孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/02/26 15:24:42|フィクション
アガペのラブレター 31
03章 青春時代 31

企業内専門学校出の後輩仲間
友人・ORさん


 その企業は、全社的に各事業所から選りすぐった高卒者に対して、上級教育を施していた。入社して試用期間が終り、二年間の事業所内教育のあと、入学選抜試験がおこなわれた。もちろん給料をもらっての、全寮制の研修所である。男は入ることができなかったが、この企業の底力を感じた。人材こそが競争に打ち勝つ経営資源であり、それが大きな発展を促した、中小企業に太刀打ちできない企業力なのだろう。

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同好の趣味の後輩として

 二年下の工高の後輩です。笑顔の挨拶を交わしていましたが、急速に親しくなったのは、あなたが職場演劇の仲間になってからです。ちょうど、これを書くために、あの頃の資料を探していたら、なくなったと諦めていた緑色のタイプ印刷でつくったパンフレットが、資料の屑の中から、呼び出されでもしたように出てきました。あなたが演出した「修善寺物語」の上演パンフレットです。

 部員全員に原稿を書いてもらい、私が補作、追加してつくったものでした。ちょうどその頃、当時の演劇部の主なメンバーの同窓会をしようと計画されていました。世話役のTTさんに、私がドクターストップや体調不良ということもあって、欠席させてもらう旨をメールで連絡しました。そんな私の代参として、再編集した上演パンフレットをTTさんに送っておきました。

 読み返してみたら、素人の若僧のくせに、凄いことをやっていたんだと感じます。いまの私にもかなわないような集中力です。ひとり一人の顔を思い出しながら、ただただ懐かしく、できることなら、あの場所に還りたい、と。ちょっとつっばってはいましたが、あのころ職場の中で私たちが置かれていた状況、「好きだなあ」という周囲の視線を、かなり意識していたんだなと感じます。

 再編集したパンフを必要数製本して、TTさんあてに送りました。同封したレターは皆さんにも読んでもらっても一向に構わない内容ですが、それなら、ひとり一人へのレターを書いてもよかったと。定年を迎えた人、すぐにも迎える人、この数年がたつと、みんなリタイアして同じステージに立つようになります。そんなときに、来れなかった人や、連れ合い同伴というのも楽しいかもしれませんね。

 ビジネスの世界をリタイアすると、夫婦一緒の新しい出発が始まります。子どもや孫は別としても、夫婦同士の付き合いがあってもいい。考えてみれば、私はあなたのかみさんを知らないし、みんなも私のかみさんを知らない。自慢できるほどの妻ではないにしても、かけがえのないバートナーです。お互いに親しくなってもらいたい。そんな世界が、これから生まれてもよいと思うのです。

「修善寺物語」を演出した

 あなたのパンフの文章をみてましょう。「台本選び」の項です。『演劇を上演して成功するか否かは、どんな台本を選ぶかで五十パーセント決定するといっても過言ではない。台本は演劇を行う時の予算、人数、方針等の制約条件を全て加味した上で選ばれる。しかも、演劇は絶えず新しい創造を要求されるので、最低、二ヵ月間の練習が必要なのである。今度の場合、三ヵ月前より脚本選びに入った』

 『ある一つの方針を立てて、現在手持ちの脚本全部に目を通す。結局、これはといったものがなく、次にK氏のオリジナルを取り上げた。しかし、我々の夢が入っていないということで否決され、後は何とはなしに決ったのが「修禅寺物語」。だが、失敗だとは思っていない。従来取り上げた作品とは異なった脚本ではある。しかし、冒険をやれるという事から見れば、面白いものだし、ヤル気にもなる』

 「演出をして」の項より。『良く出来た作品で、演出などは不必要な脚本といえる。一応、形として歌舞伎の人物の配置に、新劇的な動きをつけてみたつもり。このような時代物は、江戸時代のものと違って、時代考証なども難しく、サマにならないものが多いといえる。キャストは多く、狭い舞台の上に、時には六人を平面的に並べるだけでも、大変なこと。とにかく、一応形のあるものにした』

 私は修善寺の僧の役で始めて舞台に立ちました。私の「舞台稽古」の項です。『殺気立ってるのは役者だけじゃない。演出だって、裏方もしかり。舞台の使用時間が制限されているからだ。稽古場の動きが取れない。演出はがなる。役者は、いつまでも同じ動きを強要される。そんなこと言うなら、テメエがやってみろ。ボクは始めて舞台に上る。ひやかすのは止めよう。足がガクガクふるえるだろうし』

