれた営業活動を展開して、メディアに取り上げられるなどして、関西地域では少しずつ知名度をあげていました。
 
 Oさんは、その営繕事業を全国展開のフランテャイズシステムとして展開しょうと目論み、知り合いの紹介で、私がお手伝いをすることになりました。大阪の本部に通って、現在の業務の流れを整理し、システム化して、マニュアル化しました。フランチャイズ展開にかかろうとした時、本部のいろいろな事情で解散に追込まれて手を引くことになりました。その後もいろいろな仕事を通してリフォーム事業との関わりが続きました。そのひとつが、LPガスの販売促進としてのリフォームです。ガスの増販をはかるためには、リフォームを避けて通れないものがあります。
 
 ガスを多く使ってもらうためには、いまよりガスを多く使う新しい機器を使ってもらうことです。そのためには、浴槽や台所の水回りを改修することにつながります。工務店との連携でリフォームの提案にまで行き着きます。その連携の中で主導権を持って仕事を進めてもらうための情報や用具の提供をする手伝いが私たちの仕事になります。また、ガス機器メーカーの販売促進の仕事においては、機器を替えることがリフォームそのものです。建材メーカーの販促企画の仕事においても、傘下の建材店に効果的なリフォーム提案のノウハウを提供するのも仕事になります。
 
 ところが、いざリフォームにかかろうとしても簡単にはいかない場合がある。壁や床を剥がしてみたら、奥の構造体が腐っていた。シロアリに食い荒らされていた。末期の癌のような状態で、そのまま塞いでしまった方が、あとわずかな寿命は持つというくらいのもの。徹底的に改修しようとしたら、費用が嵩んでしまう。このへんが、建築の知識が少ないガス店やガラス店、住設店では、個客を説得しきれずに、手に負えない仕事になってしまう。そんなトラブルをおそれて、リフォーム事業に進出できない。メーカーとしても推奨できないというジレンマがありました。
 
 リフォームに耐えられる丈夫なスケルトンの建物にすることは、結局、家を長もちさせる基本であることを知りました。傾いている床の上に。最新のシステムキッチンを置いても、すぐにトラブルに遭う。構造的に壁を抜けない家もあり、荷重を支えきれない床、大量の湯水を流しきれない配管など、増改築を考慮していない設計の家があります。家は家族一代の家で終り、社会のストックにならない要因です。そして、家は空巣になって、廃棄され、二酸化炭素の増加につながります。リフォームしやすい家は、住設の取替えが容易で、地球環境の保全につながるのです。


●朱黄大地に 2008.11.18(火)

092 販促企画
商品に自信がある商店ブランドを

 ある商品の販売対象者に、買ってもらう仕掛づくりが販売促進企画です。最も基本的な方法が値引き訴求でしょう。通常の販売価格からどのくらい安くするか、それを訴えることが、最も効果的な販促策でした。過去の仕事で、代表的な例が、自動車のタイヤ販売でした。10年近くB社のお手伝いを、また、E社のSSでタイヤキャンペーン企画を5年位お手伝いをしました。そのタイヤの販売では、定価の30~20%引きが当たり前の時代でした。ただ、どこの店でも同じような販売価格の表示で、どこが得なのか分りません。やがてオープンプライスになりました。
 
 耐久消費財などの買いまわり商品では、多くがオープンプライス表示に変わっています。カタログを見るだけでは、どのくらいの値段で買えるのか分らなくなりました。価格は、店頭で確かめるしかありません。同じメーカーの同じ商品なら、当然、安い方がよいと、いくつかの販売店をまわってみることになります。販売店によっては、うちよりも安い店があったらその価格以下にしますとうたうほどです。しかし、十数万円の商品でも、量販店同士なら数百、数十円の差です。そのために、数時間もかけたくない人もいます。いまは可処分時間が大切にされる時代です。

 量販店の多くは、購入額に応じたポイント還元という、次回割り引き販促で、個客を固定化する戦略をとっています。その還元率が販促戦術です。こうなるとメーカー系列個店などでは、販売価格では太刀打ちできなくなり、地域密着サービス提供などの販促策を取らざるを得ません。その方策は、まさしく百店百様になり個店としての工夫に頼ることになります。安いことは、販促の第一の要件ではありますが、単に、絶対価格が安いことが買いを促すものではなくなっています。価値観の多様化が購入時の価格差を超えている、競争のしやすい時代になっているのです。
 
 消耗品などの最寄り商品では顕著です。食の安全が大きく問われているいま、食品ならまず、安全で、安心できることが求められます。食品のトレーサビリティが重視され、誰が、どこで、どのようにして作ったのかが商品を選ぶ重要な要件です。販売店がそれを証明できれば、セルフの売場でも、ショーカードなどで伝え、訴求できます。しかし、販売店が商品の素性を知らずに、そのまま店頭に並べて売る商品では、表示だけで判断することになります。それが安心安全を決める基準になり、いま、社会問題化している産地偽装の犯罪を引き起こすまでになっています。
 
 安全安心な食品であっても、安いことに超したことはありません。そんな商品をどのようにして選ぶのか、それを確立して、きちんと訴えることが販売店の基本の義務ではないでしょうか。安心して選んでもらえる販売店であるためには、まず、売る商品が消費者の信頼に足る商品であること。そのために、売る商品について、自分で徹底して研究調査して「自信の商品」にすることです。売る商品の「何か」を知ることです。その結果、販売店の評価が確立されます。それが「販売店ブランド」であり、かつての商人が大切にしていた暖簾であり、販売店の販促戦略です。