孤老の仕事部屋

家族と離れ、東京の森林と都会の交差点、福が生まれるまちの仕事部屋からの発信です。コミュニケーションのためのコピーを思いつくまま、あるいは、いままでの仕事をご紹介しましょう。
 
2009/02/27 14:56:32|フィクション
アガペのラブレター 35 〈修業時代〉
アガペのラブレター 第四章 修業時代

 男は、H社を辞めた。日本が高度成長期へ踏み出した頃だった。退職金は、一ヵ月分の給料にも満たない額だった、お礼奉公はしたとは思っていたが、後で、その期間に得たものの大きさに気づいた。給料をもらいながら、いろいろなことを学んだ。特に、仕事に対する基本的なスタンスを身につけた。機械設計など、エンジニアとしての経験と知識は、当座の食い扶持にはなるだろう。自信はなかったがそう感じていた。

 確かに、在職中に身につけた知識や技術は、当時の中小メーカーでは、先端的だったようだ。その後。実際の仕事で、いろいろな企業のエンジニアと接してみて、通じないものがあった。表面的な技術については、互いに納得できたが、本質的なところで、意思の疎通ができないことがあった。男は求職のために応募した企業は、H社の在職中に探した一社だけ。その次の勤め先も、最初の応募下会社だった。

 男は、エンジニアとしてではなく、書くことを仕事にしたいと思っていた。小説家になりたいとは思ったが、すぐになれるほどの才能はない。また、エンジニアの仕事をしながら、コツコツと書き続けるのも、母親を抱えての生活では難しかった。それなら、書くことを、エンジニアリングすることではないかと。男は、シナリオを書こうと思った。そのために、なけなしの貯金をはたいて研修所に通うことにした。

 シナリオ修業をしながら、この世界で食っていくのも、甘くはない。ものになるまでには、並み大抵ではないことを知った。そのころ、コピーライターがもてはやされはじめていた。小説やシナリオの作歌と違って、ここでなら何とかなりそうだと。始め、通信教育で基礎知識を得た後に、広告専門誌のコピーの募集に応募して入選した。ここでなら食って行けそうだと。男は、広告から販売促進のコピーライターに転進した。

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04章 修業時代 35

技術音痴の洗車機会社の社長
施主・KSさん 


洗車機のサービスエンジニア

 新聞の求人広告を見て、あなたの会社の東京営業所に応募したのは、まだ、H社に在籍中のときでした。退職願は出してありましたが、在職中に仕事を見つけるのは当然のことでした。母と一緒に暮らしていた私にとって、無職の期間は許されないことで、それなりの給料も必要です。洗車機のサービスエンジニアという職種でしたが、まず、どんな仕事かよりも、就職することでした。

 東京営業所は、市ヶ谷の防衛庁の前にありました。あなたの叔父だとかの所長と、弟と他に二名ほどの営業員がいました。あなたの親父さんが会長ということで、時々営業所に顔を出します。女子事務員がいて、非常勤の営業顧問とかの年輩者に、サーピスの私と、同じころに入ったSさんがメンバーです。大阪にある本社に行って、何日間かの研修の後、すぐ、仕事につきました。

 仕事は、洗車機の設置とアフターサービスです。商社マンだったあなたが、在米中に見つけたとかで、数台を輸入した後、国内でコピー機を製造していました。主な販売先は、ガソリンスタンドで、SSという呼び名も知りました。東京営業所のサービスエリアは静岡以北、二名で受け持つことになります。大阪ナンバーの小型トラックを使いますが、営業所には、駐車場はありませんでした。

 門型の洗車機は、中に車を入れて、レール上を手動で前後させます。門の鴨居にあたる部分のノズルから水が噴出し、別のノズルから洗剤の泡が吹き出します。作業員が、モップで手荒いし、洗剤の泡を洗い流した後に、水ワックスをかけるというもので、機械とはいえない、手作業の補助装置でした。手洗いの優しさで、洗車料金がとれるというセールスポイントで売っていました。

 この装置の価格は、軽自動車一台とほぼ同じでした。設置するのは、ニューオープンのスタンドが中心で、コンクリートを打つタイミクングに合わせ、現場に別便で機材を搬入します。営業員の指示により、装置を設置して調整し、使用方法を説明するのがサービスマンの仕事。結構な力仕事で、私にとっては始めての体験です。水仕事だけに、冬場はあかぎれに悩まされました。