 そして、まとめました。『照明が幕にさえぎられた。役者たちは、しばらくほう然としている。普段の自分に戻ろうとしている時間だ。こんな時、あなたの、拍手が欲しい。しばらく、あと数分の拍手が欲しい。幕は再びあくだろう。そして、舞台に立っているのは、ほら君の知ってるあいつらだ。君の職場のあの人だ。彼らは報われるだろう』カーテンコールを強要していました。

企業内専門学校のエリートとして

 あなたは企業内工業専門学校の卒業者でした。この専門学校は、会社の全事業所の高卒社員の、全寮制の再教育機関です。各事業所には、毎年、数十名の高卒者が入社し、全事業所では数百名にもなるでしょうか、この中からも選りすぐられれた人材が集まります。入社二年から二年間、入学資格が与えられます。超難関のこの学校に入学するために、仕事が終えた後、寮の部屋の電灯が消えません。

 会社では、就業時間内の教育も行われていました。これは正規入社の高卒者全員が対象で、私たちの場合も英語や数学、物理などが教えられたように覚えています。当時は、家庭の経済的な事情で大学教育を受けられなかった人たちが多く、そんな人材を企業発展のために戦力化する戦略のひとつでした。中小企業は、こんなシステムをもつ大企業を相手に競争しなければならなかったわけです。

 企業内専門学校を卒業した後、戻った職場では、当然、エリートとしての待遇を受けるわけですが、制度上、大卒者と対等になれるものではなかったようです。後は個人の能力と運次第でしょうが、昇りつめる地位には限界があります。私が辞めた後に、あなたがどんな職場で、どんな職種に就いたのかは知りませんが、演劇部の同窓会で、技術とは別の総務部門にいることを知って驚いたものでした。

 このような優れた卒業生を輩出したことは、母校にとって、その後の就職活動に有利になります。私の場合、辞め方がどのように評価されたのはわかりませんが、それなりのお礼奉公もしたつもりです。そう自分で思い込んでいるだけで、実際のところはわかりません。私の前に、建築課の先輩がいて、あなたまでは続きました。その後は、どう続いたのでしょうか。

 そんなあなたも、定年退職の時を迎えました。リタイア後は、好きな歌舞伎の鑑賞三昧の生活が待っているのかもしれません。あるいはキャリアを活かした、次の仕事が待っているのかもしれません。あなたをはじめ、あれらの充実した時間を過した仲間たちは、どのように生きていくか、大いに関心のあるところです。定年まで勤め上げたことは、立派だったと。心から賞賛したいと思います。








2009/02/26 15:20:49|フィクション
アガペのラブレター 30
03章 青春時代 30

心許した演劇のプリマドンナ
友人・YRさん

 その職場は、多彩なニーズを満たしてくれるコミュニティであった。高校も診療所も、体育館やブール、美容院もあり、運動会や文化祭もあった。地方から呼び集められた女子中学生たちは、ここで高校の卒業資格を得ることができた。それは女子従業員募集の目玉であり、女子寮には男子独身寮よりも早くカラーテレビが入ったほどのものだった。組織に守られ、育てられた彼女たちは、いま、どこで生きているのだろうか。

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初演出した「夕鶴」のつうとの日々

 あなたは、私たちのプリマでした。私と出かけるとき、ぺったんこの靴を履くなど、細かいところに気遣いをしてくれました。妹のようにも、姉のようにも感じたものですが、恋人とかの関係にはなれませんでしたし、なろうともしませんでした。私が演出者であるときの、お気に入りの女優であり、舞台に華をつくってくれる喝采の象徴でした。そんな仲間たちに囲まれた幸せな時代です。

 文化祭で、私の演出で演劇「夕鶴」を上演することにしたのは、それまで学生時代の経験者などの有志でつくってきた同好会から、演劇部としてスタートした旗揚げ公演のためでした。同好会時代に「赤い陣羽織」「夕鶴」等の木下順二作品を取り上げてきましたが、改めて、私の初演出の演目として、新しいメンバーで取り組むことにしました。あなたがいたというのも大きな理由です。

