羽村の桜の写真など、まだ幾つかあるので載せたいと思います。 羽村堰あたりから、駅のほうに昇ってゆく途中に、禅林寺というお寺があります。どちらかというと、中里介山のお墓がある事のほうで、有名かも知れませんが、郷土の本を読んでいて、天明義挙の碑、というものがあると知りました。 天明の大飢饉の頃、農民達は貧困にあえいでいるのに米を買う側の豪商たちは米の買占め、売り惜しみをしました。そのため各村の名主、組頭が中心になって一揆をおこし、数箇所の豪商宅を襲いました。 主謀者たちは獄死し、事件は歴史の中に埋もれていたのですが、明治時代に入ってから、地元の有志の人々によって、供養碑が建てられたようです。(そのため、碑自体は新しいです。)
この事件もそうですし、もう一つ、奥多摩のほうに残っている「箱訴事件」についてもそうなのですが、このような歴史を読むにつけ、江戸時代が或る意味理想的な社会であったなどとは、とても言えない、と思います。たしかに、当時の江戸には、なんでもリサイクルして使う、活用するなどの、現代にも見習うべき生活スタイルがあったかも知れません。そうして、約300年間近く続いた徳川幕府の時代、確かに今の日本が誇るべき大衆芸術や演芸などの文化が、成熟し、花開いた事も確かだと思います。 だけど、冗談でも、日本は鎖国したままが良かったんだ、なんて、お笑いのネタを真に受けてはいけないなぁと思います。 どれだけ、今の日本が自由か。昔の人が、どれだけ権勢に抑え付けられていたか。
この天明の義挙の時、同志が相談するため集まったのが、狭山ヶ池だそうです。
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