もういいかとひとり泣きした日

 北海道に三回ほど設置のために出向きました。重い工具カバンをもち、夜行列車で行って、設置したら、その足でまた夜行列車で帰ってくるという強行軍。さすがに、北海道でのアフターケアまでは経費面からも難しく、地元の水道工事店に頼んでいました。その程度の装置で、複雑なメカの機械ではない。薄い鉄板でつくった門型の本体の中に、パイプが通っているだけのものです。

 洗車機を設置する前に、工事図面をつくります。中学生でも描けるような、図面と呼べる代物ではありません。水を扱う装置ですが、万全な防錆処理が施していないのか、すぐ錆が出て、ノズルが詰まってしまいます。呼ばれて、極寒の冬場、濡れながらクリップの先で穴をつっ突くだけといったサービス。このために、三時間もかけて行くということもあり、情けなくなってしまいます。

 新しい工場が、宝塚市郊外につくられることになりました。それまでは、大阪市内の町工場の片隅で委託製造されていたようです。薄い鋼鉄板を溶接して、ノズルをつけたパイプを止めるだけの装置で、赤いペンキを塗って仕上げるのが本体。付属のタンクは、ドラム缶にシスターンをつけて、コンプレッサからの圧縮空気を取り入れるバルブをつけ、これまた赤いペンキを塗るだけです。

 自前の工場をつくろうというのは、アメリカから自動洗車機を買ってきて、そのコピー機をつくるためのようでした。まず、その機械を分解して、部品を取り出して図面化する。似た部品で代用するか新しく作る。ライセンスがどうなっていたのかわかりませんでした。工場長の若い機械屋だという人がいました。私に、工場に来て、手伝ってくれという要請がありました。

 兄や弟のいる東京を離れ、母親を連れての関西生活をする気はなく、はっきりと断りましたが、技術屋のプライドが、あなたの下での仕事をしたくなかった。機械のことわかっているのか。ユーザーをどのように考えているのか。似て非なるものを作って、売ってしまえばそれでよしといった姿勢が許せません。機械を知らなかったら、作らずに、輸入品をそのまま販売すればいいのです。

私たち親子は使用人ではない

 何ヵ月在籍していたでしょうか。それでも、最初の数ヵ月間は、毎月、給料が上がっていました。これも奇妙なものです。上げてくれるのを、拒む理由もなく喜んで受け入れていました。生活は楽ではありませんでしたが、おかげさまで、贅沢はできなくても生活はできていました。そんなことよりも、トラックの駐車場を何とかして欲しかった。乗って帰るのも、疲れるものですよ。

 その小型トラックには、クーラーはもとより、ラジオもついていない車でした。朝、営業所を出て、一日中、走り回ります。運転免許を取ったばかりでした。いちどなど、自分のいる場所がわからなくなって、やっとのことで営業所にたどりついたり、環七でハンドルを切り損ねて、反対車線に飛び出したこともあります。ちょうど通行車両の切れ目で、後で思い出しても、ぞっとした出来事です。

 大阪のサービスマンも、過労ぎみでした。出かけて行ったときに、同乗して一緒の仕事をします。彼らは走っていて居眠りするのです。眠らないようにと、大声で話しかけていました。泊まるところも木賃宿なみでした。疲れきって眠るだけの宿でしたから、それでもよしとはしましたが、もう少し何とかしてよという思いはありました。あれらの日々、大阪の夜の街を知りませんでした。

 一族経営の会社でした。あなたの弟は、東京でアパート暮らしをしていました。私と母親も、一緒のアパートの隣に住んでくれと。食事をつくったり、掃除や洗濯もして欲しいと。何いってんだと、腹が立ちました。私たち親子は、あなた方一族の雇われものではない。大体、私の母親を何だと思っているのか。思い上がるのもいいかげんにしろと。それほどの会社かよと。

 あなたの叔父の東京の所長も、大いに問題ありでしたよ。私に集金させておいて、事務所に戻ったら皆帰った後です。おい、この大金の小切手をどうするんだよと。私を信用しているとかの問題ではありません。彼は、美大出なのに、機械通だとお客に誉められたと自慢していましたが、あれが機械かよ。後で、E社の仕事をしていて、あなたの会社が潰れていたことを知りました。