 山本安英さんの「夕鶴」を観たことがあり、その後も宇野重吉さんと共演の舞台やオペラ「夕鶴」も観ています。台本を何度も繰り替えして読んでいた私は、日本の演劇は「夕鶴」に始まって「夕鶴」で終わると惚れ込んでいました。企業の文化祭で、前の上演のときスタッフの一員だった私は、自分だったらこう演出したいと考えていました。それまでは山本安英さんの「夕鶴」がお手本でした。

 あなたは中学時代に、つうを演じたことがあるということでした。演劇好きの教師があなたという逸材を得て、山本安英夕鶴を再現したかったのでしょう。あなたのつうを中心に、一新したメンバーでやろうと、工場中を駆け回ります。何しろ3千名近くの。平均年齢が二十歳くらいの従業員の中には、最適者はいるものです。全くの未経験者でも口説き落としてキャスティングしました。

 生意気盛りの若い私は、与ひょうとつうを、愛欲を抑えきれない初心な男と女とし、これを軸に運ずと惣どを現代に通ずるビジネスマンとして描こうとしました。台本は変えられないし、テーマは決まっています。結果、私の意図を十分に表現できたとは思いません。また、あなたを含めたキャストたちが理解してはくれてはいなかったでしょう。あなたはまだ恋の経験うすい乙女でした。

職場や女子寮の優等生という主役

 あなたは、会社の勤労政策の外向けの象徴的存在で、優等生でなければならないという役目を背負っていました。地方の中学校から集められた少女たちは、二交替勤務のためにつくられた女子寮で生活していました。私が入社したときが一期生で、あなたたちはその寮の二期生にあたります。大柄で目立つ顔だちのあなたを中心とした活発な二期生は、寮の中心的な集団になっていきます。

 高卒の資格と学歴をつけられるというのが、会社の中卒者募集のウリでした。寮には専用の教室が付属し、専任教員が常駐しています。授業は、勤務が朝番のときは午後に、遅番のときは午前中に行なわれます。NHKの高校通信講座のカリキュラムで、スクーリングにも出席するなどし、卒業すれば正規の高校卒業として認定されます。体育館やプール、運動場なども完備した環境でした。

 いつの間にか、あなたはその環境の模範従業員になっていました。寮の規律を守り、学業も仕事も優れている。次々に下級生が入社してくる中で、お姉さん役も果たす。恋のお相手も、それなりの人を選ばなければならない。言葉にして言われなくても、聡明なあなたは自覚し、自分を律していました。それを、端には痛々しさを見せないほどに、明るく、素直で活発に生きていました。

 相応しさ、というのがあなたの行動基準のように見受けました。恋のお相手も、職場の優等生で、見目形も釣り合いがとれることが求められます。高望みしてはいけないが、低くてもいけない。そんなあなたにとって、兄のように慕ってくれた私でも対象外であり、あなたが選んだ人は、いまでいうイケ面で、背の高い、仕事ぶりも買われているような、スポーツマンタイプの人でした。

 職場の実業団バレー部選手との、恋の逆鞘当てもあったようですが、恋を成就させたあなたは、女子寮から花嫁姿で巣立ったそうですね。あなたらしいといってもいいと思ったものです。私が退社してから、一度だけ会う機会がありました。海の家で行なわれた演劇部の同窓会に招かれたときです。あなたは家のことを気にする新妻でした。そのとき煎れてくれたコーヒーの美味しさを思い出します。

演劇は何をもたらしたのでしょうか

 何度か、仲間たちと新劇鑑賞に一緒しました。そのころ労演の職場世話役をしていた私はこれはという演目を、あなたにも紹介し、誘っていました。休日のマチネーなら問題はなかったのですが、週日の夜しかチケットが取れない場合があります。都心の劇場から、終演後に急いで帰っても、厳しい門限には間に合いません。後輩に頼んでおいて、裏口から寮に入るということになります。

 あなたにとって、演劇を観ることは息抜きだったのでしょうか。いま、どんな舞台を観たのかはすっかり忘れていますが、俳優座や民芸、文学座を中心とした大手劇団の演目でした。もちろん、左翼のプロバガンダ的な内容は少なくなっていましたが、一部に偏見が残っているようで、木下順二や私の学芸会的作品の中で演劇していたあなたには強烈なメッセージ劇もあったのではないかと。

 楽しかった、面白かった、感激したと、いま思い出してもらえばうれしいのですが。私のことをガンちゃんと呼び、あなたをヤマと呼んでいたあのころ。優等生を演じなければならなかったあなたは、どう受け止めていたのでしょうか。私たちの演劇部は、いろいろなメンバーを加えて変わっていきます。あなたには主役を振っていましたが、「修善寺物語」では裏にまわりました。

 なんとなくあなたと他のメンバーの間の乖離を感じていました。学歴という現実や寮生活の違いからくる生活など。親しくはしていても、あなたがどのような家庭環境で育ったのか全く知らなかった私です。私の中に根強く残っていた劣等感のような重さをあなたの中にも感じていました。ひとつの完結世界でもある大きな職場のなかの生活に、心底から融け込めなかったのかもしれません。

 演劇部の同窓会は、その後も、私や退社した人たち、主に、女性ですが、も含めて会社の保養施設等で行なわれました。私の四ッ谷の事務所で開いたこともあります。しかし、あなたの参加はなく、会いたくても、外からの招待者になっていた私にはどうする手立てもありません。たまに友人MYさんのカミさんから消息を聞くことがあり、なつかしさを感じていました。元気でか。








2009/02/26 15:17:10|フィクション
アガペのラブレター 29
03章 青春時代 29

自費で小説を出版した技術者
友人・IMさん


 男の高卒の仲間には、中途退社した者も少なくない。当時は、大卒で入社したひとたちにとって、その企業は憧れの職場だったろう。いろいろな努力や勉強の結果の到達点、経過点のはずだ、個が確立した後に選んだ分野であり、楽しく、生きがいを感じるものだったに違いない。その点、高卒者の退社には、いろいろな理由があった。ただ、辞めた後の仕事でも、仕事の経験が活かせたし、その経験が評価されたものだ。

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文学に真っ向から取り組んでいました

 あなたが自費で上梓した「木洩れ陽」の「あとがきにかえて」からです。『永い年月「私にとって文学とは何か。文学は可能か。文学とは何の為にあるか」を自問し続け、私を重く圧し続けてきた。私の精神は荒涼として、茫々として漂泊する風のように過ぎゆくある日、歩きださなければ、それらの波に溺れる事も出来ないと知った時、疲れきった身体を呵斥し、存在の証を投影しょうと、焦思していた』

 『会いたいと思っていたKさんに、七年ぶりで会ったのは、薄い霧が引きも切らずに降る黄昏時であった。数カ月後に結婚されるという事で、昔よりも張りのある表情であった。しかし、文学を捨てた事を告げた後「片手間で文学をやる事は、文学を冒漬する行為のような気がする」という意味の言葉を苦しげに呟いた。私の心を激しく貫くものがあった』

 『私は飲めない水割りをロにして、己の文学への不遜な態度と、未練がましい姿を恥ながらも、正当づけ、動揺を糊塗しようとしていた。しかし私は、酔いの回りはじめた頭を強く振りながら、よろめきながらも、文学の道を歩まなければならない。決して捨てられない、苦しくても背負い続けていくのだと、その時、憑かれたように反芻していた』

 『取材に函館を訪れた時、夏だった。修道院の界隈も、観光客が大勢いて賑わいをみせていたが、本館の裏手にある墓地は閑静であった。ふいに私はその時、一つの言葉を思いおこした。「文学とは所詮、神に対して詫びながら為さねばならない一種の〈業〉なのであろうか」(亀井勝一郎)私は暫く身動きもならずに立ちつくしていた。宗教と文学とは、どこでその協調点を見い出すことが出来るのだろうか。墓地は明るすぎて、かえって物悲しかった』

 あなたに会ったのは、私が結婚を準備していた昭和四十六年の冬、だったと。私たちの職場文芸誌に作品を掲載してから、会社を辞めた後も、時々、連絡を取り合っていましたが、その間、いっさいの文芸活動をしていなかったということでした。それから、あなたは、約550枚もの小説を書きあげました。出版したいとうれしい相談を受け、二つ返事で協力を引き受けました。

自動制御装置の設計者の顔

 分厚い原稿を整理して、出版も手がける印刷会社にいたAYさんに頼み、デザイナーのOMさんが装丁しました。写植もない時代です。活版で刷り上げたB6版296ページ、並製本のすてきな書籍ができました。昭和四十九年のことです。飲めなかったあなたと、祝杯をあげたんでしたっけ。