2009/02/26 15:54:09|福生な人たち
15 運転ボランティア
無償ボラの誇りと思いやりの心で活動
30年間、車椅子の人の送迎を続ける

運転ボランティア

近隣にはない無償の奉仕活動

 福生の運転ボランティアには、30年もの歴史があります。昭和53 年8月24時間テレビ・愛は地球を救う」のチャリティー実行委員会より、福生市に「車いす用バス」が寄贈されたことから始まった活動です。福生市から運営業務を委託された福生市社会福祉協議会が運転ボランティアを募集、運行実施するという運びとなりました。現在、メンバーは会長の山田守也さん、副会長の仲泰男さん、市川勲さんをはじめ、活動を休止されている方を含め、 数名が登録されています。歩行困難者の通院や外出等の送迎として、ハンディキャブ(車椅子専用車)を、無償のボランティアとして運転。メンバーの山田さん、仲さん、市川さんに伺いました。

 「周辺の市で、移送サービスをしているところもありますが、無償のボランティアは福生市だけで、全国でも珍しいようです。いまは少なくなりましたが、当初は、行政からの委託業務として私たちドライバーは報酬を得ていると思っていた方もありました」いまでは、福生の無償運転ボランティアは知れわたり、メンバーの皆さんはそれを誇りに思うようになっています。ただ、運転がていねいで、上手だというだけでは済まないと「利用される方たちが不安になったり、恐がらないように運転するのが一番です。いかに心をこめてやるか、福祉ボランティアの基本、思いやりの心があれば、自然に出てくる行動です」

 ただこのグループでも、メンバーの高齢化が進み、新しい力が求められています。60歳代という中心メンバーは、どうしても体力的に、かつてと同じというわけにはいきません。考え方や思いやりの心は変わらなくても、体力的に無理が出ます。個人差はありますが、俊敏な動作や視力等に衰えがやってやってきます。もちろん、いまのところは支障になることはありませんが、早い時期での世代交代が必要でしょう。この活動は、メンバー本人から辞退を申し出ない限り、この善意の活動を断れません。まわりがいままでのご苦労を称え、花道をどう作ってあげるかはこれからの課題でしょう。

体力的にも負担の少ない運ボラ活動

 運転ボランティアは、男性中心のグループです。そのためか、いろいろな福祉イベントでも力を貸してほしいという要望があります。男性=イコール=体力がある という素直な思い込みからでしょう。持ち前の心意気から引き受けはしたものの、半日以上もの立ち仕事や、重い荷物運び、テント設営など日頃慣れない活動で、腰や手足を痛めてしまったり、疲労が長く残ったということもあるとか。確かに、車椅子に頼る人の移送運転のスペシャリストではあっても、年齢からの体力的にも、力仕事には向かないこともあります。そのところを理解してほしい。運転ボランティアは、便利な男手体力の担い手ではない。やってあげたくてもできないこともあると、メンバーの皆さんが話しておられます。

 このことは運転ボランティアの仕事は、体力的な負担が比較的少ない活動になっているともいえます。利用者や家族への思いやりの心や、ボランティアとしての熱意があり、自動車の3年以上の運転経験があれば参加できます。男性だけではなく女性でも参加できるボランティアです。「介護保険が導入される以前は、いまヘルパーさんがやっているような仕事も買って出たものです。確かに、それなりの体力が必要でした。いまは、そんな仕事はしなくてもよい。移送運転だけに専任できるようになりました」日頃、車を使っている女性にもおすすめしたい、スマートなボランティア活動です。

 ワンボックスカーを難なく乗りこなす女性が増えている昨今、ハンディキャブにもすぐ慣れて、運転できるようになるのではないかと。運転ボランティアの参加者には、社会福祉協議会が費用負担をする専門機関の講習会に出席して、基本的な知識や技術を修得できます。また、慣れるまでは、実際の移送に同乗したり、移送後の、戻りの空きの車を先輩の指導のもとに試運転することもできます。女性ならではの心配りや優しさが、女性の利用者に喜ばれるかもしれません

 運転ボランティアの心構えとはどんなことなのかをお聞きしました。「第一に、何よりも利用者さんに安心して乗ってもらえる優しい運転をすること。そして、当然ですが、やるからには、福祉ボランティアとは何であるのかをわきまえた上で参加してほしいですね。お年寄りの利用が多く、いままで、たくさんのお年寄りのお世話になったから、お年寄りは国のために働いてくれた人ですから、何かお返しをしたいという気持で活動しています。
ちょっと困るのは暇つぶしで来られることですね。運転が好きだからだけでもおすすめできない。それに、利用者さんのプライバシーに関わることもあり、それに配慮できることも大切ですね」