 あなたが発表した二つの創作は、私たちの文芸誌の中で、異色の作品でした。キリスト者との関わりからのテーマを持ち続け、大作へと続きます。人生と文学とに真正面から取り組んでいました。その頃に、文学を捨てたという私は、コピーライターとしての仕事に夢中になっていました。もともと、私は文学をしていなかったのではなかったのかと。ただ、書くことが好きだっただけではないかと。

 いわれもなく押し付けられた現実からの救いを求めた愛の虚しさに、ただ、怒りをぶつけていた、そんな思いから小説や戯曲などを書いていたのではないかと。そして、書くことで食えれば、望外の喜びだと思っていたようです。確かに、二十代のうちは、それでも「おはなし」は、その気になれば書けると思っていました。でも、三十代になるともういけません。文芸は私から逃げ出していました。

 あなたがH社を辞めてから、本業の技術畑の仕事を経て、仲間とエンジニアリングの会社を起したと聞き知っていました。自動制御装置の設計者として力を発揮していたようでしたね。H社時代も設計部門にいて、現場とは少し遠いところにいたようでした。職場で一緒の仕事をすることもなく、文芸での付き合いでした。あなたを演劇の世界にも連れ込もうとしましたが、乗ってきませんでした。

 仲間とつくった会社で、好むと好まざるとに関わらず、グループの先頭に立たされてしまう、マネジメントも期待されてしまいます。そんな状況の中でも、あなたは文学を続けたのですね。550枚ものあなたの小説は、短編を集めたものではない。緻密な設計の、しっかりとしたスケルトンのもとに構築された作品です。忙しい仕事の片手間の仕事ではなかったはずです。

固辞しきれず披露宴の司会を

 あなたが結婚するという話は、あなたの上梓以上に、私を興奮させました。そんな私に、披露宴の司会をしてほしいと。その頃は、対面でしゃべりまくることは得意でも、あらたまった席で、大勢の前で話すことは苦手でした。何度も固辞したのですが、許してくれない。一緒に招待された、H社時代の文学仲間で、人前の話には慣れているMYさんのほうが適任ですよと。

 あなたの結婚のうれしさを、心から、思いきり飲んで祝えないではないですか。頼みを断わりきれずに、引き受けさせられてしまいました。まあ、芝居の演出だってしたこともあり、台本も書けます。挑戦しました。裏方の仕事には慣れているものの、始めての体験で、足はがたがた、上ずリそうな声を押さえ込むのに必死でした。案の定、せっかくの料理は食べられないし、美味しい酒も飲めない。

 披露宴は、こちらの台本通りには進行してくれません。一応、会場側と打合せはしたのですが、変化する状況に臨機応変に合わせる器用さもなく、奥さんの友人の、とっておきのスピーチを、花嫁がお色直しで中座しているときに指名してしまいました。花嫁が席についていてこそのいい話だったんです。その人だって時間をかけて、準備してきたはず。だからいったでしょうが。司会などを頼むなって。

 新婚旅行のお土産だと、博多人形をもらいました。そのうえ、お礼をしたいという。それなら披露宴で飲めなかった酒をと、飲めないあなたにです。どこに招待してよいのかわからないという。居酒屋というわけにもいかないだろうしと、ホテルのパーに、連れ立っていくことにしました。美味しかったですよ。そして、幸せそうなあなた方が何よりも酒を美味しくさせてくれました。

 年賀状のやり取りくらいの付き合いになってしまいました。あなたの年賀状は、文学青年的というか、えもいわれぬ独特のものでした。会う機会もなく過しているとき、あなたから、何か宗教的な匂いのする誘いの手紙がありました。私の幸せを思ってのことだとは思います。でも、こういうのは、体質的にも受け付けないんですよね。ごめんなさいです。で、あなたは、いまどのように暮らしていますか。








2009/02/26 15:12:39|フィクション
アガペのラブレター 28
03章 青春時代 28

定年まで勤めあげた文学仲間
友人・HMさん


いまもそうだろうが、どこの職場でも、寿退職とかで、女性は結婚すると退職することが多かった。労働協約がきちんとしている企業では、特別なことのない限り、社員が申し出ない限り、退職させられることがない。アシスタント的な業務の多い女性にとって、次々に出世していく同僚の男子社員との付き合いは、結構、気を使うものだろう。ただ、職場文芸の仲間の彼女には、支え続けた才能があった。

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会社サイトにあなたの「万葉集の花」

 ヤフーの検索からも、あなたの作品集サイト「万葉集の花」(http://www.hitachi-ul.co.jp/public/jp/INTRST/MYO/index.html)を訪れることができます。勤めていたH社超LSIシステムズを定年退職したはずですが、その会社のホームページの、社員及びOB・OGの手作りページ「おもしろ情報」に、万葉集に歌われている花と樹木のイラスト集として、今も掲載されています。

 勤めていた会社が、最先端の半導体やコンピュータ関連のメーカーだと、ホームページで見る程度で、詳しくはわかりません。私たちの、一九六〇年のトランジスタが大きく進化し、あなたはその成長と共に仕事をしてきたわけです。どんな内容の仕事なのかの想像もつきません。でも、その会社があなたの世界を大切にして、発表の場をつくってくれた懐の深さに感動を覚えます。

 「万葉集の花」は、涼やかな、肩ひじの張らない力作です。あなたの優しさによって描かれた全部で一六〇余点もの花と樹木たちのイラストは、見ていて楽しいものです。万葉集の研究家でもあったという、歌人の父上の薫陶をうけたあなたの面目躍如の作品です。あなたの職場だったIT最先端技術の現場から発信されたサイトだけに、周りの人たちの思いも伝わります。

 気に入った好みの花をダウンロードしてプリントして机上に飾ったり、私の一族の姓の木「かしわ」のイラストを、叔父の回想録の表紙に転載させてもらいました。このような使われ方は、著作権の尊重という意味で不本意でしょうが、インターネットのホームページに掲載すれば、文章も画像も簡単にコピーすることができます。コピーライト表示は、あまり効果を発揮しないようです。

 例えば、あなたのイラスト集から画像を取込んで編集して、プリントすれば、ちょっとした画集ができてしまいます。色調や解像度も調整でき、プリンターや紙質を選べば、もう立派な画集です。コストはかかりますが、その中には著作料金は含まれれません。これは営業目的でない限り、わからず、お咎めなしです。紙へのプリントだけではなく、CD-ROMなどにすることもできます。

デジタルメディアが変えたもの

 インターネットをはじめ、デジタルメディアが、コンテンツの質の水準を曖昧にしたと思うのです。誰でもが、技術だけでデータとして作り、簡単にコピーし、加工して、発信できることから、以前のメディアには厳然としてあったプロとアマの境界が見えなくなった気がします。例えば、編集者といったプロの判定者の裁断なしで公開できる手軽さが、このメディアの特質なのでしょう。

 ワープロが登場したときは興奮しました。その頃に、業務用ワープロを入れて弄ばれていましたが、T社のパーソナルワープロの、セールスマニュアルづくりの仕事を手がけました。ワープロが、アマの仕事をマスコミの精度に仕上げられる道具として、新しいワープロワールドの素晴らしさと可能性をコンセプトに展開したものです。いま、ワープロは当り前の書く道具になっています。

 このようなデジタルメディアの普及が、私たちのような「マニュアルライター」の仕事を奪ってしまいました。企業活動に欠かせなくなっている、いろいろなマニュアルですが、この制作を外注する必要がなくなっているのです。というより、企業機密の漏えいを防ぐ上からも、社内スタッフで制作がすすめられています。「マニュアルライター」の専門性が薄くなってしまいました。

 個人レベルでも、バソコンを使ってマイブックづくりが簡単にできるようになりました。DTPソフトで編集して、コピー機をプリンターとして、必要部数を印刷して、製本器で製本すれば出来上がります。身内や知人に配る五〇部程度なら、いとも簡単にできます。いま、カラーコピー機では、対向丁合いができる機種があり、ページ数の少ない中とじ本など簡単にできてしまいます。

 自分の文章が活字になるということは感激です。そして、自分の書いた文章が本になる。これは一般人にとって画期的な大事件です。初期のワープロの24ドット文字でもまあまあですが、いま、パソコンで作れる文字は、鋳造活字を凌駕し、写植文字よりはるかに安価に多彩なフォントが使えるようになっています。こんなデジタル環境が、マイブックづくりに拍車をかけているようです。

あなたのホームページを待っています

 あなたから贈っていただいた三冊の本があります。ここの棲み家に移るときに、廃棄処分した数多くの書籍には含められなかった大切な蔵書です。昭和51年に68歳で亡くなられた、歌人の父上のハードカバーの全歌集。そして、あなたが編んだ同じく父上の散文集「蝶の羽音」、あなたの作品集「私の花束」です。後の二冊は、あなたの思いがこもった可愛い本たちです。