 いま、運転ボランティアをどのような思いでやっているのでしょう。会長の山田さんは「感謝の心でのボランティア活動として、淡々とやっています」気負い過ぎない日常活動の一部になっているようです。仲さんや市川さんは「無償のボランティアであることに誇りと充実感を感じています」と。これから解決したい課題もあり、メンバーと検討し、社会福祉協議会事務局と話し合って、よりよい活動を続けていきたい、そのためにも心ある市民の方々のご協力をお願いしたいと話されています。        

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 移送車の利用にはガソリン代等の実費経費として1回につき500円をご負担いただきます。
 利用方法や利用申込み、運転ボランティアについての詳細は、 福生市社会福祉協議会 地域推進課市民活動係 まで
  電話 042-552-2121







2009/02/26 15:35:22|フィクション
アガペのラブレター 34
03章 青春時代 34

熱望した歌手を断念した仲間
友人・SYさん


 その職場は、男子社員の伴侶選びは、買手市場だった。いわば生け簀の中から、好みの魚を自由に選べるようなもので、多くの男たちは職場結婚のようだった。一方、女子従業員たちにとっては、この職場での伴侶選びは諦めていただろう。彼女たちは、職場を変えるか、郷里に還るかして伴侶を選んでいたようだ。しかし、男のように、自分の才能を活かそうと飛び出していき、そこで伴侶を見つけたものもいた。

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演劇のもう一人のマドンナでした

 先だって行われたH社時代の演劇仲間の同窓会に参加されたようですね。あなたも、私には忘れられない仲間のひとりです。あなたとYRさんを双璧の役とした芝居を書いて、KMさんの演出で上演しました。あなたは、目立ちたがり屋さんであったかもしれませんね。歌手になる夢をもち、レッスンに通っていました。その夢は果たせませんでしたが、実現の過程で変貌していったようです。

 あなたが辞めてから、どんな世界で、どのように生活をして、どんな連れ合いに出会い、どのような家族をつくったのか、いっさい知りません。何度かの、仲間の同窓会で会ったときにしか話し合う機会がなく、そのときも、昔話に終始して、その後のことは話題になりません。みんなのことに関心は持っても、立ち入らないのがルールとでもあるかのようにしていました。

 同窓会の後、KMさんの報告が届きました。その中で、あの頃の女子たちは、男たちをしっかりと観察していたようだと書いてありました。三千人からの情業員の七、八割が結婚前の娘で、寮住まいで、外部から隔離されたような環境では、職場の男どもへの関心は低かろうはずはありません。男たちのほとんどは、この群れの中から連れ合いを選ぶ幸運に惠まれましたが、娘たちはそうもいきません。

 異性への関心が高い年頃です。しかし、大勢の現業職の娘たちにとって、職場結婚は難しいことだったはずです。もう最初から、職場の男たちに相手にされることを放棄している娘たちでも、男どもを品定めし、こき下ろしたりする話題には加わっていたでしょう。好位置につけていた娘たちは、早めに手を挙げ、ライバルを蹴落とすための策略に、躍起になっていたのかもしれません。

 土曜日も働いていた時代です。郊外の寮住まいの娘たちには、退社後に繁華街に出かける時間もありません。親元から預かった大事な娘たちだと、門限は厳しく、同じ職場の男子社員でも、理由なく気楽に出かけていくことはできません。地方出身の娘たちは、結婚するには、田舎に帰って相手をさがすか、別の職場に移って見つけるか、友人から紹介されるか、街でナンパされるかくらいでした。

娘たちの眼中にない職場結婚

 彼女たちにとって、職場結婚は夢物語です。同僚の男たちと職場結婚をしたかみさんたちは、そんな環境の中での、数少ない勝ち組になったわけです。私と長い付き合いのMYさんのかみさんもその一人です。演劇の仲間の中にはYRさんの他に、仲間同士で結ばれたIKさんのかみさんのTさんがいます。あなたや同窓会に参加したというTさんたちも、辞めてから、他所で見つけた人と結婚したわけです。

 高卒女子には、本社公認の男子高卒正規入社組と一緒の執務職組と、工場採用の現業職組とがあったようです。中卒組より、多少待遇はよくても、現場での同じ作業になります。現場スタッフのとして、ディスクワークや管理業務に携わる人もいます。ラインの中に入ってしまうと、埋没してしまい、男子従業員と気楽に話し合う機会もない。連れ合いに出会うためには、目につく職場にいることでした。