 自費出版の専門会社で作られたのでしょう。一部書店などにも流通させるルートはもっていますが、一般にも売れたら万々歳という本です。私の事務所でも、事業として定款に唱っていましたが、DMでの告知で、二、三の引き合いがあった程度でした。もちろん、一般の人にとっては、少なくない費用がかかりますが、褒章記念に、金杯を配るよりはるかに知的な記念品になるものです。

 あなたや私たちにとって、文集をつくることは、一大イベントでしたね。書いたものを発表する場があってこそ、書く励みにもなります。私のH社時代に、お互い勝手に、好きなことを書いては持ち寄って文集に載せていました。私が辞めてから、あの文学部の活動はどうなったのでしょうか。時代の状況から想像しても、多分衰退して、文集づくりは終焉したのではないでしょうか。

 同じ仲間だったIMさんの、自費出版のお手伝いをしたことがあります。H社を辞めてからも、小説を書き続けていました。仲間のデザイナーに装丁を頼み、親しくしていたAYさんの会社に印刷をお願いしました。自分で本を作るということは、仲間の間でのステイタスになるようです。IMさんは、彼の新しい文学仲間の間で、一目置かれる存在になったということを聞きました。

 インターネットが、作品発表のメディアになっています。無料のホームページのサイトに自分のページを作って、小説などの作品を発表する。私の娘は、ずうっとそうやっています。あなたとは、会社を辞めた後にEメールがつながらなくなりましたが、寂しい気がします。インターネットなら、あなたのきれいなイラストも、優しい文章も、たくさんの人たちに楽しんでもらえるのですが。








2009/02/26 15:06:47|フィクション
アガペのラブレター 27
03章 青春時代 27

リタイヤし実務から離れた友
友人・KMさん


 企業の中には、在職中に職務で知りえた知識を、退職後に他に漏らしてはならないという規定があるという。退職金の中には、その口止め料も入っているというわけだろう。この知識は、他社から特化するための経営資源のひとつだが、どんな企業でも使えるものでないことが多い。しかし、そのままでは使えないものの、アレンジすれば活用できと、男は思う。定年退職制度は、企業にとってマイナスなのかもしれない。

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リーダーシップで頭角を現したころ

 高校は違いますが同じ山形県出身です。私の同期を飛び越えた、会社期待の高卒独身寮の一期生です。一年後輩のあなたとは職場が隣だったこともあり、すぐ親しくさせてもらいました。演劇部で《夕鶴》を演出したときの惣ど役に口説き落としてから演劇部に誘い込み。また、文学部にも連れ込んでしまいました。一緒に演劇を楽しみ、文学部ではいろいろなイベントをこなしました。

 お忘れかもしれませんが、寮の夏祭りの運営委員長になったあなたに、夜店のアイデアを提供したのは私だったのですよ。私の寮では、中庭のテニスコートにテーブルと椅子を置き、ステージを仮設してのビアガーデンでした。二十歳前の私たちも社会人だとして、もうアルコールやタバコを楽しんでいたわけです。ありきたりの夏祭りでは職制からも女子寮生たちから注目されません。

 素人の夜店、出店、露店は、いまでこそごく普通のイベントになっていますが、四十数年前当時としては、結構、新機軸の面白い企画だったと思います。全員が主役として、傍役にも、接待役としても参加できます。あなたはこの企画を提案し、実現したことで同期の中でも一歩抜きん出たのではなかったでしょうか。このようなリーダーシップで、さらに注目されるようになります。

 高卒で課長になるのが難しい大企業です。職場にもよるでしょうが、あなたはその実現組の一人だったと聞いています。あなたと同期で、職場の後輩のTさんが亡くなったとの知らせで、葬儀に出席しました。幼い子らを遺しての死は悲惨です。帰りにあなたと食事を一緒しましたね。亡くなった彼が、職場で出世頭であったと。あなた方同期生は高卒者の目標だったようです。

 あの会社では、高卒者が出世するためには、労働組合の役員になるのは必須の条件です。しかし、のめり込んだら、現職に復帰しにくくなリ、その道をつっ走るしかなくなる。外の社会にいた私にはわかりませんが、あなたは労働組合とは、ほどほどの賢い接し方をされたのでしょう。五十歳を過ぎた頃、あなたより若いような上司をもつあなたの仕事を手伝わせてもらうことになりました。