 演劇などの職場の文化サークルや運動サークルに加わるのも、職場で相手を見つける方法のひとつでした。二交替勤務の中卒女子は、高校教育を受けるという義務のような制度もあり、自由になる時間は少ないものの、高卒者は勤務時間以外は自由です。ただ、会社としても気を使い、茶道や華道など、寮内での習いごとも用意され、寮ごとの確立した世界があったようです。

 ここで青春を過した人たちは、いま、どこでどのような生活を過しているのでしょう。私よりも、五、六才若い位からの人たちですから、もういいおじさん、おばさんで、孫を相手にするほどの年齢になっています。あなたと同期のTちゃんも、もう、若いおばあちゃんになっています。あのときの娘たちは、どのように社会に散らばっていったのでしょう。彼女たちの間には、交流があるのでしょうか。

 私が辞めた後、労組総連合の機関誌の取材で、工場を訪ねたことがあります。少しは前のような雰囲気はありましたが、「キューポラのある街」の吉永小百合さんが見たような現場ではなくなっていました。時代のうねりが、人の満ち引きにもなっているのでしょうね。あの時代、あなたは同期の中でも、目立った娘の一人だったようで、その動向は寮生からも注目されていたようでした。

あなたは大きな勝ち組の人では

 確か、あなたは、福島県出身でしたね。弟がいて、デザインの勉強をしていました。私がいる業界で仕事をしたいと、あなたの紹介で何度か会いました。好青年で、ノベルティアイデアを楽しく聞いたことがあります。私はコピーライターになりたての頃で、就職先を紹介できるほどの力がなく、何の役にも立てませんでした。もう、いい親父さんになっているでしょうが、どうしているのでしょう。

 あなたの歌手への道は難しかったようですね。レコードデビューはできたのでしょうか。私は、AV機器メーカーV社の仕事をしていて、関連会社の音楽部門のいろいろな情報も入っていました。制作していた電器店向けのハウスオーガンで、毎月、期待の女性新人歌手を、センター見開きのカラーページで紹介していました。私が取材して記事を書き、同行のカメラマンが写真を撮っていました。

 レコード会社がリードしてレコードを出していた時代です。毎月、V社関連だけでも十数人もの新人歌手がレコードデビューしていました。業界全体では、月に十数人もの新人がデビューします。その中で、V社のネットで紹介してもらうのでさえ、幸運な確率です。レコード一枚だけ出して消えていくのがほとんどで、ヒット曲になる僥倖に恵まれるのは、何百分の一といったところでしょう。

 紹介した新人歌手の中に、三枚までレコードを出した人がいましたが、その後、消えてしまいました。男子の新人歌手と、取材先のイベント会場で出会うことがあります。同期のライバルに対して、不愉快になるほどの激しい敵愾心をあらわにしていました。デビューするのにもお金がかかったそうで、田畑を売ってつくった金を注ぎ込んでも、ダメなものはダメだと、はっきりした社会のようでした。

 そんな世界の中で、あなたはどこまで、たどり着けたのでしょうか。運が大きくものをいうような、歌が上手だけでは、のして行けない社会は、あなたを逞しく成長させたのでしょうね。蟹は甲羅にあわせて棲む穴を掘るといいます。あなたの甲羅がどのくらいの大きさになったときに出会った人なのでしょう。あなたは、H社時代の小さな勝ち組ではなく、もっと大きな勝ち組の一人かもしれません。
 
 〈第三章 青春時代 完〉 43,300







2009/02/26 15:31:51|フィクション
アガペのラブレター 33
03章 青春時代 33

好奇心と行動力ある名刹令嬢
友人・IMさん


 職場は、学校ではない。分りきったことだが、そこで入社から定年退職まで在籍した同期生は、学校でのそれとは違った付き合いがあるのかもしれない。長い時間は、同期という親しさは薄れていくだろう。かえって、短い期間だけの付き合いが、学校での卒業生同士のような関係を生むのかもしれない。あの職場での女子従業員たちは、いまでも交流があるのではないか。男は、それをたまらなくうらやましく思う。

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聖火を見上げて演出方法を話し合った

 覚えていますか。昭和三十九年十月、曇り日の新宿御苑で、東京オリンピックの聖火を見上げる広場に、あなたと一緒にいました。そのとき私の演出で「夕鶴」の稽古を進めていました。演出助手のあなたと、たまには外で打ち合わせようと、連れ出しました。当時、付き合っている人がいる私でしたが、デイトのような楽しい気分に浸っていました。どんなことを打ち合わせたのか、すっかり忘れています。

 演出にあたって、全国各地の民話をできる限り集めては調べ、分析して考えていました。「夕鶴」は「鶴の恩返し」に材をとった木下順二の不世出の名作ですが、各地の民話の中には、動物の恩返しものがかなりあります。人々は、特に、農民はなぜこんな物語を作り上げたのかを考え進めることで、その民話の奥にある心に、少しは迫れるのではないかと思いました。虐げられた民衆の願望を感じたのです。

 人間の欲望への哀しみをテーマにした「夕鶴」ですが、動物の恩返し民話には、日頃、報われることが少なかった貧しい農民の、生涯、報いられないだろうことを感じながらの切ない願いと、理不尽な現実に対する復讐の念があったのではないか。その中には、自分より弱い動物を擬人化しての報恩強要に、性的な願望も含んでいたと。そんなひとの生の営みへの慈しみを表現したいと考えたのです。

 稽古に入る前から、そんな考えを演出ノートに、びっしりと書き綴りました。スタッフやキャスト全員の前での演出方針の説明で、熱く披露したわけです。ほとんどのメンバーは、黙って聞いてくれました。その中で〈つう〉役のYRさんは、そんなことはどうでもいいわ、自分なりの役づくりと演出の意のままに演じればいいんでしょ、といった風で、理屈は退屈と思っているようでした。

 あなたは違っていましたね。通りいっぺんのままでいいはずの、たかが職場演劇の素人の舞台です。そこまで理屈づけするのかと、興味を持ってくれましたね。演劇にはあまり関心を持っていなかったらしいあなたが、冷やかしにと出席した場で、かぜん興味をもってくれたようでした。だからそれをどう表現するんだという具体策がないままに、あなたに演出助手を頼んで承諾してもらいました。

ハードボイルド・ミステリーを書いた

 好奇心旺盛で、行動力のあるあなたでした。マンガ制作プロダクションとのエピソードを話してくれましたね。見ていたマンガの1カットの絵の中に、電柱があり、そこにポスターが描いてあった。それはアシスタントを募集する告知で、そのプロダクション名と電話番号が記載してあり、その電話番号に応募したいことを連絡したというのです。あなたの面目躍如の笑ってしまった楽しい話でした。

 電話は繋がったと。応募を告げると、うちでは募集していない。どこで調べたのかを訊ねてきたので、マンガの中の貼紙と答える。そのときの相手の表情が思い浮かびます。結局は、いまのところ募集していないのでと、ことわられたそうです。そのとき、採用されていたら、あなたの新たな旅が始まっていたことでしょう。そのプロダクションは、やがて大きくなる魚を逃がしたわけです。

 あなたは、どんな少女だったのでしょうか。多分、いろいろな大人の世界に興味しんしんの、いつも背伸びして生活しているような文学少女の姿を思い浮かべます。それもロマンチックで、恋を恋するような夢見る乙女ではなく、ハードボイルドやモダンジャズがいきいきと充満した、制約するものが少ないような環境の中で育ったように想像していました。地方出身の女子従業員にはいないタイプでした。

 あなたが、職場の文芸誌に創作を寄稿してくれたのが、「夕鶴」上演の翌年のことです。「ある出来事」という、ハードボイルド風ミステリーロマンで、幼い少女が精いっぱい背伸びして書き上げたような作品でした。書いた本人には未体験の都会生活の中で、主人公の妹の心中事件が、実は、心中相手の男に殺されたことを、主人公の先輩友人によって明らかになり、復讐するという話です。

 百花繚乱、何でもありの文芸誌でした。愛だの恋だののテーマで、詩あり、短歌あり、俳句あり、エッセイや旅行記などの作品の文集には珍しい作品で、それなりの彩りを添えてくれました。あなたがいた職場は生産技術部門で、そこの業務支援の事務職でした。現業職とは違った雰囲気を持った人で、そのあなたが山梨県の全国的にも有名な名刹の娘であることを、出会いからしばらく後で知りました。

いま、あなたはどんな毎日を送っていますか

 葡萄の里、勝沼の名山・D寺があなたの実家でした。真言宗智山派のお寺ということで、国宝の薬師堂中央の厨子の中、右手に葡萄を持った薬師如来像があまりにも有名です。開祖の行基は、修行満願の日に夢の中に現れた薬師如来の導きで、薬園をつくって民衆を救い、葡萄の作り方を村人に教えたと。勝沼の地に葡萄が栽培されるようになり、これが甲州葡萄の始まりだと伝えられています。