細かく最後まで成し遂げる姿勢

 ビデオマニュアルをつくるお手伝いでした。あなたの所属する職場での作業手順をビデオにする仕事で、海外事業所の現地作業員のためにもと、日本語版と英語版をつくる注文です。このような案件の発注は、職場でそれなりの職権が必要でしょう。外注先が細かく定められている大企業では、新しい取引きにはそれなりの立場と複雑な手続きが要り、あなたはそれをクリアできたのです。

 ビデオマニュアルにすることを想定しないで写した映像素材と、作業手順書をもらいました。他に必要な映像の撮影は、外部スタッフは作業現場に入れないということで、あなたのスタッフが行ないます。映像は、カセットのアナログデータで、私にとっては、もはや別世界技術の自動機械の段取り作業でしたが、手順通りに編集して、台本をつくります。かなり時間がかかる作業でした。

 この映像素材と台本をチェックしてもらった後、いつも頼んでいたビデオ制作プロダクションに、タイトルやスーパーインポーズの素材とともに渡して、映像編集をしてもらいます。あなたと関係者にはナレ録りに立合ってもらうことになります。日本語版は、すんなりOKをもらったのですが、問題は英語版で起こりました。依頼した外国人ナレーターが、彼なりの翻訳を始めてしまいました。

 日本語版台本がベースになります。彼は、この日本語はおかしいと。このままでは英語にならないと言い出したのです。台本を書いた私としては穏やかではありません。どれが主語なのか不明だ、あいまいな表現もあるなど言い出しました。日本語には主語を省略したり、はっきり言わなくても伝わることがあるという言い訳は通じません。結局、あなたが最後までお相手をしてくれました。

 結局、深夜までかかって、あなたと一緒に立合ってくれた後輩の彼には、私の事務所に泊まってもらうことになりました。そして、完成後にあなたの上司とともに、打ち上げ会を開いてもらいました。あなたより若そうなその上司との接し方に、企業の厳しさを感じました。学歴がものをいう職制の中で生きてきたあなたは、私など足下に及ばない大人のビジネスマンでした。

ピジネスバリューを自覚して欲しい

 定年退職のときを迎えて、山梨に住むあなたの上京の折に、立川で会いました。四ッ谷の事務所には何度か訪ねてくれ、盃を交わしていましたが、いまの住処に移ってからは会う機会もありません。家に来てくれると言ってくれましたが、住まいを仕事場にしているとはいえ、ゆっくり話せるスペースもないところです。あなたの用事先の立川で会い、レストランで飲むことになりました。

 リタイア後の身の振り方をききました。当分は仕事に就かず、ゆっくりして過ごすということでした。それまでは単身赴任の期間も永く、やっと家族と落ち着いて暮らせるのはうれしいことでしょう。そんなあなたに、知り合いの企業から再就職の誘いがあることを聞きました。あなたはそれを断り、友人を推薦したい。よかったら私も推薦するがいかがかと、言ってくれましたね。

 かなうなら、そんな勤めもいいなとは思いましたが、その企業が必要としているのはあなたなんだということに気づいていなかったようですね。そして、そのうちにではなく、まだ熱い仕事感覚のある、辞めてすぐのタイミングでの招聘ではなかったでしょうか。あなた自身、どのように自己評価していたのかはわかりませんが、あなたの価値は相当に高かった。欲しい人材だったはずです。

 大メーカーの生産技術エンジニアは、中小メーカーにとっては喉から手が出るほどに欲しい人材です。その人が一緒に仕事をしてくれれば、生産効率が二〇〜五〇%は向上します。いま、中小企業が大企業のリタイアビジネスマンを熱望しているゆえんです。もちろん、誰でもいいというわけではありません。仕事にどんな取り組み方をしてきたか、知恵があったかどうかが診られます。

 これはオーラのようなものです。誘ってくれた人は。あなたにそれを見つけだしていたんだと思います。コツコツと勤め上げて定年を迎えて、さぞかし疲れたことでしょう。でも、あなたは仕事に疲れたのではなく、仕事以外のこと、例えば人間関係とか、大企業のシステムに疲弊したのではなかったでしょうか。勘を取り戻すには、ちょっと時間がかかりますが、まだ、間に合いますよ。