 全国から集められた3千人からの従業員の中には、いろいろな人がいたのでしょうが、あなたの場合はちょっと特別でしたね。だからといって、私たちは仲間も含めて、あなたへの接し方が変わったということありませんでした。あなたは、私たちの仲間であり、一緒に文章を書き、端役ですが演劇の舞台に立ってもらったこともありました。私の退社時期に前後して、あなたも会社を辞めて実家に帰りました。

 お寺のお嬢さんとして、自由奔放に育ったのでしょうね。子どもの頃から、周りの温かい支えの中で、好きなようにさせてもらったのでしょう。いまの住職は、あなたの兄弟だと思いますが、あなたは小さい頃から、やがては大黒様になるための教育を受けていたのかもしれません。若い頃に、いろいろ体験することが、檀家をはじめ慕ってくる大勢の人たちへの慈しみの心を育てることになると。

 あなたが辞めた後、通りがかりに勝沼のD寺を訪ねたことがあります。あいにく、あなたは不在だったように覚えています。まだ、最近のように著名な観光名所として賑わうこともなく、知る人ぞ知る程度の名所でしたが、お父さんのご住職に、いろいろ親切に案内してもらって、恐縮したものです。あなたが育った町は、緑の中に輝いていました。そんな環境もあなたを育んだのでしょうね。

 あなたにはあの頃、特に、親しく付き合っている異性がいなかったように思います。他の職場と違って、周りは男性中心でした。もちろん、近くに男子がいれば、恋心を持つということにはならないでしょうが、以来、全く消息を知らないあなたは、どんなように生き、どんな町や、どんな人に出会ったのでしょうか。ひょっとして、どこかのお寺の優しい大黒様になっているのかもしれませんね。








2009/02/26 15:28:27|フィクション
アガペのラブレター 32
03章 青春時代 32

配役の快諾で任務完遂の後輩
友人・ITさん


 男がその職場で仕事をしたのが、わずか七年ほどである。定年までに勤め上げた人たちの6分の1にも過ぎない。このわずかな、特定期間だけの在籍では、職場でどんなことがあったのかを推し量ることができない。かつての仲間から聞く断片情報からの憶測でしかなかった。辞めてからは、新しい仕事や生活に没頭した男にとって、激しく変貌する先端企業の様相は、遠い別世界の出来事でしかなかった。

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あなたを職場演劇に引き込みました

 キャスティングしやすい人がいます。私がH社時代に初演出した「夕鶴」で、あなたに〈よひょう〉を配役したのが縁で、あなたを職場演劇の世界に引き込んでしまいました。〈つう〉役をYRさんと決めていたので、というよリ、彼女がいたからやる気になった演出でしたが、その段階では〈よひょう〉を誰に演じてもらうかは決めていませんでした。まだ、部員が少ない演劇サークルでした。

 それまで、職場文化祭のときに、にわかづくりの同好会として演劇を上演していたのですが、私が中心になって、サークルとして結成しようと、その最初に選んだ演目が「夕鶴」でした。一年前にITさんの演出で上演されていたのですが、まったく新たなメンバーで、私なりの解釈でやってみようと燃えていました。3千人ほどの職場でしたが、男子はわずかしかいません。

 エンジニア中心の男子社員は、文化系のイベントにはあまり興味を示さず、やる人を「好きだなあ」と、なかば蔑みの目で見ていた環境です。文化イコール労働運動とも目され、仕事と出世にしか関心を示さないような大卒社員は、学生時代に演劇を経験していても、もう卒業しています。いきおいメンバーは、高卒者が対象になります。彼らは職場では、スタッフ部門での仕事が中心でした。

 当時、私が所属していた製造課は、五〇〇名程で四つの組があったように覚えています。あなたは、同じ課の後工程に属していて、三年程後輩になります。普通の交流はありましたが、特に、親しいというほどではありませんでしたが、先輩ということで接してくれていました。それをいいことに、強引に〈よひょう〉の役をお願いしたのですが、もちろん、即諾は得られず、口説き落としました。

 多分、始めての経験だったでしょう。ほかのキャストも、スタッフもほとんどが全くの未経験者。この私からして、演出の仕事ははじめてです。見よう見まねで、とにかく、私のやる気だけで引っ張っていく集団でしたが、あなたをキャスティングしたのは正解でした。あなたは、大役を配しても、それをしっかり受け止め、こちらが期待する以上の成果をあげられるという能力を秘めていました。

「修善寺物語」では夜叉王をこなしました

 好評裡に幕をおろした「夕鶴」のあと、拝み倒して出演してもらったリ、裏方で協力してくれた人たちを巻き込んで、演劇サークルとして歩みだしました。中には、加われないという人もいましたが、なんとか、メンバーとして登録させてもらい、あなたもその中の一人です。といって、公演がある時だけのサークルで、日頃の活動はありません。年一回くらいの文化祭で顔を合わせます。

 職場文化祭の他に、合同寮祭が行われていました。私が住んでいた大卒と先輩高卒のための独身寮、私の一期下からの新卒高卒のための4人部屋の独身寮、新卒中卒の教育施設付きの女子寮や、高卒女子の借り上げ寮、中卒男子の寮など、職階や学歴に合わせて設けられていたいろいろな寮の合同寮祭をやろうというものです。各寮ごとの出し物に、全寮合同の出し物が計画されました。

 こんな時はがぜん元気になる私でした。合同の出し物のために、オリジナルの戯曲を書いて、後輩のKMさんに演出をたのみ、私は別に高卒女子寮のために、頼まれてオムニバス・ショウの台本を書き、その演出を引き受けたりしました。日頃は、男子禁制の女子寮に通ったりもしたものです。合同の出し物の演劇の稽古場にも顔を出すなど、いっばしの売れっ子戯作者気取りで、浮かれていました。

 そして、次の年、後輩のORさんの演出で「修善寺物語」を上演することになりました。彼は、私の工高の後輩で、会社が全社で実施している高卒者のための企業内専門学校の卒業者で、歌舞伎が好きで、観るだけではなく、いろいろ研究もしていたようでした。上演演目は、私のオリジナル作品も含めて、いろいろ選考した結果、ORさんの強い挑戦意欲もあって「修善寺物語」に決まりました。

 あなたはこの演目で、主役の〈夜叉王〉を演ずることになります。岡本綺堂の有名なこの作品は、歌舞伎だけではなくアマチュア劇団でも取り上げられていて、私たちにできるかなという演目でした。出演者も多く、台詞は難解で長く、覚えるだけで相当な努力が要ります。あなたはこの大役を、ORさんの演出の妙もあって、見事にこなしました。傍役で出た台詞の短い私などのおよばないものです。

ビジネスでのキャスティングに応えて

 キャスティングという行為は、ビジネスの世界では人事であり、日常的に行われています。組織が機能するためには、不可避のものですが、大役を誰に割り振るかは大きな課題でしょう。それによって、プロジェクトの失敗から、企業の存続にまでかかってくることもあります。あなたは、ビジネスの世界でも、余人にはできないだろう大役を配されて、それを見事にこなしてきたと想像しています。

 私は、H社を辞めてからあなたの仕事を知りません。どのような職場で、どんな仕事を担当してきたのか知るよしもなく、伊豆の保養所で行われた演劇サークルの同窓会で会ったときも、そんな話題には触れませんでした。あなたは当時のような人懐っこい笑顔で接してくれました。言葉のはしはしから、海外での仕事をも担当したことを知りました。なぜかウマの合うことをうれしく思いました。

 帰りの電車の中だったでしょうか。隣り合わせの席で、そのときにどんな仕事をしているのかを訊ねました。ひまでねえ、机の上のものを引き出しに入れたり、出したりして時間をつぶしているんだ、と話してくれまいした。もちろん、誇張した話でしょうが、なんとなく、あなたが次の大役のためにスタンバイしているように感じたものでした。確か、その後も海外勤務に就いたのですよね。

 今年になって、あなたからのEメールが届きました。計画している演劇サークルの同窓会の下打合せを、国分寺でやるので、都合がついたら出ないかというお誘いです。土曜日でしたが、あいにく、お手伝いしている木質バイオマス・ペレットのストーブのデモ展示が、住まいから十分程度の多摩川の河川敷で行われ、その手伝いをすると決めていました。会いたかったのですが会えませんでした。

 メールで、あなたが定年を待たずにH社を退職して、故郷に帰って農業に就いたものの、友人の会社を手伝うために、再び上京したことを知りました。今度は、どんな大役をキャスティングされたのでしょうか。あなたのことですから、きっと素敵に、期待以上の仕事をされていることと思います。大役に果敢に挑戦して、見事にこなしていく。そんなあなたの優しい笑顔を思い浮かべています。